第265話 強い子に育ってほしくて

「食堂長さん」


 俺は修練場から立ち去りかけていた食堂長の背中に声をかけた。

 するとゆっくりとこちらを向き、対応してくれたのだった。


「おう。トレーニングはもういいのか?」

「はい。それで、貴方を見つけたので感想を言おうと思って」

「感想?」

「さっきの、天ぷらの」

「ああ…」


 そういうことか、と納得した様子の食堂長。


「どうだった?」

「物凄く美味しかったです。揚げたてサクサクなのと、肉厚ジューシーな食べ応えで」

「そうか」

「もしメニューに出すなら、毎回注文を受けてから揚げるんですか?」

「一応な」

「そりゃあ贅沢ですね」


 食堂のいちコーナーの単品メニューで、まるで専門店のような提供の仕方をしてもらえる。

 ここの職員は果報者だな。


「この娘とシェアしたんですけど、すごく美味しそうに食べていましたよ」

「美味しかった」

「………そうか」

「…?」


 無表情に感想を伝える志津香と、同じく無表情に感想を受ける食堂長。ある意味似た者同士の二人がなんか微笑ましい。

 が…悪い気はしていないのだろうけど、イマイチ表情が読み切れない。恐らく普段からこうだとは思うが。


 しかし志津香が話した瞬間、少しだけ変な間があったような。何かあるのだろうか…

 俺は好奇心で、もう少し踏み込んでみる事にした。


「食堂長さん」

「…?」

「食堂のメニューって、どれも食堂長さんが手掛けているんですよね?」

「ああ。レシピ…と言えるかは分からんが、一応メニューを考案して、作り方を他の人に指導して…って感じだな。それが?」

「いえ。鴨南蛮ひとつとってもあのクオリティにこだわり、あと味にそぐわぬ低価格じゃないですか。それでもしかして食堂長は昔、有名店とかで働いていたのかなって思って…。そこで仕入れ先とか、料理のノウハウとか身に着けて」

「それは…」

「…こう言ってはなんですが、外部の人間が入れない、いち食堂で出て来る料理のクオリティではないと感じました」


 俺が食堂を利用してみて感じた事を素直に食堂長に伝えてみる。

 学校や企業など食堂を有する団体や法人はごまんとあるが、こだわりや味自慢の食堂は値段もそれなりで、一般客を受け入れていたりする。(一般客は社員の倍の値段…と差を付けたりして)

 そして逆もまた然り。

 値段が安い食堂は値段なりの物しか出てこない事がほとんどだ。市役所とか学食とかがそんなイメージだ。効率重視で作り置きの、シナシナの唐揚げとかぬるいチャーハンとか…。


 だが特対ここのは味も低価格もどちらも追及している。しかも組織の性質上一般公開など出来るはずもなく。

 にもかかわらず、何故ここまでこだわるのか。その理由をこの人が握っているのは間違いない。

 俺はそれが知りたかった。会って間もない俺にそんなことを話してくれるかは分からないけど…。


「…」


 俺の質問を受けた食堂長は無言のまま俺と志津香を交互に見ると、少しして…


「…今、時間空いてるか?」


 と質問して来た。

 俺と志津香はそれに対し空いていると返事をすると、食堂長はちょっと付き合えと言い休憩スペースを指さす。

 話をしてくれるということだろうと理解した俺は、『もう少し振り返りをしたい』という駒込さんにひと声かけてから、食堂長と三人で移動をすることにしたのだった。



「ホラ、飲め」

「あ、すみません」

「ありがとう」


 休憩スペースのベンチに腰を掛けると、食堂長は近くにあった自販機で自分のIDカードを使いお茶を3本購入し、俺と志津香に1本ずつくれた。彼のカードにも俺のカードキー同様キャッシュ機能があるようだ。

