第9話 嘘ついたら
給食のカレー。
近所の駄菓子屋の名前もわからないお菓子。
母親の弁当。
どれも、俺の思い出の味だった。
特に母さんの弁当は、いつも好きなものばかりを入れてくれるのがうれしくて、毎日昼休みになるのが楽しみだったのを覚えている。
食欲旺盛な時期の俺にとっては、そんなことが喜びだった。
多分、友人もたくさんいたし女子にも人気あったし、何も不満がなかったからこそ、こんな些細なものにも喜びを感じていたのかもしれない。
ただ、そんな思い出はまやかしだった。
あの味は、母さんのものではなかったと。
「どういう、ことだ?」
「毎日、お弁当を作って夜に届けに行ってたんだよ? 知らなかった?」
「と、届けにって……お前、家に来たことあるのか?」
「えー、何言ってるの? いつも週末は一緒にテレビ見てたじゃん」
「テレビ……いや、どこで?」
「どこでって、奏多君のお家はリビングにしかテレビないじゃん」
「……」
確かにそうだけど。
でも、なんでこいつがそんなことを知ってるんだ?
俺が週末になるといつも、親父がゴルフに行って母さんが友人とランチに出かけるのをいいことに、リビングを独占してテレビを見ていたことを、なぜ知ってるんだ?
「お前……まさか」
「なあに?」
「あの時もずっと、家にいたのか?」
「あの時っていつなのかわかんないけど、でもずっといたよ。奏多君の傍に」
綾坂はそう言って。
拳を口元に当てながら、ククッと笑う。
「お、お前、それはいつから」
「わかんないよー。だってずっとだもん。でも、時々ソファで寝落ちしちゃう奏多君の寝顔、可愛かったなあ」
「……」
もう、冷や汗が止まらない。
確かに気候がいい時は日当たりのいいリビングでそのまま昼寝してたりしたけど。
その間に、そんな奇行を働かれていたなんて……。
「もういいじゃんそんな話。それとも、実家が恋しくなった?」
「い、いや。むしろ戻りたくなくなった……」
「えー、そんなこと言ったらお母さん悲しむよ? ゴールデンウィークは一緒に帰るって言ってるんだから」
「そ、そうか。それは悪かった……ってなんの話だ?」
「あれ、言ってなかった? 今年の連休は長いから、一回実家に帰るってお母さんに連絡しておいたよ?」
「誰と?」
「私と」
「……」
どうやら、そういうことらしい。
今年は友人もいないし連休中はどう過ごそうかなんて考えていたが、そんな心配は一切いらないそうで。
「お母さんには改めて私から連絡しておくからね。さっ、続き食べよ」
「……お腹がいっぱいだよ」
「え? もしかしてこのままだと食べにくい? だったら」
「い、いや食べる食べる! 大丈夫だから」
「そ」
綾坂は、俺の弁当の食材に箸をのばしかけて止まる。
たぶんこいつ、教室でも口移しを敢行するつもりだった。
それはさすがにまずいと、変な胃もたれを感じながらも懸命に弁当を口に運び。
やがて食べ終えたところで吐き気を催す。
「トイレ、行ってくる」
少し一人になりたかった。
そして無理やり詰め込んだ思い出の味を吐き出したかった。
男子トイレに駆け込むと、まずトイレに向かって吐いて。
でも、案外何も出なくて。
彼女の作った食材は、俺の体内から出ることを拒む。
まるで彼女の執念が乗り移ったかのように、俺の中に留まる。
「……なんなんだよ、これ」
そのあとで、便座に座り込むとため息を吐く。
今日は精神的なショックが強すぎるというか。
俺が毎日楽しみにしていた弁当が、まさか母親ではなくストーカーの作ったものだったなんて。
それに休日のゆっくり過ごしてきた時間も。
ずっとそばにストーカーがいたなんて。
考えただけで頭がおかしくなる。
『コンコン』
しばらくトイレに座り込んでいると、誰かがノックする。
まずいと思ってズボンを穿いていると、声が聞こえる。
「奏多君、大丈夫?」
綾坂の声だ。
ここ、男子トイレだぞ?
