第14話

「私の鳳爆剣に耐えるとは…さすがね白虎」

「お褒めにあずかり光栄かな…って、ちぇっ、素人の按摩よりは効いたぜ、姉ちゃん」

 剣を床に突き立てて支えにしながら、聖はようやくの態で立ち上がった。摩那斯の技を受けたおかげで、身に纏った衣服は引き裂かれ、体のあちこちから血が滲んでいる。口では軽口を叩いているが、摩那斯の技が、かなり堪えているようだ。

「そんじゃ俺も…そろそろ本気出すかな…」

 よろける身体をどうにか安定させると、聖はすらりと剣を上段に構えた。ダメージを感じさせぬ、堂々とした構えだ。

 敵とはいえ女の前で『みっともない姿を見せられるか!』という、ナンパ男の一念が、この時の彼の気力を支えていた。

「まだ余裕がありそうね…いらっしゃい、白虎…次の一撃で楽にして差し上げます」

「舐めんなよ!!」

 あるだけの気力を振り絞って、聖は愛剣『しろがね』に神霊力を注いだ。白光がしろがねを満たし、エネルギーの強風が剣身を巻く。

 この時、同時に摩那斯もまた自らの剣に念を込めていた。聖と同じ条件で勝負しようとしたのか、はたまた彼の実力を甘く見ていたのか。

 結果から言えばこの時、彼女のは聖に時を与えず、一息に勝負を決めるべきであった。何故なら聖の弱点がまさに、念を集中しているこの時にこそあるからである。

 聖は変な所で不器用な男だった。

 頭に血が上って我を忘れた状態なら、念を無意識に集中できるのに、冷静な状態で下手に思考能力が残っていたりすると、途端に集中できなくなるのである。

 雑魚が相手ならそれでも一向に問題はないのだが、相手が強敵ともなれば、意識して念を集中するこの、たった数秒のために苦戦することになるのだ。

 まして相手は剣速を誇る瞬速剣の使い手、八大竜王摩那斯である。まともに剣を交わして戦えば、聖の勝てる確率などゼロに等しかっただろう。


 だが、純粋な神霊力の勝負ともなれば、話は全く別だった。


「勝負だ!白虎!!」

 摩那斯は念を込めるに十分な時間を、聖に与えてしまっていた。

 ために彼女は、自らの手に掴みかけていた勝利を、聖に譲ってしまったのである。 

「いくぜえ!!風伯ッ、虎狼斬!!」

 聖の身体を取り巻く風が、雷気を帯びて白い火花を散らした。

しろがねを媒介した白虎の神霊力が、奔流となって摩那斯に襲い掛かる。

「鳳爆剣!!」

 赤い光が再び羽を広げて、聖の放った神霊力とぶつかり合う。

 神霊力と神霊力の衝突。

 それまで無事だった壁や廊下や柱が、次々と吹き飛ばされ跡形もなく消滅する。

 造られた偽りの景色が消えた後、残されたのは闇だけだった。

「くっ……!白虎の神霊力…これほどとは!!」

 摩那斯も聖も一歩として譲らない。このままでは互いに力尽きて、共倒れになってしまうだろう。そんな均衡した勝負の中で、気力を振り絞って聖は吠えた。

「負けられねえんだよ!!」

 全身を一際、白く輝かせる聖。

 瞳だけが海のような青さで、摩那斯の姿を捉えていた。

 その瞳が決心したかのように、瞬間、スッと細く眇められた。

 前へ突き出された神剣から、さらなる閃光が生み出されたのは、まさにその時であった。

「…………ッッ!!」

 摩那斯は物も言えずに吹き飛ばされた。

 ぶつかり合った神霊力の均衡が、聖の追撃によって一瞬で崩れ去り、解放された神霊力が激流となって彼女を押し流したのだ。

 網膜を焼き尽くす光の中に、摩那斯の流麗な姿が消え、なにもかもが白一色に染まる。

「き……きつかったぞ、ちょっぴり…」

 爆発的な光が収まった時、闇の空間に立っていたのは聖一人だけだった。

 背景が何もないから正確には解らないが、数メートルほど先には、摩那斯が壁にでももたれかかるような格好で倒れていた。どうやらそこには、見えない壁があるようだ。

