第5話 この胸の高鳴りは
天国や地獄が実際にあるかどうかとか。
今はそんな話をしている場合ではなく。
つまり綾坂が言いたかったのは、俺が彼女との交際を認めないなら、徹底的に追い込むと。
そういうことだとわかって俺は、一度自分の主張を下げた。
「……もういい。こんなことしても何の得もない」
「じゃあ、ちゃんと彼女だって認める?」
「……わかったよ」
折れた。
というかへし折られたというべきか。
ただ、こうする方が今は得策だとも考えてのことだ。
どうせ今は、どういうわけかは知らないが俺と綾坂が付き合ってると誰もが思ってるわけで。
だから俺が必死に否定を続けても周りの認識は変わらない。
だったら無駄な抵抗を重ねるより、だまされたふりをしながらそのからくりを探る方がいいと。
なんとも不服ではあるが、今ここで俺は、人生で初めての彼女というものができてしまったというわけだ。
馴れ初めも、告白も、運命的な出会いすらもなく。
名前以外ほとんど知らない女子が、彼女になったのである。
「ねえ奏多君、どのパンがおいしいの?」
「さ、さあ。俺はいつも」
「いつもカレーパンだもんね。でも、他のも食べてみようよ」
「……」
ほんと、こうして話していると妙な錯覚に陥るのだ。
まるで長年連れ添った夫婦のように、彼女は俺のことをよく知っている。
昨日何食べたかとか、何が好きで何が嫌いかとか、なんなら中学までの間にどんな日々を送ってきたかまで詳細に。
本当にずっと隣にいたかのように、彼女は俺のことを誰よりも知っている。
なんなら俺以上に俺のことを知ってると言っても過言ではない。
いちいち覚えてないようなことまで、しっかりと彼女は把握しているのだ。
「結局カレーパン買っちゃったね」
「ま、まあ。無難だし」
「でも、コンビニのカレーパンがまずかったからって、食べずに捨てたらダメなんだよ? 食べ物を粗末にしたらバチが当たるんだからね」
「……」
そういえばそんなこともあったっけ。
ああ、春休みにあったな、そんなことも。
一体いつから、彼女は俺のことを見てきたというのだろうか。
もしずっとストーカーを続けてきたというのなら、彼女のその執念と追跡スキルは相当なものだ。
何がそこまで彼女を突き動かすのだ?
「なあ、綾坂」
「怜だよ」
「……綾坂はさ」
「怜だよ」
「……怜さんは、いつから俺を」
「怜だよ?」
「……」
一度は綾坂が彼女であることを認めた俺だけど。
もちろんそれは表面上だけのことで、本当に認めているはずがない。
だから一線は超えないように。
呼び方も他人行儀なままでいたかったのだけど、許してはくれない。
「怜だよ? 彼女の名前、忘れたの?」
「だから怜さんって言ってるだろ」
「さん付けとかヤダ。それともなにかな、私のことを呼び捨てしてるのを聞かれてまずい人でもあるの?」
「い、いや、そういうわけじゃなくてだな」
「まあ、いたら殺すけど。あはは、殺すって言っても即死なんかさせてあげないけどね。そんな子がいたら私、どうなっちゃうんだろうなあ」
「……」
随分と物騒なことを言いだしたものだ。
でも、これは多分、自分を呼び捨てさせたいがための脅迫であって、本気で誰かを殺そうなどとは思ってないと。
……そう信じたいものだ。
「わかったよ、怜」
「うん、なあに?」
「お、俺のどこが好きなんだ?」
なんか付き合ったばかりの彼女に照れながら聞くように。
ストーカーに対してその動機を聞くことに。
「うーん、全部かなあ」
「なんだその曖昧な理由は。なんかこう、あるだろ。見た目やら性格やらって」
「だから全部。ずうーっと見てきてずっと好きなんだから、多分奏多君の全部が好きなんだなって」
「……あ、そ」
そもそもこんな異常者にまともな質問をした自分が悪いと、話を終わらせた。
それに、性格なんてついこの間知り合ったばかりのこいつに知られててたまるかという話でもある。
やっぱりこいつも、俺がイケメンだから寄ってきただけで、結果としてファンがエスカレートして暴走したということなのだろうか。
早いうちになんとかしないと。
別に他の女子からの評判だとか以前の問題だ。
単純に、怖い。
「奏多君、あーんしてあげる」
「……そ、それはいいって」
「あーん、して?」
「だ、だからそれは」
「あーん、わからないのかな?」
「あ、あーん」
「ふふっ、可愛いなあ奏多君は」
