第17話 温泉の中で

 人生において、いつ初体験を迎えるのかという妄想は今までもたくさんしてきた。

 それに、俺には選択肢があった。

 言い寄ってきてくれる女子の内の何人かは、もし俺が真剣に抱きたいと願えば、体を許してくれただろうと、そんな子がいたことも俺は知っている。


 事実、友人伝いでそんな話を聞かされたりもした。

 園城奏多に抱かれたいと、真剣にそう話す子もいたそうだ。


 ただ、俺は誰かを好きになったことがなかった。

 みんなにそう言われて、だけど自分はみんなのものだからなんて、アイドルぶったことを思う自分のことが好きだったのだ。


 ナルシストじゃないなんてよく言えたものだ。

 そのものじゃないかと。

 今なら、過去の自分の気持ち悪さがよくわかる。


 そして。

 今、俺は真剣に一人の女の子のことを抱きたいと。

 そう思ってしまっている。


「この、まま……」

「あ、エッチなこと考えたでしょ?」

「え、いや」

「ふふっ。でも、間違ってないよ。うん、奏多君に私の全部をあげたいな」

「そ、それって……」


 それってつまり、そういうことでいいのかと。

 前のめりになる俺に彼女は、少し照れ笑いながら言う。


「えっち、しよっか」


 その言葉に、俺の理性はどこかへ飛んでいく。

 気が付けば彼女を抱き寄せて、そして自分から、彼女に命令されるでもなくキスをして。


 押し倒した。

 どさっと倒れる彼女の顔の横に手をついて、息を荒くする。


「……乱暴だね、奏多君」

「あ、ごめん……」

「んーん。必死な奏多君の顔も好きだよ?」

「怜……」


 なんでこんなに可愛いんだよと。

 どうして、そんなに嬉しそうなんだよと。

 そんな顔されたら、好きになっちゃうだろうと。


 困った顔で彼女を見つめた。


「ふふっ、悩んでるんだね」

「な、なにが、だよ」

「んーん。すっごくわかるよ。だから、無理しなくてもいいからね」

「……無理なんて」

「無理やり、ってのもいいかもだけど。やっぱこのままだと汗臭いかな。お風呂、行こ?」

「え?」

「このまましたかった? ふふっ、旺盛なんだね奏多君って」

「……」


 一度、彼女を掴んだ手をほどく。

 無理やりとか、焦ってると思われては嫌だと、なぜかそんな見栄が俺の欠けた理性を埋めるように。

 俺の気持ちを鎮めた。


「じゃあ、先に入ってて。私もすぐに行くからね」


 そう言われて俺は、部屋の外にある露天風呂の脱衣所に向かう。

 綾坂がすぐそこにいるのに服を脱ぐというのは、妙な緊張感があり。

 それだけで下半身に再び血が流れていくのを感じながら、必死にそれを我慢して温泉に浸かる。


「……気持ちいいなあ」


 ぬるっとした温泉の湯は、程よく熱い。

 それのおかげで、さっきまでのぼんやりした頭が冴えてくる。


 ……もう、引き返せない。

 彼女が求めてきたら、こうして落ち着いている気持ちもまた吹き飛んでしまうのだろうと、自分のことだからそれくらいはわかる。


 綾坂怜。

 彼女は間違いなくヤバい女だ。

 でも、そうとわかっていてもやめられない。

 それだけの魅力があるし、俺にはあいつの誘いを我慢するだけの経験も胆力もない。


 いつ風呂に入ってくるのだろう。

 だんだんと心拍数が上がってくるのがよくわかる。


 ドクンドクンと、全身が脈打つ。

 頭が、ぼーっとしてくる。


「わーっ、気持ちいい風だね」


 綾坂の声がした。

 湯煙の向こうに、ぼんやりと彼女のシルエットが覗く。


 タオルを巻いた彼女の姿が、やがてはっきりと俺の視界に入ってくる。


「くつろいでるね、奏多君。気持ちいい?」

「……ちょっと熱い」

「ほんと? あ、これ長風呂したらのぼせちゃうやつだね。でも、気持ちいい」


 ザバンと音を立てて彼女が湯に浸かると、すすっと泳ぐように俺の隣へ。


「なんか、こうして肩を並べてお風呂に入ってると、夫婦みたいだね」

「…… 怜、俺は」

「ここでちゅー、しよ?」

「う、うん」


 このまま、ここで全てを失っても構わない。

 そんな風に思ってしまっていた。

 艶やかな彼女の頬、トロンとした目、綺麗な鎖骨。

 そんなものが俺の判断力を奪っていって。

 キスがとどめを刺す。


「んっ……んんっ、んっ」


 少し音を立てながら、彼女と濃い口付けを。

 そのせいか、だんだんと意識が朦朧としてきて。


 目の前が真っ暗になった。



