第14話 サファイアブルー

 デューンの異父姉グリンは、レイヤやドーレマと同じく呪術師。呪術学研究科博士後期課程を修了したのち民間の研究機関に入り、コアな呪術学の研究に携わっている。


 レイヤの若年性認知症がグリンに与えた精神的打撃は大きかった。養父グル・クリュソワとは、はじめから実の父娘のように、愛情に満ちた血縁以上の絆で安心して結ばれているけれど、もう一つのルーツ、ネプチュン鳥島の父アルチュンドリャとの精神的な絆は、母レイヤを通して結ばれていた。そのレイヤとの意思疎通が困難になったことで、グリンは自らの寄る辺として立つ足場が半分ぐらついてきたような不安を感じるようになった。


 二人の子育て中のキャリアママ、といえばカッコいいかもしれないが、夫は残業続き、長男のヒュィオスは赤ん坊の頃からかんが強く、手のかかる子だったし、二男のヒュプノが生まれてからはもう家の中も頭の中も片付けが追いつかなくて、グリンは毎日よれよれになっている。

 レイヤのことも心配だし、決して時間がないわけではないけれど、どうしても気持ち的に余裕が持てない。実家の様子を見に行く時間があるなら、眠りたいのだ。



 いちど、グリンの夫アリュポスから夜中にデューンのところへ電話がかかってきたことがある。

 遠方へ出張中だったアリュポスにグリンが電話して、

『いまからヒュィオスを殺す』

 とだけ告げ、切ったという。アリュポスが慌てて折り返し電話をかけたが、グリンは受話器を外しているらしい、様子を見に行ってもらえないだろうか、というのだ。高齢の親には心配をかけたくないからと、デューンに頼んできた。

 ドーレマは自分も行くつもりで支度を始めたが、デューンは、

「たぶん大丈夫だから、ドーレマは家にいて。先に寝てていいよ」

 と言い、一人で車を飛ばしてグリンの家へ向かった。


 到着すると、家の前にグリンの友人セレネさんが立っていた。

「ああ、デューンくん! アリュポスから電話がきて、飛んで来たんだけど、チャイムを鳴らしても返事がないの。電話もかからないし。どうしよう・・・」

 警察に連絡しようかと考えながら途方に暮れた様子のセレネさんの肩をぽんぽんと叩き、自らも励ますように、

「大丈夫」

 と言いながら、デューンは合鍵でドアを開け、部屋へ入った。


 おもちゃやら紙類やら衣類やらが散乱した床に三人が倒れている。半分うつぶせのグリンの頭近くにヒュプノがダンゴ虫のように丸くなり、少し離れたところにヒュィオスがやはり丸まっている。

 一見したところただならぬ様子なのだが、どうやら三人とも眠っているだけのようだ。セレネさんは一人ずつ脈を取り、呼吸を確かめて、とりあえずほっと胸をなでおろす。

 くずかごの中に、空の薬のシートが2枚。精神安定剤と睡眠薬だ。おそらくグリンは、子どもたちに睡眠薬を飲ませ、自分もたくさんまとめて飲んだのだ。床の濡れた跡をたどり、想像するに、はじめに眠ってしまったグリンの周りをヒュプノが泣きながら這いまわり、諦めてか力尽きてか、ヒュプノも眠ってしまったらしい。ヒュィオスはひとりで遊びながら薬が効いてきて、やはりそのままコテンと寝てしまったのだろう。

 セレネさんは、せっかく(?)眠っているグリンたちを起こしてはいけないような気がして、静かに床やキッチンを片付け始めている。

 デューンはまず、ダンゴ虫ちゃんのヒュプノをそーっと抱っこしてベビーベッドに寝かせ、次にヒュィオスをよっこらしょと抱き上げ、ベッドへ運んだ。ヒュィオスの頬に涙の跡が乾いて残っている。グリンに怒られて泣いていたのだろうか? それともグリンが眠ってしまい、呼んでも反応がないから不安で泣いていたのだろうか?

 グリンの愛情がいつもどこかヒュィオスの頭上でカラ回り、苛立ちばかりがヒュイオスの心へ投げつけられているようにデューンには思える。

〈姉ちゃんは博士さまかもしれないけど、ヒュィオスはまだこんなに小さな子どもなのに・・・可哀想にね、ヒュィオス・・・ママから、ちゃんと愛してもらえないの?〉

 愛しているはずなのに、どうにもかみ合わないグリンとヒュィオスのささくれた魂を思うと切なくて、デューンはちょっと泣きそうになりながらヒュィオスの頬に口づけ、寝かせた身体を優しくトントンする。


 床に寝ちゃったグリンを、デューンも、触らないほうがよいだろうと思い、寝室から持ってきた枕をあてがい、毛布を掛けた。薬で眠っているけれど、本当はちゃんとベッドで寝ないと疲れが取れないはずだ。それでも、次々と絡みついてくる憂うつな仕事をぶちっと遮断して眠りへの逃避に成功(?)したグリンを、一瞬でも起こしてしまうのがもったいない。お姫様抱っこできるほど軽くもないし。


「あ、受話器・・・」

 外れたままの受話器を戻そうとしたセレネさんは、ふと、しばらく電話は鳴ってくれないほうがいいかもしれないと考える。その代わり、アリュポスの出張先の宿へこちらから電話をかけた。

