第10話 カレーが煮える
本屋でアルバイトする女性ことは、何一つ知りもしない。
名前も知らない。
年齢も、本当に大学生なのかどうかも知らない。
別に知りたいとも。
そこまでの気持ちはなかった。
年上のお姉さんにほんのり憧れて。
挨拶をして、会話をするようになって。
でも、そんな人にもやがて彼氏ができて。
それを遠くから見つめて、初めて失恋なんかを経験する。
そんな青春じみたことに、少し憧れていただけだ。
ただ、それすらも俺には許されないようだが。
「どういう、ことだ?」
「ほら、焦ってる、やっぱりあの人が目当てだったんだね」
「そ、そんなことよりあの店員さんがいないってどういうことだ」
「嘘つきな奏多君には教えてあげない。嘘ついた罰だよ?」
「……」
彼女の言うことは本当か。
それを確かめるべく、周りを見渡してみたが確かに彼女の姿はない。
それに、何か違和感を感じる。
……なんだ、何がおかしいんだ?
「さっ、帰ろうよ奏多君。私、足が疲れちゃった」
「あ、ああ」
結局、本屋で覚えた違和感の正体はわからずじまい。
それに、いなくなった店員女性の安否も、その行方も闇の中。
いよいよ、何が何だかわからなくなってくる。
「ねえねえ、コーヒー買わない? 朝、こぼしちゃったもんね」
家の前のコンビニにつくと、綾坂は駐車場の車止めの上に立ちながら、にこりと。
ゴミ箱の傍に、今朝こぼしたコーヒーのシミがまだ少し、残っている。
「いいけど。あんまりカフェインの取りすぎはよくないんじゃないか」
「そうだね。じゃあジュースにしよっか。私が奢るよ?」
とんとんと、車止めを飛び移りながら、彼女は入り口の方へ。
そのまま先に店内に入っていく。
普通なら、このまま一人で先に帰るということもできるのだろうけど。
彼女の部屋は俺の隣だ。それに合鍵も持っているし、先に帰るだけ無駄というもの。
家が、セーフティゾーンとして一切機能していない今、大人しく従うしか方法が見当たらない。
肩を落としながら、俺も店内へ。
「見て見て、くじやってるよ」
「ほしいのか?」
「なんかこういうの見たら、引いてみたくならない?」
「……まあ、わからなくもないけど」
でも、わからない。
いや、その気持ちがという話じゃなくて、綾坂が。
結構、普通の感性をもった女の子なんだよな、こいつ。
何もかもが狂ってるわけじゃない。ただ、狂ってる部分があまりにずれているだけの話で。
だからこそ掴みにくい。
何を考えているのかがさっぱりわからんというか。
ストーカーの気持ちなんて、わかるはずもない、か。
「ねえ、これも奢るから一回引こうよ」
「金の無駄だと思うけど」
「いいの。こういうのはね、一緒にやったっていう思い出が大切なの」
「思い出ねえ」
一切思い出もない自称彼女がよく言う。
まあ、だからこそ思い出は大切だと身に染みてわかるのだが。
「これお願いします」
結局、彼女はくじを引きたいそうで、レジにお金を置いてくじを引かせてもらうことに。
今回の一等は、なんと温泉旅行だとか。
しかし、いつもやってるアニメグッズのコンビニくじなんかと違って、景品がやたらと豪華なことに気づく。
松坂牛や、蟹。それにロードバイクなんかもある。
それが一回千円とは。ここも結構思い切ったことをするもんだ。
「……あー、当たったよ」
「お、すごいじゃないか。何等だ?」
「えへへっ、一等」
「……え?」
「温泉旅行だって。しかもこれ、ペアチケットだよ」
「……」
嘘だと思ったが、ぺりっとめくったくじには『一等賞』と、大きく書かれていた。
店員がそれを見て、大慌てで奥からチケットのようなものを持ってくる。
どうやら、温泉旅行券のようだ。
「わーっ、すごいすごい。ねえねえ、連休はまず、温泉に寄ってから実家に帰る?」
「い、いやさすがにそれは……」
「ねえねえ、温泉入りたいよね?」
「……だからさすがにそれは」
「温泉入ろうね、奏多君」
「……」
