第3話 いつもの味

 彼女というのはつまり、交際相手の事を指すことくらい、思春期を迎えた人間であれば誰だって知っている。


 彼女。 

 ガールフレンド。


 これはもう、久しぶりと挨拶を交わす人間とはくらべものにならない程の親しさがなければそうとは呼ばない。


 好きです。

 愛してる。

 付き合ってください。


 告白の形は様々でも、自らの好意を相手に伝え、更にそれを相手が受け入れてくれて初めて成立する関係。


 もちろん俺にそんな親密な仲の女子はいない。

 

 だというのに。


『ぴんぽーん』


 朝から。

 誰かが俺を迎えにやってきた。


「……」


 のぞき窓から外を見ると、そこにはレンズで歪んだ綾坂怜の姿があった。

 制服姿で、もじもじしながら学校指定のカバンを持って立っている。

 

 もちろん俺は、出迎えたりしない。

 まだ時間も早いため、一度部屋に戻ろうと足音を立てないようにそっと廊下を歩いていると。


『ガチャ』


 玄関の鍵があく。


「おはよう奏多君、いるなら返事してよー」

「うわっ! お、お前何勝手に玄関を開けてるんだよ」

「だから、鍵あるんだしいいじゃん。ねえ、どうして開けてくれなかったの?」

「か、勝手に人の家に上がり込む不審者を出迎えるわけないだろ普通!」

「勝手に? おかしいなあ。お母さんにちゃんと了解もらったのになあ」

「う、嘘をつくな。俺の親は見ず知らずの奴に鍵を渡すほど非常識じゃない」

「そりゃそうだよー。見ず知らずの人にはそんなことしないよね」

「だ、だったら」

「だって私、お母さんと仲良しだもん」


 今日は少しニヤッと。

 不敵な笑みを向ける。


「な、仲良し? いや、あり得ない」

「なんで? なんであり得ないの?」

「だ、だってそんな話は一度も」

「しなかっただけでしょ? そんなに疑うなら聞いてみたらー?」


 言いながら勝手に靴を脱ぎ、さっさと部屋に上がり込む綾坂は。

 たじろぐ俺を無視するように、今度は廊下に置いてある冷蔵庫をあける。


「あれー、自炊してないんだ。こんなんじゃダメだよ奏多君。今日はせっかく朝ご飯作ってあげようと思ってたのに」

「か、勝手に人の冷蔵庫を見るな! い、いやそれ以前にだな」

「いいから、早く電話してよ」


 ぬっと。

 真顔のまま、彼女は俺を見上げる。

 遠い目をしている。瞳の奥が濁っている。


「わ、わかったよ……と、とにかく何もするな。待ってろ」

「はーい。待ってろって、男らしくてかっこいい」

「……」


 途端ににこりと。

 ころころと表情を変える彼女に戸惑いながら、震える手で電話をかける。


「……もしもし母さん? 俺だ」

「何よ奏多、こんな朝から」

「い、いや。訊きたいことがあるんだけど。綾坂怜って、知ってるか?」


 こんな質問を親にするなんて、俺もクラスの連中とあまり変わらないなと、呆れる。

 ただ、これで母さんが知らないと言えばそれで終わりだ。

 警察を呼んで、鍵を回収して、それでもしつこかったら被害届を出すまで。


「なにいってんのよ怜ちゃんでしょ? 昨日も電話したわよ。あんたが全然連絡よこさないからって、代わりに様子を教えてくれるなんてほんといい子ね」

「……うそ、だろ?」

「鍵も渡しておいたし、身の回りのお世話は彼女にお願いしてあるから。でも、だからって迷惑かけちゃだめよ? 逃げられないようにあんたもちゃんとしなさいね」

「……何言ってるんだよ母さん。なあ、何言って」

「じゃあこれからお父さんの朝ご飯の準備だから切るわね。怜ちゃんによろしく」


 プツリと。

 電話が切れた。


「……どうなってるんだ?」

「ね、お母さんと私は仲良しだったでしょ?」

「い、いや待て。これは何かの間違い」

「じゃあどうやって? なんで間違うの? お母さんが頭おかしくなったってこと?」

「そ、そうじゃない、けど……」

「ふふっ、親公認のカップルって、なんだか許嫁みたいだね。きゃっ、私ったら何言ってるんだろ」

「……」


 ほんのり頬を朱く染めながら照れる美少女は。

 しかしそれでも過去に見覚えなんてなかった。

 出会ったのは間違いなく昨日が初対面で。

