第12話 知らない

「帰ろ? 奏多君」

「あ、ああ……」


 俺は待ち続けた。

 千曲という女の子の姿を、ずっと。 

 まるで昔から恋焦がれる憧れの女性を待つかのように、ずっと。


 しかし彼女はこなかった。

 どころか、授業中にトイレと偽って、こっそり隣のクラスの様子まで見に行ったというのに、そこにも彼女の姿はなかった。


 どういうことだ。

 なぜ、彼女はこなかった。

 なぜ、彼女はいなかった。


 朝のそれが、ただの気まぐれだったというのなら仕方ない話だけど。

 勝手に向こうから声をかけてきて、向こうからこれまた勝手にフェードアウトって、なんだよそれって話だ。


 それに、教室にいる気配もないってのは不可解だし。 

 あの時たまたま彼女もトイレに行ってたのか、それとも体調を崩して保健室にでもいたのだろうか。


 ……。


 なんか、変なことばかり起こる。

 いない人間の名前ばかりが飛び交ったり、いるはずの人間がそこにいなかったり。

 どうなってんだこの学校は。

 

 ……これも、綾坂の仕業だというのか?


「なあ、怜」

「どうしたの? 早く帰ろうよ」

「そ、そうなんだけど。なあ怜、お前千曲さんって子のこと」

「知らない」

「……え?」

「知らない。誰それ」

「い、いや。知らないならいいんだ」

「よくない。誰それ?」

「へ?」

「女の子? なんで急にその子の話が出るの? もしかして今、その子待ってる?」


 綾坂の表情が曇る。

 誰もいなくなった教室で、外で鳴くカラスの鳴き声だけが聞こえる。


「ま、待て。別に深い意味はないんだ」

「浅い意味はあるんだね。言って?」

「い、いやそれは……」

「言ってよ? ねえ、言ってよ。なんで言えないのかな? おかしいなあ、嘘つくの?」

「そ、それはだな……」


 この時、自分が判断を誤ったことを自覚した。

 そうだ、綾坂は普通じゃないんだ。

 なのにどうして、女のことをこいつに尋ねたりしてしまったのか。

 愚かだった。心構えがおろそかだった。

 嘘は、つけないか。


「……いや、今朝コンビニで声をかけられて。でも、苗字しか言ってなかったからそれで」

「それで気になってるの? 一目惚れしちゃったの?」

「そ、そうじゃない。急に声かけられたから、お前の知り合いかなって……」


 苦しい言い訳だったが、今は言い逃れるしかない。

 祈るように、彼女の反応を待つ。

 すると、


「そっか。でも、私は千曲さんって人のこと、知らないよ」

「そ、そうか。じゃあ多分誰かと間違えたのかな、はは……」

「そうかもね。じゃあ帰ろっか」

「あ、ああ」


 ようやく。

 綾坂の顔が少し晴れた。


 それに胸を撫でおろしながら俺は席を立つと、先に彼女が教室から出て行く。

 足取りが軽そうだ。

 俺の疑惑が晴れて気分がいいのだろうか。


 とか。

 思いながらゆっくり彼女について行くと、正門を出るところで彼女が少し歩を緩める。

 どうしたのかと、追いつきかけた時に彼女が。


 また頭を後ろにそらすように振り返って。

 にやりとしてから、言う。

 知らないと答えた彼女が、あり得ないことを。

 にやりと笑いながら。


「でも、かわいいもんねあの子」



 今日はまっすぐ、家に帰った。

 彼女も、何を考えているのか口数少なく部屋に戻っていった。


 俺は、正門であいつが言った言葉が耳から離れない。


「かわいいもんね、あの子」

 

 それが誰を意味してるのか。

 多分だが、千曲さんのことで間違いないだろう。


 やはりあいつは知っていた。

 千曲さんのことを、わかっていたんだ。


 とんだ嘘つきだ。

 人には嘘ついたら殺すみたいなこと言っておいて。

 嘘ばっかりじゃないか、あいつは。


 ……でも、そうだとしたら。

 千曲さんはどうなったんだ?

