幼馴染に恋人ができた

川上龍太郎

第1話 忘れられない一日

 それは地獄のような日だった。

 何もかもを投げ出したくなるような。

 もちろん世界を見渡せば自分よりも大変な状況にある人は多いだろう。

 だが、自分の短い人生の中で最もショックを受けた日であることは疑いようもない。

 学校から帰って制服のままベッドへ寝転がり、布団に包まっていた。

 それでも日々の習慣を変えることはできない。

 自分の真面目さに自嘲する。

 布団から頭を出し、夕日に照らされた時計を見ると、ベッドから立ち上がる。

 台所へ向かう前にふと鏡を見ると、目は充血し長い髪は乱れている。

 そして自虐的な笑みを浮かべると洗面台へ向かう。

 目の腫れを抑えるために顔を洗っていると、再び今日のことが頭を過る。

 まさか今朝起きたとき、こんな一日になるとは夢にも思わなかった。

 

 桜木家の朝は早い。

 私、桜木葵の両親は父親が大企業の幹部候補、母親がベンチャー企業の社長というエリートで多忙を極める。

 私が起きる頃には、二人とも支度を終えているのが日常だ。

「それじゃあ葵。行ってくるわね」

「うん。いってらっしゃい」

 起きたばかりの寝ぼけた目で両親を見送ると弟の俊太の部屋へ向かう。

 布団の中には幸せそうな寝顔が。

 小6よりももっと小さいのではないかと思うほど、あどけない顔立ちの彼を起こすのは気が引けるが、学校に遅れることがあってはならない。

「俊太、起きなさい。お父さんもお母さんも会社行ったわよ」

 んーと言いながら布団の中でもぞもぞと動く。

 それでも起き上がる気配はない。

「こら。いつも出る時間ギリギリでしょ。いい加減にしなさいよ」

「うるさいなぁ、姉ちゃん」

 それを聞くや否や葵は布団を剥ぎ取り、胸倉を掴んで無理やり起こした。

「誰がうるさいって?」

 俊太は目を開けると正面には怒りに満ちた顔が迫っていた。

「お、鬼!」

「誰のおかげでいつも遅刻を免れてると思ってるのよ」

「あ、お姉さまのおかげです」

「分かってるじゃない。それじゃあどうするの?」

 にこりと笑った私に冷や汗をかきながら答える。

「起きて、顔洗ってきます」

「最初からそうすればいいのよ」

 俊太はそそくさと洗面台へ向かう。

「さてと」

 朝ごはんとお弁当の準備のために台所へ向かう。


 私と俊太の朝ごはんは晩御飯のおかずと同じであることが多い。

 小学生の俊太は昼ご飯が給食のために朝晩が同じ。

 だが私は自分の弁当も晩御飯の残りなので朝昼晩同じものを食べることが多々ある。

「あ!そのハンバーグ欲しい」

 箸の先で解凍した冷凍ハンバーグを指す。

 冷凍食品は変わらない3連続する食事の中で変化をもたらしてくれる貴重な存在だ。

「ダメよ。これは私のお昼」

「えぇー。ずるい」

「そっちは給食あるじゃない。それに起こしてもらって我儘言うとは結構なご身分ね」

「分かったよ……」

 渋々昨日の晩御飯と同じカレーライスを食べ始める。

 一度起こさず寝坊させてやろうかとも考える。

 その方が反省して一人で起きられるようになるかもしれない。

 何度もそう考えたが結局実行することはなかった。

 その度になんだかんだ弟を甘やかしている自分を自覚した。

 それだけではない。

 両親が多忙なため、自分の幼少期はどんなに強がっても孤独を感じずにはいられなかった。

 弟には同じ思いはさせたくないという考えからか、どこか甘やかしてしまう。

 

