第3話

 紺色の空に、無数の星が輝いていた。闇に沈む地平線の向こうから、巨大な月も顔を覗かせている。今夜の砂漠は、やけに明るかった。昼間の暑さをさけて活動する小さな生物達も、そこはかとなくこの空の明るさに脅えているような気がする。


 人界を出発して、すでに半月が過ぎていた。


 最初道程は砂ばかりの平野だったが、今はごつごつした赤い岩の山岳地帯が広がっている。ここから先は、旧い時代に大きな川が造った大渓谷だ。これまでより旅が楽になるかと言うと、そうでもないが、少なくとも日陰と飲料水には困らなくなるだろう。

 四人は大きな岩山の影に火をおこすと、その側に思い思いの格好で座り込んだ。昼間の疲れからか、誰も1言も口をきこうとしない。

 

 この時、彼らは炎の中に同じ物を見ていた。

 血の色に赤く揺らめく炎が、深い悲しみの記憶を呼び覚ます。

忘れ得ぬ、あの日の光景とともに…。



 青い空が見えた。

「…え??」

 大輔は、一瞬なにがどうなったのか判断できなかった。視線をぐるりと巡らせてみるが、そこは何度見ても元のままの屋上である。

「ええ?」

 どこも壊れていないし、揺れてもいない。第一、さっきまで自分はA棟の3階で、階段がなくて立ち往生していた筈なのに、いつの間にか屋上へ戻っていて、しかもこの何事もない風景はいったいなんなのだろう。

「気がついたか大輔。無事、脱出できたみたいだな」

「げん…透!これはいったい…」

「着いてこい。自分の目で確かめるんだ」

 そう言って透は、不満そうな大輔を連れて屋内に戻った。

「自分の目でって言っても…何も無いから、わかんねぇんじゃねえか」

 実際、そうして廊下を歩いてみても、惨劇の後などかけらも見当たらないのだ。先刻までは確かだった現実───壊れた壁や割れた窓、廊下には破片や鉄材、剥がれた壁材の塊などで、まともに歩けもしなかったというのに。

「夢…にしては…変、だよな?」

 狸にでも化かされたような気分で、大輔は小さくそう呟いた。なにしろ、歩きながら見る教室の様子にも異常はなく、ただ普段通りの授業風景が広がっているだけなのだ。

 どこにも、なにも、地震の被害などない。

いや───無いように、見えた。


 異常に気が付いたのは、しばし歩いた後だった。


「声が聞こえねえ…?静かすぎる。それに…どうして俺達に気付かないんだ?」

「やっと解ったか?教室に入って、人間に触ってみろ」

 透に促された大輔は、そおっとドアを開いてみた。室内は無音で、奇妙なほど人の気配がない。あまりの静けさに大輔は、ふと、蝋人形屋敷にでも入ったような錯覚を覚えた。

「みんな…どうしちゃったんだよ?」

 手近な人間の頬に触ってみたが、ぴくりとも反応しない。目は見開いたままで、口は半開き、体は堅く硬直しきっていて、まるで生きたマネキンのようだ。

「死んではいない。いや、放っておけばいずれ死に至るだろうが…。彼らの精神は、まだ、幻の地震の中にいる」

「まぼろし…あの地震が、幻覚?」

「幻覚というのとも少し違うな。あれは精神世界の現実だ。あの幻の中で死んでも、その人間の心が『死』を認めなければ、そう簡単に死んだりはしない…だが」

 透の顔は、相変わらず無表情に近かったが、その細めた瞳の中にだけは悲痛な色が滲み出ていた。それがいったい何を意味するのか。途切れた透の言葉の先に何があるのか。大輔にも十分過ぎるほど理解できた。

