第20話 お出迎え
童貞じゃなくなる時というのは、多分だけどびっくりするくらいの感動が待っているのだろうと、エロ本や動画を見て想像して、期待していた。
初めてこの手で女の子を抱いて。
やがてその感触に酔いしれるのだろうと、いつか来るであろうその日を待ち望んでいないはずがなかった。
しかし、どうやらその瞬間は、無自覚に無感動に崩れ去ったと。
「さっ、いこっか奏多君」
「……」
朝食を食べ終えて、旅館を出ることになった。
さっき綾坂が放った一言について、俺は何度も彼女に質問をしたけど、彼女は「なんのこと?」と白を切るばかりで。
聞き間違えかとも思ったりしたけど、やはりそうじゃないと。
そう思い始めてからずっと、無言だ。
ただ、あまり無言を貫くと彼女の機嫌が悪くなるので、最低限の相槌くらいは打っている。
「バスに乗って、ふもとの駅から一時間くらいかな、奏多君のご両親の実家は」
「……」
「ワクワクするね。それに、ここもいい温泉だったし楽しかったね」
「……」
「奏多君、そろそろ怒るよ?」
「あ、ああすまん」
「なんてね。悩んでる顔もかっこいい」
「……」
どうやら機嫌は悪くなさそうだ。
しかし俺の精神状態の方があまりよろしくない。
果たして俺は、童貞喪失を寝ている間に済ませてしまったのか。
そればかりが気になって、気がかりで、何も考えられずにいた。
やがてバスが到着して、数組のカップルと一緒に乗り込んでから山道を降りる。
ゆっくり走るバスは俺たちを次の目的地へと運んでいくが、今回ばかりは早く着いてほしいと願うばかり。
はやく母さんに会って。
綾坂の嘘を終わらせるんだ。
「ねえ奏多君、昨日の夜の事覚えてる?」
そっと、俺の手を握りながら窓際の彼女が外を見ながら言う。
「夜のことって……布団で手を握って寝たことか?」
「それもね。うん、とっても幸せだったなあ」
「なあ綾坂」
「怜だよ?」
「……怜。お前、俺が寝た後で何かしたか?」
今はバスの中だ。
他の乗客もいるし、こいつも変なことはしないはずだと、敢えて質問をぶつける。
何かしたのであればこいつもそれなりの反応を示すはずだと思って不意に聞いてみたが、しかしあろうことか綾坂はクスクスと笑っていた。
「どうしたの奏多君、何か変な夢でも見た?」
「い、いや。起きたら裸だったし、それに」
「私は寝る時はいつも裸になるの。リラックスできるからね。それに奏多君は汗がすごかったから脱がせてあげたんだよ? 何か変だった?」
「そ、そういうわけじゃない、けど」
「変な奏多君。ねえ、ちゅーして?」
「な、なんでそうなるんだよ。ここはバスの中」
「ちゅーして?」
「……」
幸い後ろの席に乗客がいないから、いいかと。
そう思って彼女にキスしようとしたところで鼻を甘噛みされる。
「なっ?」
「えへへ、びっくりした?」
「……ああ」
「ねえ奏多君」
「なんだよ」
「ちゅーしたら誤魔化せるとか、思ってないよね?」
「え?」
俺の手を握る力が強くなる。
このまま指が握り潰されるのでないかというくらいの力を込める彼女は俺の鼻から口を離して、飛びつくようにキスをしてくる。
「っ!? ん、んぐっ」
「ん……んちゅっ……んー」
いつになく激しいキスの音が、静かなバスの中に響く。
ところどころで視線を感じたが、彼女を振り払うことはできず。
やがて、満足したように唇を離してから、綾坂は笑う。
「えへっ、激しかったね」
「……」
「誤魔化されないよ? 私、奏多君とキスするのは大好きだけど、それはそれだから」
「別に、誤魔化してなんか……」
「そう。ならいいんだけどね」
そう言ってから、彼女は席に座り直してから、また窓の外を見る。
じっと、何か考え事をするように顔を向こうに向けたまま動かない。
さっきので得心したのかと、ふうっと息を吐いてから俺も背もたれに体を預けて。
天井を見上げていたら、また眠気に誘われてしまった。
◇
「ついたよ、奏多君」
「……いててっ」
バスの中で寝たせいで体がきしむ。
他の乗客はもう降りたようで、残された俺たちは最後にバスを降りてから外の空気をすって背伸びする。
「んー、肩凝ったなあ」