「……」
教室で。
皆が注目する中で堂々と彼女は俺の口にカレーパンを運ぶ。
断ると、目が怖くなる。
だから俺は従う。従わざるを得ない。
そんな俺たちを見て、ため息を漏らす男子や、悲鳴をあげて喜ぶ女子。
でも、みんな揃いも揃って俺たちを祝福してやがる。
認めてやがるんだ。
ほんと、これだけは意味がわからない。
いくらストーカーをし続けて、俺のことを調べ上げたとしても、他人の記憶まで塗り替えることはできない。
母さんもそうだけど、どうやってクラスメイト全員に、俺と幼なじみだという間違った認識を植え付けたというのか。
もちろん、俺とそういう仲だと思い込んでいる綾坂にそんな質問をしても無意味なんだろうけど。
「なんか楽しいね、奏多君」
「……ああ」
「なんでそんなに不機嫌そうなの?」
「……別に」
逆になんでそんなに楽しそうなんだと言いたい。
こいつ、まさか本気で俺の幼馴染だと思ってるわけではあるまいに。
それとも思い込みが強いタイプなのか。
だとしたら妄想癖なんてレベルを超えて現実と夢の境もわからない狂人だ。
ああ、そうだ。
狂ってやがる。
「今日の放課後なんだけどね。一緒にお買い物いかない?」
「何かほしいのか?」
「ううん。奏多君のおうち、食材が何もないから」
「今日も来るのか?」
「それがなにか?」
「……」
別に何かほかに予定があったわけではないけど。
勝手に彼女に予定を埋められてしまった。
ここまでは終始彼女のペースというか。
都合が悪くなると人前で泣くし、いつの間にか用意した脅しの道具まで持ち出してくるし。
やりにくい。あざというというよりはあまりに用意周到すぎる。
どうにかしないと、だな。
「じゃあまたね、綾坂さん」
放課後。
女子たちが綾坂に別れを告げながら教室から出て行く。
男子たちは、俺に向かって「俺も生まれ変わったらお前になりたいよ」なんて言って、勝手に何かを諦めた様子で消えていく。
そして、閑散とした教室に残された俺は。
無言で教室を出る。
もちろんだが、綾坂がついてくる。
「……」
「ねえねえ、商店街の喫茶店ってもう行った?」
「……」
「あのね、今度の週末は新しくできたきなこ餅の専門店に行きたいなって。あれ、タピオカの次に流行るって噂なんだよ」
「……」
「あれ、聞こえてないのかな? 『や、やめて奏多君……お願いだから』」
「わ、わかったからその音声を学校で流すのはやめろ」
「えへへっ、素直じゃないんだから」
「……」
今は試行錯誤中だ。
とりあえず冷たく接してみるというのを試してみたが、それは無意味だと知る。
だったら、とりあえずは彼氏彼女のフリを続けるしかないかと。
また別の手段を考えるしかない。
「なあ綾坂」
「怜だよ」
「……怜。お前って地元どこだよ」
「え? 奏多君と一緒だよ」
「一緒って……俺、小学校の四年生の時に転校してるし、それに」
「知ってるよ。でも、ずっと一緒だったもん」
「……あ、そ」
どうやらそういう設定らしい。
頭がおかしいのだろう。
俺に幼なじみはいないし、何度も転校を繰り返してきた俺とずっと一緒だったなんて、あり得ないのだから。
まあ、それはそれでいいとしてだ。
こいつが初めて俺に目をつけたのはいつだ?
「なあ、俺達っていつ知り合ったんだ?」
「えー、いつかなあ。いつだと思う?」
「し、知るかよ。いつなんだ?」
「ひみつー」
「……まあ、いいや」
全くもってわからないことばっかりだ。
見たことのない幼なじみがいて、そいつが知らないうちに彼女になって、なぜかみんながそれを事実だと思い込んでいて。
ただ、
「ねえ奏多君」
「なんだ」
「手、繋いでもいいかな?」
「……それは」
「お願い……ダメ、かな?」
「……別に、いいけど」
彼女を可愛いと思ってしまったのはやはり、俺の落ち度なのだろう。
こんな得体のしれないストーカー女子を、少しばかり容姿がいいからというだけで可愛いとか思ってしまう自分の弱さが恨めしい。
そんな顔で甘えられると断れない。
だから手をつなぐくらいいいだろうと、彼女の提案に乗るのも俺の弱さだし。
彼女の細い指が、俺の指の間にするりと入り込む感触に胸を高鳴らせるのもきっと。
俺の弱さ故だと、思いたい……。
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