帰還兵

外山 脩

帰還兵

 昭和四十七年二月二日、その男は三十一年ぶりに祖国の日本に帰ってきた。


「ここは本当に日本なのか」男はじめはそう思った。

 

 太平洋の南方にある孤島で、まったく人目をさけながらジャングルで暮らしてきた男にとって、昔に比べすっかり変わった日本は驚くことばかりだった。  

 帰国して二ヶ月間を東京の病院で養生し、やっと故郷の名古屋に帰ってきた。

 男は二十六歳のとき日本を離れ、帰国したいまは五十七歳になっていた。

 父と母はすでに亡くなっている。

 男は誰よりも自分を可愛がり心配してくれた母に会えなかったことをなによりも悲しんだが、これからは失った時間の空白を埋めながら新しい世界で生きていくつもりでいた。

 そしていま男は母の石碑の前で心の中のいろいろな「思い」を募らせていた。

  

 

 昭和十二年、日本と中国の間で戦争がはじまった。

 

 翌十三年、男は日本陸軍による召集をうけ軍に入隊。食料や弾薬を運ぶ補充兵として中国に出征したが、その翌年には招集解除になり帰国。その後は出征前から営んでいた洋服の仕立屋を続けていた。

 

 昭和十四年には「第二次世界大戦」がはじまり日本も参戦。

 

 男は昭和十六年に二度目の召集をうけ中国に出征した。

 二年半の勤務の予定だったが、勤務期間中に日本軍がアメリカのハワイ島を攻撃し「太平洋戦争」がはじまる。そのため彼が所属する補給中隊は中部太平洋方面の守備隊として激戦地のグアム島に上陸した。島にはアメリカ軍の上陸を水際で阻止するために、彼を含む約二万八百人の兵士が動員されていた。

 

 昭和十九年、サイパン島の日本軍の守備隊の四万人が全滅し、アメリカ軍はグアム島にも攻撃をはじめた。日本軍の五倍の兵力と百倍の火器を持つ敵の前ではとうてい勝ち目はなく、一日で守備隊の八割が戦死し壊滅状態になった。

 

 その後日本軍は、約五千人ほどの残存兵力と残り少ない武器で絶望的な体当たり攻撃をするしかなかった。

 彼の所属部隊の中隊長のひとりが「グアム島の戦闘は事実上終わった。いつか友軍が敵軍を追い払ってくれるだろう。それまではなんとか生きのびてくれ」そう語っていた。その言葉を信じ、男は十人の仲間と共に敵軍から逃げながらジャングルで暮らした。

 

 昭和二十年、アメリカ軍の日本本土への空爆。そして広島、長崎への原爆投下により、六年間に渡った世界規模の戦争は日本の無条件降伏で終結した。

 このとき彼は残った仲間二人と地面に掘った地下壕で暮らしていたが、意見の違いで喧嘩も絶えなく、やがて彼だけ仲間とは別の地下壕で暮らすようになった。

 終戦のことは食料集めの時に山の中で拾った新聞で知ったが、どうしても捕まって捕虜になるのは嫌だった。男はどうしても母に会うまでは死ねない思った。

 

 昭和三十九年、二人の仲間も死んでしまい。男はひとりきりになってしまった。それでも、ただ生きることだけに全身全霊をそそぐ日々を送った。

 彼は仕立屋の経験を生かし、パゴの木の内皮を叩いてつぶした繊維で服を作ったり、竹で籠を編んだり、道具を作ったりと創意工夫をしながら忙しい毎日を送っていた。それは男の心の支えであり、文明とのせめてもの繋がりでもあった。

 

 昭和四十七年、男が川で海老を捕っているとき、偶然通りかかった島民に発見され保護された。ひとりになって八年。そして終戦からはすでに二十八年も過ぎていた。

 グアム島守備隊二万八百人のうち、千三百五人が生きて日本に帰った。彼はその最後のひとりの兵士だった。

 彼が保護されてからも、戦友たちの亡霊が夢に現れ続け、周囲に対する警戒心もなかなか消えなかった。それでも彼は生きて帰れたことを戦友たちと母に感謝した。 

 

 三十一年ぶりの日本はその男にとって、まったくの「異世界」にみえた。

 

 彼が帰ってきた故郷の名古屋の街も天と地ほどの変化をしていた。

 

 街の中は明るくなり、道も広くなった。人々の服装も昔とは全然違う。

 いままで国防服姿しか知らなかったので、見たことのない派手な服装の日本人には驚いた。食べ物屋も昔のように薄汚くないし、ゴタゴタしてなくてきれいだった。

 普段の会話もずいぶん変わっていて、やたらと西洋語が出てくる。

 まずは養生中の病院で広場のことを「ロビー」などと知らない言葉を使う。

 それに「バス」にも「ワンマン」という意味のわからない言葉がついている。

 戦前にはなかった「テレビ」にも驚いたし「コマーシャル」も初耳だった。

 ほかに「テープレコーダー」という昔のレコードみたいに音のでる機械まである。

 酒場は「キャバレー」だし、西洋語に馴染むにも随分時間がかかった。

 

 お金の価値も昔とは全然違い、使い方もまったく見当がつかない。

 

 昔は服は四十円だった。今はいいもので千倍の四万円。

 食べ物も昔は安かった。

 きしめんは小盛り五銭。丼ものは四十五銭からあり、洋食の定食が五十銭。

 今では食べ物に雑誌なんでも全て「えん」を使う世界。どこにも「せん」が存在しない。生活するのも二人で一ヶ月暮らすのに十万円はいるというし、物価は高くて税金も高い。みんな税金を払うために働いているようなものだ。

 それに空気も汚く海も汚れている。つくづく日本は暮らしにくい国になったと男は思った。

 

 三日に一度、彼は散歩に出るといって村はずれにある母の石碑に、いい知れぬ寂しさや兄弟にもいえないこと、いろんな思いを吐き出しにくる。

「婆さん、またくるな」そういって石碑に手を合わすと男は去っていった。

 

 昭和四十七年、生活も落ち着き結婚した男は、グアム島でのサバイバル経験を生かし「耐乏生活評論家」として全国各地を講演して回ったり、本を出版したりとさまざまな資料を残した。

 

 平成九年九月二十二日、その男は心臓発作により八十二歳で人生を終えた。 

 


 おわり


                        


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参考文献


「文芸春秋」にみる昭和史 第三巻 文藝春秋編 文藝春秋社

グアムに生きた二十八年 横井庄一さんの記録 朝日新聞特派記者団 朝日新聞           

陸軍伍長横井庄一 その28年間のグアム島生活記録  サンケイ新聞フジテレビ特別取材班

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