 その後食堂長もベンチに座る。俺たちの腰かけたベンチは"ロの字"型に配置されており、三人で向き合う形となった。

 そして各々がお茶を軽く口に含むと、少しして食堂長は話をし始めた。


「アンタ、さっき俺が"昔飲食店をやっていたか"って聞いたよな」

「ええ」

「アンタの読み通り、俺は15年前まで自分の店を持っていたんだ」

「あ、やっぱりそうでしたか」

「と言っても、有名店じゃなく田舎の大衆食堂だったんだけどよ」


 謙遜気味に話すが、自分の店を持ち切り盛りしているだけでも凄い立派だ。

 にも関わらず話す表情に少しだけ影が落ちているのは、辞めた理由に何かがあるのだろうか?

 直球では聞けないので、少し遠回りして聞いてみる事にする。


「大衆食堂って事は、メニューはここみたいに和洋中色々扱ってたんですか?」

「まあな。ラーメンとかハンバーグとか焼き魚とか…50種類くらいあったかな」

「道理で」


 ここの食堂がどのコーナーの品も抜群においしかったのは、昔の経験が生きているという事だったのか。納得。


「どうしてそのお店はやめたの?」


 志津香が、聞きにくかった事をズバッと質問する。

 経営が順調であればここで食堂長などやっていないだろうという事と、彼の少し暗い表情が俺に質問するのを躊躇わせたのだが、志津香がサラリと踏み込んでくれたのはある意味ありがたかった。


 いやもちろん、店はお子さんが継いでいて…とか、明るい方面の可能性も全然ある。この暗い表情も、どんな話題でもこういう顔で話す人なのかもしれないし。


 しかしそんなハッピーな可能性を、本人の口から否定されてしまう。


「やめた…というより潰れたが正解だな。経営が立ちいかなくなったって意味じゃなくて、文字通りのペシャンコだ。台風による土砂崩れで、家族ごとな…」

「…」


 語られたのは想像以上にヘヴィーな話だった。

 食堂長が言うには、強い台風の日にたまたま自分は同窓会に呼ばれ帰省していたのだと。そして翌日、山間に建てられていた自分の店と隣の家屋が土砂崩れに巻き込まれ家族が亡くなったという報せを警察から受けた。


「…急いで帰ってみたら、遺体を入れる袋の中にいる家内と息子と娘と…まだ半分以上土砂に埋まってる自分の店と家に出迎えられたな」

「…」


 かける言葉が見つからないな。

 当の本人は淡々と話すもんだから、気にしている様子は見られないが…。15年…。

 もうすっかり傷は癒えているのだろうか。それとも、俺は古傷を抉ってしまったのだろうか。


「保険に入っていたおかげで俺の元には多額の金が入ってきたんだが、当時はもう一度前に踏み出す力が残っていなくてな。あとは自分が死ぬのを待つのみ…みたいに考えていたな」