「おい、生きてるよな?」

 ピクリともしない摩那斯に近づいた聖は、手を差し伸べて彼女の呼吸をそっと確かめる。

「お前の勝ちだよ……この、お人好しが…」

 伸ばされた彼の手をがっしと鷲掴みにし、摩那斯は細く目を開いて微笑んだ。元が超の付く美人であるから、どんなに顔が汚れ髪が乱れていても、その笑顔は例えようもなく美しかった。

「女には優しくするっていうのが、俺の主義でね…立てるか?」

「では、その主義とやら、ここで返上して貰わねばならんな」

 掴んでいた聖の手を払うと、摩那斯は座ったまま、不審げな聖に言葉を継いだ。

「白虎、私に止めを刺せ。でないと、永遠にこの空間から脱出できんぞ」

「な………っ!?」 

 艶然と微笑む摩那斯を前に、右手に下げた愛剣しろがねが、聖の心中を映して小さく震えた。


 最終的な決着に白黒つけたのは、単純に武器の刃の長さであった。

 長刀の大輔と、短剣の和脩吉。

 お互いの持つ神霊力は、武器の違いを除けばほぼ互角であったのである。

「ちえっ、お、面白かったのにな…もうお終いかぁ…」

 左手は傷を負って使えず、短剣はことごとく破壊された。頼みの神霊力さえも出し尽くした和脩吉は、床へ力なくへたり込んで残念そうに呟いた。

「まあ、そう残念がるなよ…今度はさ、武器も同じの持って、もっぺんやろうぜ。もちろん、平和になってからの話だけどさ…」

 気安く彼の隣に座り込んで、大輔が楽し気に提案した。戦っているうちに二人は、なんだか本当に兄弟みたいな親近感を、互いに対して感じるようになっていたのである。

「…良いなぁ。それ。本当にそんなこと出来たら、今度は絶対に負けないのにな…」

「出来るって。俺達が絶対に、人界も神霊界も、平和にして見せるからよ!」

 友人にでも対するような人懐こい笑顔を、大輔は隣の和脩吉に向けて胸を張った。和脩吉もまた、負けないくらい愛嬌のある笑顔を大輔に返す。

 二人はこうして並べてみると、本当に血の繋がった兄弟よりも近く見えた。

「……でも、やっぱ駄目だぜ…出来ねえよ。そんなこと」

 しばらく無言で空中を見詰め、次に言葉を口にした時、和脩吉の顔に浮かべた表情は、笑っているのに泣き顔のようだった。

「どうしてだよ!?駄目なんてことないって。俺が絶対に…」

「お前は俺をここで殺すんだ。じゃないとお前は、この空間から外に出られない」

「………はあっ!?」

 和脩吉から聞かされた事実に、大輔は青ざめて言葉を詰まらせた。

「そんな青くなるなって…約束事なんだよ…これが」

「ほ……他に、方法は…」

「ねえよ。この結界を作った娑加羅にしても、約束を果たさない限り、どんなことをしても外へは出られないんだ…」

 肩を震わせる大輔の右手を、和脩吉の両手が静かに覆う。呆然として彼の行動に気付かない大輔を無視して、和脩吉は長刀を握ったままの彼の手を、自らの胸元の中心へと導いた。

「後は押すだけだ…ここから先は、お前の仕事だぜ…」

「お……俺は、俺は嫌だ!!」

 はっとして大輔は後ろへ跳び退り、持っていた長刀を慌てて投げ捨てた。

 ギャリンッという金属の落下音が、静かな通路内に響き渡り、幾重にもこだまする。

「平和な世界を取り戻してくれんだろ…」

 静かな声だった。静けさの中にピンっと張り詰めた固い意志を感じさせる、それでいてとてもやさしくて暖かな声。

「そ……そうだけど」

 戸惑い逡巡しながらも、大輔は感じ取っていた。

 目の前で微笑む和脩吉が、心からの救いを求めていることを。

 そしてその救いが、死でしか贖えぬと、そう思い詰めていることを。

「けど聞かせてくれ!!龍二…いや、飛竜はなぜこんな戦いを、お前らにやらせたんだ?ひょっとして、お前らを殺すためなのか!?だとしたら、なんでこんな手の込んだこと…」

