第6話

 乾いた風が吹く、荒涼とした大地。はるか遠く地平の彼方まで続く、岩と砂の赤茶けた荒野。紫色した大空には、激しく燃え盛る双子の太陽が輝き、容赦ない光と熱とを地上の生命へ投げかけてくる。そこには、生命を育む優しい水の流れも、強い日差しを和らげてくれる静かな木陰もない。

 生きていくにはあまりにも過酷で、辛く、冷たく、そして厳しい環境。

 それがかつては『楽園』と呼ばれた世界。

『人界』と次元の壁一つ隔てた空間に存在するもう一つの世界。

───『神霊界』の、現在の姿であった。



 神霊界の中央に位置する場所に、羅刹族の拠点である巨大な街と、白亜の王城『ランカー』がある。世界を覆う紫色の空に、目映いばかりに白く映えるいくつもの塔と、それらをたたえて美しいフォルムを醸し出す宮殿。

 それはかつては、この神霊界の統治者たる真竜族の城であり、神秘なる真竜王の住まう神殿であった。だが、現在では羅刹族に支配され、彼らの王ラーヴァーナの住まう居城となっているのだ。 

 この白き城を望むわずかな地域は、荒れ果てた世界に残された最後のパラダイスであった。城下に広がる豊かな緑の森と、深く蒼い水を湛えた湖。命を潤す実りある豊饒の大地。川が流れ、魚が水を跳ね、森や草原を獣達が走る。

 数千年前まで当たり前だった風景が、今でもここには現実のものとして残っていた。

───けれど楽園は汚されつつあった。

 残虐非道な羅刹の手によって、幾度となく繰り返される、血の粛正と洗礼によって。



「羅刹の神聖なる王ラーヴァーナ。忠節なる臣下一族の長5名。ことごとく御前にうち揃いましてございます」

 この日、城の大広間では、羅刹配下にある5つの有力部族の族長を集め、定例の『謁見の儀』が執り行われていた。

 豪奢な玉座の下に、頭を垂れて跪く5人の姿がある。各々が各部族特有の礼服をその身に纏い、いかにも恐ろしげな様子で平伏していた。

 彼らの頭上には、畏怖すべき存在があった。

 肩までの銀髪と無骨な髭。緑の鱗がびっしりと全身を覆った、鎧のように大きく逞しい身体と、角張ったいかつい顔。そして、そこに浮かぶ、残虐な笑み。それを目にした者すべてに、血も凍るほどの恐怖を与えずにはおかない…悪鬼の微笑。

 羅刹族の持つ身体的特徴を、すべてその身に集約したような人物。そして彼らを脅かし、支配する絶対の王。それが羅刹王ラーヴァーナ、その姿であった。

「者ども、顔を上げい」

 寛大なる王の許しに、恐る恐る5人の長が顔を上げる。見慣れた彼らの顔を、王はつまらなそうに見下ろしていたが、ふと、一人だけ顔が違うことに気付いて、のそりと玉座から身を乗り出した。

「夜叉王は代替わりしたのか?…わしはまだ、彼奴の首をねじ切った覚えはないぞ?」

 恐ろしい事を平然と口にされ、夜叉族の代表がびくりと小さな体を震わせる。

「その事につきましては、私の方からご報告を」

 4人の長は皆一様に、玉座からかなり離れた場所で平伏していたのだが、そんな彼らより数歩抜きん出た場所に跪く男が、その狡猾そうな顔を上げて発言した。

「なんだ?言ってみろ」

 男の名はメーガナーダ。彼は『魔術王子』の異名を持つ勇猛な戦士であり、羅刹最高指揮官であり、また羅刹王ラーヴァーナの数多い息子の一人でもあった。

「過日の封印決壊の折り、夜叉王と共に羅刹数万の兵が人界へ出陣したのは、王もご承知の通り。しかし夜叉王は例の四聖獣に反撃を受けて死亡しました。よって今後はここに控えます夜叉王シャニの息子カラーが跡目を…」

