第4話

  女刑事物語 (4-1)

 打たれた頬を手で押さえて凜は眼を丸くした。

「えっ? なに?」

ユリは凜を睨みつけて叫んだ。

「なんて図々しい人なの。恥を知らないのッ?」^

「えっ?…」

凜の脇を通りすぎたユリがドアに向かって大声で叫んだ。 

「ウメさん、ウメさん!」

ウメはすぐ近くまでやって来ていたようだったが更に急いで現れた。息が切れている。

「何でございましょうかお嬢様、大きな声をお出しになって…。」

「この新しい家政婦さん、なぜ私の服を着てるのかしら。なぜこんな勝手を許しているの? 私は理解できない。不可能だわ。」

ウメは凜とユリを交互に見た。凜はまだ片頬を手で押さえている。ウメは何かを察したようだ。

「お嬢様。」 落ち着いた声で言った。 「この方は家政婦ではありません。警察官でございます。」

「えっ?」

「旦那様が警察署にお願いしてとくに来て頂いたのです。お名前は朝倉様とおっしゃいます。そして制服のままだと家政婦たちが不安に思うかもしれないということで、旦那様が朝倉様にお願いして無理に着替えて頂きました。」

「パパが?」 ウメの言うことがよく分らずにユリは首を傾けていた。

「さようです。服は私が選んで差し上げました。」

「なぜ警察のひとが?」

「このお屋敷に脅迫状が届いたのでございます。」

「脅迫状?」

「さようでございます。内容について旦那様は何もおっしゃいませんでしたが、きっと恐ろしいことが書かれていたに違いありません。ちょうどユリお嬢様がお帰りになる時期ですので旦那様はいたくご心配されて、それで朝倉様においで頂いたのです。お嬢様をお守りするためです。ですから、もし朝倉様に失礼な事がありましたら、旦那様がお怒りになります。」

「パパは私を怒ったりしないわ。」

ユリはウメの話を断ち切るように決めつけた後、凜を品定めするように見まわした。そして平手打ちを詫びる代わりに、質問を投げかけた。

「その脅迫状はいったい誰が何のために書いたのかしら。」

凜は何も答えなかった。

ユリがここぞとばかりに質問を繰り返した。

「脅迫状を書いた犯人は、いったいどこの誰なのかしら? 警察のかた。」

「それはまだ分っていません。」

「あら、何の役にも立たないのね。」

たまりかねてウメが言った。

「ユリお嬢様、失礼なことがあってはなりません。」

「私は本当の事を言ったまでよ。」

そこへ家政婦の一人が姿をみせた。

「旦那様がお帰りになりました。」 と告げた。

凜はユリの顔が一瞬で輝くのを見た。ユリは意味も無く家政婦の手を握ると、連れ立って階段を降りて行った。

 凜はため息をついた。肩をすくめたい心境だった。

「要は扱いづらい年頃という事ね。美風もああなるのかしら。」 と思った。

ウメが申し訳なさそうに言った。

「朝倉様、ユリお嬢様をお許しください。」

「私は気にしていないわ。それより着替えなければ…。」

「お済みになりましたら居間の方へお越しください。勿論声をかけてもらえれば私がご案内にあがります。」


 明は地味な服に着替えている凜を見て少なからず意外そうな表情を浮かべたが、にこやかにユリを紹介した。

「娘のユリです。十八歳になりました。」

笑顔で短くユリを見つめてから凜を向いた。

「お願いの件はどうなりましたでしょうか。」

署長の回答はすでに知っているはずだと凜は思ったが 「お申し出に沿うようにと署長から指示されています。」 と告げた。

「有り難うございます。ユリ、良かったね。」

ユリはうるさそうにしていた。そんな話にはまったく興味は無いという態度だった。

「ねえ、パパ。もっと良くお顔を見せてよ。私はパパのお顔を見るのを楽しみにこの半年間を生きてきたのよ。」

「ユリ、パパも君のその美しい顔を見るのを楽しみに半年間生きてきたよ。」二人は笑い合った。

ユリは明に抱きつくとその頬にキスした。明が優しく笑ってユリの肩を抱いた。明の口づけを頬に受けながらユリは凜の顔を見つめていた。その眼には挑むような光があった。

ユリは凜に敵愾心を抱いていた。これまで何度も日本を訪れて父親に会ったが、父の周りに女性の気配を感じたことは無かった。顔を合わせるのはウメと家政婦、そして樋口くらいのものだった。だが今回は違った。そしてユリの眼から見ても凜は美しかった。しかも自分のものである高価な衣装が似合っていたのも腹立たしかった。一度も着てはいなかったが愛らしいデザインの象牙色のドレスをはっきりと覚えていた。