「バスって狭いし揺れるもんね。でもここから電車だからね。ちょっと飲み物でも買いにいこっか」
駅中のコンビニに入ると、眠気覚ましだと言って綾坂がコーヒーを買ってくれる。
なぜかレジのおばちゃんが綾坂と話している。
顔見知りかと思って会話を訊いていると、どうやらそういうわけでもないようで。
愛想の良い店員なのか、それとも綾坂が話しかけられやすい体質なのか。
……そういうやつなのかもしれないな。
「はい、コーヒー」
「ああ、ありがとう」
「さっきのおばさんがね、カップルで旅行なんていいなあって言ってくれたんだよ。私たちってお似合いに見えるのかなあ」
「……かもな」
綾坂は基本的に可愛い。
見た目だけで言えば、都会を歩いていたらすぐにスカウトされてもおかしくないレベルに整った、むしろ整いすぎた容姿だ。
まあ、中身は完全なサイコパスというか。
ヤンデレという表現すら甘く感じるほど、狂ってる。
虚言癖、過度な嫉妬、暴力、そしてストーカーも。
当たり前のようにやって、それに対して罪の意識すらないのだから、恐れ入る。
……しかしうちの親と繋がってる以上、こいつが有利なことに変わりはない。
なんとかして、その繋がりを絶てば希望が見えてくる。
ガタンゴトンと電車に揺られ、田舎から田舎へと移動する。
綾坂は静かだった。
窓の外を見つめながら、頬杖をついて時々ふうっとため息をつく。
ただ、ずっと俺の手は握っていた。
◇
「……う、ん?」
「起きて奏多君、もう着くよ」
「あ、ああ」
また、寝てしまっていたようだ。
今日はずっと眠気が覚めない。よほど疲れてるのかな。
「さっ、降りたらもうすぐそこだね。早く早く」
到着した駅は、昔親と一緒によく来た場所だ。
母方の祖父母の実家の最寄り駅で、今俺たちが住んでいるところと大差ない田舎の駅。
観光スポットも少なく、最近できたという大型ショッピングモールだけが地域の人のホットスポットだという、寂しい場所だ。
「こっから歩いていくのか? 結構距離あるけど」
「大丈夫、もうすぐお迎えがくるから」
「迎え?」
このド田舎になんでそんなものが?
タクシーすら見つけるのに苦労するというのに、手際がいいなこいつ。
「お前、もしかして金持ちなのか?」
「なんで?」
「だって、迎えなんて普通」
「あはは、何言ってるの奏多君。あっ、来たよ」
「ん? ……ん?」
綾坂が指さした車は、見覚えのある乗用車だ。
黒い五人乗りのなんの変哲もない、ナンバーだって無駄にゾロ目に拘ったというだけで全然ラッキーそうじゃない数字が並んだその車。
……嘘だろ?
「あら、怜ちゃん久しぶりね。元気してた?」
「お母さんお久しぶりです。はい、おかげさまで」
俺たちの目の前に車を止めて運転席から降りてきたのは、中年のよーく知ってる女性。
ああ、そんな言い方をしたくなるくらい、今の状況を受け入れたくないのだろうけど。
つまりは母。
俺の母さんが、迎えに来てくれたようだ。
綾坂に呼ばれて。
「あら、奏多。あんた怜ちゃんに迷惑かけてないでしょうね」
「……はは」
「お母さん、奏多君はいつも優しくしてくれるので私も毎日楽しいですよ」
「そうなの? ならよあったわ。奏多、あんたも案外ちゃっかりしてるのね」
「……なにが?」
「なにがって、こんなかわいい子を彼女にするなんてほんと隅に置けない子ね」
「……」
彼女。
母さんもそう言った。
やはり、俺の周囲では綾坂怜は園城奏多の彼女という認識を、等しく持っている。
しかもこの感じ、綾坂は母さんと随分仲がいい。
これを切り崩すのは至難の業というか、不可能に近い気がするんだが。
「今日はすき焼きにしたからね。早く帰るわよ、乗って乗って」
「はーい。奏多君、乗ろ?」
「……ああ」
助手席を空けて、後部座席に並んで座るとすぐに車が発信した。
車だとここから十分もあれば祖父母の家に到着する。
そこでどう綾坂と闘うか、なんて考えていると車の中でそっと俺の手を握りながら、彼女が俺にしか届かない声でつぶやく。
「今日もいっぱいしようね、奏多君」
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