「彼奴はこのわしに、出陣前何と申した?『自分に任せれば人界どころか四聖獣の首さえ献上する』?!その結果がこれか。たいした虚言ではないか!!」

 メーガナーダの報告が終わるより先に、羅刹王の怒声が大広間の空気を震撼させた。場に居合わせたすべての者が、恐怖の余り身を縮める。ここで誰か一言でも迂闊な事を発言しようものなら、その者は怒り狂った王の手によって容赦なく引き裂かれていたことだろう。

 それほどに短気で、恐ろしく冷酷な、血に狂った魔物。

それが彼らの戴く主、凶王ラーヴァーナの実態だった。

「夜叉の、貴様にチャンスをやる。前王の軽言を実現してこい。でなければ、わし自ら赴いて貴様ら一族を根絶やしにしてくれる。よいな!!」

「は、はい!!」

 哀れなくらいに小さく身を縮め、夜叉族の新王カラーは己が額を床に擦りつけた。凍るような恐ろしい宣告を聞いたためか、まだ幼さの残る顔には無数の冷汗が浮かんでいる。

「それにしても、ふがいない奴だ」

 流血を見るような事態に至らなかった事で、長達はほんの少しだけ安堵した。が、しかし、ぴりぴりした一触即発の緊迫感は、依然として広間を支配し続けていたのだった。

「……」

 誰もが、永遠の責め苦のようなこの一瞬を、ひたすら頭を低くして耐え忍んだ。まるで、嵐が通り過ぎるのを待つかのように。すると、

「…そう言えば…」

 ラーヴァーナ王の関心が、ふと、今朝方耳にしたある噂の事に移った。それは恐怖で世界を支配する王にとっても聞き捨てする事のならない、ある人物に関する噂だったのだ。

「メーガナーダ…聞けば真竜の王が、六千年ぶりに転生したそうだな?ここへ、今すぐ来るよう伝えろ。一刻も早くだぞ。わかったな?!」

「は…お、仰せのままに。…ん?」

 気まぐれな王の機嫌を損ねぬよう、メーガナーダは慌てて人を遣わそうとした。だが、しかし、すでにその必要はなかったのだ。

 なぜなら、彼が命令を下すより前に、当の真竜王の来訪を告げる使者の声が、大広間に響き渡ったからである。

「真竜王飛竜様、ご来城にございます」

「おう。来たのか。通せ、通せ」

 真竜王の来訪を告げられた途端、羅刹王の不機嫌な顔が、驚くほど一変した。どうやら彼にとって真竜王とは、かなり特別な存在であるらしい。

「噂すればなんとやらだ」

 魔王と呼ばれた男を、これほどまでに驚喜させる人物。

───真竜の王、飛竜。

 類稀なる美貌と、他に追随を許さぬ強大な神霊力。

『神霊界の至宝』とまで謳われる世界で唯一の存在。そして『始めより生れいでて』、転生を繰り返す『永遠なる王』

 彼は六千年前、四聖獣を助けてこの神霊界を封印し、その罪によって当時処刑され死亡した。以来、これが初めての転生体である。

「おお…っ」

 そんな伝説とも云える王が姿を現わすと、壮大な広間に感嘆の声があがった。

「お懐かしゅうございます。親愛なる羅刹の王」

 それは地天のありとあらゆる美を結晶した、恐ろしいまでに光り輝く存在であった。

「真竜王飛竜、ただいま帰参仕りました」

「来たか…飛竜」

 烏羽玉の黒髪。星のない夜の瞳。濡れたように光る朱唇。神に寵愛されし者、飛竜。白く美しい輪郭や、華奢な身体のラインには、まだ未成熟な幼さが残っていた。だがそれは、彼の魅力を損なわせる欠点とはならずに、むしろ、より繊細な彼の美しさを際だたせる美点と化していたのだ。

