第229話 それは桜の舞い散るころに
「きょ、今日から総務部総務課に配属になりました、西田さくらと申します…!みなさん、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
緊張したようすで挨拶をするのは、新卒入社の西田さくらだ。
この度総務部に人員補強として7人目が加わったのである。
それは卓也が今の職場に丸2年在籍し、3年目の春を迎えた時の事であった。
「じゃあ次はー…塚田くん」
「はい…。えー…総務部経理課の塚田卓也です。まだ3年目で若輩者ですが、分からない事があれば聞いてください」
「はい…!宜しくお願い致します」
簡単な挨拶を済ませ会釈をする卓也と、それに応えてお辞儀をする西田。
まだ"熱"がない頃のどこか冷めた態度の卓也と、後にそこへ火をつける西田との、出会いの瞬間であった。
「えー、このあと私は西田さんと各部署に挨拶回りに行ってくるので、引き続き業務に当たってください」
総務部長の言葉を機に部門朝礼が終了となる。
皆はそれぞれ自分の座席に戻り、総務部長と西田はこれから営業や広報といった部署に挨拶に行くのであった。
この時期は当然他の部署へも新卒の社員が入社する為、この後すぐ総務部に別部署の社員が挨拶に来るのだが、それを若干億劫に感じる卓也。
そしてその日の昼休み…
「塚っちゃん。朝、総務の新人の子が
「あ――――――」
「可愛い子だったよね。周りの先輩たちも結構浮足立っててさぁ」
「そうか――――」
同期の佐々木が卓也の横で昼飯を食べながら、朝の西田の挨拶の様子を語る。
営業部の男連中が西田の登場にテンションを上げていたという様子を喜々として語るのを、卓也は生姜焼き定食を食べながら静かに聞いていた。
卓也の西田への第一印象は営業部の連中と大差なく、『可愛い子だなぁ』だった。しかし、それだけである。
それは、卓也の勤めている会社が中々の美人ぞろいであることに起因している。
広報部であり同期の篠田をはじめとし、社長室の星野や篠田の先輩社員など職場には見目麗しく親しみやすい人間が多く、業務で様々な部署とやり取りをする卓也の目は肥えていたのだ。
それがなくても、特定の女性とどうこうなるという展開を望んでいない卓也にとって可愛らしい社員の入社は、職場に『綺麗な展示品が増えた』程度の認識でしかなかった。
________
西田が入社をしてもうすぐ1ヶ月が経つという頃の金曜日。時刻は20時を少し超えている。
世間的にはゴールデンウィークに突入したりしなかったりで浮かれている中、卓也は決算や月次支払の準備でオフィスに残っていた。
経理主任やその上の経理課長は明日も休日出勤することを決めていた為1時間ほど前に退勤しており、経理のシマは卓也だけとなっていたのだった。
卓也は自身の担当する支払業務で、月曜日に直ぐに支払処理がかけられるようファームバンキングデータの作成とその証憑整理をしていたらこのような時間になってしまったという事である。
しかしその業務も終わり帰る準備をしていたところ、総務のシマにまだ社員が居る事に気が付いた。
「あれ、まだいたの?」
「あ…塚田さん」
自分の業務に集中していた卓也は、少し離れた所に居る西田の存在に今まで気が付かなかった。
そして、まだ新人の西田がこんな時間までひとりで居るのはとても珍しいので、事情を聞いてみる事にした。
「どうしたの?こんな時間まで」
「あ…えと、月末にお支払する予定の報酬額と、総務で管理している報酬エクセル表の金額が合わなくて…」
「ふーん…」
見ると、西田の画面に表示されているエクセルの『合計金額』と書かれた欄の横にある『金額差異』という欄に数値が表示されており、セルが赤く塗られていた。差異がゼロ円で無い時に色付けがされる仕組みとなっているのだ。
また、西田のデスクには今月や先月の報酬に関する資料が並べられており、この時間まで差異と格闘していたことが分かった。
「…
「今日は…定時でお帰りになられて…」
「今日も、だな。なに?確認業務を西田さんに投げて自分は帰ったの?どうしようもねえな…」
西田の直属の上司に当たる矢野と言う社員は、責任感が薄く長いものに巻かれるのが好きな男である。
また、風向きによって意見や味方をする相手を変える癖があり、他の部署の社員などからは侮蔑と嘲笑の意味を込めて【
卓也もこの2年で少なからず嫌な目にあっており、良く思っていないのである。
