赤いきつね

 「今夜は一段と冷えるねぇ」玉藻は障子のを少し開けてた。店の外には化け提灯が師走の風を受けて揺れている。一つ目が玉藻の視線とぶつかった。ぱちぱち。一つ目は、まばたきをして玉藻見ている。

 「禅さん、提灯に油を足しておくれ。この寒いのに気張ってんだからさ、油ぐらい足してやっておくれな」禅と呼ばれた男はへぇ、と言うと奥に引っ込み油壺とひしゃくを持ってきた。白地に朱文字で『』と染め抜かれた暖簾が、ときおり通り過ぎるわずかな師走の風に揺れる。「姐さんが食わしてやれってよ。ほれ」禅さんは化け提灯の外筒の裂け目から差し入れた。ぽっ、と一瞬ほのおが明るくなった。「そうか、旨ぇか。じゃ、もう一杯いっときな」ひしゃく二杯の大豆白絞油を注がれて、化け提灯が嬉しそうに揺れる。「あれあれ、飛んでっちまわないでおくれよ」玉藻の瞳はその様子を見て美しく弧を描き細くなった。「今夜は冷えるからね、しっかり気張っとくれよ。と、言っても誰がくるやら」

』は、ススキの生い茂る野っ原の中にある。老舗ではあるのだが、訪れるのはよほどの物好きだ。

 「今日も良い出汁が出てるね」調理場では鰹と昆布から取られた黄金色の出汁が、湯気をあげている。へぇ、麺の出来も最高でさぁ。禅さんは、さらし粉をまとった真っ白な麺を玉藻に見せた。均等に小分けされたうどん麺が、もろぶたの中に行儀よく並んでいる。「どうです。この真っ白な姿。まるで、姐さんの…おっと、こりゃいけねぇ、調子に乗り過ぎました」ふふ。良いんだよ。

 「たった二人じゃないか。少しは賑やかにしなくちゃねぇ」

 「まったくでさ。これだけ美味しいうどんを用意してるってのに…全く」

 「仕方ないさ。ここはだよ。迷い混んでくるのは、よほどの変わり者だよ」

 「そりゃぁ…そうなんですけど」

 それにね、今夜あたりあのお方がそろそろお着きになりそうなのさ…

 禅さんの細い目が見開かれた。

 「ま、まさか刑部さまが…」

 障子の隙間から吹き込んだ雪の欠片が玉藻の肌で溶けた。

 昔の寒さはこんなものじゃ無かったよ。

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