 そして、そんな少年の柔らかな肢体を、黒を基調とした優美な礼服が覆っていて、そこからこぼれ落ちた真珠色の手足が、見る者にさらなる鮮烈な印象を与えていたのである。

「おお…久しいな、飛竜。さ、そんな後ろで控えずともよい。ここへ来て、もっと良く顔を見せぬか」

 先着の5名より後方で跪いた飛竜に、羅刹王はそう言いながら、自分のすぐ足元を指差した。実の息子でさえも、公式の場でそこまで近くに寄ることを許された事はない。

「相変わらず美しい顔をしておるな。何度転生しようと変わらぬと見える」

 言われるままに足元へ跪いた飛竜の顎を、羅刹王は乱暴な手つきで捕らえて呟いた。

「……」

 強い手で顎を挟まれ、苦しさに顔を歪めながらも、飛竜は羅刹王のする行為に耐えた。彼のそんな姿は、かえって王の嗜虐心を煽ったのであるが。

「六千年前の裏切りは水に流してやろう。…が、二度は許さん」

「…有り難き…ご厚情を賜…っ!!」

 絞り出すような飛竜の言葉は、ふいに重なった羅刹王の唇に吸い込まれた。愛情からなどではなく、責め苛むための接吻。だが、飛竜はあくまで無抵抗であった。

「惜しいな…貴様が本物の『女』でさえあれば、わしの子を生ませてやったものを。…のう?」

「あ…ううっ」

 羅刹王の表情には、残酷な喜びがあった。手足を縛られた美しい獣をなぶるような、醜怪で、ひどく歪んだ喜び。

 大広間に暗い沈黙が落ちた。ただ聞こえるのは、時折こぼれる、苦しげな飛竜の喘ぎだけ。

 いつ絶えるとも知れぬこの沈黙を、しかし、再び使者の声が突き破った。

「ご報告申し上げます!!」

「何事だ!」

「た、ただ今、東大陸、東門より四聖獣が現れたと!!」

「なんだと!?」

 ぎらりと目を光らせて、羅刹王が身を起こす。びりびりした空気が、再び広間に蔓延した。

「夜叉の!先ほどの言葉を忘れていまいな?!」

「は、はい!!」

「では行け!四つの首を、見事わしの前に飾って見せよ」

「はい!必ず仰せのままに!!」

 跳び上がるような勢いで、夜叉の新王カラーは立ち上がった。そして走る直前のような歩調で、足早に広間から退出して行く。王になったとは言え、まだ小さな子供に過ぎないカラーの両肩に、この時、一族すべての命運がかかっていた。

「これでようやく…六千年前の決着がつけられるぞ。のう?…飛竜」

「……」

 荒い呼吸でうずくまる飛竜に、ラーヴァーナは残忍な笑顔を見せてそう言った。応えを返せぬ飛竜を、嘲笑うかのように。




 東の果て。青龍門をくぐり抜けた四人の前に、世界のほぼ全土を占める赤茶けた大地が広がっていた。

「ひゃあ。荒廃しきっちゃって、まあ」

 呆れた口調で正直な感想を漏らしたのは、燃えるような赤毛と、ルビーのような瞳をした、活発そうな少年である。

「昔、楽園と言われたもんだがな。この世界も」

 次に感慨深げな呟きを口にしたのは、一見軽薄そうに見える美少年だった。目深に被ったフードの下には、陽光にきらめく銀の髪と、皮肉に歪めた青い瞳が隠されている。

「でも、懐かしいわ…」

 青銀の長い髪を異界の風になびかせ、美しい少女は、深い藍色の瞳を細めてそう言った。彼女にとって、この世界こそ生まれ育った故郷であった。

「さあ。まずはこの青龍門を完全に封印するぞ」

 闇色の瞳を持つ少年が、青く光る巨大な門を見上げながら、先の三人へ手早く指示を出した。他の三人の仲間達と違って、彼だけが、フードの下に見える肌が黒い。

───東西南北、四方の護り手、門の守護獣『四聖獣』

 ここに今ある姿こそ、彼ら四聖獣の本来の姿であった。

といっても、もちろん基本的な顔の造作や、姿形などの作りは元のままそれほど変わりはない。だが、髪の色、瞳の色、肌の色といったものだけが、神霊界へ入った途端、見る間にこのように変化したのである。

