緑のたぬき
伊予国から安芸国から渡る。まだ秋の入り口で、紅葉も染まり始め名所と名高い宮島の紅葉もちらほら、というところだった。
今年は秋が遅いようですなぁ、と権左はキセルをそばの石に叩きつけた。カッと冴えた音が響き、何匹かの鹿が振り向いた。
「あいやすまぬ。驚かせてしまった。刑部様もいかがですか。大隈の島から取り寄せた上物でございます。いや、やはり美味い」ふうっと紫煙を吐き出した。
「うむ。せっかくだからな頂いておこう」隠神刑部は、螺鈿細工を施された紫檀の煙草盆から、優雅に煙管を取り出すと自らの手で雁首に煙草を詰め、火をつけた。
紫煙が流れてゆく。空の高みではピーヒョロと鳶の声が響く。のどかだ。
これから備後、備中、備前と進み播磨、河内あたりに着く頃には、紅や金に染まる畝傍山が目に入るのではないだろうか。季節は確実に進んでゆく。毎年、毎年。
残暑が終わり、涼しい風が吹き始めた頃から、用意した蕎麦と出汁、それに小麦粉や卵を朧車に乗せて、遠く下野国まで旅に出る。移動蕎麦屋「いぬがみ屋」。刑部も先代の刑部から引き継いでもう二百年にもなろうか。その間に旅をする仲間も変わり、そして何より時代が変わった。朧車ともども変化して諸国漫遊の蕎麦屋を気取って、街道を賑々しく練り歩いたのは、昔のこと。今ではその道も人間が、はばをきかせ、刑部たち一行が走ることさえできない。故に今では廃れてしまった旧街道を細々と商いしてゆくのみ。今は山陽道の旧街道筋か少し外れた山道で、一息ついているところである。
「さて、そろそろ出立するか。権左、朧の調子はどうだ」権左と呼ばれた背低く、がっしりとした地黒の男は、問題ありません、いつでも。と答えた。
「この道すがら、商いをいたしまして、丑三に速度をあげて備後国に入りまする」
「うむ。ではいぬがみや、いざ、参らん」
こうして刑部たち一行の旅は、下野国にたどり着く師走の末まで続くのである。
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