「どうすりゃ助けられるんだ?」

「それは…」

『簡単だぜ。魔王をやっつけりゃいいのさ』

「っ!あ、聖?」

『あーっ。…ったく、ひでえ目にあったぜ。元気か?くそチビ』



 深刻な会話に割り込んできた聖の心話は、場違いに明るく、いつもに増して軽かった。

「うちち。いい男が台無しだぜ。ついてねえなあ」

 聖は小等部校舎の玄関ホールで目が覚めた。

 ちょうど靴を脱ぎかけていた所で、幻震の中へ引きずり込まれたらしい。気が付いた時聖は、したたか顔面を打ちつけた格好で、うつぶせにホールに倒れていた。

『今後の事はともかく、早くこっから脱出しようぜ?俺は、これから龍二を迎えに行ってくるからさ。…あ、どこで合流すりゃ良いかな?』

 透と大輔の陰鬱な会話に、あえて明るく茶々を入れた後、聖は当初の目的通り、龍二のいる3階を目指して廊下を大股に歩いていた。

『正門で落ち合おう。10分で来れるか?』

『オーケー。10分後に正門だな』

 心話で簡単な打ち合わせを済ませると、聖は階段を3段飛ばしで駆け昇った。そして3階へ着くと、すぐ6の4と書かれたクラスのドアを開く。 

「小龍…!」

 龍二は椅子の横に倒れていた。すぐ側には姫を守る騎士よろしく、小龍と呼ばれた小さな生き物が寄り添っている。

 それは、一見すると毛色の変わったただのリスのようだったが、実は神霊力を持つ『召喚獣』と呼ばれる異生命体だ。病弱な弟の身を案じた透が、常に側に付けておいた『護り』なのである。

「偉いぞ、小龍。ご苦労さん。…おいっ、龍二!しっかりしろ」

 しかし、たとえこうした『護り』が側にいて、『玄武』透の弟であったとしても、龍二はただの普通の人間の子供だ。他の人間達同様、精神世界に捕まったままという可能性も高かった。が、

「う…ん」

 どうやらそれは杞憂に終わりそうだった。

「龍二…」

 何度か軽く体を揺さぶると、龍二の意識が戻る気配がして、ゆっくりと両目が開いたのだ。

「よおし、気が付いたか。さすが透の弟だ。俺が解るな?」

「あき…にい」

「おし。この美男の顔が判別できりゃ上等!立てるか?」

 龍二は大きな黒い瞳をぱちくりさせて、不思議そうに辺りを見渡している。

「僕…どうして。天井が落ちてきて…地震が」

「夢だよ、夢。あとで詳しく教えてやる。ほら」

 聖はわざと事実を伏せてそう言うと、少しよろけた龍二を手を差し出して支えてやった。幾分ショックは残っているようだが、彼の精神は意外にしっかりとしていた。聖だけにでなく、喜んで肩に飛び乗った小龍にも、にっこり微笑んで見せている。

「脱出するぞ。正門で透も待ってる。だけどいいか?俺から絶対離れるなよ?羅刹が襲ってくるかも知れんからな?」

「らせつ?…あ、あきにい…あれ…」

 龍二の白く小さな手が、震えながら窓を指差していた。黒い瞳は、間近に迫った恐怖に、大きく見開かれている。 

「…ち、遅かったか」

 とっくに気配に気付いていた聖が、挑むような視線で振り向くと、そこには無数の黒い塊が蠢いていた。まるで夜のように窓という窓を埋め尽くし、嘲笑うかのような瞳を赤く光らせる、黒くねっとりした不定形の生物。


 次元の門を越えて、人界を襲った悪鬼。『羅刹』である。



「どうやら東の青龍門から、羅刹がこぼれ出たようだな。気を付けろ、大輔。こいつらは俺達を殺して、残りの封印も解くつもりだ」

 いまや彼らは、完全に包囲されていた。

「数は多いけど、ほとんど人型を維持できない位の、力の弱い奴ばっかだぜ?こんなのが束になってかかってきたって、この大輔様にかなうもんかい!」

「…油断するな。どこにいるか解らんが…1匹だけ強力な奴がいる」

 2人の会話からも解る通り、力の弱い羅刹は人界ではっきりした形態を保てない。それは封印と次元という2重の壁を越えるだけで、脆弱な力の大半を消耗しきってしまうからだ。