「や、あの…後は私がやっておきますって言ったんで…」
「それでもダブルチェックは必ずしなきゃでしょ。今日は部長も総務課長も早く帰るって言ってたんだからさ」
経理課長たちと同じく明日出勤する事が決まっていた総務部長と総務課長は、定時になってすぐに退勤していた。
矢野もその二人が帰ったすぐ後のタイミングで、確認を西田に投げて帰宅してしまったというワケである。
確かに確認業務は慣れた者であればさほど時間のかからない業務であった。
しかし入社したての西田は、仮に何のイレギュラーもない状態でも手順を確認しながら行うので通常よりも多く時間を要するのは当然であり、ましてや差異が出てしまえば残業となってしまうのは仕方のない事だ。
これを放置して帰るのはハッキリ言って職務怠慢であると卓也は強く思っていた。
「…すみません」
「ん?ああ、いや…西田さんに怒ってるワケじゃないからさ」
「はい…」
思わず矢野への不満が溢れてしまう卓也であったが、それを受け西田が委縮してしまったので、非難するのを止め生産的な行動を取ることにした。
「ちょっといい」
「え…?」
「表、見せてよ」
「あ、はい」
卓也は西田の隣の席にある矢野の椅子に座ると、管理表を見る為西田を一旦どかし移動した。
そして4月末払いの一覧にざっくりと目を通すと…
「あ、この人は非居住者だからパーセンテージが違うね。20.42%だ」
「え?そうなんですか?」
「矢野さんにも情報行ってると思うけど…忘れてたなあの人。あ、この人は個人じゃなくて法人への支払いだから、源泉はゼロにしないと…。あとここも―――」
卓也は資料を見なくても分かる範囲で管理表の数式を直していく。
すると…
「差異が…なくなりました」
「だな。一応こっちの支払内訳表を印刷するから、最後に照合してね」
「あ、ありがとうございます…!」
「知らないから仕方ないけど、今度は合計金額が合わなかったら俺に言ってね。一人ずつ見ていけばすぐ分かる話だから」
「はい…すみません…!」
「…」
差異は無くなり悩みのタネが取り除かれたかに思えたが、西田はうつむき黙ってしまう。
自身の不甲斐なさを痛感していたのだ。
もちろん周りは社会に出て間もない彼女にいきなり多くを望んではいないし、誰もプレッシャーをかけたりはしていない。
これは彼女の中のハードルを越えられず、くぐってしまった事への自己嫌悪であった。
そして、『自分は新卒で何もわからないから』と心の中で割り切る事は、人によっては難しかったりする。
西田は自分がいつまでやっても終わらなかった照合作業を卓也があっさりと完了させてしまった事に、悔しさすら感じていた。
それを見かねた卓也は、彼女に助け舟を出すことに。
「…………あのさ。西田さん」
「はい…」
「これ、なんて読むか分かる?」
そう言うと卓也は、彼女の開いていた管理表の適当なセルに文字を打ちだした。
すぐに打ち終わると、画面上には【横濱銀行 反町支店】の文字が。
それを見た西田は
「えーと、よこはまぎんこう…たんまちしてん、ですよね?」
と答えた。
「…支払いの請求書読み合わせの時、俺はこれを"そりまち支店"と読んで、経理課長に大笑いされた」
「え…」
「しかも、半年前の話な」
「……まあ、難しいですからね…」
「おう。慰めるなら、もうちょっと口角を下げようか」
「プッ…!」
俺の恥ずかしエピソードに、西田は吹き出した。
ここから良いコトを言おうと思ったのに、少し躊躇ってしまう。
「…ま、まあ。社会人になったからって、いきなり立派な人間になるワケじゃないってことだ。ていうか、いくら歴を重ねたって、どうしようもない人間はずっと変わらないしな」
「……塚田さん」
「だから、習っても無い業務が出来なかったくらいで落ち込んでたら、この先もたないぞ?」
「……………ふふ♪」
卓也の励ましに、落ち込んでいた西田が笑顔を取り戻す。
「…塚田さん」
「おう」
「ありがとうございます」
「気にするな。確認してさっさと帰ろうぜ」
心置きなく連休に突入出来る事で、二人はようやく気分が良くなったのだった。
「塚田センパイ。お詫びに、夕飯ご馳走しますよ」
「いいのか?じゃあ滅茶苦茶食おー」
「…そこは、お手柔らかに」
「いいやダメだ。アタマの大盛りに、生野菜も付けちゃう」
「って牛丼ですか」
この日をキッカケに、二人はよく話をするようになるのだった。
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