第7話 ここは駐車場

「おまたせ。肉じゃがとサラダだよ」


 湯気がほくほくとたちのぼる料理をお盆に乗せて、彼女がキッチンから部屋にくる。


「あったかいうちに食べてね。愛情たっぷりだから」


 部屋の真ん中に置かれたコタツ机には、所狭しと料理が並ぶ。


 肉じゃがとサラダの他に、味噌汁までついて。

 炊き立てのご飯の匂いも食欲をそそる。


「い、いただきます」


 こんな見ず知らずの人間の作った料理を無警戒に口にしてしまったのは、やっぱり腹が減っていたとかそんなのではなくて。


 キス、したからだろう。


 あの時のことが忘れられない。

 一体どれくらいの時間、彼女と唇を重ねていたのか。

 あの時、ご飯が炊けなければ今頃どうなっていたのか。


 そんなことばかりを考えながら肉じゃがを一口、口に運ぶ。


「……うまい」

「ほんと? よかった、いっぱいあるからどんどん食べてね」


 素朴な味。

 でも、ご飯が進む、そんな味だ。

 なぜか懐かしさも感じる。


「うん、おいしいよ。お前、料理うまいんだな」

「だって、いっぱい練習したもん。最初はうまくできなかったけど、喜んでもらえてよかった」


 昼間に、俺を脅した時とは全く違う照れた様子の彼女はとても色っぽく。

 俺は彼女の瑞々しい唇を、吸い込まれそうになりながら見つめていた。


「また、口移ししてあげよっか?」

「え?」

「あはは、びっくりしてる。でも、料理はちゃんと味わってほしいから、お預けだよ」

「……」


 めっ、と。

 俺の口元にそっと指を置いて、前のめりになる俺を制止する彼女のしぐさに、胸がきゅっと締め付けられる。


 この感覚は、なんなのだろう。

 可愛いからときめいたとか、そんなものにしても今までにない感覚だ。

 

 まさか俺、こいつに……。


「あ、いや。キスはもう、いい。それより、食べたら送っていくから。もう、暗くなる」


 しかし、既の所で思いとどまる。

 こいつは、やっぱり俺のストーカーだ。

 いくら可愛くて、料理がうまくて、ファーストキスまで奪われたとしても、こいつは勝手に人の彼女を名乗るような狂人だ。


 恋なんてあるものか。

 初恋は、たった一度きりのものだというのに。

 それまでこの女に奪われてたまるものか。


「じゃあ、今日はお言葉に甘えて帰ろうかな。私も夜、やることがあるし」

「そうしてくれ。で、家は近いのか?」

「うん。だから送ってくれなくても」

「いや。お前がどんなやつだろうと同級生の女子に変わりはない。夜道で何かあったら後味が悪いからな」


 相手が悪いことをしたからといって、俺まで相手にひどくあたるなんて真似はしたくない。


 俺はこいつとは違う。

 だから人として、当たり前のことをするまでだ。


「ご馳走さま。料理、うまかったよ」

「うん、よかった。また、作ってあげるね」

「……」


 無理矢理とはいえ、キスをしてしまった罪悪感からか。

 綾坂を突き放すような態度はとれなくて。

 そんな自分が嫌で、さっさと彼女には帰ってもらうことにした。


 さっさと部屋を出る。

 すると彼女がすぐに足を止める。


「なにしてる、行くぞ」

「うん、今日はお邪魔しました。おやすみ」

「だから送っていくって」

「ここだよ。私のおうち」

「……なん、だと?」


 ボロアパートの二階にたった三部屋しかないうちの一つ。

 ちょうど真ん中にあるその部屋の前で彼女は、言う。


「お隣なんて奇遇だね。明日も起こしにいくからね」

「ま、待てこれは一体」


 呼び止めるが、彼女はさっさと部屋の中に入っていく。


 再び、おやすみと繰り返した彼女は。

 しかし玄関が閉まる前に少し振りながら返俺を見て言った。


「私、ずっと見てるから」



 夜。


 汗が止まらない。

 もう、暑い季節の到来は間近だ。

 でも、体が凍えたように震える。


 ベッドに一人、布団にくるまって俺は震えていた。


 やっぱり綾坂はヤバい。

 隣の部屋だと? そんなバカな話があるもんか。


 奇遇? うそつけ、絶対意図的に決まってる。


 でもどうやって? 俺が越してきた時にはまだお隣さんはいたはずだ。

 まさか追い出したのか?