現に今、透達の目の前にいるのは、どれもアメーバのような物か、ぼんやりした煙のような物ばかりだった。

 だが、中にはそんな壁をものともせず、人界において異能力を発揮する羅刹も存在する。

「族長クラス…か」

「もしくは、例の一族、だね」

 透の優れた感応力は、どこかに潜む強大な魔力の持ち主を、その範囲に確かに捕らえていた。恐ろしく不吉な予感とともに。

「取り敢えず目の前から始末しよーぜ?」

「…くる」

 ゆらり。静かに這いつくばる、黒い絨毯が動いた。



「玄武、白虎、朱雀、ここにいるのは3匹だけか。すると、新しい『青龍』は、やはりさっきの場所に…?」

 闇色の長い髪が、人界の風に激しくなびいていた。

 校舎をはるか足元に見下ろして、何もない空に浮かぶ異様な男。彼は目を閉じたままで透ら3人の姿を確認すると、どこか満足そうに微笑みを浮かべた。

 その男は、閉じた瞳で全ての物を観通すという、『夜叉』一族の長。そしてこのたび、幻震に乗じて人界を襲った、羅刹先発軍の指揮官…。


───名を、『夜叉王』シャニといった。


「3匹ともなかなか美しい。それに強い。まだこの目にはしていないが、青龍など、それは美しい少女だと聞いた。私の部屋にはぜひ4匹並べて飾りたいものだが…さて」

 シャニの閉じた瞼の裏には、羅刹と戦う3人の姿が、まるでテレビ画面のようにはっきりと映し出されていた。

 

 羅刹王は今も多くの魔族を従えているが、彼の率いる夜叉一族は、その中でも極めて強大な魔力と、最も残忍な性質とを合わせ持っていた。

 そのうえ王たるシャニには、もっと困った性癖───美に対するこの凄まじいばかりの執着───があり、それが夜叉本来の性質とあわさると、羅刹王でさえも手を焼くほどだった。

 そんな彼の『目』は、1人1人を嘗めるように検分していたが、ふとその視線が、『白虎』聖の側に立つ龍二の姿を捕らえた。

「これは…?」

 小さな疑惑とそれにも増して大きな歓喜が、端正だが酷薄そうなシャニの顔に、複雑な表情を描き出す。空間を透かし見る視線の先には、逃げ惑う美しい小鳥の、可憐な姿があった。

「美しい…しかしこれは?なぜ、こんなところに…」

 思わず口を突いて出た疑問とは裏腹に、シャニの視線は吸い付いたように龍二から離れない。次第に彼の口元が、いやらしい薄笑いに歪み始めた。

「まあ良い。素晴らしいチャンスだ」

 忍び笑いが消えると同時に、夜叉の黒い姿も、中空に溶け去るように消えていった。



「ええい、くそっ、どこから涌いて出てくんだ!?」

 10体づつまとめて吹き飛ばしても、怯まず次々と襲いかかってくる羅刹に、いい加減うんざりした聖が大声で喚いた。

 2階への階段の降り口で最初の攻撃を受け、それから数に押されてどんどん後退を余儀なくされたので、今や2人は校舎の中央部分で立ち往生。その上、廊下の前後を羅刹に挟まれ、まさに絶体絶命のピンチであった。

「龍二、こうなったら、強行突破するっきゃねえな!」

 自分1人でならともかく、戦えない龍二を庇いながらここから無事に脱出するのは、もはや不可能に近い。透や大輔に救援を頼んでも、おそらく向こうもこちらと同じ状況に違いないから、2人ともそう簡単に助けに来れないだろう。

 かくなる上は龍二を抱え、3階の窓から決死のダイビングを敢行するしかない。そう、ほとんどヤケクソとしか思えない決断をすると、聖は素早く片手で龍二を小脇に抱え込んだ。