 そう。つまり彼らの真の名が示す通りの『色』へと。

朱雀は、燃えるような赤。

白虎は、雪のような白銀。

青龍は、冬空のごとき青銀。

そして玄武は、闇よりも暗い黒へと。

「四神結界。異界への道よ封門せよ。青き龍の名と、その刻印の元に」

「封門せよ」

 『青龍』冴月の紡ぐ結界呪を、透を始めとする三人の声が唱和する。四人それぞれが胸に抱く人界での思い出と共に、修復された青い門は閉じていく。

 今度こそ永遠に、開かぬように。

「死にに来たとは、いい度胸だなあ」

 門が音もなく完全に閉じた時、それを待っていたかのように、そんな無邪気な声が四人の背中に掛けられた。

 凄まじい悪意と、邪悪な気配と共に。



「死にに来たとは、いい度胸だなあ」

 邪気の無い子供の声で、くすくす笑いながら姿無き何者かは四人をあざける。

「覚悟の自殺ってやつかい?それ」

 今までどうやって隠していたものか、声を発すると同時に自然と漂ってきた魔力の気配は、並大抵の魔物が持ち得る容量ではなかった。

「なに言ってやがる!」

 聖が真っ先に反応して振り返ったが、辺りは見晴らしのいい平原で、四人の他に動く物の姿は見当たらない。しかし、確かに何かの気配はあった。

「ははははは。見つからないよーだ。ははは」

「てめ、馬鹿にしてねーで出て来い!臆病者!!」

 聖の挑発に応えたものか、何もないはずの空間が一瞬、陽炎のように揺らめいた。

「そこかあ!!」

 すかさず聖は斬りかかった。背中に背負っていた剣を、走りながら鞘走らせる。電光のように降り下ろされたその剣先は、見事その何者かの潜む歪んだ『空間』を切り裂いた。

 神霊界の太陽の下、透明な刃を持つ長剣が金の光を弾く。

数千年の時を経てなお光り輝く剣。人界においては厳重に封印を施され、使うことも抜くことすらも禁じられていた白虎の半身───聖剣『白銀』であった。

「あったりー!!なんてね!」

 切り裂かれた空間から現れたのは、見た目はまだ十二~三歳の、夜叉族の子供であった。しかし、彼の姿を直視するよりも先に、反射的に四人は身構えていた。

「ひっどいなあ。子供一人に四人がかりで来る気?」

「だあれが子供で、何が一人か!ざけんな、この化物め!」

 確かに大輔の言う通り。なりは子供でも、小さな体から発する魔気は生半なものではなかった。まだ幼い子供の体に秘めた強大な魔力。それだけでもこの子供が、中級以上の魔物であると言うことが判別できる。さらに、

「…たいそうなお出迎えだ」

 四人の周囲を取り囲む、この気配は───

「あれ?もうバレちゃったんだ?ま、いいか。どうせみんな殺すんだし…あ、でも、恨まないでよ?これは正当な仇討ちなんだから」

「仇だと…?誰だ、てめえは…?」

 口に出してそう聞いておきながら、聖にはなんとなく子供の正体が解っていた。彼の目の前でニヤニヤと笑う子供は、閉じた目も、長く伸ばした黒髪も、なによりも顔立ちそのものが、最近見たある顔にそっくりだったのである。

