第10話 opus

 かつてアルチュンドリャとナオスガヤさん(このふたりは同い年なのに、ナオスガヤさんにはなぜか「さん」をつけたくなるような人徳があるのだ)が、ネプチュン鳥島からはるばるジュピタンのグル・クリュソワの研究室へ研修に訪れた、本当の理由わけを、デューンはある時期からはっきりと意識するようになった。


 ビイル薔薇精油から芳香成分と毒素を分離する方法を探す、というのが直接の目的であったが、それならばなぜ、わざわざ錬金術師を訪ねる必要があるのか? ネプチュン鳥島からなら、もっと近くのサターンワッカアルへ行けば、ソーラーシステム第六大学にも化学や薬学の優秀な研究者たちが大勢いるのだ。なぜ錬金術学部の教授でなければならなかったのか?

 それはアルチュンドリャたちが、物質の化学変化の背後に隠された、もっと根源的で深遠で神聖な魂浄化の技を、バラ中患者たちのために持ち帰ろうとしたからだ。

 興味本位の火遊びだったにせよ、現実逃避であったにせよ、ともかくアルチュンドリャは若者たちの間に飲バラを広め、社会にバラ中の禍いを引き起こしてしまった。自らが断バラして立ち直るだけでは解決にならない。ビイル薔薇精油メーカーの社長として、諸刃の剣であるビイル薔薇精油から暗黒の麻薬元素を取り除き、変容させ、バラ中の人々と社会を救済しなくてはならなかった。


 デューンの認識からすれば、〈分離〉だけではダメだ。原始の自然状態から〈光〉だけを分離してしまったら、〈闇〉が無秩序な無意識のまま抑圧され、破壊的エネルギーが水面下で膨張してしまう。光も闇も認めながら制御するのがより正しい扱い方なのだ。当時のアルチュンドリャたちはまだ若かったけれども、ひょっとしたらそこまで考えていて、それで錬金術師の研究室を訪ねたのかもしれない。


 デューンがそんなふうに考えたのは、アルチュンドリャたちの研究に臨む姿を、レイヤたちがよく語っていたからだ。

 社会的に喫緊の要事であったことは確かなのだが、ビイル薔薇精油研究に精神を注ぎ込む彼らの集中力は、『ヤバい領域の一歩手前』だったとグル・クリュソワは言う。変人錬金術師のグルにそう言わしめるのだから、化学実験を超えた作業オプスに関わっていたのだ。



 ナオスガヤさんには飲バラ習慣はなく、アルチュンドリャはバラ中だった。当時、第五大呪術学研究科の院生だったレイヤは、バイト先のグルのラボで、彼らの実験を記録する手伝いをしていた。

 健全で温厚なナオスガヤさんの澄んだサファイアブルーの瞳は美しい。いっぽうアルチュンドリャのサファイアブルーの瞳にはどこか影が差し、この世のものではない彼方を刺し貫くような不思議な鋭さがあった。普通の人から見れば、ただのバラ中患者のイカレた目だったかもしれない。しかしレイヤは、そんなアルチュンドリャの瞳の奥に、純粋な魂の美しさを感じ取っていた。

 かれの孤独な魂と傷ついた儚げな肉体を、レイヤは抱きしめてあげかった。レイヤの魂の片隅にも、どこか暗くて危うい、小さな衝動のようなものが点滅していた。自分が歩いている地面に、ふと裂け目が現われ、吸い込まれそうになりながらも闇の底を覗き込まずにはいられないような、魂のむず痒い衝動だった。

 知らないうちに同調した波長が引き寄せ合ったのだろう、レイヤとアルチュンドリャは愛し合い、それは刹那の恋でしかないゆえになお切なく、それでも魂をさすり慰め合うには肉体を激しく重ね合わせるしかないのだった。


 レイヤはアルチュンドリャとたま交わしのまじない石を交換しあい、ネプチュン鳥島へ帰るふたりを空港で見送った。

『レイヤさん』

 背後にぬっと現れて(いや、一緒に見送りに来てたんだけど)声をかけたグル・クリュソワ教授。レイヤが振り向くと、グルは、

『ハナ、垂れてるよ』

 と言った。


 レイヤの魂の危うさを、ちょうどよい間合いを取って見守り、実際に手を添えて守ってくれたのがグル・クリュソワだった。

 翌年グリンが生まれると、グルはレイヤを伴侶とし、グリンを我が子として迎え入れた。

 グルとレイヤの絶妙なコンビネーションで営まれる家庭は、子ども達の精神にとって、のびのびとモノを考えることのできる、自由で平和な環境だった。そんな家庭にデューンは生まれ育ち、親たちの昔話を聞きながら、グリンと同じようにネプチュン鳥島をもうひとつの故郷のように感じるようになった。


 姉のグリンは瞳の色がジュピタン人とは異なる。物心つく頃からデューンは、グリンにはもう一つのルーツがあることを知っていた。両親もそれを隠し立てもせず、ありのままの事実を話してくれていた。グリンはアルチュンドリャを『アルチュンドリャとーちゃん』と言う。実際に会ったことはないのだが、12年前、ネプチュン鳥島へ姉弟で訪れたとき、ネプチュン様が夢の中で会わせてくれた。

 ちなみにグル・クリュソワのことは、グリンもデューンと同じように『とーちゃん』と呼ぶ。



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「ジュピタンの錬金術師は、公務員の冶金職人から化学者、薬学者、スピリチュアルな指導者まで、いろんな部門の方々がいて活躍されているそうだけど、デューンくんは第五大の中枢で、もっとも包括的な仕事をしているのね」

 研究室長リナロルさんが言う。包括的というのはなかなか有難い言い方だ。まだ世に出ていない装置の開発現場は、すなわちまだ実社会に役立つ仕事は成しえていない。博士号を取ったとしても、〈可能性〉だけで一生を終えるかもしれない研究者は、本物の錬金術師といえるのだろうか? リナロルさんは尊敬のニュアンスを込めて言ってくれたけれど、デューンは正直に答えた。

「大学にいると、どの分野の利害関係からも距離を置くことはできますが、同時に、現実のどの営みからも疎外されているように感じるときもあります。ケーメくんにも同じ気分を味わわせてしまったら申し訳ないな、と・・・」

「大丈夫ですよ、デューンさん。それもわかっています。会社と大学とでは勝手は違うかもしれませんが、ぼくはカルブンの真髄をきわめたいんです。ぼくの両親はアルチュンドリャさんたちのおかげで飲バラから救われた世代です。第一大で化学を学んだことも、この会社へUターン就職したことも、そして、ジュピタンの第五大とこのようなご縁をいただいたことも、根本的なところで繋がっています。どんな現場であっても、未来の希望のために仕事に取り組むだけです」

 ネプチュン鳥島人にしてはいろいろと回転の速そうなケーメくん。マキュリ地方特有のスピード感みたいなものも体得しているのだろう。第五大にとってかれは頼もしい共同研究者となるに違いない。

「そう。ケーメくんなら大丈夫よ。タフだから。我が社の未来にとっても有望なスタッフをジュピタンへ差し上げるくらい、私たちも尊厳死カプセルに期待してる、っていうことよ」


 みんなわかっている。ケーメくんの実力とともに、メルクリウス(Mercurius)が必要なことを。化学の起源であり、錬金術の要であるところの第一質料だ。かれがマキュリ地方仕込みの研究者であることにも必然があるのだ。

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