第2話 間違えた選択

 次の朝、目覚めた私はいつものごとく支度をして弟と一緒に家を出た。

 昨日のように啓介と一緒ではない。

 それは今の私にとって都合のいいことだった。

 だって啓介と普通に会話ができる自信がないのだから……。


 学校で本を読んでいるとぞろぞろとサッカー部の男子生徒が廊下を歩いていくのが見えた。

 サッカー部はちょうど朝練が終わったところなのだろう。

 ということは……。

「会いたかったよ!マイハニー!」

 そう言いながら後ろから抱きついてきたのは智子だ。

 私の後頭部にその豊満な胸がグリグリと押し付けられている。

「体調は大丈夫なの?」

「うん。こんなに強く抱きしめられてなかったら、さらに元気だったはずよ」

「そっかそっか。それはよかった」

 さらに抱きしめる力が増す。

「心配したんだよ?返信もなかったし」

 携帯を確認するとたしかに連絡があったようだ。

「ごめん。昨日は寝てた」

「ううん。無事ならいいよん」

 一度も通知に気づかなかったということは、おそらく一度もスマホを見ていないということだ。

 それほどまでに自分は気が滅入っていたらしい。

「ところで、原因は何だったの?もしかして昨日なんか言われたこと?」

「そんなこともあったわね。忘れてたわ」

 陰口を言われたことはすっかり記憶から欠落している。

 陰口すらもかき消してしまうほどインパクトがあった体調不良の原因はほぼ分かっているが、正直自分はそれを認めたくはなかった。

「さぁ。疲れかしらね?」

「ふぅん」

 得心のいかない顔をしている智子が私の耳に近づく。

「啓介?」

 その言葉に一瞬息が止まる。

 そしてやっとのことで言葉を発した。

「ち、違うから!何よそれ!」

 席から立ち上がってしまった上に思いの外大きい声が出てしまい、クラス中の視線が集まる。

「ご、ごめん。みんなも騒いでごめんね」

 智子が謝り、私が席に座る。

「ごめんてー。機嫌直して」

 ムスッとした私にウインクしながら手を合わせて謝ってくる。

「そんなんじゃないから」

「わかった。わかった。とりあえず何か言われたことが原因じゃなくて安心した」

 そう言いつつも何か言いたくて仕方がない様子だ。

「ふーん。でもそうかぁ。葵が啓介をねぇ…」

「だから…むぐっ!」

 また大声を出しそうになった私は口元を押さえられる。

「ほらほら。また注目されちゃうぞー」

 抵抗する私をニヤニヤしながら眺めてくる智子。

 その顔を見て無理やり手を引き離す。

「ぷはっ。だから…」

 さすがに声のトーンは落とす。

「そんなんじゃないから」

「そんなんってどんな?」

「それは……」

「私は啓介って名前を出しただけだけど?」

 私は智子の顔を見上げた。

 さっきよりもさらにニヤニヤしている。

 明らかに新しいおもちゃを手に入れた子供の顔だ。

 この子にだけは絶対に隠し通さなければならなかったと後悔したがもう遅い。

「とにかく!変な詮索はするんじゃない!」

「はいはい。分かりましたよぉ」

 強制的にこの話題を終わらせる。

「ところで葵。相談があるんだけど」

「何?変なことじゃないわよね?」

「疑り深いなあ、もう」

「日頃の行いの結果よ」

 智子を睨みつける。

「おー!こわっ!」

「で、相談って?」

「それが、サッカー部のマネージャーを増やそうって話してて。葵やらない?」

 現在のマネージャーは二年の岡村先輩と智子の二人だけだ。

 詳しくは分からないが、県大会への出場も可能と言われる我が校のサッカー部にとっては少ないのだろう。

「なぜ私に?」

 人数が足りないにしても人選の理由が気になる。

「葵と一緒にできれば楽しいと思ってさ」

「そう……」

 一緒にやりたいと言ってくれたことは素直に嬉しい。

 なのに照れ隠しのために素っ気ない返事を返してしまう自分。

 こういうところがあまり人に好かれない所以なのだろうかと思ってしまう。

 誘ってくれて嬉しいという気持ちを改めて素直に伝えようと智子を見ると、何か違和感がある。

「本当の理由は?」

 笑いをこらえたような表情の智子に聞く。

「そりゃ、葵を啓介のそばに置いといたらおもしろいだろうと……いたたたたっ!痛い!痛い!」

 答えをすべて聞く前に私は無言で立ち上がって智子の頭を両側からげんこつでグリグリと挟む。

「まだ言うかっ!」

「ごめん!ごめんて!」

 それを聞いてさらに力を入れる。

「ギブ!ギブ!」

 智子がそう言った時、横に人の気配を感じた。

「お、三嶋!おっす」

「おはよう、原田。それに桜木さんも」

「おはよう」

 忘れていた昨日のことを少し思い出してしまい、目が合わせづらい。

 この気まずさはどうやら三嶋くんに伝わってしまったようだ。

「桜木さん、昼休みにちょっと話せる?」

「うん」

「じゃあまた呼ぶから」

「分かった」

 去っていった三嶋くんをじっと見つめる智子。

「何だ?あいつ。話って」

「それは……」

「さては!昨日何か言ってきたのって三嶋か!」