 防波堤でのすれ違いを出会いと呼ぶにしたってついおとといのこと。

 一体何が起きてるというんだ……。


「ねえ奏多君、今日は食材ないしコンビニでパン買おうよ。私、サンドイッチ食べたいな」

「……食欲ない」

「えー、食べないとダメだよ? 育ち盛りなんだし、朝ご飯は特にちゃんと食べておかないと」

「……ああ、そう、だな」


 もう、放心状態だった。

 目の前で、まるで彼女のようにはしゃぐ謎の女の子をぼんやりと眺めながら、現実を受け入れることができず。


 気が付けば俺は、彼女に促されるままに制服に着替え、一緒に部屋を出ていた。

 鍵を閉めたのは綾坂。まるで夫婦みたいだねと笑う彼女は、とても幸せそうだった。

 

 階段を降りる時。

 ここから滑り落ちたら死ねるかなとか。

 もしかして今俺は別世界に迷い込んでいて、頭でも打ったら元の世界に帰れるんじゃないかとか。


 そんなことばかり考えて。

 でも、考えるばかりで。


 コンビニにいた。

 綾坂と。

 俺の幼馴染で、彼女だと語る。

 知らない女の子と。


「いらっしゃいませー」


 いつもと同じ店員の声。

 入店音。

 でも、はっきりと違うものがある。


「ねーねー、奏多君はいつもブラック飲んでるよね。大人だなあ。私も飲めるかなあ」

 

 隣に、彼女がいる。

 いつ知り合って、いつから付き合ってるのかも知らない、そんな彼女が。

 でも、彼女は俺のことを知っている様子。ここで毎日コーヒーを買うことまで、きっちり把握している。


「……お前、もしかしてストーカー、なのか?」


 嬉しそうにドリンクコーナーで、俺がいつも選ぶブラック缶コーヒーとカフェオレを手に取る彼女に、問うた。


 いや、訊くまでもなくそうなのだろうけど。

 でも、訊くしかなかった。

 訊いて、自分がおかしくなったりパラレルワールドに迷い込んだわけじゃないと、確かめたかった。


 でも、


「……なんでそんなこと言うの? ひどいよ奏多君……」


 泣きだした。

 買ってもいない缶コーヒーを、カランと床に落としながら膝から崩れ落ちるようにして。


「お、おい……」

「私、奏多君の彼女なのに……一緒に買い物して、一緒に学校に行けるだけで幸せなのに……なんで、なんでそんないじわるばっかり言うの……やだよ、やだよう……」

「ま、待て人の話を」

「ううっ、うううっ……」

「……」


 もう、泣き崩れる寸前だった。

 店員が、心配そうに見てる。

 他の客も、俺に冷たい視線を送ってくる。


 ……くそっ、一旦仕切り直すしかないのか。


「す、すまんそういうわけじゃなくて。いや、よく俺の好みを知ってるなあって。だからつい」

「……じゃあ、もうひどいこと、言わない?」

「え、う、うん」


 目を赤くして。

 顔も少し赤くして。

 涙で濡れた大きな瞳で不安そうに俺を見る彼女は。


 可愛かった。


 あまりの可愛さに、ドキッとした。

 してしまったというべきだが。不覚をとった。


 思わず、生返事をしてしまう。

 なぜかこの子にはひどいことをしたらいけないと。

 そんなことさえ思わされていた。


「じゃあ、仲直りだね。一緒にコーヒー、レジに持って行こ?」

「あ、ああ」

「えへへっ、奏多君って、やっぱり優しいね」

「……」


 落ちた缶コーヒーを拾い上げて。

 そのままレジに持って行くと横で彼女が、


「今日は唐揚げ買わなくていいの?」


 と。

 嬉しそうに言った。


 昨日、俺はここで唐揚げを買った。

 彼女が転校してくる前。もちろん、知り合う前のこと。


 やがて、店員から渡されたブラックコーヒーを見て、思う。

 

 やっぱり彼女はストーカーだ。

 昨日も、どこかで俺のことを見ていたに違いない。


「どうしたの? ねー、私のカフェオレちょうだいー」

「あ、ああ」


 冷や汗を拭いながら、彼女がヤバい人間であることを再認識する。

 ただ、ヤバいからこそ刺激してはまずいなと。

 一旦平然を装いながら、コーヒーを口にして。


 ただ、コーヒーの味なんて全くしなかった。

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