第30話 私の好きなもの
昼休みが終わった後、当然先生からなんらかの指導が入ると思っていたのだが、何も言われることはなかった。
怜にビビッて、さっきの連中が何もチクらなかったのかもしれないけど、それにしても誰かひとりくらいは誰かに喋っても良さそうだし、噂くらいは回ってきてもおかしくないと思ったが。
しかし何もなかった。
屋上での出来事は夢だったのではと思わされるくらいに、何もなく。
そのまま放課後を迎えた。
「明日は動物園だね。楽しみ楽しみ」
「……なあ、怜」
「んー、どうしたの?」
「い、いや。昼休みのこと、だけど」
「お弁当のこと? ちょっと味付けが濃かった?」
「そ、そうじゃなくて、ええと、絡んできた連中だけど」
「あー、まだ邪魔するんだあいつら」
「まだ? いや、今はなにも」
「んーん、邪魔してる。奏多君との大切な時間があんなくだらない連中の話題で潰されるなんて、やっぱり存在自体がゴミなんだよあいつらは」
「……あのさ」
「もうその話はおしまいだよ。じゃないと私」
ほんとにあいつらを殺さないといけなくなるからね。
怜はそう言って、俺の手をそっと握った。
◇
「おやすみ、奏多君。明日は起こしにくるからね」
「……ああ、わかった」
「早く寝るんだよ? わかった?」
「ああ」
今日の怜は夕食を食べた後、すぐに部屋に戻った。
明日のデートが楽しみで仕方ないようだ。
そう言ってくれることは嬉しいことのはずなんだけど。
どれだけ怜のことを受け入れようとしても、不可解なことが多すぎて全てを吹っ切ることができない。
彼女は一体何者なんだ?
いや、それ以上にこんなことをして何の意味がある?
……ダメだ、想像もつかない。
あんな狂人の発想、俺には到底理解が及ばない。
少し、夜風に当たりに行こう。
ずっとあいつと一緒で気疲れもしているし。
気分転換して、コンビニで甘いものでも買ってから帰ろう。
それがいいと、そっと玄関の扉を開けて外へ。
鍵を閉める時も、怜の部屋の前を通る時も慎重に。
音を立てて外出が見つかったら何を言われるかわかったもんじゃない。
だから慎重に。ここは臆病に。
息を殺しながらアパートを離れ、コンビニを目指す。
もうすぐ梅雨時期に差し掛かるこの季節は、蒸し暑い夜が続く。
最近は春があっという間に終わるなあとしみじみ、その湿気に額を濡らしながらコンビニの灯りが見える方へ。
すると、駐車場に見たことのある顔ぶれが数人。
あまり話したことはないが、クラスメイトだと一目見てわかる。
ただ、俺を見ても話しかけてくることはなく。
俺もわざわざ絡むほどではなかったので静かにコンビニに入って週刊誌コーナーへ。
そういや、最近こうやって立ち読みもしてなかったなと、週刊漫画雑誌を手に取って目を通す。
何回か飛んでしまってるのでよくわかんない話ばかりで、ぱらぱらと流し読むように最後のページまでいって、読み終えた時に声が聞こえる。
「奏多君」
聞き間違いかと思ったが、それは確かに聞こえた。
俺は、顔をあげる。
すると、ガラスに映った俺の後ろに、暗い顔をした女の子の姿が。
「と、怜……」
「奏多君、こんなところで何してるのかな? 明日はデートだから、早く寝ないとダメだって、そう言ったよね?」
彼女は、ゆらりと俺の背後に立ち、やがて背中に何かを押し当てる。
冷たい何かが、ちくりと俺の背中に当たる。
「な、なにして、る」
「奏多君、嘘ついたらどうなるかって話、何回したらいいのかな?」
「う、嘘なんて、別に」
「でも、こっそり音もたてずに出て行こうとするなんて、やましいことがあるからだよね? ダメなことしてるってわかっててやったんだよね?」
「ち、ちが……」
グッと。
背中に当たる鋭利な何かが強く押し当てられる。
これ以上力を込められたらそれが俺の背中を貫くとわかるくらいに。
「奏多君、反省してる?」
「し、して、ます……」
「どれくらい? もうしないって、どうやったら誓える?」
「で、出かける時は、お前に連絡、する」
「ダメ。一緒に出掛ける、でしょ?」
「そ、そうだな。うん、そうする」
「約束できる?」
「や、約束する……」
そう話すと、彼女はそっと俺から離れる。
鋭利なものも俺の背中を解放する。