「えーっと」

「おのれ!愛しの葵をけなしやがって!成敗してくれる!」

「待って待って!三嶋くんはそこまで悪くないというか……」

「……と言うと?」

 私は昨日あったことを言った。

「フムフム。三嶋はそう言っていたのか。……キモイな」

「いや。まぁ否定はしないけど……」

「ぶはっ!否定はしないけど!あはは」

「でも、悪いのは三嶋くんじゃないし」

「まぁね」

 話をしているうちに先生が教室に入ってきた。

 朝のホームルームの始まりだ。

 私たちは話を中断して席に着いた。


 昼休みに私は三嶋くんに呼び出され、人気のない廊下に来ていた。

「あの!昨日は本当にごめん!」

 そして目の前で深々と頭を下げられた。

「もういいわよ。昨日謝ってもらったし。何なら三嶋くんは悪く言われている私を庇ってくれたんだし」

「でも!」

「それに、私は愛想ないし、身長高いし、胸も…。ああ言われても仕方ないわよ」

 私は少しため息をつくと視線を落とした。

「それは違う」

 三嶋くんが力強く言うので視線を戻すと、彼は真っすぐこちらを見ていた。

「昨日の言い方はまずかったけど、桜木さんのことは素敵な女の子だと思っているよ」

「…ありがとう」

「だからそんなに自分を責めないでほしい」

「うん」

 素敵な女の子なんて言われたことはないので、驚いて少し素っ気ない返事になってしまった。

 率直すぎてびっくりしたけれど、真面目な三嶋くんらしい。

「実はもう一つ話があるんだけど」

「何?」

「サッカー部のマネージャーを増やそうって話になっていて……」

「またそれか……」

「誰か言ってた?」

「智子からさっき聞いたのよ」

「原田か。で、どうかな?」

 智子から聞かれてから考えていたけれど、まだ答えは出せていない。

「三嶋くんはなぜ私を?」

 智子なら分かるが、三嶋くんから誘われる理由が知りたい。

「うーん、そうだなぁ。原田と仲いいだろ?啓介や僕とも知り合いだからやりやすいかと思って」

「それはそうね」

「でも一番はしっかりしていて仕事も真面目にやってくれそうってことかな」

「そう思ってくれているのは嬉しいけど……」

 何と答えようか迷っているその時。

「それはどうかな!」

 大きな声がして振り向くと、そこにいたのは……。

「啓介!」

 廊下を歩いてこちらに向かってきたのは啓介だった。

 どう振舞えばいいか一瞬迷ったが、精一杯平静を装う。

「それはどうかなってどういうことよ」

「そのままの意味だ」

「私のどういうところがしっかりしてないと思うのよ」

「言っていいのか?」

「どうぞ」

 通常運転の啓介の態度に、自然と私もいつも通りになる。

「昔は学校に忘れ物して俺がよく貸してたっけか」

「そんなの誰でもあるでしょう」

「いや、頻度もすごいが言い訳もすごかった!鞄ごと忘れた時何て言ったと思う?」

「ちょっと!三嶋くんに変なこと吹き込まないでよ!」

「こいつ泥棒に盗まれたっていったんだぜ!」

 それを聞いてツボに入ったのか大爆笑を始める三嶋くん。

「小学校のときの話でしょ。今は忘れ物ないわよ」

「そうだな。今はこれでもかってくらい確認するもんな。部屋を三回は見て回るもんな」

「三回は大袈裟よ!二回よ!」

「あれ、でも昨日体育の時靴下忘れてたよね?」

「……あ」

 三嶋くんに言われて思い出した。

「ぶははは。変わってねぇ!」

「あははっ」

 今度は三嶋くんに加えて啓介まで笑い出す。

 恥ずかしさに顔が熱くなる。

「もう!啓介!用がないなら帰ってよ!」

 私は啓介の肩を掴んで向きを変えるとそのまま押して退場させようとする。

「おい、ちょっと待った!」

「何よ」

「お前に話があって来たんだ」

 ドキリとした。

 岡村先輩とのことだろうか。

 今その話をされると、同じようにしていられる自信がない。

「実は…」

 その言葉を前に、私は手をぎゅっと握りしめる。

「俺もお前にマネージャー頼みに来たんだ」

「またそれか……」

 私の胸の奥に安堵と落胆が広がる。

「一応理由も聞いておこうかしら」

「理由か…。パッと思いついたのがお前だったからかな」

「何よ、それ」

「お前、サッカー好きだったろ?」

 そうだった。

 サッカー選手とかは知らないが、小学校の頃はよく昼休みや放課後にサッカーをしていた。

 みんなで集まってボールを蹴るのがあの頃の楽しい思い出だ。

「マネージャーだから一緒にボール蹴ったりはできないけど、サッカーの雰囲気だけでも味わえるかなと思ってさ。どう?」

「どうって……。まぁ考えとくわよ」

「おう!頼むな!」

「ちょっと!まだ決めたわけじゃないわよ」

「じゃあな!」

 一目散に去っていく啓介。

 それを眺めている私は普通の顔を保てているだろうか。

 昔のことを憶えていてそれを理由に誘ってくれたことが嬉しくて、私は三嶋くんに見られないように口元が歪むのを精一杯抑えた。

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