第13話 罪とは
千曲陽子。
それが昨日、俺に声をかけてきた女の子の名前だった。
知ったのは翌日の学校で。
先生からその名前を聞いた。
「えー、隣のクラスの千曲陽子さんが、親御さんの都合で本日より転校しました」
わざわざ他所のクラスの子のことまで報告するなんて律儀な学校だなとか、そんな感想は持たなかった。
嘘だろ、と。
クラスメイトがふーんといった様子で聞き流す中で俺だけは、知らされたその事実に震えた。
綾坂を見ると、頬杖をついてつまらなさそうに先生の話を聞いていた。
俺は何度も綾坂の方を見たが、彼女がこっちを向くことはなかった。
◇
「なあ、千曲さんってどんな子だったんだ?」
休み時間に俺は、クラスメイトの一人に質問した。
散々質問責めにあってきたんだから、これくらいは聞かせろと。
しかし別のクラスの人間のことだ。
そいつも「さあ、元気そうな子だったけど」とそっけない返答のみ。
そんなやつに、「彼女は転校しそうだったか?」なんて聞いてもわかるわけがないと。
ここで俺は詮索することを諦めた。
あまりあれこれ嗅ぎ回っていて綾坂に悟られてもまずいからと。
もう、千曲さんのことは忘れることにした。
ようやく気持ちの切り替えが出来てきた昼休みのこと。
綾坂はいつものように俺のところにくる。
「ねえ奏多君、今日はお弁当忘れちゃったからパン買いに行こ?」
「ああ、わかった」
この数日で、俺はある程度綾坂との付き合い方について方針が固まってきた。
無駄な抵抗はまずしない。
するだけ被害が拡大すると、そう思うから。
ただ、やはり気を許したりはしない。
あくまで彼氏のフリだ。
どうやって突き放したらいいかはわからんが、きっと方法はあるはずだ。
ただ、一つ気がかりなことがある。
キスをしてしまったのだ。
いや、別にキスしたからといって結婚しろとか責任とれとかってのも変な話だろうけど、しかししたことに変わりはない。
しかも俺の初めてのキスだった。
初めての味は、肉じゃがの味だった。
……だからというわけではないが、綾坂が普通に接してくる以上は俺も普通に対応する。
その上で、嫌われる方法を探す。
それが今思いつく最善手だ。
「ねえ奏多君、そっちのメロンパンはどう?」
さっさとパンを買って、今は二人で校舎裏の階段に腰掛けている。
まるで、たまさかの逢瀬を楽しむカップルのように人目を忍んだ場所で二人きり。
少し怖い。
「ねえ奏多君」
「あ、ああ。いや、メロンパンはいまいちだな」
「ふーん。でも、口移ししたら美味しくなると思う?」
「な、ならんだろ。パンを口移しとか気持ち悪いだけだ」
「ふーん。やったことあるみたいな言い方だね?」
「あ、あるかよ。やらなくてもわかるって意味だ」
「そうかなあ? この前だってやってみたら案外って感じだったし」
「い、いやそれはだな。それにここ、学校の中だぞ?」
「じゃあ外ならいいんだね」
「そうじゃなくてだな」
「照れ屋さん、可愛い。チュッ」
「んぐっ!?」
普通にキスされた。
口移しとか、もうそんな周りくどいことをすっ飛ばして、単純に唇を奪われて。
舐めるように舌を絡められて。
俺は、抵抗する力を失う。
「……」
「ふふっ、気持ちいいね」
「あ、いや……」
「奏多君、顔が真っ赤だよ。キス、気持ちよかった?」
「そ、それは……」
「私、奏多君の為ならなんでもできるよ? 何されてもいいよ? だからちゃんと彼女って思ってくれてる?」
「……ああ」
とりあえずのつもりでそう返事したけど。
本心はどうだったのだろう。
もう、こいつが彼女でいいじゃないかって、心のどこかでそう思い始めてる自分がいることをどことなく気づいてて。
やはりそれが嫌になる。
「……俺の言うことをなんでも聞くっていうなら勝手にキスするな。俺は……そういうの好きじゃない」
「うん、わかった。奏多君がそう言うなら従うよ? だって、彼女だもん」
「……」
やけにあっさりと言うことをきいた綾坂を見て、ふと思う。
もしかしてこの状況を逆手に取れないかと。
なんでも言うこと聞くってんなら、それこそ「俺のことを思って、別れてくれ」と要求しても通るんじゃないかと。
それはどうなんだと、彼女を見ると。
またキスをされた。
「んっ!?」
「ん……んんっ、ん……」
「……ぷはっ! か、勝手にするなって」
「よく考えたらね、恋人にキスされて嬉しくないっておかしいもん。だからキスはしちゃう」
「……」
