第37話 銭湯

「奏多君、痛くなかった?」


 縛られた手足をほどいてくれた怜は、心配そうに俺を見る。

 縄の跡が残る手首はひりひりするが、自然と怜を責める気にはならなかった。


「……大丈夫。でも、同じ姿勢でいたからかな、腰がいたい」

「じゃあ、私がマッサージしてあげる。横になって」


 まるでさっきまでが何かに憑りつかれていたんじゃないかと思うくらいにケロッとした表情で怜は、俺に言う。


 そのままベッドにうつぶせになると、彼女が上に乗って指圧を始める。


「この辺? 痛かったら言ってね」

「あ、ああ。うん、気持ちいいよ」


 程よい刺激の心地よさに、俺は目を閉じる。

 ああ、気持ちいい。さっきまで監禁されていたとは思えないほどに平和だ。


 でも、あんな鮮明な夢をみるなんて俺も結構どうかしてるな。

 明晰夢っていうんだっけ? なんかパラレルワールドにでも飛んだような感覚だな。


 ……夢、か。


「奏多君、最近疲れてるみたいだから明日は近くの銭湯に行かない? 私、ああいうところに二人で行ってね、ほかほかしながら一緒に帰るの憧れてたんだ」

「ああ、いいよ。じゃあ帰りに何か食べて帰るか?」

「うん、それいいね。楽しみー」


 少し怜の力が強くなる。

 でも、それも気持ちよくて身を任せていると、やがて彼女が「はい、おしまい」と言って俺から降りる。


「ああ、ありがと。楽になったよ」

「うん、いつでもしてあげるね」

「……ああ」

「お仕置き、怖かった? 怒ったら私、ちょっと怖いんだよ?」

「わ、わかってる。もう、怒られるようなことはしない、から」

「えへへっ、よかったあ」


 じゃあ今日はかえるねー、と。

 さっさと玄関の方に行く彼女を見送ろうとついて行くと。


 玄関が絞まる時に彼女がいつものように言い残す。


「今日はいい夢見れるといいね」



 朝。

 目が覚めた時にここが夢でないかと何度も確認をした。

 しかし、確かに現実だと。

 そう確信してから布団を出ると、机の上にメモ用紙が置かれていた。


「こんなのあったっけ?」


 なにか書いてある。

 手に取ってみると、そこには可愛らしい女の子が書いたような字で。


『冷蔵庫、開けて』


 と。


 怜の仕業か。

 でも冷蔵庫って?

 何か買ってきてくれてってこと、かな?


 俺はそっと冷蔵庫を開ける。

 するとそこにはコンビニで売ってあるプリンが一つ。

 それの蓋にはまた何かが張ってあって。

 取り出してみると、『昨日はごめんね』とだけ。


 怜……。


 あいつも、やりすぎたって気にしてたんだな。

 でも、こんな回りくどいことをしなくても直接言ってくれたらいいのに。


 まあ、いただくとするか。


 朝から甘いものを食べるなんてことはほとんどなかったけど、たまにはそんなのもいいなと思わせてくれるくらい、それはうまかった。


「ぴんぽん」


 玄関のチャイムが鳴る。

 そして、当たり前のように鍵を開けて怜が入ってくる。


「おはよう、奏多君」

「ああ。これ、お前が置いていってくれたのか?」

「あ、食べてくれたんだ。おいしかった?」

「うまいよ。でも、こんなことしなくても」

「んーん、いいの。食べてくれたことが嬉しいから」

「そう、か」


 まあ、何の変哲もないプリンだけど。

 こうして人に詫びる気持ちがこいつにあったんだと思うだけで少しばかり安心する。

 

「それより、もう時間ないよ? 急がないと」

「もうそんな時間か。ああ、すぐ着替えるよ」


 学校に、今日も怜と一緒に向かう。

 普段通り、多くの生徒が同じように学校に続く道を歩き、校庭では朝練をする部活動の声が響く。


 昨日のことは、やっぱり夢だったんだと。

 だから気にすることはないと、教室に入る。


「えー、突然ですが近藤、高田、阿部の三人が転校を」


 また、転校生が出た。

 理由はそれぞれ、家庭の事情とだけ。

 そんなこともあるのかなと、俺は気にすることをやめた。


 昼休み。

 怜と一緒に弁当を食べていると、生徒の一人が怜に話しかけてくる。


「綾坂さん、文化祭は何かするの?」

「んーん、奏多君と一緒にブラブラするつもり。須藤さんは?」

「私、演劇するんだ。よかったら見に来てよ」

「わかった。楽しみにしてるね」


 手作りのチケットのようなものを渡されると、怜はそれを一枚俺に渡してくる。


「これ、一緒に行こっか。来月だね、文化祭」

「あ、ああ」


 そういえば文化祭なんてあったなって感じだ。

 入学してここまでの間、ずっと怜に支配されて過ごしてきたせいで、学校のことなんかには一切気がまわっていなかった。

 でも、こうして文化祭の話題が出てくると自分がちゃんと高校生してるんだって実感できて安心する。


 うちの学校は大したこともしないようだけど、せっかくだから楽しめるといいな。


「演劇かあ。楽しみだね」

「興味あるのか?」

「うん、すっごく。奏多君と一緒に見るのが楽しみ」

「ああ、なるほど」


 結局こいつの基準は俺がいるかどうか、だ。

 でも、それだけ俺のことが好きだということだよな。


 ……愛されるってのも、難しいことなんだな。


 そういえば中学の時の文化祭で、誰が俺と一緒に回るかって話で女子が争って、結局誰かが抜け駆けしたら揉め事になるからって理由で誰も俺と一緒にいないって話になったことをなぜか思い出した。