 支度を終えると二人は玄関を出た。

「忘れ物ない?」

「うん」

 玄関の鍵を閉める。

 自分と同じくらいの年齢の割と新しいマンションながら、鍵は昔ながらの挿し込むタイプだ。

 その時隣の部屋のドアが開く。

「おはよ」

 出てきたのは幼稚園に入る前から知り合いの柊啓介。

 私と同じ高校に通い、サッカー部の期待の星だ。

 背が高く、つんつん頭に日焼けした姿は、いかにもサッカー少年といった風貌だ。

「あら、おはよう。今日は遅いのね」

「昨日試合だったから朝練ないんだよ」

 同じ学校ながら、部活で忙しい彼とは登校時間が被ることはほぼない。

 そしてクラスも違えば部活も違う。

 幼馴染とはいえ接点はほとんどなかった。

「啓にいちゃんおはよう」

「おはよ、俊太」

 そう答える姿に少し違和感を覚える。

「妙に機嫌がいいわね。そんなに朝練ないのがうれしい?」

 怪訝な面持ちで聞く。

「えっ、いや。どうかな。そうかも」

 明らかに怪しい態度を見せた。

「姉ちゃん、鍵忘れた」

「忘れ物ないって確認したじゃない」

「ごめーん」

 啓介を追及しようとしたが、断念し鍵を開ける。

「俊太も来年は中学生か。早いな」

「そうね。そこから高校までもあっという間よ」

 俊太が戻ってきたので、3人でエレベーターに乗り下へ降りる。


 小学校へ向かうルートは高校へ向かうルートとコンビニのある交差点で分岐する。

「じゃあな、俊太」

「うん、バイバイ」

 手を振る俊太を見送り、学校へ続く長い坂を上る。

「懐かしいわね、小学校は」

「そうだな。こうやって二人で学校まで歩いたな」

「中学からね。別々に登校するようになったのは」

「俺が中学でサッカー部に入ってからも、しばらくは葵と一緒に行ってたな」

「仕方ないわよ。あんなんじゃ一緒に行けないわ」

 中学に入ってからも一緒に登校していた私たちは、思春期に入った周囲にさんざんからかわれた。

 啓介が人気者であり、目立ってしまったことも原因の一つだろう。

 それからは両親と同じタイミングで起きることはなくなり、私は一人で登校するようになった。

「でも今ならそんな心配もいらないかもね。中学ほど騒ぐ人もいないだろうし」

「そ、そうだな。でも朝早いぞ。無理して合わせる必要ないよ」

「それもそうね」

 私は鞄を握る手に少し力が籠った。

「ていうか、あなたは小学校のときから変わらないわね。ずっとサッカーバカ」

「バカってなんだよ。そっちだって昔から真面目バカだろ」

「真面目なのにバカとはおかしいわね。あなたみたいにギリギリで高校受かった人間と一緒にしないでくれる?」

「でたよ。人間は学力だけじゃ測れない。俺はそんなものを超越した深い魅力があるのさ」

「ますますバカっぽい」

「なんだって!」

「ほら、何も変わってないじゃない」

 私は得意げな顔をする。

「でも実際変わったところもあるよな」

「そう?例えばどんなところよ」

「葵、好きな人とかいる?」

 一瞬で心拍数が跳ね上がった。

 なんとか表情を取り繕って答える。

「別に。そういうの興味ないわよ」

「やっぱそうだよな。変わらないな」

「な、何?あなたはいるの?好きな人」

 平静を装って聞く。

「さぁね」

「何それ。どっち?」

「気になる?」

「私は正直に答えたのに、不公平じゃない」

「あんなの言ったうちに入らないだろ」

 そんな言いをしていると、二人の間にすぽっと一人入ってきた。

「うおっ!びっくりした」

「おはよう、三嶋くん」

「やあ、桜木さん」

 突然現れたのは黒縁メガネが印象的な三嶋悠一朗だ。

 優等生らしく制服をきっちり着こなしている。

 私と三嶋君は同じクラスであり、ともに委員長を務めている。

「三嶋君も今日は遅めの登校ね」

 彼もサッカー部に所属している。

 人望が厚く、運動神経もいい。

 そのため早くも次期サッカー部キャプテンと言われている。