凜が想像する以上にユリの心は波立っていたのだ。


翌朝七時過ぎに凜は鮎川邸に到着した。門が開け放たれ、黒い車が停まっていた。明と樋口の姿があった。凜は明を眼にしただけでうれしそうなそぶりだ。樋口はそんな凜の様子を敏感に受け止めて、かすかに微笑んだ。

「こんなに早くからお仕事をするの?」

凜が尋ねると樋口は小声で 「ジョギングです。これからフィットネスクラブへ直行します。…私は、ゆっくりとコーヒーを頂くというわけです。」 と小さく笑った。樋口は凜へのわだかまりをすっかり捨てているようだった。

 明の隣にはユリがいた。

「パパ、今夜はレストランね。うんとご馳走して頂くわ。」

「お気の召すままに。」

明は冗談めかして答えた後、凜に近づいて言った。

「ユリのこと、よろしくお願いします。…ではまたのちほど。」

車が去って行くのを見送りながら凜はつかの間ボンヤリとしてしまい、振り返るとすでにユリの姿は無かった。

 ユリは一度も外出しなかった。凜はウメと世間話をして時間をつぶしたり、防犯カメラのモニター室で過ごした。午後三時を過ぎたあたりでユリがウメを呼んだ。レストランに着ていく服を選ぶためにウメの助けを求めたのだ。

ウメは張り切っていた。

「旦那様がおいでになるレストランは一流のお店ですからね。私にお任せください。きっとご満足頂けますわ。」

ウメがいくつかの服に手をかけては、その都度ユリを確かめるように見ると、ユリはいちいち姿勢を正してその視線に応えた。その仕草が子供のように思えてウメは楽しげに微笑んだ。

「これが宜しいです。」

真紅のドレスだった。ユリが身に着けると、胸のあたりがV字型に深く切れ込み、背中が大きく開いていた。脇から腰のあたりまでタイトなラインで流れ、下腹部から大腿にかけて少し余裕が持たれている。ヒップはその一番高いところからストンと落ちた上品なラインだ。裾の長さはふくらはぎのあたりまであった。袖は肘の上までの長さで、肩の付近からスリットが入り、ユリの白い肌が見えた。

「お履きものはこちらです。」 ウメが真紅のピンヒールの靴を手にしていた。

ユリはウットリと鏡を見ていた。

「まるで貴族のお姫様みたい。」 と呟いた。

ウメが言った。 「ペンダントをお持ちですよね。」

ユリはすぐにそれを取り出した。ダイアモンドのペンダントだった。ハイスクールの進学祝いに明が贈ったものだ。その輝きを鏡の中に見ながらユリが何気なく口を開いた。

「このペンダント、いくらぐらいの値段かしら。」

ウメは遠慮がちな声で「数百万円で買えるようなものではありません。」と答えた。

「そう…。」 ユリはしかしすぐに 「えっ?このペンダントは十万ドル以上 なの?」 呆然として鏡に見入った。

ユリの母親はアメリカ人と再婚していた。夫は普通のサラリーマンだった。明が十分な養育費を払っているので金銭的な余裕はあったがとりたてて裕福というわけではなかった。

「ママは知ってたのかしら…。」

ユリが呟いたがウメは視線を逸らせていた。そして 「…イヤリングもありましたよね。」 とうながした。

 全てを身に着けたユリの姿を見てウメは嘆声をもらした。

「ああ…、実にご立派です。何とお美しいお姿でしょう。鮎川家のお嬢様としてどこへ出られても恥ずかしくございません。」

ウメはファッション的なセンスを持ち合わせているようだった。真紅のドレスは大柄なユリにピタリと似合っていた。腕のスリットにハイティーンらしい若さを残しながら、全体としては大人の女性美を強く意識したデザインだ。さらにウメはコートも準備したが、襟から胸元にかけてファーを使用した豪華なものだった。


