第14話 温泉旅行のはじまり
恐怖に身を焼かれる思いとはこのことか。
まだ、彼女が言い残した言葉に俺は苦しめられていた。
次、俺が彼女に怒ったら誰かが死ぬ、らしい。
彼女なら本気でやりかねないと、今なら真剣にそう思う。
しばらく玄関先で固まったまま。
やがて正気を取り戻した俺はゆっくり部屋に戻り、テレビをつける。
プロ野球中継が始まった。
夜はぼんやりとテレビを見ながら過ごせるから好きだけど。
今は夜が怖い。
暗闇が、怖い。
なのに、だ。
なのに、俺はもうひとつ、頭からある映像が離れないことを自覚する。
涙目になって、赤くなる彼女の顔が忘れられない。
あまりにも幸せそうな、少し微笑んだあの表情が、消えてくれない。
……どうなってんだよ、これ。
「ぴんぽん」
玄関のチャイムが鳴る。
多分、いや、絶対にあいつだろう。
でも、無視するわけにもいかず、玄関をあける。
「はい……なんだよ」
「こんばんは奏多君」
「だからなんだよ」
「んーん、お顔見たくなっちゃったの」
「……それなら写真でも持って帰れ」
「あはは、写真とは違うもん。もっとお顔見せて」
「……」
じーっと俺の顔を見つめる彼女は、しばらくしてにこっと笑う。
可愛いと、それは素直にそう思う。
でも、同時に怖いとも。
本当に顔を見に来ただけなのかと、身震いがする。
「顔、見にきただけか?」
「んーん、ちょっと用事があって」
「なんだよ、さっさと」
「んっ」
「……なんのマネだ?」
「おやすみのちゅー、してほしいなって」
小さく可愛らし唇を少しとんがらせて。
綾坂怜は玄関の中に一歩足を踏み入れる。
「さっき奏多君からしてくれて、癖になっちゃったみたい」
「……いや、俺はあんまりそういうのは」
「好きだよね?」
「……」
「好きだよね? 彼女とおやすみのちゅーなんて嫌いな人いないよね?」
「……ああ、そうだな」
さっき俺に包丁を向けてきたことなんてなかったかのように話を進める綾坂に、俺は何を話しても無駄だと思ってそっと唇を差し出す。
まあ、これを役得だとは思わない。
むしろ自分の首を絞めてるだけだという自覚はある。
それでも、一時の身の安全の確保のために俺はキスをする。
「……ふふっ、奏多君の唇、やわらかくて好き」
「そ、そうか」
「あー、今他の人ともしてるんじゃないかって疑ったでしょ?」
「え? いや、別にそんなことは」
「大丈夫だよ。私、奏多君以外の男の人には指一本でも触れさせないからね」
「……そ」
それはどうもと言いたいが。
なんでそこまで俺なんだとも言いたかった。
いくら好きだと言っても、好きすぎる。
俺のことをそんな風にまで好きな理由はなんだ?
「なあ怜、お前は俺のどこがそんなに好きなんだ?」
「んー、どうして?」
「い、いや。別に」
「ふふっ、変なの。好きに理由なんてないよ。この人とずっと一緒にいたいって思ったら、その人じゃないと嫌なの。そういうもんじゃないかな、恋って」
「……そんなもん、かな」
俺は正直な話、人を好きになったことがない。
モテることへの快感というか優越感は確かに持っていた。
だからこそ、そんな自分のままでいたくて、誰かと付き合うという幸せより、みんなにチヤホヤされる自分を選んだんだろうと、今なら当時の自分の気持ちがよくわかる。
それに男子や他の女子からの評判を落としたくなくて、近づいてくる女子に手を出す勇気も持てず、結局キスすらしたことがないまま高校生になって。
ストーカーに唇を奪われたというわけだ。
……そんな俺には綾坂の気持ちはわからない。
人を好きになるということがどれくらい大変なことで、どれほど自分を狂わせることなのか、俺には理解できない。
俺もいつか好きな人ができた時、こいつみたいになってしまうのか。
そう思うと、やはり恋なんてものに憧れを抱くことはできない。
「じゃあ、おやすみ。明日は朝ご飯食べてから出発しようね」
夜に部屋を訪れた綾坂は、さっさと自分の部屋へ戻っていった。
その後は、静かな夜だった。
風呂に入って、天井を見上げながら一日の疲れを癒す。
こうしていると、さっきまでの出来事も全部夢だったんじゃないかと。
そう思ってみたりするけど、風呂をあがって携帯を見ると夢じゃないと自覚する。
母さんからメールが来ていた。
『明日は気を付けてね。怜ちゃんと帰ってくるの楽しみにしてます』
もちろん俺は母さんに連絡をしていない。
既に綾坂と母はずぶずぶの関係だと、これを見て悟る。
もう、あいつとの関係を絶つのは無理なのかとも思えてくる。
