第10話
六千年の昔も、やはり紫龍は女としてこの世に生を受けていた。
青龍はというと、これは今とは違い、当時は男として存在していた。
その頃の青龍は、真竜族の中でも最強と謳われる戦士の一人であり、また、部隊を率いる将としても優れ、穏やかな性格や人格面などからも、飛竜王や部下達から厚く慕われ、信頼される輝かしい存在だった。
紫龍はまだ少女の頃から、そんな青龍に憧れ続け、そしていつしかその想いは、愛へと変化していった。
その時から紫龍は武術を習い、強い戦士になろうと努力し始めた。
すべては、青龍の側へ近付きたいと思う、その一心から。
そうして努力は報われた。紫龍は、青龍と共に「五彩龍」と呼ばれる近衛戦士に選ばれたのである。
『これでやっと、同等な立場で彼と話ができる』
紫龍の心は浮き立った。憧れて、好きになって、もっと側に居たいと思うようになって…そんな青龍とずっと近くで、もっと沢山の時間を、共に過ごす事ができるのだ。
たとえ、現実には、頭で思うようには話ができなくても、青龍の姿を側で見ていられるだけで、それだけで彼女は幸せだった。
しかし幸いなことに青龍は、こんな紫龍の事を気に入ってくれたようだった。
王城に勤め始めてすぐに、二人は意気投合し、周囲も認める仲の良い親友同士となったのである。
『けれど…解ったの。あたしが本当に…何を求めていたのか…』
流れ込む記憶の中に、今、現在の紫龍の意識が割り込んでくる。
『あたしは徐々に耐えられなくなっていった…青龍に「親友」としか見てもらえない事に…』
再び時を刻む過去の記憶。
女と見られていない事が解った時、失恋にも相当する衝撃が、紫龍を激しく苦悩させた。
そしてある日、さらに強いショックが、彼女の心に襲いかかってきたのである。
『まさか、青龍は飛竜様の事が…』
彼女は、青龍の視線を知らず知らず追っているうちに、気付いてしまったのだ。青龍が時折見せる熱い視線の先には、いつも必ず、飛竜の姿がある事に。
真竜の王、飛竜は、女の紫龍ですら羨む美貌の持ち主で、さらには神霊界唯一の両性体でもあったから、青龍のように想いを寄せるものは一族の中にも数えきれないほど多くいた。
だが、そのほとんどは彼(彼女)を、まるで神のように崇めているだけで、世俗のような男女の感情とは一線を画していたのである。けれど、
『青龍は違う…彼は、女性としての飛竜様を…愛している…』
何の確証もなかったけれど、紫龍の直観はそう告げていた。
「………」
紫龍の告白を心に感じながら、冴月は弁解の一言もない。何故なら、彼女の指摘するような思いが、確かに冴月の記憶にあったからだ。
女の勘は凄まじい。そして、それにもまして、彼女の抱いた嫉妬は恐ろしかった。
紫龍は青龍への愛をそのまま彼の想い人への怨念と化し、復讐にも似た心の矛先をすべて飛竜へと向けてしまったのである。
『アタシは…あたしは…!!』
紫龍は、真竜族にとって命にも等しい『竜珠』を、それも、王である飛竜の竜珠を盗み出した。
羅刹の王に、唆されるまま。
「………!!!」
さすがに衝撃的なこの事実を知って、冴月は動揺せずにはいられなかった。彼女はまさか、紫龍がこれほどまでに大きな罪を犯していたとは、思いもしなかったのだ。
竜珠とは、真竜族が個々に持つ、小さな透明の宝珠の事である。
水晶のように透明なその珠は、真竜族にとって魂を共有する分身であり、生死を共にする命の珠でもある。珠が傷付けば本人も傷付き、本人が死ねば珠もまた光を失うのだ。
それほどまでに竜珠は、真竜にとって大切なものだった。だからこそ、それが真竜の王の竜珠ともなれば、事は一族の存亡にも関わる、重大で深刻な問題となるのである。