「それに、なんでもって言ってもダメなお願いもあるからね。奏多君が私の彼女である限りは何でも聞いてあげるってだけだから」
「……わかってる」
まあ、そうなるよな。
こいつはそんなアホじゃない。
用意周到だし、頭もキレる。
こんな思いつきの案でどうにかなる相手ではない。
「ね、早く食べたら教室戻ろ。ここ、日陰で寒いもん」
「ああ」
「もしかして、怒った?」
「……別に」
こう何度もキスをされて、怒る気などはとうに失せていた。
むしろ、今は違う感情が俺の中を渦巻く。
ただ、その正体を俺は見ない。
見たら、おしまいだとわかっているから……。
◇
「では、連休中はくれぐれも羽目を外しすぎないように」
云々と。
先生からの注意事項が述べられたところで放課後になり。
明日からは連休となる。
ゴールデンウィークなんて大袈裟な名前の一週間が始まる。
ただ、俺の明日からは輝いてなんていない。
「ねえ奏多君、明日は何時に出発する?」
「な、なんの話だよ」
「温泉。忘れたの?」
「……」
下校中、綾坂から問われる。
もちろん覚えている。
しらばっくれたつもりだが、無駄な抵抗か。
ただ、まだ明日までは少し時間がある。
逃れる術はないか、考えを巡らせる。
「……そういえばさ、連休中に掃除とかしようと思ってたんだけど」
「ああ、それなら大丈夫だよ。今日やってあげるから」
「い、いやそれは悪いから」
「それとも、もしかして旅行に行きたくないの?」
「そ、それは」
「おかしいなあ。彼女と旅行に行きたくないって、おかしいなあ。それ、私のことを嫌いってことだよね?」
もうすぐアパートに着くころ。
綾坂の雲行きが怪しくなる。
声のトーンが少しずつ下がってくる。
「ねえ、どうなの奏多君。ねえ、どうなの?」
段々とイライラしてくる彼女の声を聞いて。
怖いと思いながらも俺は、なんで彼女でもない奴の誘いを断って怒られなきゃならんと、怒りがこみ上げた。
「う、うるさい! 俺が誰とどこでなにしようが俺の勝手だ! ほっといてくれ」
声を荒げて、綾坂に言った。
そのまま、さっさとアパートの階段を昇って、部屋に戻る。
彼女はその場に固まっていたが、気にせず部屋の中に入ると、鍵をかけて。
部屋にあった針金を使ってドアノブをぐるぐる巻きにして。
閉じこもった。
言ってやったと。
変な興奮を覚えるとともに、それでもやっぱり恐怖が襲ってくる。
こんなことをして、彼女がまたとんでもないことをしてくるんじゃないかと。
玄関のドアをぶっ壊したり、ベランダから侵入してくるなんてこともあるんじゃないかと。
ただ、そんなものに怯えて、いつまでもあいつの妄想に付き合うわけにはいかない。
勇気を出して言ってやったんだ。
これで、あいつも俺の気持ちがわかっただろ。
「ぴんぽん」
玄関のチャイムが鳴る。
綾坂だろう。
でも、もちろんでない。
「奏多君。奏多くん」
彼女が、俺を呼ぶ声がする。
でも、もちろん応じない。
「……奏多君。私のこと、嫌いなの?」
そんなことを聞くな。
嫌いとか以前の問題だ。
ストーカーに心開くなんてあり得んだろ。
「私がいると迷惑なの?」
ああ、迷惑だとも。
そう言ってやりたいが、今は応じるだけ向こうの思うつぼだ。
勝手に自暴自棄になって落ち込んでろ。
「あは、あはは。おかしいなあ。奏多君はあんなひどいこと言う人じゃないもんね。きっと、学校で嫌なことがあったんだね」
綾坂が喋りだす。
何の話だ?
嫌なことはあったけど、それはお前に付きまとわれてるってことだけだ。
それ以外は平和なんだ。
「誰かなあ。今朝話してた男の子かな? それとも私のところに来てたあの子かな? 奏多君を苦しめるなんて、許せないなあ」
だから、お前なんだよそれは。
どうして自分だけ選択肢から外れてるんだ?
「わかったよ奏多君。私、今からそいつら殺してくるね」
……え?
俺は、玄関の向こうから聞こえる彼女の話し声に、耳を疑う。
殺すって、言った?
「もう、誰が悪いかわかんないからさ。みんな殺しちゃうね。順番に、痛い痛いしながら苦しめてから死んでもらうね。あは、そうしたら褒めてね奏多君。私のこと、偉いねって褒めてね」
これは冗談のはずだ。
クラスの人間を全員殺すなんて、そんなバカげた話があるか。
それに、できるはずがない。
そんな大それたマネができるはずがないと。
そう信じたいのだが。
千曲さんのことが頭をよぎる。
彼女が転校したのは、本当に偶然なのか?
