第10話 私の好きな人♡
「こ、こっちはダメ。あの人、橋の下にいるって知ってたもん!」
先程の言葉は、私たちが向かっているところを示していた。
「あいつらはどこにいたって俺を見つけだせる。それより……」
足を緩め、力いっぱい握った私の手をまたぐっと握り直し、白ちゃんは静かに言った。
「ごめん、怖い思いをさせたな」
「は、白ちゃん。あの人の言ったこと……」
「ああ、本当だ。俺は不正行為を犯して、この時代に逃げて来たんだ」
「じゃ、じゃあ……」
泣きそうになる私の腕を掴み、白ちゃんはまたそのまま歩き出した。今度は橋とは反対方向に。だから少しほっとした。
「俺のいたところではさ、こうやって手を繋いで歩くことなんてなかったんだ」
どこか寂しそうな様子で口を結んだ白ちゃんがゆっくり呟く。
「機械に任せればどこにいても何でも簡単にできる。人を思い通りに扱ったり、逆に騙されない機能を使ったり、そんなことが一瞬にして可能にできてしまう世界なんだ。人と人が出会う必要もない」
信じられない話が、頭の中でぐるぐる回る。
「でも、もう行く末を物語ってるような世界だった。俺の絵あるだろ? あれは全部、俺の時代の絵なんだ。空だって、こんなに青くなくて、曇ったように真っ赤なんだ」
「は、白ちゃん……」
「だから、この時代に来た。ここなら、まだ間に合うと思ったから。だからたくさん絵を描いて、これから先の未来へ少しでも多くの人に伝えたくなった」
そこで、白ちゃんはおかしそうに笑った。
「おまえだけはいつも俺の絵を明るい物語に変えてくれた。だから俺もこの時代の希望を捨てなかった」
白ちゃんの指が、私の額に触れた。
「や、やめて!」
無意識にも体が反応した。
今、白ちゃんは、あの人と……あの人と同じことをしようとしているから。
「でも、俺がやらないと。あいつらがおまえを無事に帰してくれるとは思えない」
「い、嫌だ」
「大丈夫。俺と過ごした部分だけ消すだけだから。すぐに終わるよ」
そして、白ちゃんは付け加えた。
「一つだけ信じて欲しい。俺は桃倉の気持ちを操っていない。たとえそれが可能でも」
白ちゃんの悲しそうな表情が目に入る。
私が、一番見たくなかった顔だ。
「あ、当たり前でしょ。私が一目惚れしたのは私の意志よ!」
決められていた未来なら、どうして毎日毎日失恋しなきゃいけないのよ。
そう言いかけてやめた。
わかってる。
「い、いいいい言っとくけどね。そんなに簡単にわたしの気持ちは変わらないんだからね。すぐに忘れられると思ったら大間違いよ」
わかってるよ。
「でも……」
わかってるんだよ。
「け、消していいよ」
「え?」
「そろそろ解放してあげるわ」
消さないと、白ちゃんが人間じゃなくなるから。
「そんなに簡単に忘れないけどね、絶対」
バカにしないでよね。
そんなに簡単なものじゃないんだから。
「消せるものならやってみなさい!」
乙心をなめんじゃないわよ。
言ってやりたかったけど、できそうになかった。
「ああーっ、もうっ! 好き好き! 白ちゃん大好き! もう、消される前にこれからの分も言っといてやる!」
絶対、絶対忘れてなんてやるもんですか。
「好き好き好き好きす……」
「うん、俺も」
気付いたら、白ちゃんの腕の中にいた。
力いっぱい抱きしめられているのがわかる。
「は、白ちゃ……」
「俺が全部覚えておくから。おまえの分まで」
耳元で聞こえた絞り出すような声に目頭が熱くなる。
「毎日毎日勢いよく抱きつかれたり、会うと恥ずかしいくらい大声で名前を呼ばれたり、あたりまえのように隣に並んで帰ったことも、一緒に見た空の色も、景色も、この道も」
涙がこぼれた。
(行かないで)
この手を離したら、全てが終わってします。
(行かないで、白ちゃん)
言いたいことはまだまだあるのにうまくまとまらない。
大きな夕日が燃えるように遠くで輝き、私たちを照らしていた。
「夕日のさ、あの赤さは好きだったんだ」
「大切な人を失ってまでも手に入れないといけないような未来なら、私はいらないのに」
もっと白ちゃんを見たいのに、涙でぼやけて見えない。本当に最悪だ。
「いつか、きっとおまえの物語が描くような未来が来る。きっと、そしたら……」
「そしたら、ご褒美にデートして」
「えっ……」
「私の行きたいところ、全部付き合って」
「桃倉……」
私の言葉に白ちゃんは驚いたように目を大きく見開いたけど、それでも今までに見たこともないような満面の笑みを浮かべて頷いた。
「約束する」
「うそっ! 本当に?」
「ああ、本当に本当」
そんな状況ではないとわかっていたけど、私は飛び上がってしまっていた。
「忘れると思って、適当なこと言ってない?」
「そんなことないよ」
「いつもと全然違う」
いつも、こんなに優しくなかったじゃない。
「大切だったんだ」
後ろの方で、迫り来る足音が聞こえた。
「桃倉のことを守りたかった」
「……お、遅いわよ」
思わず頬が緩んだ時、ゆっくりと引き寄せられた唇に白ちゃんのそれが触れた。
「っ!!」
驚いて飛び上がったのもつかの間。
少しずつ力が抜けていくのを感じる。
何度も何度も想像したこんな状況が起こるとは思っていなかったのに。
頭の中で何かが弾け、真っ白な世界に包まれていく。
それはあたたかく優しくて、薄れゆく意識の中でなぜだかわからないけどまた涙が頬を伝うのを感じた。
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