「よおしっ!」

 しかし、いざ窓を蹴破るぞ、という段階になって気付いてみると、周囲にあれほど群がっていた羅刹が、なぜだか急に影も形も見えなくなっていたのである。

「…?どういうことだ?こりゃ…」

「今の内に逃げようよ、あきにい」

「それもそうだが…罠でもあるんじゃねえだろうな?」

 聖は疑いつつも、とりあえず龍二を抱えたまま階段へと向かった。すぐ後ろを小龍が追って走る。しかし2人と1匹が、階段へ差し掛かるのを待っていたかのように、

「慌てることはないでしょう?せっかくこちらが、ご挨拶しようとしてるのに」

 階段を背にした黒い影がそう言った。

 その赤く光る目と目があったとたん、腕の中の龍二の体がビクリと震えた。おそらく1個の生命としての本能が、黒い影を『危険』みなしたのだろう。

「誰だ、てめえ。『挨拶』だと?…人間みたいな口ききやがって」

 聖の知覚には龍二の本能などとは違って、もっとはっきりした男の正体が見えていた。名までは知らぬが、男はかなり上級の羅刹だろう。他の雑魚とは違うしっかりした人型と、内に秘めた強大な魔力とが、明らかにそれを証明していた。

「てめえは誰だ。邪魔するとぶっ殺すぞ」

 そうと知った聖の全身に殺気がみなぎる。

「おお…下品な言葉ですね。せっかくの美貌が台無しですよ」

「俺が美しいのは知ってるが、化け物の…しかも野郎なんざに褒められたって嬉しかねーよ。いいから、そこどけ」

「解りましたよ。通してあげます」

 言うが早いか男は己の体を横に移動させ、1人がやっと通れるだけの道を聖に譲ってしまっていた。

「はえ??…変な奴」

 あまりのあっけなさにかえって聖は警戒心を強め、床へ下ろした龍二を背中に庇いながら男の側を通り抜ける。その間、聖の視線は油断なく、一瞬たりとも男の姿から離れなかった。

 そうして男の背後まで階段を降りた時、一息に1階まで駆け下がろうと、聖は右手を背中側へ回した。が、しかし、

「…っ!龍二?!」

 龍二の手を掴もうとした聖の手は、彼の意に反して空を切った。驚いて振り返ってみると、そこにいるはずの龍二の姿がない。

 慌てて聖が再び男の姿を視界に捕らえると、そこに、嫌らしい薄ら笑いを浮かべた男と、骨ばった手に手首を掴まれて青ざめる龍二の姿とがあった。

「貴方の名前は『龍二』というのですか。ぴったりですね」

「は、放せ、放してよ!」

「龍二!!てめえっ、汚え手を放しやがれ!!」

 男は奪い返そうと伸ばされた聖の手を、後ろへ軽く跳躍することで見事にかわした。おまけにその一瞬の間に、龍二の腰をしっかりと抱え込んでいる。

「乱暴はいけませんね。貴方はもう結構ですよ」

 長い黒髪を揺らして男───それは夜叉王シャニであった───は、聖に人指し指を向けて、それを丸く振って印を切った。すると、

「うわあああああっ!?」

 途端に浮遊するような感覚が聖を襲い、直後、轟音と共に階段が彼の足元から一気に崩れ、瓦礫と化して抜け落ちた。

「あきにいーーっ!?」

 あまりにもとっさの事で、さすがの聖も避けようがない。結果、彼は悲鳴だけをそこに残して、体は瓦礫と共に下層へと落下していったのだった。

「あきにいっ!!」

 驚いた龍二は、無我夢中でシャニの手を振りほどこうとした。しかし、シャニの腕は執拗なほど強く龍二の体を捕らえており、非力な彼の力などではびくともしなかった。

「あき…あきにい…っ」

 それでも龍二は、しばらくジタバタと手足を振るって抵抗し続けていたが、シャニの圧倒的な力の前にそれらがすべて無駄に終わると、今度は不安げな視線で階下の聖を探し始めた。

 渦巻く凄まじい砂埃。やがて薄れてきたその中に、階段の瓦礫で潰されている聖の姿があった。

「あきにい!」

「くそ。痛えぞ、こら」

 ちっとも痛くなさそうな口調で一言ぼやくと、聖は悠然と無事な上半身を起こしてみせた。それから龍二を安心させるために、いつもの調子でニヤリと笑ってみせる。しかしそんな彼の下半身は、大きな階段の残骸で無惨に潰されていた。

「龍二、俺は大丈夫だ。待ってろ、今助けてやるからな!」

「…あきにい」

 痩せ我慢もここまでくれば立派だろう。だが、強がってはみたものの、やはり落下の衝撃と、下半身に乗っかった階段の瓦礫とは明らかに大きすぎた。龍二を安心させるためにああは言ったが、実際は自分の方こそ助けが欲しい心境である。