「な、なんで入ってきてるんだお前」
「だって、吐きそうだなんて心配で」
「お、俺は大丈夫だから。だから外に出ろよ」
「うん、わかった」
コツコツと、彼女の足音が数歩。
しかし止まる。
「ねえ奏多君」
「な、なんだよもう出るから」
「本当に吐いたの?」
「え?」
「もし嘘ついたら」
ちょうどその時、俺はトイレの扉を開けた。
すると、男子トイレの入り口の前に立つ彼女が、首を後ろにそらすように振り返りながら、言う。
「嘘ついたら、死ぬよ?」
◇
あの時の綾坂の顔が忘れられない。
まるでホラー映画に出てくる恐怖の象徴が如く、誰とも焦点が合わないような濁った瞳をしていた。
口元は笑っていて。
目は死んでいて。
とても軽そうな声が。
重く響いた。
その後、すぐに普通の態度に戻った綾坂は、むしろ笑顔が多かった。
クラスメイトと話す時も、いつもより楽しそうに談笑していたように感じる。
あくまで感じるだけだが。
そんなにあいつのことを知らない俺の、勝手な主観だが。
しかし嵐の前の静けさのように。
彼女の笑顔は、俺には不気味に映った。
◇
「帰ろう、奏多君」
いつもなら待ち遠しいはずの放課後。
ただ、今日はやはり気が重い。
また、綾坂が一緒だからだ。
「……今日は寄りたいところがあるんだ。先に帰れ」
「じゃあ私もついていっていい?」
「……たまには一人にさせろよ」
「ついていっていい?」
「あのさ、俺は」
「ついていって、いい?」
「……」
人の話なんか聞いちゃいない。
俺が首を縦に振るまで質問を続けるというのなら最初から訊くな。
いや、聞かずについてくるよりはましなのか。
もう、何が正解かもわからなくなってくる。
「ねえ、どこ行くの?」
「本屋だよ。小説を買いに行くんだ」
「ラノベ好きだね、ほんと。でも今日は新刊の発売日じゃないよ?」
「高校入ってから暇だから時間つぶしの為に新しいのを見に行くんだ。別にいいだろ」
「ふーん」
どうせこいつは俺が何の本を読んでて、いつ何を買いに行ってるかも知ってるに違いない。
だから説明するのも面倒だし、嘘をつくのもリスクが高い。
ほんと、変な奴に目をつけられたもんだ。
「いらっしゃいませ」
学校から、家の方向から少しそれた方に向かった先にある本屋。
ここは、入学した日に見つけた俺の数少ない憩いの場だ。
品ぞろえがいいし、なんといっても平日にいる大学生っぽいアルバイト女性が可愛いのだ。
先週はついに向こうから挨拶してくれるまでになったし、そろそろお近づきになれないものかと。
そんなことを考えていたのだけど、今日はいないようだ。
「で、何見るの?」
綾坂は、つまらなさそうに平積みにされた本を見ながら尋ねる。
まあ、実は目的なんてなくて、店員さんで目の保養でもして帰ろうとか思ってたとは、さすがにこいつには言えない。
だから誤魔化すように適当なラノベを手に取ってみていると、綾坂の顔が俺の耳元に近づいてくる。
「お、おい近いぞ」
「ふふっ、用事ないなら帰っていいんだよ?」
「な、何の話だ。今は本を」
「嘘だ。嘘、ついた」
「……え?」
急に声のトーンが変わって。
悪寒が走って、振り返ると。
真っすぐ俺を見つめる綾坂が。
「う、嘘ってなんだよ」
「嘘だもん。本なんか、見に来てないもんね」
「そ、それは……」
「まあ、いっか。奏多君、いいこと教えてあげるね」
綾坂はクスっと笑って。
また俺の耳元に顔を近づけてから漏れるような声で、言った。
「あの店員さんならね、もういないよ」
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