 まさか……いや、変な考えはよそう。

 いくらあいつが、狂気の沙汰みたいな存在だとしても、それでもただの高校生だ。

 誰かを誘拐したり、監禁したり、それこそ殺めたりなんてことをするはずがない。


 するはずがないと。

 わかっていても、怖くなる。

 ただ、あいつに質問するのはご法度だ。

 

 頼むから、明日元気な姿を見せてくれ、千曲さん……。



 まだ苗字しか知らない同級生のことを、まるで長年の恋人の安否を心配するかのようにずっと考えていると夜になった。


 今日の綾坂は静かだ。

 静かすぎて不気味だ。

 でも、だからといって騒がしくなることを望んではいない。


 ……このまま、ずっとあいつに支配される日々なのだろうか。

 いてもいなくても、ずっとあいつの掌の上だ。

 このままだと俺は……


「ピンポン」


 もう夜の十時を過ぎてるというのに、来客?

 いや、どうせあいつだろ。


「ピンポン」


 ……おかしいな。

 綾坂なら、うちの合鍵をもってるから勝手に入ってくるはず。

 あいつほど非常識な存在が、時間が遅いからなんて理由で侵入を躊躇するはずがない。


 別の人、か。

 もしかして?


 その時、なぜか千曲さんの顔が頭をよぎった。

 彼女が俺の家を知っているはずがないのだが、もしかして誰かに聞いてきてくれたんじゃないかとか。

 多分、そんなことを思うくらい精神が不安定だったのだろう。


 慌てて、扉を開ける。

 少しだけワクワクとドキドキが入り混じった感情で。


 玄関を開ける。


「は、はい」

「奏多君こんばんは」

「あ、綾坂……」


 なんで、というのはお粗末な話かもしれない。

 ただ、少しだけ、こいつ以外の来客に期待した分、その落胆さは拭えない。


「そんなに慌ててどうしたの? もしかしてエッチな本読んでた?」

「ち、違う。何回も鳴らすから気になっただけだ。ていうかお前、合鍵持ってるんだろ」

「うん。でも寝てるかもしれないのに勝手に入ったら悪いなあって」

「……朝はいいのかよ」

「起こしてあげないとだから」

「……初日のはなんだよ」

「え、帰ってくるのをサプライズで待ってただけだよ? そんなに変かな? お母さんにもちゃんと言ってあったし」

「……」


 わからない。

 やっぱりというか、さっぱりこの女がわからない。


 なぜ、そういう時だけ常識人っぷりを見せる?

 頭がこんがらがる。

 こいつ、なんなんだほんと。


「ねえ、もしかしてだけど。誰かと間違えた?」

「え?」

「私じゃなくて、他の誰かが来たって思った?」

「い、いや、それはだな」

「あー、夕方話してた、ええと、ちくわさんだっけ? その人だと思ったんでしょー」


 いや、千曲だよと。

 思わずツッコみそうになって、唾を飲み込む。

 これも、罠だ。


「……違う。別に勘違いとかしてない」

「そっか。ならいいんだけどね」

「で、何の用だこんな時間に。用事がないなら帰れよ」

「つれないなあ奏多君は。でも、一人の時間もほしいよね。うん、そうだね」

「……何が言いたい?」

「んーん、奏多君がちゃんと一人で大人しくしてるか、チェックしにきただけだよ。私、ちょっとヤキモチやいちゃうタイプだから、なんてね。てへっ」


 茶目っけたっぷりに笑う綾坂だが、俺はもちろん笑えない。


 つまり、俺が浮気してないか確認しにきたというわけか。

 ……。


「じゃあ帰るね。なんか寝不足みたいだし、今日はゆっくり寝てね」

「ああ、そうさせてもらうよ」


 じゃあね、と。

 扉を一度閉めかけた彼女が、「そうそう」と言いながら少しだけ玄関から顔を覗かせて。


 鼻から上だけをこっちに出してから、一言。


「千曲さんなら、絶対来ないからね」

 

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