第36話 コックローチ ー狼藉者ー

あの裁判から数日後、元侍女だった私ミルナ・ウィン・コキアは、かつて父が治めていた元コキア領地に来ていました。


「ああ、懐かしい………。また、この地に来れるなんて。私が貴族に戻れるなんて、計画にはなかったのですがね……」


貴族に戻るということは不可能だと思っていただけに、エンジ君との婚約が戻った後は大変でした。エンジ君の実家では私の貴族復帰およびエンジ君との婚約パーティーが開かれ、その日のうちに貴族夫人になるための勉強も始まったのです。長い間平民として生きてきたために、貴族の社会・マナーなどを勉強し直さないといけなくなったのです。まあ、私自身が優秀なこともあってそこまで苦に思うことは無いのですがね。



そして今日は息抜きを兼ねて休みをもらいました。せっかくなので父が治めていた領地に足を運ぶことにしたのです。


「これは思ってもいない幸運でした。貴族に戻るなんて考えてもいなかったのですが嬉しい誤算ですね」


幼い頃に何度も足を運んだこの地は私の父の領地だったころからあまり変化していないみたいですね。大きくはなかったが栄えていた町。緑豊かな大地。風が運ぶ野に咲く花の香り。その全てが私の懐かしい思い出そのもの。あまり変わっていなくてよかった。


「お父様、お母様。私は戻ってこれました。必死に生きてきたかいがありましたわ」


必死にここまで生きてこれたおかげで、サエナリアお嬢様に出会い、前世の記憶を取り戻し、私自身が貴族に戻ることができた。婚約者と共に。もうここまでの奇跡があろうか……?


「やっと見つけたわよ! この黒幕!」


ふぇ!? 吃驚した! 一体何…………が? はあ!?


「え………な!? そんな、貴女は!? どうして!?」


こ、この場所で、どうしてこの女がいるの? いったいどうして!?


「久しぶり………と言っても、私はあんたのことなんか詳しく知らないんだけどね」


「ワカナ・ヴァン・ソノーザ……!」


そんな馬鹿な……。確か数か月の謹慎処分を受けたって聞いていたのに……まさか、自力で抜け出してきたとでもいうの? いいえ、それはない。彼女の服装は黒く汚れているけど平民の物。ワカナの頭で抜け出した後に服を調達する知能は絶対ない。誰かが力を貸しているとしか……いったい誰が?


「私の取り巻きから全部聞いたわ。全部あんたが仕組んだってことをね」


「え?」


ああ、取り巻きか! 確かにゲームでも、いかにもモブって感じの少年がこの女に最後まで尽くそうとして凶行に及ぶというシナリオが……。


「私の姉の失踪とか、家の没落とか、全部あんたが仕組んだってことは全部知ったってことなのよ!」


「っ!?」


え? これって確か、バッドエンドルートの流れじゃん! この場合って私がヒロインポジションってこと!? ヤバい! 多分、間違いなくナイフ持ってるよ二人とも! きっとどっかで取り巻きが待機してるんだ!


「あんたってコキアとかいう没落貴族の娘だったのね。それで侍女やって冴えない姉に媚を売って支えてたくせに、負け組のくせに! 私を、私の家を、私の両親を妬んで家ごと潰すなんて最低よ。この没落貴族の亡霊ごときが!」


「………………」


この女、なんて言った? 馬鹿のくせにサエナリアお嬢様を冴えないだと? 私のことを悪く言ってもいいけど、サエナリアお嬢様を悪く言う資格はないじゃない? 何か一気に心が覚めて冷静になれる。


「しかも今は貴族の若い男を誘惑して貴族に戻った? ふざけるんじゃないわよ! 体で誘惑して男をモノにするなんてこの下衆! あんたなんか人ですらないわ!」


「………………」


この女……、取り巻きに助けてもらったんでしょうに何様のつもりだ? 貴族に戻れたのは私のことを認めてくれた人たちの助けによるもので計算外だっていうのに。


ああ、こんな女も、その取り巻きも、もう恐れる必要がどこにあるのでしょうね。


「あんただけは絶対許さない。あんたをぶっ殺して私は貴族に戻るのよ!」


「!」


懐から鋭利なナイフ、やはり持っていましたか。本気で私を殺すおつもりなのですね。己の我儘を貫き通すために殺人まで……何と愚かな。


「やあああああ!」


ナイフを持った手で、怒りの形相で突進してくるワカナ。だけど、私は恐れたりなんかしません。これで死ぬのは貴族令嬢のヒロインであり、今の私は様々な分野を学んできた元侍女なのですから。


「はっ!」


華麗にかわして見せましょう。


「え!?」


そしてそこから、体勢を崩したワカナを後ろから取り押さえて身動きを取れなくしました。私、見事!