「そうなんだよ。やっぱりこれくらいの登校がいいかな、僕は」

「朝起きるの辛いもんな」

 校門をくぐり、校舎へ入った私たち三人はそれぞれの教室へ向かった。


 委員長とは言っても普段の雑務は日直が行うので、仕事はそう多くはない。

 クラスをまとめ、より良い方向へ導くというのが役割だ。

 朝のホームルームを終え、一限は体育だ。

 一部の男子は女子がまだ多く教室にいるにも関わらず着替えだした。

「ちょっと!そこの男子」

 私は彼らを呼び止める。

「何だよ、委員長」

 彼らのうちの一人が答える。

「まだ女子が残ってるから、もう少し着替えるの後にしてくれない?」

「……わかったよ」

 渋々そう返すと着替えを中断した。

 私は他の女子と同じタイミングで教室を出た。


「あ」

「どした?」

 突然の声に友人である原田智子が聞く。

「靴下教室に忘れた」

「ありゃ」

「ごめん、先行ってて」

「ほーい」

 廊下を早歩きで進み、教室へ戻る。

 だが教室の中は男子が着替え中だ。

 誰かが出てきたときに、取ってもらえるように頼むしかない。

 そう考えていると、中から男子の会話が聞こえてきた。

「何だよ、さっきの」

「桜木?」

「そう」

 ドキリとした。

 会話の内容は私のことだ。

「男が着替えてても構わねぇだろ」

「そうそう。迷惑なのは勝手に着替えを意識してるあいつじゃねぇの?」

「あんな態度とっといて内心は、キャー!男の着替え見ちゃった!とか思ってんのかな」

「うわ、キモイわ。ただでさえ性格キツくて身長高くて声も低め、需要ねぇのに」

「しかも貧乳だしな!」

 わははは、笑う声がした。

 唇を噛みしめる。

 このように陰口を叩かれることはよくあった。

 自分の不愛想な態度や物言いがこう言われる一因であることも分かっている。

 だが何度されても慣れることはない。

 加えて自分の性格も容姿も劣等感を感じているために余計辛いものがあった。

「なぁ、三嶋もそう思うだろ?」

 一人の男子生徒が三嶋君に尋ねる。

「んー、僕はむしろ逆だ」

「逆?」

「桜木さんってスタイルいいし、何なら美人だろ?気は強いけど、そんな女の子が自分にだけデレたりしたらどう?」

 教室が一瞬静まり返る。

「三嶋、お前天才かよ!」

「この変態!そりゃ名案だ」

「素晴らしい!」

「じゃ、先行くよ」

 三嶋君は拍手喝采を浴びながら教室の扉を開けた。

 その瞬間、おそらく目を潤ませて顔を真っ赤にしているであろう私と目が合った。

 そのまましばらく互いに見つめ合う。

 先に沈黙を破ったのは彼だった。

「ど、どうしたの?桜木さん」

 教室の中に聞こえないよう、小声で話しかけてくる。

「く、靴下忘れちゃって。椅子の上にあると思うんだけど」

「分かった、ちょっと待ってて」

 教室へ戻ると別の話題に移っていた。

 幸い二人の席は近かったので、さりげなく靴下を取ることに成功したようだ。

「これ?」

「う、うんそう」

 靴下は渡したが、気まずい空気が二人の間に流れる。

「あの、ちょっと歩きながら話そうか」

 女子の更衣室まで並んで歩く。

「さっきの聞いてた?」

 三嶋君の問いに私は頷いた。

「ホントにごめん!僕は……」

「大丈夫。気にしないで」

「でも」

「いいから。じゃあ、私こっちだから」

 そう言うと止めようとする彼を振り切って、私は俯きながら更衣室へ向かって歩き出した。

 途中で後ろを振り返ると彼が頭を掻きながら運動場へ向かっていくのが見えた。


 体育は2つのクラスの合同で行われる。

 とはいえ男女に分かれるので同じ授業を受ける人数でいえば一つのクラスと変わらない。

 私たちの1Aは啓介がいる1Bと合同だ。

 やることは違えど、合同なので男子が体育をしている様子は女子から見える。

 当然その逆も然り。

「葵、さっきはありがとう」