「……う、ん?」

「あ、よかった目が覚めた」

「……ここは?」


 どうやら、意識を失っていたようだ。

 目を開けると、俺を見下ろすようなアングルで綾坂が心配そうな顔をこちらにむけている。


 彼女の膝枕の上だと、すぐに理解した。

 ただ、体が動かない。


「のぼせちゃったみたいだね。ぐったりしちゃったからびっくりしたんだよ?」

「……お前が介抱してくれたのか?」

「うん。重かったけど、なんとか。でも、よかった目が覚めてくれて……」


 ぽたっと。

 俺の頬に冷たいものが落ちる。


 綾坂が、泣いている。


「……なんで、泣いてるんだ?」

「だって……心配だったから。私のせいで奏多君が倒れちゃったのかなって……ごめんね」

「……」


 俺は、まだ自由がきかない右手でそっと彼女の頬を触る。

 あったかい。

 そのまま指で、涙を拭う。


「俺は、大丈夫だから」

「うん。でも、しばらくは安静にしててね。私、飲み物買ってくるから」

「……ああ」


 彼女に支えられながら体を起こして、ふうっと息を吐くと、少し背中をさすってくれた。


 そして、すぐに部屋を出て行く彼女を見ながら、案外いい子なのかもしれないなんて、思ってしまっていた。


 介抱してくれて、俺のために泣いてくれる女の子を、悪いようには思えない。

 それに、弱っているせいで心も不安定だったのかもしれないけど。


 その後ろ姿が愛おしくなったのは、きっと気のせいではなかっただろう。


「(ごちそうさま)」


 何か彼女が呟いたような気がしたけど、もうそんなことは気にならなかった。


 早く綾坂が戻ってこないかなって。

 そう、思っていた。



「ゴクッ、ゴクッ……ふう。落ち着いたよ、ありがとう」


 スポーツドリンクを一気に飲み干して、ようやく意識がはっきりしてきた。

 隣にいる綾坂も、ホッとした様子だ。


「ここの温泉、ちょっと熱いね。私もちょっとのぼせちゃった」

「こんなの初めてだ。すまない、迷惑かけて」

「大丈夫だよ。それより」


 もじもじと、体をよじりながら綾坂は俺を見上げる。

 まるで猫のように四つん這いで寄ってきて、息を荒くしている。


「……なんだよ」

「ちゅー、途中だったよね?」

「そ、そうだったっけ」

「うん。もっかい、して?」

「……」


 助けてもらったからというわけではない。

 こいつに無理矢理こんなところに連れてこられたのがそもそもの原因だし、倒れたのもこいつのせいだと、そう思ってはいるけど。

 でも、倒れた俺を心配して涙してくれるこいつを無碍に扱うこともできないし。


 もう、一回も百回も同じだと。

 そんな言い訳じみたことを思いながら彼女にキスをして。


 すると、彼女の手が俺の体を舐めるようにするりと。

 その感覚にゾワっと鳥肌が立ち。

 一度彼女から離れる。


「お、おい」

「くすぐったい? でも、温泉の中でチューするのって、ぬるぬるして気持ちよかったなって」

「あ、あんまり覚えてない、かな……」

「えー、残念。でも、夜は長いもんね」

「……」


 今はまだ夕方だ。

 少し外が暗くなってきてはいるものの、夕食もまだだし、寝るには少し早い。


「テレビ、見ていいか?」

「うん、いいよ。でもニュースしかやってないんじゃない?」

「まあ、ニュースを見たい」


 温泉で裸同士でキスなんてことをやった時点で余裕でアウトだと思うけど、それでも俺は最後の一線だけは守らないといけないと、気を逸らすようにリモコンを手に取る。


 綾坂とヤッてしまったら、もうさすがにどんな言い訳も通用しない。

 しないどころか、やることをやっておいて相手をストーかー呼ばわりなんて、俺の方が警察に連れていかれそうだ。


 なんとか今晩を乗り切らないと……


「ねえ奏多君」


 夕方のニュース番組の動物園の特集をぼんやり見ていると、綾坂が俺の名前を呼ぶ。


「なんだ」

「ご飯食べたらなにする?」

「……寝る」

「そっか。明日も早いからね」

「そうなのか。知らんけど、寝る」

「……奏多君」

「なんだよ」

「ふふっ、何か勘違いしてるみたいだけど」

「何をだよ」

「ええとね」


 と、綾坂は少し間を空けてから、俺の方にすり寄って、言う。


「この部屋からはね、私がうんって言わないと出れないから」

 

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