 当時すでに食堂長のご両親は亡くなっており、災害直後は奥さんのご両親が心配して色々と面倒を見てくれていたのだと言う。

 ただ食堂長としては義理の両親に合わせる顔が無い為、アパートを急きょ借りて『大丈夫だ』とアピールし距離を置いたそうだ。

 ただそこからは何をするでもなく、先ほど自分でも言ったように"後を追えたら"と待っていたのだとか。


「当時は俺だけがおめおめ生き延びちまった事を憂いて、何も食わずに過ごしたりしたもんだ。餓死すりゃ家族の元へ行けるって、一瞬だが本気で考えたもんだ」

「餓死は苦しい」

「ああ。お嬢ちゃんの言う通り、余りにも苦しくて途中で餓死を挫折しちまったよ。体が死ぬのを拒んじまった」


 志津香の意見に同意する食堂長。その表情は笑うでも悔しがるでもなく、ただ遠いどこかを見つめている。

 ちなみに志津香はピースで、空腹状態での判断力や運動能力低下に慣れる訓練というのを経験したらしい。こっちもこっちで、普通に壮絶だな…。改めて、ピース恐るべし。

 そして俺は、彼のいう"親しい人に置いていかれる苦しみ"が少し理解できた。

『どうして俺なんかが…』って、思うんだよな。


「…そこから、どういう経緯でここに?」

「ああ。実は前の特対部長代理が…いや当時は超対か…。そこの部長代理が俺の父親の警察官時代の後輩でな。昔から良くしてもらってたんだが」


 鬼島さんの前に部長代理だった人物と食堂長が、以前から親交があったのか。


「どこで聞きつけたのか、俺の現状を案じて『超対本部の食堂で人手が足りなくて困ってる。3か月でいいから助けてくれ』なんて頼んで来たんだよ。ところが、それが俺を呼び出すための方便だったことはすぐに明らかになった」

「なんかあったんですか?」

「メニューの種類は少ない。基本作り置き。毒にも薬にもならない質。一人でやるべき仕事を三人でやる…。こんなんで忙しくなるわけがねえんだ」

「あはは…」


 The食堂、Theお役所仕事(※イメージ)だったってことか。


「まあそんなんでも引き受けちまったモンは仕方ないからな。一先ず3ヶ月、我慢してやることにしたんだよ。ところが、その施設超対本部の異質さにもすぐに気付くことが出来た…」

