第230話 ダメですよ、センパイ

「「かんぱーい!!」」


 中ジョッキと縦長のサワーグラスがぶつかり、カチンという音がテーブルに控えめに響いた。

 卓也の生ビールの黄金色と、西田の緑茶ハイの緑色が水滴を纏いながら卓上で綺麗に並んでいる。

 報酬確認の一件以来、ランチや飲みに行くようになった二人にとってはお馴染の光景だ。


 今日は西田が入社して3か月が経過し、試用期間から正式採用へと切り替わった日。

 なのでそのお祝いをするため、二人で終業後に居酒屋に来ていたのである。

 とはいえ、余程の事が無ければ正式採用にならないことはないので、お祝いと言うのはあくまで飲むための口実。今日は他にも"暑気払い"や卓也の"決算お疲れ会"も兼ねていた。

 つまり、飲めれば何でも良かった。


(キンキンに冷えてる…!)


 卓也はお通しのきんぴらごぼうをツマミに中ジョッキをあおると、ポーション生ビールが五臓六腑に染みわたるのを実感していた。

 そして注文した"枝豆"や"きゅうりの一本漬け"や"出汁巻き卵"に舌鼓を打ちながら日々の疲れに耐えている体を労っていると、ふと西田が愚痴り出した。


「ほんっっっっと…どうしようもないですよ、あの人!」


 あっという間にカラになった緑茶ハイのグラスを少し強めにテーブルに置くと、西田はかなり強めに"ある人物"を非難した。


「矢野さん?」

「そうですよ!さっきだって帰り際に突然業務おろしてきて、おかげで来るのに遅れちゃったんですから!!」


 終業後に居酒屋に行く約束をしていた二人だったが、彼女の言うように定時直前になり上司の矢野が突然業務を振ってきたおかげで、卓也だけが先に来て待っていたというワケだ。

 そのことについての卓也への申し訳なさと上司への愚痴を一緒に吐き出す西田。

 酒の力もあって、職場で見せるのとは違う"本来の彼女の顔"を覗かせていた。


「あー…だから遅れてたのか。あ、すみませーん…同じのでいい?」

「あ、はい。ありがとうございます!」

「緑茶ハイひとつと、串盛りで…。…それで、帰社直前に現場からの突発業務を人にふって、自分は定時帰り…と」

「ですです。酷い上司ですよね」

「でもそのおかげで、現場からの信頼は既に上司以上な西田さんなのでした」

「うー…そうですけどぉ……」


 卓也の会社では、経理や総務は日々現場からの相談・確認・お願いなどが多く寄せられる。

 彼女は人当たりの良さと対応の速さでそれらの依頼をこなし、既に多くの信頼を勝ち得ていた。

 また総務の専門的な事は分からない卓也だが、エクセルの関数やグラフ、ワードの差し込み印刷といった事務作業に役に立つテクニックを伝授し、西田が少しでも早く戦力となるよう後押しをする。