 明が帰宅した。十二月である。あたりはすでに夕闇に包まれていた。

「さあ、準備は出来たかな?」

そう言ったときにはすでにドレスアップしたユリの姿を見つけていた。

「お帰りなさいパパ。」

ユリは微笑を浮かべ、軽く後ろで腕を組んで明の前に立った。

「どう? 私はパパのお気に召したかしら。」

「勿論だよユリ。なんて綺麗なお姫様でしょうか。」

ユリは明の首に両腕をまわした。

「パパはきっとそう言ってくれると信じていたわ。」 背伸びをしてほおにキスをした。

「お腹もちゃんと空かしているかい?空腹こそが最大のご馳走という言葉もあるからね。」

明が上機嫌に言った。

「パパッ!そんな言葉がシェフの耳に届いたらきっと大変なことになるわ。」

「おっと、今の言葉はここだけの秘密にしておこう。」

 明の声を聞いて凜が現れた。その服装に気づいた明の顔に驚きの色が浮かんだ。すぐにウメを見た。明と眼が合ったウメは彼の意図に気づいたがもう遅かった。凜が着替える時間は無かった。凜は防寒の実用性を重視した黒いタイツを穿き膝丈のデニムのスカートと大きめの上着を着ていた。

凜は武装していた。上着に隠れていたが、防刃用のベストを身に着け左脇腹には小型の特殊警棒を装備していた。頑丈なベルトには革製のホルダーが尻の上あたりに留められていて手錠が収納されていた。ハンドバッグを肩にかけ、黒色のダウンコートを左手に掛けていた。それは冬の夜の張り込みには欠かせないアイテムだ。

 これから警護対象者と町中に出る。その職務の遂行の決意と自信が凜にはあった。気迫が凜の顔に穏やかではあるがはっきりと表れていた。

明は凜の顔から眼が離せなかった。凜はすぐに明の視線に気づいて少し恥ずかしそうに笑みを浮かべた。明は背筋に戦慄に似たものが走るのを覚えた。

…私は彼女に恋している。突然に明は気づいた。

彼女はこれまで出会った事の無いタイプだと思った。強い興味を抱いた。そして会う度に明に惚れているらしいそぶりを見せることを楽しんだ。余裕を持って彼女に接していた。そのつもりだった。だが今、凜を力の限りに抱きしめたいという狂おしい感情に襲われていた。

…私は彼女に恋をしている!

驚きでもなく、戸惑いでもなく、それは歓喜といえる感情だった。

明は黙り込んだが、満足げな微笑を浮かべていた。ユリが何かを感じたのか不思議そうに明の顔を見た。


 レストラン「ラ・メール」は港の近くという訳ではなかった。…お店の名としては今風じゃないわね、凜はそう考えたが、高級そうな感じはした。入り口辺りで周囲に眼を配った。立ち並ぶ商業ビルの一階はほとんどがショーウインドウで、一帯は眩いばかりの光にあふれていた。

「どうぞあなたもご一緒に…。」

明が声をかけると凜は戸惑う表情をみせた。

「電話連絡をしたいので…。」 と答えて動く気配を見せなかった。

「それが済まれたら是非どうぞ…。」

明が重ねて口にすると、凜は曖昧に頷いた。明の言葉の意味がよく分らなかったのだ。

 店内にはクリスマスツリーが飾られていた。ごく小さな光が点滅を繰り返していて、上品で落ち着いたムードだ。

 ユリの姿は店内の注目を集めた。若く、美しく、ゴージャスな雰囲気が周りの空気が明るく、楽しいものであることを客たちにあらためて意識させた。ユリは多くの人に見つめられる緊張を快く感じて、頭を上げ、堂々と進んだ。

 だがユリは、案内されたテーブルの上を見て愕然とした。そこには三人分が用意されていたのだ。立体的にたたまれたナプキン、整列したナイフ、フォーク、スプーン。ゴブレットやボウル、ワイングラスに至るまで三組で揃えられていた。ユリは明を見つめた。

「パパ、どういう事かしら、なぜ三人なの?」

「それはあの人の分だよ。」

「警察の人?」

「そうだよ。」

ユリは険悪な表情を見せた。

「やめてっ! なぜあの人と食事をしなければならないの。」

「あの人はユリを守るために来てくれているんだよ。」

「私は嫌よ。どうしてもあの人と一緒にというなら私は帰るわ。」

「ユリ、我が儘を言ってはいけない。予約しているんだよ。沢山の人が私たちのために準備をしているんだ。」

ユリは唇をかんだ。

「分ったわパパ。どうぞあの人を呼んでちょうだい。でも約束するわ。私は一口も食事をしないわ。水も飲まない。店を出てからもよ。パパと二人でお食事出来ないのなら、私は飢え死にした方がましよっ。」

