第297話 ささやかな退職祝い

 20:45 居酒屋【みき亭】


「うーっす」

「おーう、卓也。いらっしゃ…って誰だよそのかわい子ちゃんはよ…!」

「ちょっとね…」


 まだ夕飯を食べていないという夜勤パトロール中の志津香を連れて、とりあえず行きつけの居酒屋に入ることにした俺。

 そして、やはりというか何というか。知り合いの大将は入店1秒で志津香に食いついたのだった。


「おいおい卓也よぉ…。デートの締めがウチみたいな店たぁ、愛想尽かされて振られるぞ?」

「ちげえねえや」

「がっはっは!」


 大将が自分の店にも関わらずこき下ろすと、常連がそれに乗っかりひと笑いが起きる。

 平日の夜から賑やかなことだ。


「自分の店を悪く言いすぎだろ…。テーブル席、使うよ」

「おーう」


 酔っ払いどもの盛り上がりを軽く流し、俺は空いている席を指さした。

 店内は入り口の引き戸を開けて左側にカウンター席が8席。そして右側が仕切りで区切られた、小上がりの四人がけ席が3つという間取りとなっている。

 チェーン店のような広さは無いが、その分大将の温かさと落ち着く雰囲気があるので、ここは結構気に入っていた。


「コートかけるよ、志津香」

「ありがとう」


 俺と志津香は靴を脱ぐと座敷に上がり、向かい合うようにして着席した。

 目の前の志津香は一見すると普通のレディーススーツにも見える制服を着ており、言われなければ会社勤めのOLに見えたりする。テレビでPRしている美咲とは違った雰囲気の装いだ。

 若い彼女が着ていることもあり、新卒の女子社員に見える。


 着席してから少しすると大将がこちらまでやってきて、おしぼりと割り箸をそれぞれの目の前に置いてくれた。


「いやー、にしても。マジでカワイイ娘連れてきたなオイ。こんなカワイイ彼女いたんなら早く紹介しろよなー」

「付き合ってないし、掃き溜めには連れて来たくなかったんだよ」

「てめ、言うじゃねーか」


 キツめの冗談も笑って受け止める大将。

 そして志津香に注目しているのは大将だけじゃなく、カウンター席に座る常連の中年男二人もだ。

 日本酒片手にまじまじと彼女を見ている。


 志津香は美咲のように皆に笑顔を振りまいて…なんてキャラではないが、目を引くくらい美人なのは間違いない。

 席に座れば、まさに掃き溜めに鶴とはこのことだろうというのが分かる。

 もう少し口が達者なら美咲と一緒にテレビに出て、一躍時の人となっていたのは疑うまでもない。

 だが、このいつもすまし顔な所が彼女の良さなんだけどな。


「色々ある」


 俺が彼女の良さを考えていると、志津香はメニューを開き興味深そうに見ていた。

 こんなところに来たのは初めてかもしれないな。皆で定食屋とかファミレスはたまにあったけど。


 よし、ここはいい感じに教えてやるか。

 孤高のグルメ道を…。


「何か気になるメニューはあったか? 退職金も入るし、今日は奢っちゃうゾ」

「これ」

「んー?」


 志津香が指さした先には、毛筆で【死神】と書かれている。

 島根県産の日本酒だ。


「カッコいい」

「これは…お酒だ。志津香は勤務中だからダメ」

「卓也だけズルい」

「ズルいって…」


 俺はもうノージョブだからなぁ…。


「冗談」

「そうか…」

「そう」

「……………そうか?」

「そう」


 名残惜しそうにメニューを見る志津香。

 酒がそんなに飲みたいのか。


「ちなみに酒は飲んだことは?」

「ない」


 瞬間俺の脳裏に浮かぶ和久津の絡み酒の光景。

 そして駆け巡る脳内物質っ………!

 β-エンドルフィン……!

 チロシン……!

 エンケファリン……!

 バリン…!

 リジン、ロイシン、イソロイシン……!

 は関係ないか。


「おじちゃん、烏龍茶ふたつねー!」

「あー? 珍しいもん飲んでんなー。このあとに備えてノンアルってかー?」

「うっせ。いいから早くお通し持ってきてくれよ」

「焦んなってー」


 すぐに下ネタに持っていこうとするオヤジを流し、俺は早く腹に飯を入れるべく急かした。

 すると程なくしてジョッキに入った烏龍茶が2つと、小鉢が目の前に置かれる。

 これは、アレだな。


「カレーマカロニサラダ?」

「おう。好きだろ?」


 大好物です。

 いや、ここの料理は何でも好きだけど。


「頼んでない」


 頼んだ飲み物以外に品物が運ばれてきたことで、志津香が疑問を述べた。

 これがジャパニーズ トラディショナル お通し オーダーだと知らないようだな。


「これはお通しって言って、居酒屋なんかで頼まなくても最初に出てくるちょっとした料理のことを指すんだ」

「そうなの?」

「ああ。大体みんな酒を最初に頼むから、料理を頼まなくてもつまみながら飲んでねっていう、店側の粋なはからいだな。金は取られるけど」


 関西じゃ突き出しなんて言い方もするようだ。

 ここに力を入れている居酒屋、嫌いじゃない。でも冷凍枝豆でも嬉しい。

 つまり何だっていいのさ。


「ホラ、食ってみ」


 俺は志津香に箸を渡し、早く食べるよう促してみる。

 するとキレイに箸を使い小さい口にマカロニを1つ運んだ。

 そして…


「おいしい」

「だろぉ」


 志津香が満足したのを確認し、俺も口に運ぶ。

 すると柔らかいマカロニが、カレーとマヨネーズを纏いながら舌にダイブしてきた。



〜瞬間口の中にインドとイタリアの風が流れた〜



 あれは…


 スペイン広場の奥にタージ・マハルが見える…


 そしてあの映画のように恋人たちが階段でクルフィ(インドのアイス)を食べながら優雅なひとときを過ごしていた。


 と思ったらバルカッチャの噴水前で大勢がナートゥダンスを踊り始めたぞ…!

 インド映画によくある展開だ。


「相変わらず旨いねぇ」


 カオスな心象風景が頭の中を駆け巡るくらい、2カ国の味が見事にマッチしていた。

 買ったサラダにスパイスをまぶしただけではない、大将手作りのサラダ。

 お通しだけなんて勿体無いくらいのクオリティだ。

 業務マーケットに1kgのやつで卸してくれよ。


「飯の注文は?」


 お通しに舌鼓を打っている俺に大将が声をかける。

 まだ飲み物しか頼んでいなかったな。


「志津香は食べたいものあるか?」

「卓也に任せる」

「そっか。んじゃ適当に頼むわ」


 チョイスを託された俺は、好きなものをここぞとばかりに頼んだ。


「卵焼き大根おろし多めと、梅水晶と、イカの一夜干しと、焼き鳥は…鶏ももとつくねがタレで、ぼんじりと手羽串が塩で!」

「あいよー」


 とりあえず食べたいものを詠唱し終えた俺は、自分のジョッキを手に持つと志津香の方へ傾けた。


「一番大事な儀式を忘れてたわ」

「ん…」


 居酒屋の経験に乏しい志津香も俺が何をしたいのか察したようで、烏龍茶入りジョッキをこちらへ差し出す。


「おつかれー」


 グラスが軽く打ち合い、キンという音が微かに響いた。


 ふたりだけの退職祝い。


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