第10話 足りないモノ

 表情のない顔がこちらを覗いている。

 目も鼻も口もないただの黒い楕円球を顔と呼べるのかは置いておくとして。

 なんの感情もない人を象った影が、自分のすぐ近くに立っている。

 そして唯一、人と違う部分。

 刃となっている右手を、俺の体に深々と突き立てていた。


 いつの間にこれほど近くまで来ていたのか。術者はどこか。それは一体誰か。

 様々な疑問が頭の中に浮かぶが、答えは自分の中には無い。

 それよりもまず、この目の前の殺意から逃れることが先決だ。


 先ほどから既に抵抗はしている。

 痛みを消し左腕を強化して、刃がこれ以上深く刺さらないよう押さえていた。

 影の腕を触った感覚は、体温も脈も感じられず、金属や鉱物ほどではないが硬い。

 そして抵抗の結果として、刃は進みも戻りもしない状態が続いている。


 こちらは左腕一本とはいえ、強化した力でも押し返せない。

 この影の力も相当強力だということが分かる。

 自分以外の何かを遠隔操作するタイプの能力は、パワーが弱いのが相場だと思っていたのだが。

 術者が相当高いレベルか、或いはか。


「ぐっ…!?」


 膠着状態を打破しようと、影は空いている左手で俺の首を掴むと、そのまま締め上げてきた。

 このままではマズイ。

 首を折られるか、窒息するか、失血死か。

 死に方の違いしか選択肢が残されていない。


 俺は両足に意識を集中し、今できる限界まで強化した。

 そして影の腕を掴んでいる左手を離すと、そのまま左拳を影の顔に叩き込んだ。

 瞬間、影と俺の間に少し距離ができた。

 その隙に、影のボディ目がけて右足で思い切り蹴りを入れた。


(…やったか…?)


 影は下り階段を一直線に吹き飛び、3階入り口ドア横の壁にぶつかった。、

 そしてそのまま力なくズルズルと地面に崩れた。

 できればこのまま立ち上がらないでほしいと願ったが、その願いは天に届かなかった。

 地面に崩れた影は、ゆっくりと立ち上がると再びこちらを捉えた。


 俺は影から逃げるため4階のドアから社内に入ろうと試みた。

 しかし、扉の前にはなんともう一体の影が出現しており、社内への進入を阻んでいた。

 1対1でさえキツイというのに、相手は2体。

 おまけにこちらは右手骨折と腹に穴が開いている。

 痛みを消しているとはいえ、苦しいし俺のライフがガンガン減っていっている。


 これはいよいよ終わりか…?

 この状況、将棋で言えば【詰めろ】だろうか。正しく受けなければ詰みだ。

 あるいは【必至】か。もはやどう受けようと詰みかもしれない。


 準備が足りなかった。

 警戒が足りなかった。

 想定が足りなかった。

 覚悟が足りなかった。


 上辺だけは、タダではやられないだとか、精一杯やってみようだとか耳障りの良い決意で己を鼓舞して心を偽っても、本物には一切通じなかった。

 相手に見つかっていないなどという勘違いから来る警戒心の薄さ。

 その結果、こうして音もなく接近され、致命的な一撃をもらってしまった。


 相手は9人も殺したゴリラのような大男で、正面から堂々と襲い掛かってくると思っていたか?

 ということを理解できていなかった証拠だ。

 戦いのステージが最初から違っていた。




 さて、反省はおしまい。

 俺が甘かったのは重々理解した。

 その上で、ここからできることをやる。

 先ほど浮かんだ、能力者としての俺ならではの方法で、逃げる。

 影は今も上階と下階から俺の居る踊り場にジワジワと近づいてきている。

 俺は自分の能力を確認し、その脱出方法が遂行可能かどうか確かめた。


(よし…これなら)


