第52話 私好みに

「おはよう、綾坂さん」

「おはよう、綾坂さん」

「おはよう、綾坂さん」


 学校での怜の相変わらずの人気ぶりも、俺の存在感のなさも変わらない。

 少し変わったことと言えば最近は転校生が少なくなったこと。

 ゼロではないが、月に一人いるかどうかくらいになって。

 夏休みが始まる頃にはそんなことも気にならなくなるほどに学校は落ち着きを取り戻して。

 そのまま夏を迎えた。


「奏多君、明日から夏休みだよ。どこにいく?」

「うん、任せるよ」

「じゃあ、プールがいいなあ。えへへっ、水着だよ」

「ああ」

「楽しみ?」

「ああ」

「よかったあ。うん、いい夏になるといいね」

「ああ」


 いい夏になると、か。

 そうだな、夏は暑くてジメジメして嫌いだったけど、今は少し楽しみだ。


 怜と過ごす夏。

 いい夏になればいいな。



「わー、見て見てすごい高いよあれ」


 この街は田舎だが、いや、土地の広い田舎だからこそなのか立派な市営プールがある。

 スライダーの高さは日本でも数番目ということで、それを楽しみに多くの家族連れやカップルが訪れる場所。

 

 今は真夏の日差しに焼かれながらスライダーの順番を待っているところだ。


「怜、暑くないか?」

「うん、麦わら帽子があるから。奏多君こそ大丈夫?」

「ああ、俺は大丈夫。夏は好きだから」

「そっか。うん、私も好きだよ」


 少し汗ばんだ手を、怜が握ってくれる。 

 冷たい彼女の手は、俺の火照る体も気持ちも少しだけ冷ましてくれて。

 時々吹く風が心地よく、また、地面の照り返しで白く輝く怜の肌に目を奪われながら時間はゆっくり過ぎていく。


 やがて階段を昇ってスライダーの入り口に来た。


「一緒に滑ろ。私、怖いよやっぱり」

「はは、怜は女の子だな。わかった、しっかり捕まえていくから」

「うん、離さないでね」

「ああ」

「ずっと、ね」


 滑り始めたその瞬間、麦わら帽子が宙に舞った。


 あ、と声が出たがそのまますごい勢いで俺たちは滑って落ちていく。


 高く舞い上がった帽子も、やがて重力に引かれて地面へと落ちていく。


 ぐるぐると、螺旋を描きながら俺たちは落ちていく。


 そしてそのまま水の中へ。

 ザバンと飛び込んだ後、水面に顔を出した怜のところに、まるで生き物のようにその帽子がふわりと舞い戻ってきて。


 怜が笑う。


「すごいね、一緒に落ちてきたよ」

「ほんとだな。でも、次は係の人に預けとけよ」

「だね。なくしたら困るし」


 プールからあがって。

 濡れたまま怜はもう一度スライダーの方へ向かう。


「またやるのか?」

「うん。たのしかったもん」

「そうか。なら並ぶか」

「そうだね」


 楽しそうにする怜は、さっきより少し冷えた手で俺の手を握りながら。

 帽子をかぶり直して、笑う。


「一緒に落ちるのって、楽しいね」



 夕方になるまでずっと、プールを堪能した。

 怜は子供のようにはしゃいでいて、帰る頃にはさすがに疲れたのか瞼が落ちかけていて。


 おんぶと言われて俺は彼女を背負ってアパートを目指している。


「奏多君の背中、落ち着くなあ。ねえ私、重くない?」

「はは、怜は軽いから背負ってても全然しんどくないよ」

「そっか。重みを感じなくなってきたんだね」

「? 別に鍛えてなんかないけど」

「ううん、いいの。これでいいの。ね、もうすぐお家だけど、帰ったら何する?」

「ええと、飯食ってそれから……」

「えっち、するよね?」

「う、うん。そりゃあ、したいけど。疲れてないのか?」

「大丈夫。いっぱいぎゅってしてね」

「ごくっ……うん、わかった」


 意識すると、彼女に触れている手が途端に熱くなる。

 ちょうど彼女の太もも辺りを支えるように持つ手に力が入る。

 耳元にかかる彼女の息があたたかい。


「奏多君、新しい生活はどう?」

「どうって。別に何もかわらないよ。家が広くなったくらいで」

「そう。じゃあ何も問題ないね。夏休みはまだこれからだから、ゆっくり楽しもうね」

「ああ」


 夕陽が地平線の向こうに落ちていく。

 段々と暗くなっていく道を、遠くに伸びる自身の影を踏むように一歩ずつ前へ歩いていると怜が笑う。

 

 くすくすと。

 でも、楽しい一日の思い出がそうさせているのかと思って、俺も付き合うように笑った。


「はは、あはは」

「ふふっ、あはははは」

「ははははは」

「あはははは」


 笑い声が住宅街に響く。

 何もかもが充実してて、明日からもきっとこんな毎日が続くのだと思うと、笑わずにはいられなかった。


 怜も甲高く笑う。

 そしてその声すらも心地よく俺の耳に届き、やがて脳を揺さぶる。


 もう、何も考えなくていい。

 誰にも見栄を張らなくていい。

 ただ、怜の言われるままに怜と過ごせばそれでいいんだ。


 あはは。

 あはははは。



 奏多君がお風呂に入っている間に、私はいつものように準備をする。


 着替えを用意してあげて、飲み物を用意してあげて、アロマを焚いてあげる。


 私が用意した服。

 この寝巻についた香水の香りは、もう癖になって抜け出せない。


 私が入れてあげるお茶。

 このお茶の成分は、とっても人を夢中にさせる。


 私が選んできたアロマ。

 これがあれば、どんなに辛いことがあっても落ち着いていられる。


 毎日毎日。

 こうやって丁寧に彼をお世話して。


 お風呂の入浴剤もね。

 ちょっとだけ私仕様なの。


 だからね、日に日に奏多君は素敵になっていく。

 素敵に、私好みに。


「怜、風呂あがったよ」

「うん、お茶どうぞ」

「ああ、ありがとう。うん、うまい」

「えへへっ、お菓子もどうぞ」

「ああ、ありがと」

「ふふっ、あーんしてあげる」

「あーん」


 あはは。

 奏多君、可愛い。


 目がトロンとしてる。

 もう、随分と焦点が合わなくなってきたねえ。


 そのまま、夢の中へ行こうね。

 

 ずっと、私しかいない夢の中へ。

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