「くそ…っ!」

 数10キロの重さと残骸とがからまって、聖の両足はそう簡単には外れそうになかった。

「おやおや。大変ですねえ…助けたいですか?」

「ひっ…あうっ!」

 間近で聞こえた声に驚いて振り向いた瞬間、シャニの片手が蛇のように伸びてきて、龍二のか細い首を容赦ない力で捕らえた。そのままの状態で宙吊りにされ、整った小さな顔に苦痛の表情が浮かぶ。

「良いですね。その顔。私は美しいものが好きなんですよ。特にこうして苦しんでる表情が…。ああ…ようやく貴方は私の物ですよ****様?」

「?────っ?!」

 不意に、聞き慣れない言語がシャニの口から飛び出したが、龍二にはまるで理解できなかった。そもそも満足に呼吸できないこの状態では、そんな事を気にしている余裕もなかったのであるが。

「どうです?白虎…貴方も素晴らしいと思いませんか?ああ…そこからでは見えませんか」

 悦に入って喋り続けるシャニの顔は、恍惚としてほとんど涎を垂らさんばかりであった。



「こらあ!!変態っ!やめろっ!気色悪い!いい加減にしねえと吐くぞ、こらあっ!!」

 階下では身動きできない聖が、大声でシャニの事を罵倒しまくっていた。怪我が思いのほか酷くて動けないから、かわりに悪口雑言でシャニを怒らせ、関心を龍二から自分へ移そうとしたのである。

 しかし、そんな聖の健気な努力も、シャニにはまったく通用しなかった。

「くそっ!シカトしやがって!!…っ、せめてこの塊を破壊できれば…」

 両足に乗った階段の残骸は巨大かつ重く、無力な人間の力ではうんともすんともしないのだ。

「────ちっ!」

 聖はためしに神霊力を使って脱出を試みたが、頭を打ったせいかうまく残骸を破壊できない。巨大なそれはほんの少し削れただけで、依然として彼の両足を束縛しているのだ。

 もはやあとは祈るしかなかった。

「ちくしょおおおおおっ!透っ大輔ぇっ!どっちでも良いから早く来い!!!」

「どっちでも良いたぁなんだ。助けてやんねえぞ」

 必死の祈りは、さっそく聞き届けられたらしい。

「だ…大輔ちゃん。助けて」

「誰が大輔ちゃんだ。気色わりい」

 急に猫撫で声を出して甘える聖を、それでも渋々助けてやりながら、大輔は心の底から不気味がる。

「無事か。聖…っ!!」

 2人の様子を他人事のように見ていた透が、壊れた階段上の惨劇に気付いてその顔を豹変させた。無表情に近い冷えた表情が、まるで鬼神のように憤怒を帯びたのである。

「龍二…」

 階段の跡形もなくなった2階の床で、魔物に捕らえられ、喘ぎ苦しむ弟、龍二。それは、いつもは冷静すぎるほど冷静な透を激怒させるには、充分すぎる光景だった。

「貴様っ!!」

「待てっ!透!」

 聖が止める暇もなく、透の体は跳んでいた。凄まじい跳躍力。それはただのひと蹴りで、2階の床をも飛び越えるかと思われた。───が、

「うわっ!?」

 シャニに掴み掛かろうとした透の手は、直前で何か透明な壁へぶち当たって弾き返された。

「透っ!」

 夜叉王シャニの作った『壁』に、自分の放った『神霊力』ごと弾き飛ばされた透だが、そこはさすがに四霊の一。何もない空中で軽くトンボを切ると、ふわりと音も立てずに1階の床へと着地した。