「ねえ奏多君。今日転校したって子、いたよね。あの子もせっかく命まではとらずにいてあげたんだけど、もう消しちゃうね。残念だけど、仕方ないよね。奏多君を傷つけるやつは、生きてちゃいけないもんね」
その言葉を最後に。
綾坂は静かになった。
俺は、このまま彼女を放置していいか悩む。
十中八九嘘だと思うけど、もし万が一彼女の言ってることが本気だとしたら。
明日、クラスメイト全員が行方不明なんてことになったりしたら。
それこそ手遅れなんてもんじゃない。
なんなんだあの女は。
ヤバすぎる……でも、止めないと。
俺は、そろりと玄関に向かい、震えながら針金を外す。
すると。
まだ触れてもいないドアノブがガチャッと回り。
きしむ音をさせながら玄関がひらく。
「あはは、奏多君みーつけた♪」
「あ、綾坂お前……嵌めやがったな」
「んー?」
綾坂が半身を覗かせて、笑っていた。
やっぱりこいつの言ってたことはハッタリだった。
ほっとけばよかったと、そう思った時彼女の隠れていた半身が姿を見せる。
「……え?」
「どうしたの奏多君?」
「ほ、包丁?」
彼女の右手には、包丁が握られていた。
少し長く大きめな、よく切れそうな包丁が。
「ああ、これ? これでね、耳をそぐと痛そうだよね。それによく刺さるんだよ? どうせなら奏多君で試してみる?」
「や、やめ、ろ……」
「ねえ、私のこと嫌い?」
「そ、それは、その」
「嫌い?」
「あ、あ……」
「ねえ」
ちゃきっと。
包丁の先を俺に向ける。
俺はあまりの恐怖に、その場で腰を抜かす。
後退りしながら、彼女を見る。
「答えて。嫌い?」
「こ、こんなことして、いいと思ってるのか?」
「何が?」
「は、犯罪、だぞ」
「何が?」
「い、いや、何がって」
「私にとっての罪は、奏多君を裏切ることだけだよ? それ以外のことはね、罪じゃないの。ぜーんぶ、愛を育むために必要なことなの」
「お、俺が、もし脅しに屈してお前と付き合ったとして……それでもお前は、嬉しいのか?」
怖いけど。
もう、漏らしてしまいそうだけど。
逃げ場を失った俺は声を、気持ちを振り絞る。
恐怖で押さえつけられた愛なんて、こいつが望むことなのかと。
ただ、その質問に綾坂は笑う。
愉快そうに、声をあげながら。
「あははは、そんなこと気にしてたんだ奏多君は。優しいんだね」
「やさ、しい? な、なにが」
「あのね、私の望みはね、奏多君とずーっと一緒にいることなんだよ?」
「だ、だからそれは、そうだとしても」
「だからね、別に奏多君が私と一緒にいるって選んでくれるなら、その理由なんてどうでもいいんだよ?」
「……でも」
「一緒にいたらね、ぜーったい私から離れたくなくなるよ? 自信あるもん。きっと奏多君を幸せにできるよ? だから、一緒にいてくれない?」
と、言いながら。
包丁の切先を下げる。
俺は、それを見てようやくゴクッと、唾をのんだ。
「……わかった。俺が悪かったよ。だからその物騒なものを離してくれ」
折れた。
もう、こいつに常人の対応をするのは無理だと、理解した。
「ほんと? じゃあ明日からも一緒にいてくれるの?」
「……いやだっていっても、ダメなんだろ?」
「うん、ダメ。一緒にいるもん」
「……わかった」
もう、今の状況をいいように考えるしかない。
俺が折れたことで、こいつが殺人犯にならず、クラスメイトが犠牲にならなかったのだと、そう思うようにするしかない。
こいつならやりかねない。
そう思わされた時点で俺は負けていた。
こういうことも想定済みで、俺に恐怖心を植え付けてきたのだとしたら、こいつの底が知れない。
「ね」
綾坂は、まだ右手に包丁を持ったまま俺に迫る。
「な、なんだ」
「ちゅー、しよ?」
「は、はあ?」
「仲直りのちゅー、したいな……」
「……」
なんで包丁を持った女とそんなことを。
そう言いかけて、俺はまた唾をのむ。
今は逆らえない。言われた通りにしよう。
「わかった」
「やった♪ じゃあ、んー」
「お、俺からするのか?」
「うん。奏多君からしてほしいな」
「……」
恐る恐る、彼女の唇に迫る。
このままキスをしながら包丁で刺されるんじゃないかって恐怖で、初めてキスをした時なんかとはくらべものにならない緊張感の中、彼女にキスをする。
すると、包丁ががらんと、音を立てて床に落ちる。
そのまま、彼女は俺に腕を回して深く唇を押し付けてきて。
そっと離れた彼女の目は涙ぐんでいた。
「……嬉しい」
「き、キスが、か?」
「ううん。奏多君からしてくれたから」
「そ、そう、なのか?」
「うん。大好き、奏多君」
彼女は、そう言ってするりと俺の体を這わすように手をほどく。
そして、包丁を拾い上げてからくるっと反転し、玄関のノブに手をかける。
「今日は怒らせてごめんね。私も、ちゃんと反省するからね」
「……いや、もういいよ」
「うん、やっぱり奏多君は優しいね」
そう言って、外に出る彼女は玄関の扉が閉まりかけたその時、「そうそう」と何かを思い出したように声をあげてから、言う。
「次同じことがあったら、ほんとに誰か死んでもらうから」
その言葉だけが部屋に置き去りにされて。
玄関が閉じる。
遠くから、時代錯誤な豆腐屋のラッパ音が、聞こえた気がした。
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