「ユリ…。」 明は困惑した。

 その頃、凜は黒田に連絡をとっていた。

「係長、覆面を一台まわしてちょうだい。」

「おお。」

「武田は空いてるかしら。」

「どうかな。」

「空いてれば健太をよこして。」

「わかった。」

話はそれで終わりだった。

 黒田とは波長が合うと、凜はあらためて満足していた。二人とも質問を挟んで連絡を長引かせる事はしない。捜査の最中に集中力を途切れさせないために自然と身についたスタイルだった。…感覚が似ている、と凜は思った。

 一方、明は支配人を呼んでいた。

「すまないが一人だけ別のテーブルに移る訳にはいかないだろうか。」

支配人は激しい困惑の表情を浮かべた。一見、空席に見えても、テーブルは全て予約で埋まっている。その事を知らない客ではないはずだった。顔を伏せて考え込んだ。断ることも出来た。しかし明の頼みを無下には出来ない。支配人にとって明は最も重要な顧客だった。

「しばらくお待ちください。ホールの担当者と相談させて頂きます。」

ホールの担当者なるものがとりたてている訳ではなかった。時間を稼ぐつもりだった。 …なんとかしなければ。支配人は考えを巡らせた。

 凜が店内に姿を現した。スカートのボリュームに比べて上着がだいぶ大きかった。そうでなければならない事情があるのだが、いかにも野暮ったく、レストランの雰囲気とはまったく似つかわしくない格好に見えた。

 凜は明のテーブルに歩み寄ると 「何かお話があるのでしょうか。」 と問いかけた。明は狼狽した。

「いや…、よかったらお食事を召し上がらないかと…。」 語尾を濁した。

凜はちらりとテーブルの上を見て意外そうな顔をしたがすぐに 「遠慮いたします。」 と応えた。職務中にレストランでコース料理を食べるなど、プライドが許さなかった。

「どうなされるのですか。」

「外で待機しておりますのでご心配なく。」

「外は寒いはずだが。」

「同僚が車を持って来ます。」

ユリはそっぽを向いたまま二人のやりとりを聞いていた。凜の言い様は少し乱暴ではないかと感じた。

 凜と入れ替わるように支配人がやって来た。

「お一人様の席をご用意出来ます。ただ、近くをウエイターが通る事になりますので、失礼なことになりはしないかと心配です。」

「そこで良い。」 と明が即答した。寒い夜に凜を車に閉じ込めておくなど考えられなかった。

「そこへ今の女性を案内してくれ。そして…。」 と明が支配人を見つめた。支配人は緊張した面持ちで明に顔を近づけた。

「そして彼女に食事を提供してもらいたいのだが、何というか、コース料理ということが分らないように、いや、正式な料理ではないような説明で、彼女に気を遣わせないようにして貰えないか。」

支配人は眼を剥いた。

「つまりあのお方に料理をお出しして、しかもそれが料理ではないと説明しろとおっしゃるのですか。」

「何というか、とにかく彼女に要らぬ気遣いをさせたくないんだ。」

すると意外なことに 「分りました。」 と支配人が応えたのである。明は自分が言い出したにもかかわらず眼を丸くした。

「そのようにいたします。」 と支配人は言った。

明はすぐに電話を手にした。凜を呼び出した。

 携帯に鮎川 明の名が明示されているのを見て凜は心が躍った。これからはいつでも明と会話出来るのかも知れないと考えると、希望がむくむくと沸き上がるようだった。

「朝倉さん。」 と明の声がした。凜は胸がドキドキした。まるで叩くように頬に手を当てた。職務中だぞと自分に言い聞かせた。

「支配人があなたに椅子を用意してくれます。多分小さなテーブルも。あなたはそこでコーヒーをお飲みになって、何か軽く召し上がったらどうでしょうか。外は寒い。あなたに風邪を引かせるわけにはいかないのです。」