 女子生徒に不意に声を掛けられる。

「え、何が?」

「男子が突然着替え始めたの注意してくれたでしょ?」

「あー。そのこと。そりゃあ、私も見たいものじゃないしね」

「それはホントに。でも直接言うのも言いづらいし、言ってくれて助かった」

「それはよかったわ」

「あ、私むこうで呼ばれてる。それじゃあね」

「うん」

 女子生徒が行ってしまった後も、しばらく茫然としていた。

「どったの?」

 智子が私の顔を覗き込む。

「なんでもない」

「むぅ?なんでもないってぇ顔じゃあねぇなぁ」

「私が不機嫌なのはいつものことでしょ」

「あ、分かっちゃったぞ」

「何が?」

「また誰かに何か言われたでしょ」

「……」

 私は黙り込む。

「全くしょうがない子じゃのう。正義感強くて真面目で、それが原因で自分が悪く言われると傷ついちゃうんだから」

 よしよーしといいながら智子は頭を撫でまくる。

 髪はぐちゃぐちゃだ。

「そんなんじゃないから」

「そうやって強がっちゃうからなぁ。なおさら・・・」

 手を止めると智子は手櫛で私の長い黒髪を整え始める。

「まぁ、でも私は分かってるから。本当は強くないのに頑張れるいい子だって」

 二人が話しているとわぁっと突然歓声が起こった。

「なんじゃ?」

 どうやら男子がしているサッカーで点が入ったらしい。

 他の女子生徒の話が聞こえてきた。

「柊くんすごい!」

「さすがサッカー部期待の星!」

 点を決めたのは啓介のようだ。

「いいなぁー、柊くん。イケメンで運動神経良くて」

「しかも男女問わず優しいし」

 啓介は昔から人気者だった。

 誰とでもすぐに仲良くなれる、コミュ力おばけだ。

「でも彼女できたのよねぇ」

 突然そんな話が聞こえてきた。

 一瞬体が固まる。

「えー!そうなの?誰?」

「サッカー部のマネージャー。2年の先輩らしい」

「あ、あのめっちゃかわいい人か!」

 2年のサッカー部マネージャーと言えば一人しかいない。

 彼女の名は岡村彩。

 話したことはないが、相当モテると聞いたことがある。

「あんな人が彼女かぁ。嫉妬すら湧かないな」

「だよねぇ」

 だから朝機嫌が良かったのか。

 久々に啓介と登校できて嬉しかったのに。

 私は唇を噛みしめた。

 私にとっての啓介と啓介にとっての私は違うのだ。

 友人の多い彼にとって幼馴染とはいえ私は一人の友人に過ぎなかった。

 特別な存在だと認識していたのは私だけだった。

 現に彼女ができたことを教えてくれもしなかったことが何よりの証明だ。

「……い!葵!」

 智子の声を聞いてハッと顔を上げる。

「どうしたの?智子?」

「いや、啓介のやつ、上手くいったんだなって話してたんだけど……聞いてた?」

「知ってたの?」

「なんとなくねぇ」

「そう……」

「ってかホントに大丈夫?顔色悪いけど」

 大丈夫、と言おうとしたがどうにもフラフラして力が出ない。

「大丈夫じゃないかも……。ちょっと保健室行ってくる」

「そっか。ついてこうか?」

「一人で行けるわ」

 私はそう言うと保健室へ向かった。


 保健室でしばらく寝ていたが、気力は回復しそうにない。

 私は珍しく早退することにした。

 帰りの道中でも今日一日のことは頭から離れない。

 帰宅してベッドに制服のまま潜り込む。

 どうして私は啓介にとって特別な存在になれなかったのだろう。

 私が女の子っぽくないから?

 私がかわいくないから?

 私は気が強いから?

 布団に包まっていても、自虐することしか考えられなかった。

 その後晩御飯を作っているときも、風呂に入っているときも、寝る支度をしているときもずっと上の空だ。

 こんなことに落ち込む自分に嫌気がさしてまた落ち込む。

 寝るまでその繰り返しだった。

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