「三人とも眠ってるから大丈夫よ。デューンくんも来てくれたから」

 アリュポスを安心させ、デューンもドーレマに電話をかけて状況を伝えた。


「今夜はぼくがここに泊まります。明日姉ちゃんからセレネさんに連絡させますね。ご迷惑をおかけしてすみません」

「気にしないで、デューンくん。グリンはひとりであれもこれも抱え込んでて、いっぱいいっぱいなのよ。アリュポスの会社は、子育て中の社員を後方支援できるほどの余裕もないみたいだし。私も、グリンの愚痴を聞くくらいしかできないけど、また様子を見に来るわね」

 やれやれひと安心、と微笑んで、セレネさんは帰った。ほんとにお疲れさまでした。


 デューンは熟睡中のヒュプノのおむつをそーっと替えてから、ヒュィオスに添い寝し、丸くなって眠るヒュィオスの背を、自分も眠りに落ちるまでトントンし続けた。

 翌朝、勝手のよくわからないなりに冷蔵庫にあるもので朝食を作り、甥たちを起こして食べさせた。ふたりとも起きぐずりもせず、機嫌よく目覚めてくれて助かった。ヒュィオスは、

「わぁ! おっちゃん!」

 屈託なく喜んで、さっそく跳びはねている。


 グリンが目を覚ました。少し片づいた部屋と、普通に元気に食事をしている子どもたちと、デューンがいるのを見て、昨夜の自分の行動から記憶をたどり、状況がなんとか飲み込めたみたいだ。

 とても気まずいのだけれど、なんだかほっとした。なにがほっとしたかといえば、家のなかに自分以外の大人がいて、子どもたちの世話とか台所仕事とか、何にせよ〈労働〉をしてくれている。家事育児の分担というより、〈子どもではない誰かがいる〉ということだけで、気分的に救われるのだ。子どもたちに朝ご飯を食べさせて歯磨きをさせて、保育所へ出かける準備をする、日々のルーティンワークを、いつもほど苦痛に感じなくて済む。


「ごめん、デューン・・・来てくれたのね」

 それだけ言うのがやっとのグリン。デューンは、

〈ったく、心配かけやがって・・・〉

 と思うけど、言えない。

〈姉ちゃんもしんどいんだね・・・〉


「保育所へはおれが送って行く。車を借りるよ。姉ちゃんはおれの車で仕事行って。昼休みに姉ちゃんの研究所へ返しに行くからそこで車は交換だ。お迎えはちゃんと頼むよ。それから、ゆうべセレネさんが来てくれたから。電話しといてね」

 デューンも連絡事項を事務的に伝えるのが精一杯だ。感情を盛り込んでしまうと、辛くなるから。

「ほんとにごめん。ありがとう・・・」

 言い訳とか、労いとか、いろいろ言わなくちゃ、なんだけど、考えがまとまらない。

 デューンもグリンにはそれ以上言わず、慰めるように軽くおでこにキスをしてから、ヒュプノを抱っこし、ヒュィオスの手を引き、グリンの車のチャイルドシートにふたりを乗せて先に出発した。


 ひとりになったグリンは、正直ほっとして、けれど次の瞬間、涙と鼻水が垂れてくる。

「ヒュィオス、ごめんね。ママあんなに怒って・・・」


 平積みに積み上がってしまった本の山が、ちょんと突っつけばドサドサッと雪崩なだれてくるみたいに、毎朝毎晩グリンの感情は整理整頓が追っつかず、グラグラと崩れそうなのだ。


 子どもの神経の興奮を鎮める〈おまじない〉はあるけれど、本物の〈呪術〉はかけられない。呪術は人の無意識の奥深いところに刺激を与えることになるから。本当にもう、黙らせて眠らせる呪術をヒュィオスにかけてやろうか、と思ってしまうこともあるが、それだけはできない。プッツリと切れればみんなして地獄へ落ちてしまう細い細い命綱を、グリンの魂は不器用にもがきながら死守している。

 睡眠薬を子どもに飲ませるのも、いけないことなんだけど、ギリギリ残る正気でもって加減していた。それで死ぬことはないとわかっていたし、呪術に比べたら危険度はまだマシだ。



 ときおり、グリンの夢にネプチュン鳥島の風景が現われる。サファイアブルーの海と、幻想的なビイル薔薇の花と香りと薄ピンク色の霧に包まれた、楽園の島。半透明のネプチュン鳥たち。そして、あの丘の墓地。バラ色の墓石の下に眠るアルチュンドリャの魂。そんな夢を見た朝のグリンは、なぜか無性にアルチュンドリャを恋しく感じてしまう。一度も会ったこともない父なのに。

 言うことを聞いてくれないヒュィオスに手を上げそうになると、グリンは無意識にヒュィオスのサファイアブルーの目を見る。はた目には睨んでいるように見えるだろう。しかしグリンは、ヒュィオスの瞳に、ネプチュン鳥島人の父アルチュンドリャの魂の痕跡を探し、つながった命の尊厳を確認しようとしているのだ。そうやって、ヒュィオスを叩かなくて済むよう、心の中で泣き叫びながら、祈りながら、こらえているのだ。

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