 いや、そんなことが簡単にできるはずが……


「ずっと見てるから」

 

 彼女の最後の言葉がよぎる。


 あれはつまり、今俺がこうして部屋の隅で震えていることも、なんらかの方法で見ていると。

 そう言いたいのだろうか。


 今も隣に彼女がいて。

 どこかで俺を見ているのだとしたら……。


 そう思うと怖くて。

 起きた時に、何かとんでもないことが起こりそうな気がして。


 眠れなかった。



 ……朝、だ。

 一睡もできなかったなんて、いつぶりだろう。

 いや、ゲームで徹夜した以外では初めてか。


 ずっと。

 頭の中は綾坂に支配されていた。

 綾坂怜。

 その名前を心の中で何度呟いたことか。

 

 これが初恋の甘酸っぱい青春ならよかったのだけど。

 残念ながらそれは凄惨なストーカー被害による恐怖だ。


 だから。


『ぴんぽーん』


 玄関のチャイムの音にも、震える。


「あれー、まだ起きてないの? じゃあ起こしてあげようかなあ」


 勝手に玄関が開き、勝手なことを言う綾坂の声がする。

 俺はそれでも布団から出ない。出られない。


「でもー、毎日お寝坊さんだと奏多君のお母さんが心配しちゃうから。おはようのチューしてあげようかな」


 狸寝入りをする俺の耳に届いた言葉。

 チュー。

 キス、だと?


 ……このまま寝たふりをしてたらまた、あの時のようにキスを?

 

 そんな邪な考えが頭をよぎる。

 ただ、すぐに邪念を振り払う。


「お、起きてるよ」

「ありゃ、残念。おはよう、奏多君」

「お、おはよう」


 そこには。

 部屋には、制服姿の小柄な可愛い女子高生の姿が。

 もちろん、綾坂怜だ。

 こうしてみると、いや、そうでなくてもこいつは可愛い。

 タイプとか、そういう範疇を超えた尊さまである。

 ただ。


「あれ、もしかして夜更かししたの?」

「え? いや、ちょっと寝るのがおそくて」

「ふーん。夜更かしはお肌に悪いから、めっだよ」

「ああ、気を付けるよ」

「よかった」

「よかった?」

「うん。もし嘘寝してたら刺してたかも」

「な、なに物騒なことを言うんだよ朝から」

「本気だよ? 嘘は恋人についたらいけないの。もし奏多君が嘘ついたら私、奏多君を殺して私の部屋にずっと置いておくから」

「……冗談、だよな?」


 なんともえぐいことを朝から言う。

 まともそうな、普通の女の子に見えてそうじゃないのが、こいつ。

 綾坂怜。


「冗談かあ。でも、そうならないようにしてね」

「あ、ああ……嘘は、つかない」

「うん。じゃあ飲み物買いに行こ?」

「……わかった」


 また、綾坂とコンビニだ。

 昨日と同じ缶コーヒーを二つ、彼女が嬉しそうに手に取る姿を見ていると、なんかデジャブだな。


「ねえ、今日は唐揚げ買わないの?」


 これも聞いたようなセリフだ。

 まさかタイムリープでもしてるのか、俺は。


 そんなくだらないことを思いながら携帯を見るが、日付はしっかり変わっていて。

 それに、やっぱり繰り返してなんかいなかったと、彼女にそう理解させられる。


「ねえ奏多君。ブラックおいしい?」

「まあ、甘いの苦手だからな。そういやお前、昨日もカフェオレだったっけ? 好きなのか?」

「うん、甘いの大好き。これもおいしいよ?」

「そっか」

「一口、飲んでみる?」

「あ、いや別にそれは」

「飲んで?」

「……わかった」


 渋々と。

 カフェオレを貸せと、コンビニの駐車場の陰で彼女に手を差し出すと、なぜかそれをグイッと飲む綾坂。


「な、何してんだよ」

「んっ。今はカフェオレの味がするよ?」

「なっ……」

「口移し。してあげる」

「っ!?」


 もう一度いうが、ここはコンビニの駐車場。

 外だ。


 しかし彼女は、俺にカフェオレを。


「んっ……ちゅっ……」

 

 口移した。

 いや、ほんのりその香りこそするが、口の中にそれを含んじゃいなかった。


 代わりにというか、まるで俺の味を確かめるように彼女はまた、舌を絡めてくる。

 力が抜ける。


 手にもっていた缶コーヒーが、滑り落ちて。

 カランと音がしたところで、彼女が俺からそっと離れる。


「……」

「また、しちゃったね。奏多君のえっち」

「あっ、いや、えと」

「おいしかった、でしょ?」

「……甘い」

「あはは、そればっか。うん、甘いねこれって」


 どことなく甘い香りをさせながら。

 彼女は俺に絡めた腕を解いて。

 

「もう言い訳できないね」


 彼女はそう言ってから。

 少し中の残っていた、俺の落とした缶を拾い上げてゴミ箱に捨てた。

 

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