「飛竜様は戦いの方法まで指示なさらなかった。ただ『全力で戦え』と、そうおっしゃっただけだ。これは…俺達が決めた方法なのさ」

「馬鹿な!!どうしてこんな無意味なこと!!」

 和脩吉の返答を耳にして大輔は、納得するどころかかえって憤慨することになった。そんな彼の様子を、和脩吉は自嘲気味な微笑で見詰めている。

「無意味……そうだな。お前たちからしたら、そうなのかもな。でも、俺達には…いや、少なくとも俺にはこんな建前が必要だった。だって、こうすれば使命にかこつけて、死ぬことが出来る」

「だから、なんでそこまでして死ぬ必要があんだよ!!」

「………もう、嫌なんだ。嫌なんだよ!!俺達の魂を捧げるあのお方が…羅刹なんぞに支配されている姿を見るのは!!」

「…………ッッ!!」

 何をどう説得しようにも、頑なな和脩吉の決意は変えられそうになかった。

 大輔は血を吐くような和脩吉の決意を、痛まし気に目を伏せながら聞いている。

そんな彼の握られた右の拳は、訳の分からぬ怒りに、ただただ震えるのだった。


「そう…あれは三百年ほど前のことです」

 娑加羅は瞼を閉じると、淡々とした口調で語り始めた。

 飛竜王が処刑されて数千年。誇り高き真竜の一族は、下劣な手段で世界を制覇した羅刹族の下で、血も滲むような屈辱の日々を送っていた。

 彼らにとって、いつか再生するであろう真竜の王の存在だけが、唯一の心の救いであり生きる支えであった。

 しかし、本来なら数百年で転生を遂げるはずの飛竜が、いつまで経っても転生しなかった。どころか、まるでその兆候すら現れない。

 飛竜の身に何らかの異変が起こったことは確かだったが、だからと言ってどうすることも出来ようはずがない。真竜の民は、耐えて待つほかなかった。

 そうして三百年前、実に六千年の長きを経て、ようやく真竜の神聖なる王は転生を果たした。

「……しかし、転生された飛竜様の肉体には、魂が入っておられなかった」

「……魂が!?」

 深刻な表情のまま、冴月に頷き返す娑加羅。

無限にループする結界に包まれた広大な廊下には、二人の話し声だけがわずかに響くのみだった。

「ともかく我々は、そんな飛竜様をお守りすることにし、玉体を神殿へ安置しました。もちろん私を含む八大竜王全員が、昼夜問わずお側に付いて守り続けたのですが…」

 ある日、八大竜王に対して出撃命令が下された。それも『逆らう時は、たとえ真竜族といえど容赦せぬ』と、羅刹王直々の通達付きだ。真竜の国と民とを守るために、娑加羅を始めとする五名の竜王は、飛竜の身体を神官らに預けて遠く東の地へと出撃した。

 それから十日後、無事任務を終えて、彼らが帰還した時には、

「神官たちは皆殺しにされ、飛竜様の身体は奪われていたのです」

「…………!!」

 必死の捜索の末、犯人の素性は知れたが、一筋縄ではいかぬ難物であった。

「お前たちも会ったことがあるから知っているだろう?…夜叉族の長シャニ。とりわけ美しいものに異様な執着心を持つ、やっかいな男だ」

 娑加羅は知らなかったが、冴月は夜叉王シャニには直接会っていない。透たちから話を聞いたのと、青龍門が破られた時、隠れていたシェルター越しに声を聴いたことがあるだけだ。