 さらにこれまで現場から卓也に来ていたちょっとした依頼の中で、西田でもこなせそうな物は彼女に回し、接点の少ない部署との懸け橋になるよう動いていた。

 このことについて西田が卓也に追及しても、彼は『自分の負担を減らすためにやった』の一点張りで決して認めたりはしなかったが…。


 とにかくそんな感じで、卓也は西田に今日まで様々なサポートをしていたのだった。


「でも納得いかないですよぉ!私はともかく、あの人よりよっぽど忙しいセンパイが給料少ないなんてぇ…」

「ま、そこは歴とか役職とかもあるしなぁ。しょうがないわな」

「えー…」

「それに、見ている人は見てるもんさ。まだ俺も西田も入社して3年も経っていないし、そんな早い内からカリカリしてたら、心がもたないぞ?」

「……ですね」


 卓也の言葉に100%納得はしないまでも、一定の落ち着きを取り戻した西田は運ばれてきた2杯目の緑茶ハイを一気に流し込んだ。


「やるねぇ…」


 このあとも卓也は、時折こうして西田のストレスが溜まり過ぎて爆発しないよう飲みやランチに連れて行き発散させていたのだ。

 もちろん卓也が愚痴る事もあり、総務部と言う部署の中で歳の近い二人はお互いのメンタルを支え合い過ごしてきた。


 そしていつしか、関係も少しづつ変化していき…














 ________












「あ"ー…飲み過ぎた……」


 12月末日。

 会社は冬休みに入りオフィスはどの階も人がほとんどいない状態で、卓也はひとり朝からグロッキーになりながらPCと向き合っていた。

 年明けまで残しておきたくない、ちょっとした業務の数々を消化する為に休日出勤を申請したのだ。

 ところが、前日の夜に清野とかなり遅くまで飲んでおり、シマに誰も居ないのをいいことに背もたれに体を預けながら思う存分(?)グッタリしていた。


 すると―――


「ダメですよセンパイ!オフィスでそんなだらしない恰好じゃ!」

「……あれ、西田来てたの?」


 総務・経理のシマに誰も居ないと思っていた卓也は、西田の登場にテンションが低いまま驚いた。

 スケジュール上では今日出勤するのは自分だけのハズなので、彼女が居るという事はつまり…


「闇出勤でっか…」

「ほんの少し書類整理がしたいだけなので」

「なんて悪い社員だ…。教育係の顔が見てみたいね」

「ハイ、どうぞ」


 西田は持っていたコンパクトミラーを卓也の方へ向けて開く。そこには、顔色の悪い卓也の顔が写り込んでいた。


「…なるほど、ひでえ顔だ。こんなのが教育係なら、そりゃ闇出勤もするわな……」

「そうです」


 西田は入社してからの9カ月で、卓也の良い面と悪い面をしっかりと継承していた。

 悪いと言っても不正だとかそういう事ではなく、業務遂行の為・協定順守の為、そして上司の顔を潰さない為の致し方ない残業や出勤の事である。

 卓也は現場からの多くの依頼をこなすせいで、西田は矢野の尻拭いのせいなどで通常業務、特に急ぎではない書類整理・証憑整理などが溜まってしまい、それを処理する為に誰も居ない中コッソリ出る事があった。


 この会社ではPCの起動履歴などは普段見ていないので、イレギュラーが無ければバレることはない。

 なので二人は細心の注意を払いながら、たまに(←ここ重要)コッソリと出ているのだった。


 勿論卓也はこんな状態を良いとは思っていないが、経験により業務スピードが上がり徐々に頻度が少なくなっている事や、現場との関係を良好に保つことはいずれ自分の血肉となるだろうと考え取り組んでいた。

 ただ、自分を真似して西田までがこのような行いをするのは失敗であったと後悔はしている。

 彼女に対しては良き見本でいようと心がけていただけに、責任を強く感じていたのだった。



「冷たっ!」

「ホラ、これ飲んで早くシャッキリしてください」


 卓也のほっぺたに、西田から酔い覚ましのためのスポーツドリンクが差し出されていた。

 わざわざコンビニで買ってきてくれたのだ。


「…いいのか?」

「私、お昼で帰る予定なので。一緒にお昼ご飯行くときにセンパイがそんなんじゃ、から川(唐揚げ専門店)食べるの大変でしょう?」

「油っこぉ……」

「可愛い後輩の気遣いに感謝してくださいね♪」

「ああ。涙と胃液が止まらないよ…」


 ゲンナリする卓也と、誇らしげな表情の西田。

 この時期には既に卓也のだらしない面も多く見ており、"ただ尊敬するだけの後輩"から"色々とお節介する後輩"へとジョブチェンジを果たしていた。


 また、彼女の卓也に対する口癖の『ダメですよ』も、この時にはよく言っていたのだった。














 ________














 3月末日。

 暖かい地域では桜の花が咲き始め、出会いと別れのシーズンに日本国民が包まれ出したころ。

 卓也と西田は個室居酒屋でともにランチをとっていた。


「美味しいですね、ここのお魚のランチ」

「だろ?この前見つけて食べた時は目から鱗だったぜ。魚だけに」

「…ダメですよ。私以外の女子にそんな寒いギャグ言っちゃ」


 手厳しい西田の指摘に気落ちしながらも、絶品のランチを楽しむ卓也である。

 すると西田から、"昨日の件"についての話が切り出された。


「いやぁ…でも、先輩が居なかったら、私、辞めてたかもしれません…」

「昨日の矢野さんの?」

「いえ…それもありますが…。この1年を通してです」

「…」


 昨日、上司の矢野が自身の失念による仕事のミスの一部を、西田にかぶせるような発言をして問題となった。

 しかし卓也により以前から『不安な事があれば必ずメールに残せ』と助言を受けていた西田は、進捗確認のメールのBCCに部長を入れており、彼女に何の責任がない事が証明され事なきを得ていた。