 すばやく脱出に必要な調整をしていく。

 すると2体の影は俺が何かを仕掛けようとしているのを察知したのか、一気に距離を詰めてきた。

 上手くいくかわからないが、もうやるしかない。

 俺は踊り場の柵に飛び乗ると、足に力を込めた。


 そして、自身の体重をできるだけ軽くし、向かいのビル目がけて跳んだ。


 3階と4階の間から、向かいの7階建てビルの屋上目がけてジャンプしている。

 別段高所恐怖症ということもないが、かなりの怖さだ。

 眼下には昼休みを楽しむサラリーマンやOLの姿が見える。

 ふと後ろに意識をやると、自分が元居た柵の部分には2本の刃があった。

 少し遅れていたら、切られていたな。


 ビルの屋上に着地すると、再び踊り場を確認する。

 すると丁度2体の影が一つになり、翼の生えた影に変形をしている最中だった。

 応用が利くもんだなと感心していると、影はこちらに向かって飛んできたので俺は慌てて別のビルに向かって跳んだ。





_________





 どれほどの時間逃げていただろう。

 もう目がかすんで、足に力が入らなくなってきていた。

 残り僅かな気力を振り絞り、気合いでパルクールをしている。


 影は少し逃げたところで急にピタッと止まり、そのまま消滅してしまった。

 射程距離というやつだろうか。

 それでも追撃が怖くて、俺はずっと移動を続けていた。

 そしてあまり人目のつかなさそうなビルに着地すると、ようやく腰を下ろすことが出来た。


 少し離れたところにJR四ツ矢駅が見えた。

 どうやら5駅分くらい走ってきたみたいだ。

 夢中だったので気が付かなった。


 なんとか影からは逃れることが出来た。

 あの体温を感じさせない黒い殺人人形、人によってはトラウマもんだ。

 できれば二度と関わりたくないもんだが、そうもいかない。

 今月中に決着を付けるためには、最低でもあと1回、あの影と対峙しなければならないのだ。


 そのためにはもう一つの問題を解決しないといけない。

 この絶賛出血中の傷だ。

 不意打ちで付けられた傷から出る血は、今も俺のジャージを赤黒く染め続けてる。

 回復能力の無い俺がこの傷をどうにかする手段は無い。

 無いのだが…


 先ほどから頭の片隅に時折出てくる、【LP】という表示と数値。

 これが気になっていた。

 液化石油ガス?LP盤?いやいや、俺の体にそんなものはない。

 今も数値は少しずつ減っており、もう全体の15%もない。


 これはホントにあのLP?

 カードゲーマー同士が誇りを賭けて決闘するときの、あの?

 認識できてるってことは、つまり操作できるんだよね?

 強すぎない?これ弄れたらさ、もう死なないよね?即死以外では。


 色々な疑問が浮かんでは消える。

 能力の実験で、確証のない数値を弄るときはちょっと警戒している。

 単位がキログラムとかセンチメートルなど明らかなものであれば別だが、たまたま認識できた数値がポイントとか%の場合は、ちょっとずつ上下させて確かめる。

 このLPはまさしく警戒すべきものなのだが…


 出血と疲労で思考能力が低下していたのと、LPを認識できた興奮であまり後先考えずに実行に移した。

 俺は、気付けば残り10%もなかったLPを一気に満タンにしたのだった。








 ______________________________________








 俺はオフィスビルの4階に戻ってきていた。

 時刻はもう14時を回っている。

 昼休みを1時間以上も多く取ってしまった。

 上司に何て言って謝ろうか…

 そんなことを考えていると、前から篠田が駆けつけてきた。


「ちょっとアンタ、大丈夫なの!?」

「…何が?」

「何がって、血よ!喫煙所に落ちてた血、アンタなんでしょ!?」


 もう知られていたか、早いな。

 これも犯人の根回しか?

 だが、これに乗っからない手は無い。


「実は2日目なんだ…」

「バカ!ふざけてるんじゃないわよ!!」

「…悪い、実はちょっと鼻血が止まらなくなってな、落ち着くまで休んでいた」

「そうだったの…?」

「ああ、報告する間もないくらい緊急でな。これから謝りに行くところだ」


 そう言うと、篠田は心配しながらも一旦引き下がった。

 階段の血も篠田が綺麗に流してくれたらしい。

 今度何かご馳走しなきゃな。

 別れ際、篠田が俺の服に言及してきた。


「そういえば、アンタ、ジャージ…」

「ん?ああ、血で汚れちまったんで適当なのを買ったんだよ、ホラ」


 俺は白いビニール袋に入った血に汚れたジャージを、刃に貫かれた部分を見せないよう篠田に確認させた。

 篠田は決して少なくない血液量に驚き、病院に一緒に行くよう食い下がってきたがなんとか宥めて、持ち場に戻らせた。


 その後上司に報告をしたところ、大事を取って今日と明日丸一日は休むように言われた。

 そして明日はちゃんと病院に行って検査してくるようにも言われた。

 仕方ないので、俺は明日、どこも悪くないけれど病院に行くことになった。

 そう、右手も含めて、



 少し前

 四ツ矢にあるビルの屋上で、俺は自身の能力を使い、謎の数値【LP】を最大値まで引き上げた。

 すると深々と貫かれていた腹の傷が、見事に消えた。

 それどころか、右手の骨折も完治した。


 LPは、やはりライフポイントのことだった。


 敵が、死ぬ間際まで追いつめてくれたおかげで、俺は命を認識することができた。

 まだまだ未知の数値だが、ケガやダメージが瞬間治ったのは、そうとうなチートだ。

 俺は腰を上げると、まずは血まみれで穴の開いたシャツとジャージの代わりを調達すべく、四ツ矢の街に降りた。



 早退と明日1日休みを言い渡された帰り道。

 今回の襲撃で、犯人が社内の人間である可能性が高いことが分かった。

 そして、社内の人間であれば犯人は…

 まだ確証は無いが、休み明けに俺は、犯人と思しき相手に直接接触しようと思った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る