 数万の羅刹を率いて人界へ現れ、聖の前で龍二を無惨に惨殺した、あの、黒い影の男と。

「僕の名はカラー。夜叉一族の新王カラー。前王にして我が父、貴様らに殺された夜叉王シャニの仇を討つ!!」

 高らかに宣言するのと、ほぼ同時だった。

四人の前へ、数え切れないほどの敵が出現したのは。

「やはりな…」

「待ち伏せかぁ…ちぇっ」

 先刻から感じていた気配。それはカラーと同じく空間に結界を張って潜伏していた、夜叉族戦士の闘気だったのだ。

「話し合い、の余地はなさそうね」

 青龍の言う通り、彼らは皆一様に武器を構え、殺気をみなぎらせて四人を取り囲んでいた。どう説得したところで戦う事になるのは目に見えている。

 それにしても、数の上でもそうだが、戦術的にも敵に一歩先んじられた感はいなめない。状況は完全に四人に対して不利だった。

───しかし、

「丁度良い。俺もてめえの親父には貸しがある」

 そんな不利な状況を前にしても、聖の目には不敵な笑みが浮かんでいた。それは、他の三人にも共通した事だったが、

…ただ一人、聖の瞳にだけは何故か怒気の色があった。

「貴様の親父に奪われたもの、その代価…それを」

 彼の網膜の奥には今も、護り切れなかった少年の姿が、彼を情容赦なく殺した男の嘲笑が、そして無様で情けない己の姿が、痛いほど強く焼き付いていたのだ。

 そんな聖の目の中で、男の姿は、眼前に立つ子供の姿と、寸分の違いもなくぴったりと重なり合った。

「今こそ、返してもらうぜ!」

 神霊界最初の戦いは、こうして始まったのである。

 


「でやあっ!」

 大輔は両手で大小対になった刀剣『紅』を構え、それを縦横無尽に振るいながら敵中を駆け抜けた。その側では冴月が小刀『青嵐』で、大輔の打ちこぼした敵を凪ぎ払っている。

「おおおおおっ」

 そして透は一人、黒い疾風のごとく戦場を駆け巡り、鞭のようにしなる長々剣『黒曜』で、夜叉族戦士の首を次々と、中空高く跳ね飛ばしていた。

「くっ、つ、強い!」

「おのれっ!怯むな!!」

 雑魚といえど味方に数倍する敵を相手に、透ら三人は圧倒的力の差を見せつつ、断然優位な戦いを繰り広げていた。

 その、同じ時。

「おらあっ!!」

 聖だけは、ただカラー一人を敵として、凄絶な一騎打ちを演じていたのである。

「は~ずれ~。あはははははっ」

「ち、また外れたか。チビのくせに…やる!」

 カラーの武器は反り返った大きな蛮刀。しかも彼は恐ろしく身軽で、猿のように素早しこかった。おかげで聖の剣は、カラーの体を掠りもしない。

「ははは。おっそいなあっ、白虎!」

「このお猿さんが!なめんな!!」

 聖はとっさに風の神霊力を使って、飛び跳ねるカラーの動きに急制動をかけた。巻き付く風に足を取られ、バランスを崩したカラーがよろけて着地する。

「狙い通りだぜ!」

「…っ!!」

 銀光が一閃した直後、カラーの右腕が蛮刀を持ったまま、緑の血を噴出しつつ肩から切り離された。乾ききった大地が流れ落ちる血を吸ってどす黒く染まる。

「き…貴様!!よくもっ!」

「逃げるなら今のうちだぜ。小猿ちゃん」

 聖は逃がすつもりなど毛頭も無いくせに、そんな事を言ってカラーを挑発した。ふと気が付けば、あれほどうるさく鳴り響いていた戦場の剣戟はほぼ静まり、戦闘を終えた大輔と冴月が、聖らの戦いを遠巻きにして見守っていた。

「代わろーか?白虎ちゃん」

「やかましい。黙ってそこで見物してろ、くそチビ」

 『朱雀』大輔の冷やかしに乗って、聖はつい油断した。とどめも刺さないうちに『勝った』と思ってしまったのだ。

「…ふふふふ。甘いねえ」

 カラーが笑う。はったりでも自棄になった訳でもなく、ただ可笑しかったのだ。聖の甘さと愚かしさが。

「僕の力をなめてくれたお仕置きだ!!」

「なにっ!!!」

 それは一瞬の出来事だった。切り落とされたカラーの右腕が、まるで生きているように宙へ浮き上がったかと思うと、それは次の瞬間、目にも止まらぬ速度で、聖の腹部目掛けて飛んできたのである。