飛竜の竜珠は『虹の神珠』と呼ばれる、他に類を見ないほど特殊な物だった。普通の竜珠の十倍は大きく、色も透明ではなく虹色で、さらに、持ち主の死後における扱いもまた特別であった。
真竜の民が死ぬと、竜珠も光を失う。光を失った珠は、竜の谷と呼ばれる真竜の聖地に葬られ、二度と光を取り戻すことは無い。だが、飛竜の珠だけは、違っていたのである。
虹の神珠は主を失っても光を失う事は無く、よって谷に葬られることもない。神珠は飛竜が新たな転生を遂げるまで、ずっと神殿の奥で待ち続けるのだ。
そこに世界の記憶を刻み続けながら。
『あたしは知らなかった…あたしを唆したアイツが…羅刹の密偵だったなんて…』
飛竜の神珠を手にした羅刹は、それを盾に、真竜族の無条件降伏を要求してきた。王の命を人質に取られたのだ。真竜一族に逆らう事などできようはずがない。
かくして羅刹は弄せずして真竜の国と、所領である豊かな大地と、白き王城とを手に入れた。神霊界の至宝とまで謳われる、美しき真竜の王、飛竜をすらも。
「そうだったの…だから、あの時…飛竜様は何もおっしゃらなかったのね」
ようやく冴月は、六千年前の急な降伏宣言の真相を理解した。
その後がどうなったのか、聞かなくても解る。飛竜の事だ、おそらく、紫龍の罪は咎めなかっただろう。あの人はそんな人だ。愛するがゆえに、青龍には手に取るようにわかった。
しかし、それならなぜ??なぜ紫龍は、転生した後も、この罪の記憶を持ち続けなくてはならなかったのか。
『飛竜様…あたしを咎めなかった…一言も、責めなかった…だけど、あたしは辛くて…優しさが苦しくて…だからこの役目を与えられた時、苦しかったけど、とても嬉しかった…これで、あたしは本当の償いができる。飛竜様のために働ける…そう思った。だけど…やっぱり駄目だったわ…』
冴月の瞳がこの時、信じられない、といった具合に見開かれたのを、もはや紫龍は見ていなかった。
彼女の心は、秘めていたすべての想いを告白した事で、すでに満たされていた。死に対する恐怖もない。ただ、解放される喜びだけがそこにあった。
『あたしは…あたし…は…』
血塗れの手が、何かを渡そうとしていた。それに気付いた冴月が、慌てて紫龍の手を取る。その手の中には、今にも消え入りそうな小さな光があった。
「……紫龍」
『あたしは…あなたのこと……』
美しい紫の瞳から、白く筋を伝って涙が零れ落ちた。冴月にはそれが、失われていく命そのものの輝きに見えた。
「紫龍……!!!」
冷たくなっていく体を掻き抱いて、冴月はまるで赤子のような泣き声を上げた。悲しかった。そしてそれ以上に、己の愚かしさが許せなかった。悔しかった。言葉にならないほど。
紫龍は今度こそ、永遠の眠りについたのだ。
「罪を犯した彼女は…竜珠を封縛され、転生したところにその同じ竜珠を与えられて、前世に犯した罪の記憶を再び背負わされて生きてきたのでしょう」
それは真竜族の…いや、『世界』でもっとも残酷な罰だった。
冴月は掌に遺された透明な珠を、ひたと見詰めながら独語した。
紫龍が最後の力で彼女に託そうとしたもの…それは、血や埃で酷く汚れ、細かなヒビが無数に入った小さな珠。罪を悔いて心でもなお、罪の記憶を捨て去ることを許されなかった、憐れな紫龍の竜珠。
けれど、今度こそ彼女は、忘れて眠ることが出来るのだ。
「ゆっくりおやすみ…紫龍。いつかきっと、また会えるわ」
冴月はそう言うと、紫龍の珠をそっと懐にしまい込んだ。この戦いが終わった時、自らの手で竜の谷に葬るために。
「冴月、俺達はこれからランカーに向かうぜ。けど、もし辛いならお前はここで…」