 その件のみならず、これまでの様々なトラブルに卓也の助けがあったことを感謝し、改めてそれを言葉にして伝える西田。


「………どうしてセンパイはそんなに親切にしてくれるんですか?」

「んー…西田の好感度を上げておこうかと思ってな」

「…もぉ、なんですかソレ」


 照れくさくて、思わず誤魔化す卓也。

 しかしその後すぐにちゃんと考えて出した答えを、しっかりと伝える。


「俺もさ、初めての後輩が出来て、それでちゃんとやれて来れたんだなって思ってさ…」

「え…?」

「多分、背中を見ている人が居なかったら、俺はもっと最短ルートに寄ってたなって。見られてたから、手本になるようちゃんとして、教えられるよう基本を学んで、『業務達成の為ならやり方なんて関係ないぜ』って事にならないで済んだんだと思う」


 卓也は、自身の性質を理解しているからこそ、それを抑止する存在である西田に感謝した。


「だから、ウチに来てくれてありがとな。西田」

「っ…!」

「俺はこれからも、西田が居る限り、見本になれるよう頑張るよ」


 何の照れも無く恥ずかしいセリフを言う卓也に、西田は少しだけ顔を背ける。


「…?どうした?」

「…………はぁ」


 自覚のない卓也に大きな溜息をつくと、西田は気持ちを整え、やられっぱなしから反撃に打って出た。



「仕方ないから、しばらく私がセンパイを監視してあげますよ!感謝してくださいね」

「…おう、2年目もよろしくな」

「はい!」











 ________________




 ________





 ____















「追加の注文…?」

「はい!大事な事を伝え忘れていました」


 淡い光を発しながら、そんな事を言う。

 今生の別れの直前に切り出してきた話題に俺が疑問符を浮かべていると、西田は話を続ける。


「何かと言うとですねぇ…」

「おう…」

「センパイはこれからも全力で突っ走って、そして―――」


 西田は意味ありげに一呼吸置き…



「自分の幸せを全力で掴んでください!」



 と、俺に命じた。


「…幸せ?」

「はい!」

「……幸せ」

「そこで難しい顔をする辺り、やっぱり追加して良かったですよ、もう」


 俺のリアクションに呆れた様子の西田だが、仕方ないだろ…。

 自分の幸せなんて、ちゃんと考えたことも無かった。

 そもそも"幸せ"って何だよ…って話だ。


「色々あるじゃないですか。お金持ちになりたいとか、家庭を築きたいとか、コレクションに囲まれたいとか」

「あ――――――」

「…そんな状態で私のところ地獄に来ても、面白い話なんて聞けそうにないですね。『全力で走ってたから何も覚えてないぜ』ってな感じで」

「う…」


 確かにこのままでは、そうなる可能性は大いにある。

 流石は西田、鋭いな。そして、厳しいな…



「っと、そろそろですね」

「もう、か…」


 全体的に薄くなってきた西田がタイムアップを告げる。

 これで本当の本当に、最期だ。

 しかし俺と西田の間に涙はもうない。少しの間、会えなくなるだけだからな。


「追加の注文のこと、ちゃんと考えてくださいね」

「ああ。難しいけど、しっかりやるさ」

「センパイならきっと出来ますよ」

「西田が信じた俺を信じるよ」

「ふふ♪」


 西田は心の底から嬉しそうに笑うと、自分の後ろまで近付いていたいのりをチラリと見て、改めてコチラに向く。


「それとー…」

「まだ何かあんのかい…」

「ふふ…」


 今度は悪戯っぽいような、いつかの俺を叱る時のような笑みを浮かべ―――



「ダメですよ、センパイ。周りに居る女子を泣かせちゃ――――」



 と告げて、消えていった。



「……全力を尽くすよ」



 そして西田の消えた夜空に向かって、俺は可愛い後輩に言い聞かせるように、そう返事をしたのだった。





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