「異質さ?」

「メインで利用する客の何割かがまだ学生くらいの若い連中だったんだ。しかもみんな能力がどうとか言い始めてな…」

「ああ…」


 食堂を利用する客の多くがここに住んでいる連中…つまりピース出身の1課と4課の職員だ。

 18歳で入職し、5年経ってもまだ23歳。世間ではまだ大学や大学院に通っていても違和感のない年齢。

 歳を重ねれば家族を持ち外に出ていく人も多いので、住み込みとなると平均年齢は常に若いまま。そうなるといつの時代も大学の学食のような雰囲気になってしまうのだろうな。


 そしてホームグラウンドということで、能力の事に関してもあけすけに話をする。

 食堂長にとってはまさに異世界に迷い込んだ感覚だったろうな。


「そこで俺は部長代理に話をしに行った。これは一体なんの施設なんだってな。俺は警察組織としか聞いていなかったからよ」

「なるほど…。超能力組織のことやピースのことは伏せられていたんですね」

「ああ。近いうちに話すつもりだったらしいがな」





 ____





寺島てらしまさん! あれは一体どういう事ですか!?』


 超常犯罪対策部の部長代理である寺島に詰め寄る一人の男性。


『どうした…とは何かな? 郷田さとだくん』

『何であんなに若い職員ばかりが居るんですか!? しかも超能力って…』

『落ち着きなさい』


 鼻息の荒い食堂担当:郷田に落ち着いて対応する寺島。

 郷田がこう反応する事は予想通りであり、焦らずゆっくりと話し始める。


『郷田くん。君が言うように、ここは"ただの警察組織"ではない。そしてそれを説明するのに、まずはこっちも君が言っていた"超能力"について教える必要がある』

『何を…』

『これから私が話すことは全て真実だ。証拠も見せる。いいか? 心して聞きなさい…』


 そうして寺島の口から、この世界に存在する超能力のこと。その能力で犯罪を犯す者とそれを取り締まる者がいること。

 そして幼少期から特殊な訓練を受けてきた若者たちがいることを語られた。


『な、何をバカな…!』


 寺島の口から飛び出すファンタジー小説のような内容に、郷田もはじめはかなり戸惑う。

 しかしそんな姿勢も、寺島の"実演"を見たあとでは維持することは出来なかった。

 1つが真実だと分かれば他の事項にも真実味が出てくるのは当然であり、また郷田も寺島が真面目に嘘と真実を語るような人間ではないことを理解していた。

 すなわち、今聞いた内容は全て真実であることが分かったのであった。


『…』

『驚いているだろうが、全て真実だと受け入れてくれ。そして今聞いたことはくれぐれも他言無用でな』

『………だ』

『ん?』

『何の罪もない子供を巻き込むような真似は、止めさせるべきだ…』


 非現実的な内容の現実を全てかろうじて飲み込んだ郷田が開口一番訴えたのは、ピースという組織の否定であった。

 災害で愛する息子と娘を失ったばかりの彼にとって、年端も行かぬ若者をみすみす戦地に送り出す超対の行為が1番引っかかったのだ。


 しかし寺島は毅然とした態度でそれを拒否する。


『それは出来ない』

『何故…?!』

『個人の意志で止められるような"仕組み"ではないからだ。私なんかが警察官になる前からずっと存在しているシステムなんだよ、これは。勿論誰がとか、人数がとか、そういう話でも決してない』

『くっ…』


 寺島の鋭い目が、彼の意志とこの仕組みを変えることは決して出来ないことを語っている。

 そして郷田をどうしょうもない無力感が襲い、これから起きるであろう若者たちの悲劇から目を逸らそうと、超対を去ろうとした。


『どこへ行く?』

『こんなとこには居られません…。人手も足りてるみたいですし、長野に帰らせてもらいます…』


 そう言い放ち、超対部長室を去ろうとする郷田。

 しかしその背中に、寺島がひとこと―――


『君が何もしなくても、ピース生彼らの運命は変わらない』

『…』

『だが、君が行動を起こすことで、何かが変わるかもしれない』


 と声をかけた。


『………そんな簡単に変わる仕組みじゃないんでしょう?』


 振り向かずに話し、そのまま部屋を出て行ってしまう郷田。

 そして食堂へ戻ると、指導してくれる職員が駆け寄ってくる。


『郷田さん、どこ行ってたんですかもう!探しましたよ』

『すみません…』

『もうすぐ昼時ですし、研修しますよ』

『あ、いや…私は……』


 もう辞める…

 そう伝えようとした時、早めに食事をしに来ていた三人の若い男性職員の会話が聞こえてきた。

 別段耳を澄ませていたわけではなかったが、人がおらず静まり返っていた食堂に彼らの声が響き渡る。


『お前、よく3つも食えるよなー』

『ホントだよ』


 内容は、三人前を注文して食べている一人の職員に対し他二人がチャチャを入れているというものである。

 それを受け、人より多くご飯を注文した職員は


『だって足りなくね? 量少ないし、栄養も少ないし』


 と反論した。

 他二人は『それにあんま美味しくないし』『あとぬるいし』と、声を潜めているものの散々な言いっぷりだった。


『…』


 それを聞いていた郷田は、怒るでも笑うでもなく、ただ見ていた。彼らの注文した料理を…

 そして心の中で感じていた。


 効率に重きを置いた、作り置きの寂しいメニューの数々。

 体作りを考えない、栄養不足かつバランスの悪い単品。

 食事の楽しさを感じることのできない、こだわりの"こ"の字も入っていない無粋なおかず。


『こんなの…戦う人間の食べ物じゃない』


 郷田のやっていた食堂には肉体労働を主とする屈強な男たちもよく訪れていた。

 そんな彼らを支えるべく、腹も膨れて栄養バランスも取れてパワーも付く、そんな定食を安価で提供していたのだ。


 そして今、目の前には飢えた(?)若者たちがいる。

 そんな彼らに手を差し伸べないで未来を憂いているなんてちゃんちゃら可笑しいじゃないか…と、心の中で自身の愚かさを嘲笑った。



『君が行動を起こすことで、何かが変わるかもしれない』



 寺島の言葉が脳内にリプレイする。

 自分が(を)今変えなければ、力が出せずに志半ばで倒れる若者が出るかもしれない。

 寺島は自分にそれが伝えたかったのだと感じた。


『……………よし!』


 ひとりの元食堂店主に火が入った。






 ____







「それで、どうしたんです?」

「メニューの追加ならびにやり方の抜本的な改革を提案したよ。種類を5倍にして、調理も数を捌くためにある程度の作り置きは仕方ないにせよ、要所要所はオーダーを受けてからの調理にしてな…」