そう告げる聖の背後には、千二百十名あまりの戦士達が、出撃を待って控えていた。
彼等は透の策に嵌って主力と分断された、羅刹族を除く部族で構成された聖獣討伐隊の戦士である。本来なら死ぬまで四人と戦い続けたであろう彼らだが、それもメーガナーダを倒した後ともなれば、説得するのもまた容易いことであった。
何故なら彼等は一人残らず、羅刹王の強大な力にやむなく従っていた部族の出であり、一族の生き残りを人質に取られ、おまけに負けて帰ればどのみち命はないという、どう転んでも待つのは『死』という先のない身の上だったからだ。
「自分の命と一族の未来は自らの手で掴むが良い。俺達はそのために神霊力を貸してやる」
戦士達は皆、メーガナーダを打ち倒した四聖獣の神霊力と、その言葉とを信じた。そして全員の力で王都『ランカー』へ攻め込むことを、むしろ自ら進んで決意したのである。
「大丈夫よ。私も四聖獣の一人。こんなことで挫ける訳にはいかないもの」
「そうか?でも、無理はすんなよ…」
心配そうな聖に、冴月は吹っ切れた笑顔を返した。
「ありがとう聖。でも私には、まだやらなくちゃならない仕事が残ってるのよ」
険しい視線が地平の彼方を見据えていた。まだ見ぬ敵を、射抜くように。
「そうだな……」
釣られて同じ方角を見詰めながら、聖は端正なその顔に、彼らしい不敵な笑みを浮かべていた。
いよいよ部隊は諸悪の根源──そして、すべての始まりでもある羅刹王ラーヴァーナの待つ王城『ランカー』へと移るのである。
見た目こそは白く美しいその城こそが、六千年の長きに渡る聖戦の、最終決戦の地であった。
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私には最初、『感情』というものがなかった。
私は神のようにこの世界に生きるすべての生物を、『平等』に『愛』していればそれで良かった。ただ、それだけだった。それが私の生まれた『意味』、私という存在の『使命』であったから。
私が私として意識を持ち始めてから、何億、何十億という果てない時が流れた。
『愛』する『人間』達は、私を神の様に崇めていた。
ある日、そんな人間達の中の一人だけ、違う目で私を見る男に気が付いた。初めはそれがなんなのか、男の視線がどういう意味を持つのか、私にはまるで解らなかった。理解できなかった。
しばらくしてそれが『愛』であることを理解した。けれどそれは『神』に対するものではなく、人間の『男』が『女』に対して抱くもの。
確かにその頃の私は、両性体でありながら、より女に近い姿をしていた。だが、元来私に『性』などない。私はこの世界に存在し始めてからずっと、女であり、男であり、同時にそのどちらでもあり、どちらでもなかった。それが私。私という存在に与えられた、世界で唯一の歪な命。
それなのに──
『何故、あの男は私を……』
不思議に思いながらも、何故か心が揺らめいた。
その時、初めて私に『感情』が生まれた。
男は何も語らなかったが、その瞳が何もかもあからさまに伝えて来ていた。そんな男の私へと向かう感情は、その後、他の人間にも飛び火したらしい。
私に『神への敬愛』以外の感情を向ける視線。
今度のそれは女だった。
初めはまたしても、女の向ける視線の意味がなんなのか解らなかった。やがてそれが『嫉妬』という感情だと知った。女は、男を愛しているのだ。ゆえに男が愛を向ける私を、羨ましく、妬ましく、そして、憎いと思い始めている。
『そうか、彼女は私が…』
またひとつ、私の中に新しい感情が生まれた。
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