「えへへっ、じゃあ甘いもの買ってくれる?」
「わ、わかった。何がいいんだ?」
「エクレア。私の大好物なの、覚えててね」
「わ、わかった」
慌てて雑誌を置いて振り返ると、そこにはニコニコと笑う怜の姿が。
嬉しそうで、幸せそうで。
ほんのり頬を赤らめて、目をトロンとさせて俺の腕に抱きついてくる彼女は、スイーツコーナーでエクレアを二つ手にとって、そのままレジに置く。
さっさと会計を済ませて店を出ると、さっきたむろしていた連中はもういなかった。
嬉しそうな怜は、待ちきれないと言ってエクレアを袋から出してパクリ。
クリームがこぼれそうになるのを必死に舐める仕草はどこかいやらしく、少しだけその様子に見蕩れてしまった俺に気づくと彼女は指をペロッと舐めながら、
「おいしい、来てよかったあ」
と。
笑う。
無邪気な子供のように屈託ない笑顔を向けてくる。
怒っていなければ普通の女の子だ。
それに、今回は俺がこっそり夜に外出したのも悪いわけだし、気をつけようと思っていたところで怜が最後の一口を食べ終える。
それを嚥下する様子を見届けると、彼女はハンカチで手を拭いた後、もう一度俺の方を見て。
今度は、口元だけは笑っていた。
目は、死んでいた。
「私の好きなもの、絶対に忘れたらダメだよ?」
◇
エクレア。
この言葉を何度も心の中で繰り返し呟いて、眠りについた。
夜の散歩がきいたのか、それとも精神的に一層疲れたせいなのか、ぐっすりと深い眠りにありつけた俺は、怜に起こしてもらって目を覚ます。
「おはよう、奏多君」
「……ああ、おはよう」
「ほら、昨日夜更かしするからお寝坊さんじゃん。ちゃんと私の言うこと訊かないと、めっ、だよ」
「ああ、わかった」
ゆっくりと体を起こすと、怜がカップスープを用意してくれていた。
「これ飲んで、目が覚めたら着替えて出かけよ?」
「うん。ありがと」
「ねえ奏多君、動物園に行ったあとはどっかで外食しない?」
「いいけど、食べたいものでもあるのか?」
「うん、お寿司食べたい」
「寿司って……そんな金ないぞ」
「回転ずしだよ。私、好きなんだ」
「そ、そうか」
回転ずしも。
怜の好みだと。
これも忘れてはいけないのだと、深く心に刻み込む。
「行こう、奏多君」
「ああ」
二人で。
朝から動物園を目指してアパートを出る。
手を繋いで、人通りの少ない道を通りながら朝の涼しい風を浴びる。
きっと、他人から見れば幸せそのものなのだろうけど。
やはりこれが幸せかどうか、俺にはわからない。
でも、抗うことが正しいとも思えず。
なし崩し的に彼女と指を絡めていると、怜の足が止まる。
「ど、どうした?」
「奏多君」
「……なんだよ」
「また、邪魔するんだねあいつら」
怜がボソッと。
そう言った直後に、先日屋上で俺たちに絡んできた連中が目の前からやってくるのに気づく。
「おい、お前。この前はよくもやってくれたな」
怜にナイフで脅されたやつと、その取り巻きが二人。
三人とも、相当怒っている。
「……邪魔」
「ああ? いい加減にしろよお前。なんなんだ一体。先生もお前のことを話しても何も取り合ってくれないし、金でも払ってんのか?」
「それ以上喋るな」
「今から警察行ってくるから覚悟しとけよ。マジで痛い目に」
「死ね」
「え?」
バチっと。
そんな音がしたと思うと、路上に男は倒れる。
怜の手には、小さなスタンガンがもたれている。
「え?」
「ああ、お前らも死ね」
「がっ!」
残りの二人も、容赦なく気絶させられて。
道路には三人の男子高校生が横たわった。
皆、体を痙攣させながら気絶している。
「と、怜、お前」
「行こう、奏多君。早く行かないと混んじゃうから」
「ま、待てって。このままだと」
「ああ、いいのいいの。このままでいいの」
何度も言い聞かせるようにそう呟く怜は。
手にもっていたスタンガンをポイっと路上に倒れた連中のあたりに放り投げてから、ケラケラと笑って。
やがて、笑いをこらえるようにしながら、横たわる彼らを見ながら言う。
「今日は気分がいいから。殺されなくてラッキーだったね」
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