「あ、聖!!」

 思いも寄らぬ事態に驚き、冴月が叫び声を上げた。

「くそっ!!」

 聖の白銀を掴んだ手が反射的に動き、飛んできたカラーの右手に光る蛮刀を弾き返す。が、

「馬鹿めっ!」

 鋭い爪を生やした右腕の速度は、それでもまるで落ちることなく、勢い良くそのまま聖の腹部へ突き刺さったのだ。

「聖ーーーっ!!!」

 聖の顔に苦痛の表情がよぎり、間を置いて鮮血が滴り落ちる。大輔と冴月のいる場所からは、カラーの右腕が異様な角度で聖の腹部に深々と埋まっているようにしか見えない。

「あ…聖?!」

 聖が負けた?大輔ですらそう思って顔色を青ざめさせた。

しかし…

「あめえのは…貴様だ」

「なにっ!!」

 目を剥くカラーに、聖がとどめの一撃を下した。

「これは…お前の親父に殺された、透の…いや、俺達の大切な『弟』…龍二の受けた痛みと哀しみだっ!!存分に思い知れ!!」

「が…ああああああっ!!」

 脳天から二つに裂かれ、夜叉の新王は、戴冠の儀も受けないまま絶命した。野望も、夢見た栄光も、塵と化して崩れさる。そして地に倒れ伏したその骸もまた、乾いた砂漠の風と共に跡形なく消え失せた。

 まるでそこに、最初から存在しなかった物のように。

「あ、聖、だ、大丈夫か!?」

 お腹を抱えるように身を丸くした聖に、青ざめた大輔を先頭にして仲間達が駆け寄ってきた。

「大丈夫な訳ねえだろ、このくそチビ。いてえよ、ったく!もっと気のきいたこと聞きやがれ」

「んだと!?人が心配してやりゃ…って、おい、んなことより、怪我は?!」

 へたへたと座り込んだ聖は、心配して駆けつけた大輔を相手に一頻り悪態をつくと、思い出したようにそれを仲間の眼前へ差し出した。

「……」

 予測していたのか、単なるまぐれか。

「なんとまあ…」

 聖の差し上げた左の掌には、カラーの右腕の指が貫通するほど深く突き刺さっていたのである。だが、このおかげで聖の腹部には傷一つ無く、大事には至らなかったという訳だ。

「…悪運の強え奴」

「日頃の行いが良いと言ってくれ」

 しかし痛いのには代わりがないらしく、軽口を叩く聖の瞳はちょっぴり涙目だった。

「抜いてやる。おもいっきり痛くして」

「うわぁっ!よせっ!やめろっ!!自分で抜く!!!」

「うるせ。心配させやがって。反省しろ!」

 大輔は聖の無事がわかると安心したが、反動的に怒りが込み上げてきたらしい。嫌がる聖を足で抑えつけ、半ば無理矢理、それも力任せに、深々と突き刺さった腕を引き抜いた。

───そして、

「ジャレるのもいい加減にしとけよ、二人とも」

「消毒も忘れずにね」

 透と冴月が、ほのぼのと見守る中。

「あげいうえおああーーーーっ!!!」

 どこまでも続く荒野に、聖の絶叫がエコーを引いて響き渡ったのであった。



「…なに?夜叉族が?」

 その日の夕刻、自室で休んでいたメーガナーダの元へ、カラー率いる夜叉族軍の全滅が告げられた。王城の外では二つの太陽がすでに地平へその身を没し、代わりに巨大な白い月が濃紫の空に君臨している。

 メーガナーダは知らせを聞くなり、城の下層へ副指令を努める弟ヴィビシャナを呼び、今後の戦略と作戦について話し合った。

「あまり手駒は動かせん…人界へ戦力を送りすぎた。それにしても、奴等は方針を変えたらしいな?」

 聖獣は六千年前までの戦闘では、羅刹とそれに属する一族を世界の奥地へ追いやるだけで、滅ぼそうとまではしなかった。

「だが今回は違う。現に奴等はすでに夜叉族を滅ぼしてしまったのだからな」

「半分は父上がやったんですよ」

 悲痛な顔でヴィビシャナが反論する。彼は性格異常者の多い羅刹族の中では、比較的まともな性格と常識とを持ち合わせていた。『羅刹の良心』というのが、そんな彼に与えられた別名である。