「それが今の食堂の原型になったんですね…」


 公共施設の食堂然としていたところを見直し、安価で味も栄養もボリュームも大満足な名店に生まれ変わった。


「あ、でも元から居た食堂のスタッフからは顰蹙を買ったんじゃないですか?」

「ああ、俺もそこの説得が一番骨が折れると思っていたんだが…」

「違ったんですか?」

「元々キャパには余裕があったのと、全員が昔飲食店に携わっていたらしくて、大賛成されたよ。今のままじゃ良くないって思ってたんだとよ」

「旗振り役として部長代理に担がれたんですね」

「ま、結果的にはそうなるな」


 俺の言葉に少しだけ微笑みながら答える食堂長。

 その表情は優しそうな感じだ。


「メニューをそんなに増やしたら、予算とかは大丈夫なんですか?」

「提案したときにある程度の予算はもぎ取ったが、あとは自分で店をやっていた時に懇意にしてた農家とかからワケあり野菜とかを格安で売ってもらったりしてな」

「なるほど」


 形が悪かったり傷が付いていたりと、味や品質には全く問題ないが市場には出せないような野菜を使ったり。

 肉は極力自分で加工し、手間賃を抑えたり。

 工夫と店をやっていたノウハウでやりくりをしたのだと。


 それと、家族と店を失った時の死人のような食堂長を知っている取引先の人たちは、彼が再び立って歩き出したのを見て大変喜んでくれたらしい。



「…と、済まねえな。こんなつまんねえ話を長々と」

「いえ、とても貴重なお話が聞けて良かったですよ」

「そんな大層なモンじゃねえよ…」


 食堂長の過去話が一段落した頃には、時刻は21:30をゆうに超えていた。

 しかし見た感じ寡黙な彼がここまで話してくれるとは思わなかったので、つい質問をする。


「でも、どうして我々にここまで話してくれたんですか? 食堂長にとっては結構辛い内容でもあったんじゃないですか?」

「…まあ、ここにいる人間で今の話を知っているのはかなり限られてくるわな」

「ならどうして…」


 志津香はともかく、他所モンかつぽっと出の俺にそんな話をしてくれたキッカケが気になる。


「そうだな…………。さっき俺に天ぷらをシェアしたって話をしてきたろ?」

「え、ええ。そうですね」

「この食堂で仲良く分け合って食べる人間がそもそも居ないってのと…」


 そりゃあそうか。

 社員食堂で男女がシェアするなんて、ほぼあり得んよな。


「俺の息子と娘が生きてたら、丁度お前らくらいの歳でな。お前らを見てたら、何となく思い出しちまったよ…」

「食堂長…」

「さて、そろそろ行くわ。悪かったな、連れ出しちまって」


 ベンチから立ち上がり空のペットボトルを捨てると、更衣室に向かって歩き出そうとする食堂長。

 俺はそんな背中に、思わず立ち上がり声をかけた。


「食堂長」

「…?」

「味見して感想を言うくらいしか出来ませんけど、力が必要な時はいつでも言ってください。喜んで協力しますから」

「私も」


 志津香が隣に立ち、俺に合わせてくれた。

 上手いぞ。これなら"兄妹"感が少しだけ増したかもしれない。


「…」


 食堂長は首だけこちらに向け、少しだけ驚いた表情をしている。




『悪いな、カズヤ、シズク…。学校お休みの日に、店の手伝いしてもらっちまって』

『全然へーき!ぼくが好きでやってることだから』

『あたしも!』

『………でも、友達と遊んだりとか、ホントはしたかったろ? ごめんな……』

『…ねえ、おとうさん』

『んー?』

『ぼく、おとうさんの子供で、嫌だと思ったことなんか無いよ!』

『あたしもあたしも!』

『! …………カズヤ、シズク』




「………ありがとな」


 驚いた表情をしたかと思った食堂長だが、クールで渋い笑顔を見せ、手を上げてそう答えた。

 そうして、俺たちの前から去っていったのであった。