 だが、たったそれだけでも十分だった。

 彼女には解る。恐怖に怯え、震えながら微かに聞いた声。

それが夜叉王シャニのすべてを露わにしていたからだ。


 内に秘められた残虐さ、蛇のごとき執念深さ、そして、狂おしい偏執的なその性を。


「夜叉王シャニ……あの男が…」

「私達はなんとしても、飛竜様の身体を取り戻さねばならなかった。そのためには手段など選ばぬ。しかし…今となって考えてみると、奴らは最初からそれが目的だったのではないかと思う」

「………目的」

「青龍……すまない。私は、飛竜様からお預かりしたお前の竜珠を、飛竜様のお身体を取り戻すために……」

 娑加羅の額に刻まれた深い苦悩が、途切れた言葉のすべてを伝えていた。

 

 彼は決断を迫られていた。

 愛する主君を守るか。

 その主君が遺した、最後の願いを順守するか。

「頼んだよ、娑加羅。私がもう一度、再びこの地へ戻るまで、この青龍の竜珠を、私の代わりに守ってやってくれ」

 前世の飛竜は処刑される前日、娑加羅を室に呼んでそう言った。

「これには私の神霊力で結界を施してあるから、よほどのことでも傷付けることはできないだろう。だが、羅刹に渡してしまったら、青龍の命が危ない。それに…」

 ふと、飛竜は思い出したように微笑んだ。

 空気に溶けてしまいそうな、柔らかく美しい微笑みだった。

「守ると…約束したからね」


「守る約束……か」

 飛竜の遺したというその言葉は、透の心に苦い痛みをもたらした。何故ならかつて自分も、それと同じ言葉を口にし、そしてまた、同じようにその約束を果たせなかったからだ。

「飛竜様はお優しい方だった。自分の意志に反するものも、賛同する者と同じに愛された。人の持つ憎しみや、妬み、恨み…そう言った感情をまるで、どこかに置き忘れてきたかのように」

「だから……悪辣非道な羅刹でさえも、あの方にとっては愛すべき存在だった。そう、飛竜様は、神のように無限に命を愛せる、おそらくは世界で唯一の……」

 急に言葉を詰まらせた難陀は、慌てて透に背を向けると、隠れて鼻をひとつ啜り上げた。

 外見はいかにもがさつで大雑把、豪傑豪胆そのものな容姿に、不真面目なニヤニヤ笑いを常に浮かべている難陀だが、根は案外、純朴で一途なのかも知れない。

「話が逸れちまったな…すまねえ。本題に入るぜ…って、どこまで話したっけ?」

「これまでの話を要約すると、飛竜は魂のない完全体で転生し、それを利用した羅刹王と夜叉の企みによって、お前達は青龍の竜珠を奪われた…と」

「お、おう。すまねえな。俺はどうも物事を上手くまとめられねえタチでよ」

 大きな手で頭を掻きながら、人懐こい顔で笑ってみせる難陀。

「ついでに俺の考えを言わせてもらうと、羅刹王は青龍の竜珠を破壊しようとしたが、さすがの奴でも飛竜の結界には歯が立たなかったのだろう。だから奴は方法を変えた。

 おそらく青龍の竜球に呪いをかけたんだろう。長い年月をかけて、じわじわと。青龍の神霊力を削ぐために。そしてその結果が、我々の間に生じたこの年齢差と、それによる結界と青龍門の崩壊だ。違うか?」

