第6話 甘い味がした
「ねえねえ、この包丁すっごく安くない? 買っていい?」
「別に俺が買うわけじゃないんだから好きにしろよ」
「じゃあ、買うー。えへへっ、よく切れそうだね」
「……」
スーパーにて。
いくらケースに入っているからとはいえ、自分のストーカーが隣で包丁を持っている姿は、やはり落ち着かないというか。
怖い。
料理の為だと彼女は言うけれど、果たしてそれも本当なのか信用できない。
何を料理するためなのか。
あるいは俺を……。
「じゃあ今日は肉じゃがにしちゃおうかな。どう思う?」
「い、いいんじゃないか?」
「じゃあそうする。あ、そういえば来週から連休だね。どこ行こうかなあ」
「さ、さあな。はは……」
すっかり彼女気分な綾坂だが、俺はまだ現実を受け止め切れてなどいない。
ただ、今は彼女の妄想に付き合うと決めた。
そうしながら機を伺う。
親まで巻き込んでいる以上、手荒な真似はできないだろうし。
「じゃあ、帰ろう。ていうかお前、家はどこなんだ?」
「えー、もしかしてうちに来たいの?」
「そうじゃないけど。いや、この辺って夜になると人も少ないし」
「もしかして、心配してくれてるの?」
「え、いや、まあ」
「嬉しい……奏多君、大好き」
「……」
本当は早く帰ってもらうために訊いただけなんだけど。
ま、いっか。
それにこいつ、本当に俺のことが好きなんだな。
ただそれだけなら、そんなに悪い気はしないんだけどな……。
アパートに戻ると、荷物を持っている俺の代わりに彼女が鍵を開ける。
これもまあ、ひどい話だ。
逃げようにも逃げられない。いつでも俺の部屋に入れるのだから、やはり下手なことはするもんじゃない。
「じゃあ早速料理するね。奏多君はゆっくりしててね」
新調した調理器具を取り出して、さっき買ったエプロンを身にまとう綾坂。
それを横目に俺は奥の部屋に逃げ込んでからテレビをつける。
ちょうど、夕方のニュース番組をやっていて。
ストーカー被害に遭った女性のことが報道されていた。
……やっぱり、ストーカーなんだよな。
でも、いつから? 俺が中学の時の話とかも知ってるみたいだし、その辺りからなのか。それとももっと以前から……。
「奏多君」
キッチンのある廊下から綾坂の声がする。
「なんだ」
「味付けだけどね、ちょっと自信ないから味見してくれないかな?」
「別にいい。人の作る料理に文句いうつもりなんてないし」
「いいから、ちょっと来てよ」
「……わかった」
全く。
なんでそんな常識人っぽいことを言う。
異常者のくせに、そういう気遣いを見せたところで俺の評価は変わらないからな。
「ねえ、もっとお醤油入れた方がいいと思うんだけど」
おたまで出汁をすくって、ずずっと口に運んだ彼女が振り向く。
「いや、食べてみないとわからないんだけど」
「じゃあ。んっ」
と言ってなぜか彼女はおたまをもった手を後ろに組んで俺を覗き込む。
「……いや、だからおたまを俺に」
「んっ。口移し」
「なっ……冗談もほどほどにしろ」
「冗談? 何言ってるのかな? 嫌なの?」
「……」
さすがにこれは嫌だとかそういう問題ではない。
口移しなんて言い方をとっていても、これはキスだ。
さすがに嘘に付き合うのも限界だ。
キスをしては後戻りができなくなる。
完全に、向こうの言い分を認めることになる。
……。
「そういうのはまだ早い。俺たちはまだ知り合ったばかりだろ」
「何言ってるの? 私はずっと奏多君のこと、見てたよ?」
「俺は見てないんだって……それに、口移しじゃ味がわからんだろ」
「どうして?」
「ど、どうしてって……」
「なんで知ってるの? もしかして、他の女とそういうこと、したことあるの?」
「な、なんでそうなるんだよ。あるわけない」
「じゃあ、試してみないとわからないよね? わからないのに嘘ついたの? ねえ、どうなの?」
「い、いや……」
じりじりと、迫る綾坂に圧倒されて壁際に追い込まれる。
彼女からは、料理をしていたせいかおいしそうな甘い匂いがする。
……唇が少し、つやっと光る。
「ねえ。口移し」
「……あ、あの」
「もう、奥手なんだね奏多君って。えいっ」
「っ!?」
小柄ながらにしっかりある胸を押し当ててきながら、俺にもたれかかるように彼女は俺の唇に、自分の唇を当てる。
慌てて引き離そうとすると今度は首の後ろに手を回して、ぎゅっと俺を引き寄せる。
「っ!!?」
「ん……んんっ」
そのまま舌を。
グッと俺の口の中に絡めてくる。
その感触に、俺は力が抜けて。
彼女の肩を掴んでいた手がするりと、落ちる。
なんとも言えない、ファーストキスだった。
初めてのキスが、まさか女子に奪われる形で、しかも相手が自分のストーカーだなんて、ディープキスだなんて思ってもみなかった。
ただ、キスの感触は生々しく。
俺の脳に刻み込まれていく。
「……しちゃったね」
「あ……」
「可愛い、奏多君。大好き」
まだ両手を俺に絡めたまま、おでこが触れるくらいの距離で彼女は笑う。
頬を少し紅く染めて、口元を湿らすようにペロッと。
その後で息を漏らすような小声で呟いてくる。
「ねえ、もっとすごいこと、する?」
その言葉に、心臓が胸を突き破るようにドンッと。
激しく脈打ったのがわかった。
これ以上すごいこと。
それは一体なんなのか。
すでに理性のダムが決壊しかかっている俺は、無意識に彼女の体に手が伸びる。
このまま。
押し倒してしまってもいいのだろうか。
いや、多分いいのだろう。
いいからこそ、彼女はキスをしたんだ。
だから……
「ピピッ、ピピッ」
その時、タイマーがなる。
米が炊けたようだ。
「……ざーんねん。お米炊けちゃった」
「あ……」
「ふふっ。慌てなくても、これから毎日一緒なんだから。それより肉じゃがの味、どうだった?」
「え……えと……甘い……」
「そっか。でも、口移しでも、味見できるんだね」
彼女はするりと俺に絡めた手を外し。
振り向いてから再びキッチンのコンロの火をつける。
そっと、少し湿った自分の唇を触りながらさっきの感触に浸る俺に向かって彼女は、
「部屋で待っててね」
振り向きもせずにそう言って。
俺は呆然としたまま、部屋に戻った。
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