「ぐはっ!?」


「動きが単調ですね。私を殺すつもりのご様子でしたが、そんなやり方では私に傷一つ付けられませんよ?」


「な、何すんのよ! 刺されなさいよ!」


刺される? とんでもありません。狼藉者と対決したり取り押さえる訓練を積んだ私がこの程度で刺されるはずがありませんわ。


「それに、お言葉ですが。全ては貴女のご両親と御自身の自業自得であり、私に非はないと存じます。何しろ、私が行ったのは悪徳貴族の罪を暴き法のもとで裁く礎を築いたまでです。私自身が貴族に戻れたのは王族の方々の御厚意であり、婚約者ができたのは幼馴染みに突然告白されて受け入れたからです。ハッキリ言ってこれは計画になかったことです。貴女の思っているようなことは一切ありませんので、御理解ください」


「な、何を言ってんのよ!」


取り押さえられた怒りで頭にうまく入ってこないでしょうね。もっとも、その頭では落ち着いて聞いてもご理解されないでしょうね。……ていうか、よくここまで汚れますね。


「それにしても汚いですね。まるで黒光りする虫のようです。もうそろそろ触るのも嫌になってきました」


「む、虫!? それに、汚いですって!?」


当然でしょう。鏡を見せたら喚きそうですね。どう見たって、あの黒くて素早くて衛生的に悪い虫を連想させる格好なんですから。


「ええ。とても貴族令嬢の身だしなみとは思えませんわ。いくら逃亡中でも平民でもしないような格好をなさるなんて。髪を整えたり湯あみをするのも一人ではできないからですね。一般的な悪役令嬢……ああ失礼、もう貴族ではないのだから狼藉者ですね」


くっ、あまりの酷い暴言のえいでうっかり悪役令嬢と遂に言ってしまいました。くくく……。


「あ、悪役? って、ふざけんな! あんたのせいだろうがぁぁぁぁぁ!」


「喚かないでください。うるさいので」


「きいいいいい! コケにしやがってえええええ!」


ワカナは狂暴な元令嬢ですね。でも、私は結構体を鍛えている方なので身動きさせませんよ。頃合いを見て気絶してもらいましょうね。


「無駄ですよ。これでも鍛えてる方ですので」


「畜生、出番よ! オルマー!」


「うへへへへへ………」


「!」


やっぱりいましたか。ワカナの取り巻きの……って何あれ? ゲームよりも気味の悪い男なんですけど。よくあんなのを取り巻きとして傍に置いたもんですね。うわ、ナイフを舐めてるし生理的に無理。


「おや? 仲間がいましたか。面倒なことを」


「あはははは! この私が一人で動くような馬鹿だと思った? 大間違いよ馬鹿じゃないの? こんなこともあろうかと、がはっ!?」


もうこれ以上は聞くに堪えないので気絶してもらいます。


「ききききき、貴っ様ぁぁぁぁぁ! なんてことしやがるぅぅぅぅぅ!」


「峰打ちですよ。貴方を潰すためにも彼女の面倒は見きれませんからね」


武器がないのでワカナの相手などしてられないのです。それにしてもワカナに対して本当に狂信的ですね。ここまで異常な怒りを露わにするとは。さあ、どうしたものでしょうかね。目の前の男はワカナと違って弱いとは限りませんし油断はできません。


「許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さないぃぃぃぃぃ! よくも俺のワカナ様をぉぉぉぉぉ!」


「自業自得ってやつですよ。はぁ、それにしても面倒ですねぇ」


せっかく故郷に足を運んだというのに、ここまで来てソノーザ家との因縁に関わることにんるなんて。まあ、この男も救いようはなさそうですが。……え、あれは!


「ぶっ殺してや、ぐへっ!?」


取り巻き狂人男の後頭部に、私の婚約者の蹴りがいい感じに炸裂する! ここで駆けつけてくれるなんて!


「俺の婚約者に手出しをするな!」


「エンジ君。ナイスタイミング!」


取り巻き男はエンジ君の蹴り一発食らって倒れて気を失った。これでもう一安心です。


「ありがとうエンジ君。助かりました」


「ミルナ! 大丈夫か!? どこか怪我はないか!?」


私のことを心配してくれるエンジ君。正直嬉しです。


「心配事しなくても私は傷ひとつありませんよ」


「すまなかった! この女が君を襲ってくるなんて思ってもいなかった。何故こんなことを………」


エンジ君は信じられないような目で、倒れている愚か者達を睨み付ける。


「どうも、家が潰れたのは私が元凶だと思ったそうです」


「何だって!? まさか、君を逆恨みするなんてどういう思考回路しているんだ!」


全くです。いいえ、よくたどり着けたというべきなのでしょうか。ある意味、黒幕の一人なのは事実ですしね。まあ、そんなことはワカナ達を憎々しげに見るエンジ君には言いませんがね。


「取り敢えず彼女達を拘束しましょう。起きたらまた襲い掛かってきそうですし」


その前にエンジ君が殺人を起こしかねませんからね。


「そうだな。それにしてもよく対処できたものだ。すごいじゃないか」


褒められてしまいました。照れくさいです。


「あの家の侍女をしておりましたので。護身術は必須でした。特にそこの女の我が儘が酷くて……」


そこの女のせいでサエナリアお嬢様がそれだけ苦労されたことか……


「!? ………そ、そうか。そうだよな。それでも大したものだ」


「ふふふ、ありがとうございます。それでは彼女達を縛って報告しましょう」


「ああ、俺から連絡を入れよう」


とりあえず、この馬鹿二人はとっとと縛り上げて町の衛兵に預けましょう。はあ、せっかくの休日がつぶれてしまいました。今度こそ、ソノーザ家との因縁が終わればいいのですが。

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