「さっすが。娑加羅の言った通りだぜ…」

 透の推論を聞いた難陀は、心底感心した顔で口笛を吹いた。

 その先を口にしようとした透の顔に、ほんのわずかな陰りが落ちる。そして、先ほどとはうって変わった躊躇い勝ちの口調で、

「飛竜の身体に魂が入ってなかったのはおそらく…」

「それも当たりだ。魂だけが人界に転生してたからさ。人界の…そう、あんたの弟の中にな」

 言い難そうに口籠った透の代わりに、難陀がハッキリとした口調で真実を明かした。

「……………」

 その時、透は完全に無表情であった。だが、その仮面の下では様々な感情が交差し、万華鏡のような目まぐるしい変化を繰り返している。

 龍二が、弟が、生きている。

 飛竜王として、この世界に。

 失ったと諦めていた存在が、何より大切にしていた弟の魂が、今この瞬間も生きて存在している。

 そんな喜びの感情が渦巻く一方で、そんな飛竜と戦わなければならないかも知れぬ不安と苦悩が、玄武透の胸中を千々に掻き乱していた。

「期待はするなよ、玄武。今の飛竜様には、お前さんの弟であった頃の記憶なんざ、ただの情報にすぎん」

 透の心境に鋭く勘付いた難陀は、珍しく深刻な目をして彼に忠告した。

「記憶がない…ということか?」

「イイや。記憶はあるさ。それこそ生まれた瞬間からな。だが…どんな記憶も思い出も、そこに感情が伴わなければ、ただの記録と同じことさね…解んだろ?」

「……そうか。すまん。忠告に感謝する」

「別にアンタのためじゃねえ。飛竜様を助けてぇからだ」

 突き放した物言いの割に、難陀の顔には笑みが浮かんでいる。それを目にした透は、彼流の思いやりをすべて理解した。

「魔に支配されている…と言ったな?」

「ああ…しかし、ちょいと訂正するぜ」

「…………?」

「飛竜様が魔に支配されている、と俺は言ったが、実は少し違うのさ。正確に言えば…えっと、そうそう、『精神汚染』だ。今の飛竜様は、羅刹の強烈な破壊意識に、純粋な精神を汚染されちまってるのさ」

 空間がわずかに揺れていた。

 最初、気のせいかと思っていた難陀だが、徐々に大きくなる地鳴りにハッキリした確信を持った。この閉じられた空間へ、何か異変が起こっていることを。

「精神を…汚染」

「つまり、洗脳なんかと違って自分の意識はあるし、もちろん判断力もある。けど」

「その根本が汚染を受け、やることなすことすべて負の影響を受けているのだな?ならば、いずれ存在すべてが、暗黒面に呑み込まれてしまう…」

「そういうこった。いやあ、理解力が優れた奴ぁ、説明が短くて済むから助かるぜ。もう、あまり話してる暇はなさそうだしな。しかし…アンタにとっても残念な話だが、一度汚染された魂は二度と元には戻らん。それが穢れなき魂なら、なおさらな」

 二人が存在する空間に起こった揺れは、もはや地震と言って差し支えないほど大きくなっていた。おそらくはこの結界に、目には見えぬヒビが入ったのだ。この様子では、すぐにも限界に達するだろう。

「あと数秒で、この結界は破壊される」

「ほほう…やっぱりお前さんの仕業か。俺らはもちろん、作った奴にすら絶対破れねえものを。…さすがだな、玄武」

 戦闘が終わったあと、再び瓦礫と化した床に突き立ててあった黒曜を引き抜くと、透は片手でそれを斜めに翳した。黒い刃が光を反射し、透の顔に一本の白い線を落とした。彼は地に突き立てた神剣を媒介にして、結界を破壊する力を大地に送り込んでいたのだ。

「最後にもう一つ聞きたい…」

「どうぞ」

「俺は…何をすればいい?どうすれば…あの子を助けてやれる?」

 予期していた問い掛けだったのか、難陀の表情にも態度にも動揺の色はない。ただ、豪胆な彼にはとても不似合いな、深い哀しみの色があるだけだった。

「汚染された魂を救う方法は、何もない。あるとしたら、ひとつだけだろうさ」

 悲痛な彼の表情が、すべてを語っていた。

「そしてそれが出来るのは…お前さんだけだろう」

「……………ッッ」

 次の瞬間、何かが割れる音と共に、娑加羅の張った結界が消えうせた。

 硝子の割れる瞬間のようなその音は、難陀の耳にも鋭く響いてきた。


 だが彼にはそれが、どこかからか発せられた、誰かの悲鳴のように感じられたのである。

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