「それが最初からの約束だ。仕方あるまい?…夜叉の馬鹿息子めが。四人のうち一人でも倒しておれば、今後の戦いが楽になったものを…」

 思い出したように、メーガナーダが憤慨する。

「にしても惨いですよ。夜叉族の村に残された女子供まで虐殺するなんて…」

「…なにが言いたい?」

 険悪な雰囲気が二人の間に漂った。

「私はただ、あまり過ぎた恐怖心を配下に与えるのは、結果として父上のためにならないと、そう言いたいだけですよ」

「ふん。臆病者が。配下の者だと?あんなもの、我ら羅刹の捨て駒に過ぎん。気遣いなど無用だ。反逆するなら皆殺しにする…ただそれだけの事ではないか」

 どうやら兄弟の間には、埋めがたい溝が深々と穿たれているようだった。その上この溝は、あまりにも深く、広すぎて、おそらく生涯二人が、相手を理解し合う事など有り得ないと思われた。少なくとも、互いが生きている間は、決して。

「話が逸れた。お前の戯言はまた今度聞いてやる」

「結構ですよ。どのみち理解などして頂けませんから…それより、四聖獣ですね」

 ヴィビシャナは端正な顔に、微笑みを浮かべて兄と向かい合った。途端にメーガナーダが、嫌そうな表情を垣間見せる。父王と生き写しの容姿を持つ彼にとって、コンプレックスを刺激する弟のこの顔も、弟を嫌いな理由のひとつなのだ。

「どうします?今度は誰を差し向けるか。兄上には、何か考えがあるんじゃないですか?」

「ふん。もう、決めてあるさ。当然な」

 メーガナーダは窓を開いてテラスへ出ると、城下のとある一角を見下ろした。夜空の月が照らすその森の一角には、居城を追われた真竜族の現在の王宮がある。

「裏切者を使わせてもらうのさ」

 白銀の月光に、酷薄な微笑が浮かび上がっていた。



 炎が揺れていた。

 熱く燃える赤い光の中に、同じ光景を見ていた四人は、長い旅路による疲れのためか、皆、深い眠りに落ちていた。

 否。たった一人、後悔を胸に残した、聖を残して。

「済まない…俺が、俺の…せいで」

 聖は目を閉じて横になっている透へ、聞こえるか聞こえないかの小声で、初めてその後悔の胸の内を告白した。

「俺が付いていながら…俺が、側にいて…あいつを死なせて…」

 そう。あの時からずっと、彼は後悔し続けていたのだ。今まで誰にも、それを言えなかったけれど。でも、ずっと、ずっと、心で後悔し続けてきたのだ。

「済まん…透…っ」

 そして許せなかった。側にいて、守ると約束したのに、守り切れなかった自分を。何よりも大切な弟の身を『任せる』と言ってくれた透の信頼を、最悪の形で裏切ってしまった己の不甲斐なさを。

「気にするな…」

「透…?」

 眠ったとばかり思っていた透が、そんな聖の独白に返事を返した。『聞かれていた?!』そう焦った聖は、慌てて己の情けない半泣き顔を取り繕う。

「龍二はお前が好きだった」

 だが、透は一向に目を開けるような素振りを見せず、横になった体もそのままにして喋り続けた。聖を気遣っているのか、まるで、『これは寝言』だ、とでも言うように。

「兄である俺と同じように、龍二はお前の事を慕っていた。そんなお前がいつまでも自分の事で苦しむのを、あの子は決して喜ばない」

「透…」

 パチリ、と炎の中で木がはぜた。そして、張り詰めていた何かが、聖の胸から抜け落ちる。

「だから…もう、気にするな」

 パチパチとはぜる木の音に混じって、聞こえてくる小さな嗚咽。痛いほどの、透の優しさ。それはいつまでも、いつまでも、聖の心に響いていた。



 巨大な月が、笑っていた。彼らを、嘲笑うように。

その、ほの白い月光の中に、女の姿を浮かべたまま。

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