 ________













「ふぅ…」


 特対本部の大浴場の浴槽に肩まで浸かりながら、俺は大きく息をついていた。

 我が家の風呂も以前のアパートに比べればかなり広くなったが、やはりこうして足をドンと伸ばして浸かれるのは格別だ。


「堪能してますね、塚田さん」

「…いやー、やっぱりいいですね、大きい風呂は……」

「あはは、喜んでもらえたのなら良かったです。住み込みの職員はほとんど部屋のお風呂で済ませてしまうので、いつもそんなには混まないんですよ」

「えー…勿体ない」


 俺の隣に駒込さんが座る。

 同じく水面から首だけを出して、先ほどの運動の疲れを浮き出しているようだ。

 湯に浸かる事で得られる効果は、俺の能力では再現できないからなぁ…

 極楽極楽………


「そういえば、食堂長と何を話されていたんです?」

「あー…ちょっと昔話をね」

「食堂長のですか?」

「はい」

「珍しいですね。あの寡黙な方が…」


 職員の間では寡黙で有名なのだと。

 まあ、休憩スペースに行くまではそんな感じしたけどな。ちょい怖めの感じだし。


「…ところで、駒込さん」

「はい?」

「幸せって、何だと思いますか?」

「……それはまた随分と哲学的ですね。何かあったんですか?」

「今ちょっと、探してまして…」


 駒込さんはうーん…と考え出す。

 いきなりそんなこと聞かれても答えられるわけはないよな。困らせてしまって申し訳ない…。


「私の答え…というのとは少し違うんですけど、いいですか?」

「もちろんです。参考までにどんなことでも」


 そういう考え方もあるんだな、と思えれば収穫になる。


「人間って、辛いことも楽しいことも"慣れる"生き物だと思うんですよ」

「あー、確かに。そういう話はよく言われていますよね」

「はい。私自身、別れを幾度となく経験しましたが、折り合いをつけて今を生きています。逆もまた然りで、楽しいことも当たり前になってると思います」


 駒込さんはそう言うが、きっと辛い経験の方が圧倒的に多いだろう。

 しかしそれが、実際の年齢よりもずっと立派な感覚を持つ彼を形成している事になっているのだが。


「だから、私が思う幸せのカタチっていうのは、"幸せに慣れない"事だと思うんです」

「幸せに…慣れない……」

「厳密に言うと、良いことがあったときにしばらくしてその地点がゼロになるのではなく、永遠に加点されていくような意識であればいいのかなって…」

「なるほど…。こうして旨いご飯を食べて、広い風呂に入れることを毎日感謝する人間であれと…」

「そうですそうです」


 俺が話を理解できたことを嬉しそうにする駒込さん。


「油断するとあっという間に忘れそうですね、それは」

「はい。でもだからこそ、得る価値のあるものだと思いますよ」

「確かに…」


 駒込さんの説で言うと、幸せとは大袈裟なものではなく、日常にありふれているものの積み重ねになる。

 それに"物"とか"目標"にしてしまうと、得られなかった時や失ってしまった時のダメージは計り知れない。


 恒久的な幸せは、そういう考えのほうが良いのかもしれないな。

 これまで激しい戦いに身を置いてきた駒込さんならではと言える。


「ありがとうございます。参考になりました」

「いえいえ。あ、明日は何時に出勤されますか? 朝食時にお部屋に迎えに行きますよ」

「7:20に部屋を出て、ゆっくり目にご飯を食べたらそのまま出勤しようかなと」

「じゃあ、その時間に行きますね」

「わざわざありがとうございます」


 駒込さんと湯に浸かりながら、俺の特対預りの1日目の夜は終わるのであった。

 殺し屋の対策も考えないとな…

 あと廿六木の件も。


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