でも……チャンスがあるとすればそれは実家に帰った時だ。
母さんは、なんだかんだといっても俺の味方だ。
だから、正直に綾坂のことを打ち明けて。
母さんからもあいつに言ってもらおう。
そうすれば、あいつだって今までみたいに好き勝手出来なくなる。
……勝負のゴールデンウィークということ、か。
◇
「おはよう奏多君」
昨日の夜は、ここ最近では一番よく眠れた。
綾坂が部屋に来て、また明日と言ってくれたことで安心できたのも大きかったのだろう。
今の俺はあいつの掌の上。
でも、それもあと数日で終わらせられるかもしれないと思うと、少しだけ光が見えてくる。
まだ、希望は捨てない。
「おはよう怜。今日は電車で行くのか?」
「バスがいいなあって。景色見ながら行くの楽しそうだし。酔っちゃう?」
「いや、平気だけど」
「じゃあ朝ご飯作るからゆっくりしてて。荷物は着替えだけでいいよ」
綾坂は、すっかり慣れた様子で部屋のキッチンに立ち、料理を始める。
もう、これくらいのことでじたばたしない。
今は機を伺うんだ。
チャンスはそう多くはないが、きっとくるはずだ。
部屋で、どうやって母親に打ち明ける機会を作るかのシミュレーションをずっとしていると、やがてパンが焼けた匂いが漂ってくる。
「はい、トーストとスープだよ。お昼は向こうでたくさん食べたいから、朝は軽くね」
「いただきます。なあ怜、そういえばお前って転校する前はどこに住んでたんだ?」
もう今更だけど、ついそんな質問をしてしまった。
ずっと俺の家に出入りしてたようだし、多分近所なのだろうけど、そうだとすれば同じ中学に通っていたはずだ。
でも、綾坂怜なんて名前は訊いたこともない。
それがどういうことなのか、やはり不思議なのだ。
「んー、お隣に和風なおうちがあったの覚えてる?」
「ああ、確か結構大きな家だったな。屋根が瓦のとこだろ」
「そこだよ」
「……え?」
「そこに住んでたの。奏多君の部屋がね、すっごくよく見えるんだあ」
「で、でもそれだとお前、中学は? あの地域だったら中学は一つだけで」
「だからいたよ? 中学の時、私はずっと奏多君の傍にいたんだけどなあ」
「……」
また、妄想か。
そんなはずはないんだ。
ずっとそばにいたなんて、すぐばれる嘘をよくも平気でつけるものだ。
この際だから、帰った時に中学の卒業アルバムでも見てみるか。
なんならこいつと一緒に見てもいいくらいだ。
それを見て、この嘘つき野郎って、親の前で晒してやってもいい。
「じゃあ、食べたらいこっか。楽しみだね、温泉旅行」
「……ごちそうさま。片付けは俺がするよ」
「えー、いいよいいよ私がするから」
「いや、別にいいから」
「無駄だからね」
「へ?」
食器を持とうとする彼女を振り払おうとすると、急に口調を変えて彼女が脈絡のない言葉を発する。
無駄だからね。
その言葉に、思わず俺は動きを止める。
「な、なにがだよ」
「奏多君が考えてることくらい、わかるよ? でも、無駄だからね」
「……何を言ってるかさっぱり、だけど」
「あはは、別にいいよ。私はこの旅行で、奏多君との仲を深めるだけだから」
「……」
「それにね、お母さんに会うのも楽しみだし。なんなら実家で色々懐かしい思い出に浸るのもありかなーって」
「思い出……」
実家には中学までの俺の思い出がたくさんある。
その中には、もちろん中学時代に撮った写真もたくさんある。
でも、その中にこいつはいない。
こいつは、俺の思い出の中にはいないはずなんだ。
なのに、
「卒アルとかも一緒に見たいね」
「なに?」
「あはは、私が嘘ついてるって、まだそんなこと思ってるんだね奏多君は。でもー、恋人に嘘ついたらめっだよって言ったでしょ? 私は奏多君に嘘つかないもん」
彼女の自信満々の様子に、固唾を飲む。
しかし、これもどこまで本当かわからない。
全部ハッタリかもしれない。でも、そうじゃなかったら……。
「さっ、いこっか。もうそろそろ時間だよ」
「あ、ああ」
ガチャガチャと食器をシンクに片付けた綾坂は、手を洗ってから先に玄関に向かう。
俺は部屋の電気を消して、少し薄暗い玄関に立つ彼女の元へ。
その時、「ワクワクするね」と綾坂が言って。
どう返事したらよいかもわからずに「ああ」と、相槌を打った時。
また、綾坂が笑う。
フフッと。漏れるように笑い声をあげてから、外の光を浴びながら。
にやりと口角をあげて、言う。
「今日の温泉はね、混浴だよ」
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