「素晴らしいですね。玄武。ふふ…この少年、そんなにも大切なのですか?」

「貴様…!今すぐその汚らしい手を放して、俺の弟を返せ。さもないと…殺す!」

 地鳴りのような声で宣言する透の顔は、完全に形相が変わっていた。付き合いの長い聖と大輔でさえ、こんな彼を見るのは初めてである。

「弟…?ハハハ。何も知らないで、良く言いますね。しかもこの私を殺すですって?…では、早く殺しにいらっしゃい。急がないと…ほうら」

「……っ!!」

 狂った哄笑をあげて、シャニはさらに龍二の首を絞め上げた。

「り…龍二!!」

 悲痛な声を上げたのは大輔だった。龍二の事を誰よりも案じていた透は、すでにこの場には存在しない。

 彼は殺気のこもった目でシャニを睨んだかと思うと、その言葉を最後まで聞こうともせずに、飛ぶような速度で走り去っていたのである。

「大輔っ!なにボケっとしてんだ!透を追え!東階段だ!」

「う…わ、解った!」

「急げよ!俺もすぐ行く!!」

 普通どこの学校でも同じだが、この校舎にも西と東に1つずつ階段がある。1つはシャニによって破壊されたが、もう1つは無事のはずだった。透はそこへ向かったのだ。ようやく瓦礫の下から脱した聖にそれを指摘され、大輔も慌てて透の後を追う。

 しかし、この間にもシャニの手は、容赦なく龍二に苦痛を与え続けていた。

「あ…くっ!!」

 小さく華奢な体が、酸素を求めて大きく反り返る。限界まで開かれた口の端からは、透明な垂液が幾筋も滴り落ち、充血し紫に膨れ上がった舌が、だらしなく外にはみ出した。

 シャニはじわじわと力を込めながら、苦しみあがく龍二の表情を恍惚として見つめていた。

「くそっ!龍二っ」

「あ…きに…」

 それは、普通の感受性を持った人間なら、誰でも目を背けたくなるような光景だった。怪我をして動けない聖だけは、見続けなくてはならなかったけれど。

「ほらほら。目を逸らさないで白虎。龍二君の美しい死に様を、見ていてやらないとね」

「ざけんな!この変態野郎!!龍二を返せ!」

 聖はやけくそで神霊力を使った。しかし的が定まらない。さらに知っている限りの悪口雑言を駆使して罵倒しまくり、果ては転がっている石や破片を手当たり次第、投げたりぶつけたりしてみたが、もとよりそんな攻撃が通用するはずもない。

 もっとも、聖もそんな事は百も承知であったのだが。

「うるさい獣ですね、貴方は。しかも下品で。…そんな小細工をして、玄武達から私の注意を逸らそうとしても無駄というものです」

「………っ!」

 聖の行った子供の喧嘩のような数々の手が、透達から目を逸らすための陽動である事を、シャニにはとっくに悟られていた。

「ふふふ…まあ良いでしょう。さて、ここから先は、私1人で楽しむ事にしましょうね。美しい龍二君が汚れていく姿…素敵ですよォ」

「あっ、ま、待て!このぉ!!」

 汚物でも見るような目で聖を見下した後、シャニは左手に龍二の首を掴んだまま、1階から見えない位置へ移動した。

「くそう!」

 見えなくなった事が、余計に聖の恐怖心を募らせる。ここからでは龍二の姿も、夜叉王シャニの姿も、2階の床が邪魔をして見えなかった。かすかに声が聞こえるのみだ。

「早く…早くしろ!透!!」

 激しく咳き込む龍二の声。彼を護ろうとしたのであろう、小竜の断末魔の悲鳴。そしてシャニのものらしい声が、何事かを喋っていた。話の内容は聞こえなくとも、聖はその声に背筋の凍るような悪寒を覚えた。


 次の瞬間。


「兄ちゃん!兄ちゃん!!」

「…りゅ…」

 声が出ない。音を立てて頭から、一気に血の気が引いた。立て続けに起こる、絹を裂くような龍二の悲鳴。びしゃっ!という、何かが弾ける不吉な水音。

 そして

「うああああああああっ!!!」

 2階の床から流れ落ちた、鮮烈な赤と、悲鳴のような透の叫び。

「り…龍二」

 聖には解った。今いったい何が起こったのか。見えない場所に、今どんな光景が広がっているのか。たとえ見ることができなくても、充分すぎるほどに、解ってしまったのだ。


 そう…透はついに、間に合わなかったのである。

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