 そのせいで俺は、女子を誘うこともできずただひたすら寂しく文化祭の出店で焼きそばとかを買って食べるだけの一日を過ごすこととなった。

 今考えたら理不尽だよな。モテすぎて、逆に誰にも相手されないなんて。

 そんなアイドルみたいな話より、今こうして俺を好きなやつと一緒に過ごせるほうがよほど幸せだ。


 今が、幸せなんだ。



「ただいま……ってあれ?」


 帰宅すると、玄関や廊下の様子が少し変わっていた。

 靴箱の位置、冷蔵庫の配置なんかも今朝と違う。


「どうしたの奏多君?」

「いや、なんか色々動いてるような」

「ああ、だって今日からここに私も住むから、模様替えだよ」

「……え?」

「お引越しだよ。さっ、お風呂行こうよ。その間に業者さんが荷物を全部運んでくれるから」

「そ、そんな急に」

「嫌なの?」

「……いや、そうじゃないけど」

「じゃあ早くいこ。お財布持ってね」


 俺は部屋にまで入ることなく、玄関に荷物を置いて、風呂場からタオルだけ持ってさっさと連れ出される。


「ねっ、銭湯ってコーヒー牛乳飲むんだよね」

「まあ、俺はフルーツ牛乳の方が好きだけど。行ったことないのか?」

「はじめてー。なんかワクワクするなあ」


 一回四百円の銭湯に行ったことがないってのもまあ珍しい。

 もしかしてこいつ、金持ちのお嬢様なのか?

 でも、それなのにあんなボロアパートに住むなんて、どうして……いや、それは俺が住んでたから、か。


「じゃあ、三十分後にね」


 銭湯の番台で分かれて、俺は男湯と書かれた暖簾をくぐる。


 大きな風呂が一つとサウナ、それに水風呂があるだけの昔ながらの銭湯。

 入学早々にここに来た時は結構な常連客で賑わっていた印象だが今日は誰もいない。


 でも、それがかえって落ち着く。


 一人の時間なんていつぶりか。

 お湯に浸かると、これまでの疲れや悩みが溶けていくように体が軽くなる。


 ……今日から一緒に暮らすのか。

 これでいいのか?

 このまま、あいつの言うままに流されて、何が真実かもわからないまま、あいつのものになることが正解の道だと、やはりいつまで経っても簡単にそうは思えない。


 でも……


「奏多くーん、いるー?」


 壁の向こうから怜の声が響く。


「ああ、いるよ」

「えへへっ、なんかこうして姿が見えないと不思議な感じ」

「電話と変わんないだろ。そっちも誰もいないのか?」

「うん、貸し切り。いいね、ここ」

「ああ、そうだな。さて、洗ったら出ようか」

「うん」


 もう少しゆっくりしたかったが、以前温泉でのぼせて以来、長風呂が苦手になった。


 なんかあの時の死ぬ間際の快感みたいなものが変に癖になりそうで。

 それが怖くてすぐに風呂を出てから髪を洗って。


 着替えて外に行くと先に怜が待っていた。


「は、早いな」

「うん、奏多君を待たせるわけにはいかないもん」

「そ、そうか。じゃあ、帰ろう」

「あ、これ。フルーツ牛乳買っておいたから、どうぞ」

「お、サンキュー。怜は気が利くな」

「えへへっ、褒めて褒めて」


 よしよしと、怜の頭を撫でながら、いつまでもこんな穏やかな時間が続けばいいのにって思う。


 怜は可愛い。それに俺のことを第一に考えてくれる。

 だから、なんて言い方もどうかと思うけど、それだからこそこいつに惹かれてるのは嘘じゃない。

 でも、まだ心のどこかに何か違和感を覚えるのは、俺の記憶がはっきりしないからだろう。

 だから、まだ俺と怜のどっちが正しいのかがはっきりしない。

 それさえはっきりすれば……。


「大丈夫だよ」


 アパートの前で、急に怜が言う。


「な、なにがだよ」

「大丈夫、すぐに思い出すからね」

「……だといいけど」

「きっと思い出してくれるって、信じてる。それに、お部屋に奏多君との思い出をいっぱい運んできたから」


 にこっと笑いながら、怜は俺の手を握る。

 その思い出とやらを見れば俺もこいつのことを少しばかり思い出す、のか。


 一緒に部屋に戻る。

 暗い玄関の灯りをつけると、キッチンや靴箱に怜のものが増えたせいか、違和感がある。


 まあ、二人で暮らすとなればこんなものかと。

 先に飲み物をとろうと、冷蔵庫を開けるとまた今朝のようにプリンが入っていた。


 そう言えば、昔俺の知ってる子に、プリンが好きな子がいたような。

 いや、子供なんてみんな甘いものが好きだし、それだけで何かを決めつけるのは早計だ。


 ……


 何か、思い出せそうな気が、する……。


「ねえ奏多君、部屋見てー。加湿器とかエアコンとかも綺麗にしたし、アロマも用意したんだー」

「へえ。やっぱり女子ってそういうの気にするんだな」

「やっぱり? 誰と比べてるの?」

「あ、いや、一般論だよ」

「あー、そっか。あはは」

「……」


 機嫌がいいからと言って、やはり怜の前で女性の話なんかはNG。

 言葉を選びながら新調された家具や家電を褒めていると、怜が。


 また、嬉しそうに笑う。

 俺もそんな彼女を見て、俺もほっこりする。


「そうだ、プリン食べるか? 冷蔵庫に入れてあったのって、お前のだろ?」


 気を利かせたつもりでプリンを冷蔵庫から出して。

 怜に渡すと、彼女が首を傾げる。


「どうした、いらないのか?」

「んーん。そうじゃなくて」


 目を丸くして。

 怜が首をかしげたまま、プリンを見つめながら言う。


「私、買ってないよこんなの」


 

 

 

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