やはりそうなるかと。
しかしどうしてこうもこいつにばかり都合のいい展開が続くのだと、俺は彼女の強運に首をひねる。
同級生だってそうだ。物分かりがいいやつが多すぎるというか、あまりにこいつに都合のいい連中ばかりだ。
それもこれも、こいつの俺に対する執着が引き寄せた結果というのか。
だとしたら引き寄せの法則はとんでもない。
心の中でねがったことがそのままそうなるなんて、まるで魔法……いや、インチキだ。
「よかったね奏多君」
「……まあ、当たったのはすごいと思うけど」
「温泉だよ温泉。私、楽しみだなあ」
「……」
二人で店を出て、また車止めの上をつたいながらはしゃぐ綾坂を見ながら。
本当に温泉に行くことになるのだろうかと、不安を募らせる。
まだ、朝のコーヒーのシミは残っていた。
◇
「今日はね、昨日買ってきた食材でカレーにするの」
もう、俺の部屋に彼女が来ることへの抵抗は随分と薄れていた。
抗うことに疲れたというか、抗い様がないことに気づいた。
さっさと晩飯を食べて部屋に帰ってもらうに限る。
それが今できる唯一の方法だ。
「ねえ、この温泉旅行って同部屋なんだって」
「高校生がそんな不謹慎なことをしていいのか?」
「大丈夫だよ、親の許可もらってたら」
「……お前の親は、どういう人なんだ?」
少し踏み込んだことを聞く。
親の顔が見てみたいなんて言葉があるが、まさにそんな心境だ。
どういう育て方をしたらこんな異常者に成長するんだと、もしこの先親に会うことがあれば、全力で文句を言ってやりたい。
「えー、普通だよ? パパは私に甘いけど、ママは結構パパにも厳しいし」
「そっか。で、一人暮らしについては何も言われてないのか?」
「どうしたの急に。もしかして、うちに挨拶しにきてくれるとか」
「そうじゃない。ただ、なんていうか、気になっただけだ」
そう、気になるのだ。
意識しているというわけでもないが、気にはする。
いかにも良識がありそうな、可愛い女子高生の姿をしていて、その実、中身がとんでもない異常者なのだから気にするなという方が無理な話だけど。
「ふーん。私のこと、ちゃんと考えてくれてるんだ」
「……ここまでつきまとわれて、考えない方が無理だろ」
「ふむふむ。いい傾向だね」
「なんの話だ」
「こっちの話。それよりカレーの味、見てくれない?」
その言葉に、また胸がきゅっとなる。
味見。
すなわちそれは。
口移し。
もう、勝手にその二つがリンクするようになってしまった俺は、彼女がまた、カレーを口に含んでから振り向くものとばかり想像していたが。
「はい、どうぞ」
おたまにすくったカレーを一口、差し出してくる。
「……」
「あれ、どうしたの? もしかして口移しの方がよかった?」
「あ、いや。違う、そうじゃない……いただきます」
ずずっと、カレーを一口すする。
普通だ。そしてまた、懐かしい味がする。
……家のカレーも、もしかして?
「なあ、お前ってうちで料理とか」
「奏多君からいい匂いがする……いただきます」
「んっ!?」
今度は。
口にカレーをつけた俺の方が彼女に味見されるように。
キスされた。
まだ口の中に残るカレーの味を確かめるように彼女は、何度も舌を絡ませてくる。
自然と、俺もそれに応えるように舌を絡めて。
おたまを床に落とす。
「ふふっ、口移しだと、味わかんないね」
「あ……」
「どうしたの? 昨日も、今朝もしたじゃん」
「う、うん……」
「もうすぐできるから、部屋で待っててくれる?」
「あ、ああ……」
なんだろうか。
一瞬期待させられて、そのあと一度落とされてからの不意打ちに、ひどく胸が締め付けられる。
もう、カレーの味なんてどんなのだったかすら覚えていない。
代わりに、彼女のほんのり甘い香りだけが俺の感覚にこびりつく。
ぐつぐつと。
カレーが煮える音が静かな部屋に響く。
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