「…分りました。支配人さんの好意に甘えます。」

明はホッとした。あるいは拒絶されるかも知れないと恐れていたのだ。この日の凜にはそう感じさせる厳しい雰囲気があった。

 直後に武田から凜に連絡が入った。

「どこへ行けば良い? ちなみに車はトヨタのマークなんちゃらというカッコ良いやつだぞ。」

「悪い。必要がなくなった。」

「えっ? そうか。」

「すまないね、面倒かけちゃった。」

「なあに、その方がこっちも助かる。」

「健太。」

「うん?」

「俺に会えなくて寂しいだろうけど、あと少しの辛抱だからね。」

「ははは…、じゃあな。」

一方的に電話を切った。

「あっ、健太。あのね…。」

毒突こうとしたがすでに電話は切れている。そこへ支配人が近づいた。

「どうぞ、ご案内いたします。」

 店の奥の厨房の通用口に近い場所だった。そのためホールのテーブルが少し遠くに配置されていた。それまで造木の観葉植物の大きな鉢が据えられていたのを移動したのだ。なんとかそれなりのスペースが保たれていた。

「えっ、ここなの?」

凜の言葉に支配人は首をすくめた。だが凜は満足していた。店内がよく見渡せたし、何より出入り口が正面にあった。

「有り難うございます。」 と礼を述べた。

 支配人はしかし少しも安堵していなかった。彼には難問が待ち受けていたのだ。

「お客様…、突然で申し訳ないのですが…、アンケートをお願いしてよろしいでしょうか。」

「アンケート?」

「いえ、面倒なことは一切ございません。…当店が本日ご用意させて頂いたメニューのごく一部をいくつかご試食頂いて、ご感想をお聞かせ貰えればこんなうれしい事はございません。」

凜は黙ったまま支配人を見つめていた。見つめられて彼はしどろもどろになった。

「いえ、とくにご意見をというのではありません。…まったく構いません。お気遣いなされないように…。」

矛盾した支配人の言葉に凜は穏やかに応えた。

「分りました。私でお役に立てるなら喜んで協力させて頂きます。」

支配人は泣きそうな顔で頷いた。

 会話は捜査において重要な意味を持つ。相手は真実を口にしているのか、それとも嘘をついているのか。真実を語っているとしたらその理由と目的は何か。嘘が紛れる余地の有無は明らかなのか。はじめから嘘だとしたら何故嘘をつく必要があるのか、その目的は何なのか。どこまで事実が交えられているのか。そこに自然と意識が向かうのは刑事生活がもたらしたものと言えた。

 支配人が嘘をついているのは明らかだった。それは何のための嘘なのか。凜に食事をさせるのが目的だと思われた。その理由は何か。支配人は誰かの要求に応えようとしている。その誰かとは明以外には考えられなかった。凜は遠く離れたテーブルの明を視界の端で捉えていた。いつか肩の力が消えていた。

                    (つづく)


            「女刑事物語」(4-2)

 支配人はウエイターの一人を捕まえて言った。

「あの方を最上の客と心得てくれ。決して失礼があってはならない。お近くを通るときは必ず一礼するように、分ったな。」

支配人の指示はさざ波のようにウエイターたちに伝わった。同時に彼らは 「彼女は一体何者だろう。」 と素早くささやき合った。

「ひょっとしたらグルメ雑誌の覆面リポーターではないか。」 と一人が言った。たしかに凜の服装はレストランの雰囲気にはまったくなじまないものに思われたが、それは店側の反応を見るために故意に演出したのではないか、というのがその男の意見だった。だが支配人は彼女が重要な客だと言っている。だとすると覆面リポーターとしての彼女の役割はまったく破綻していることになる。そのことに本人が気づいていないだけなのか。彼らはそうは思わなかった。凜の目配りや身のこなしを眼にしていた。彼女が鈍感な人物とはとうてい考えられなかった。

「分った。彼女はガードウーマンだ。」 と一人が言った。

「ガードウーマン?」

「そうだ、鮎川様のお嬢様をガードするために警備会社が派遣したに違いない。」

その意見は何故か彼らを納得させた。

「するとあの方は武道の達人なのか?」

「多分、合気道の高段者に違いない。」

凜はいつの間にか合気道の達人にされてしまっていた。

 ユリは離れたテーブルから凜の様子をそれとなく注目した。凜に一番近いテーブルに老夫妻がいた。髪は大半が白い。婦人はダークグリーンのノースリーブのドレスを着ていた。大粒の真珠のネックレスが上品に輝いていた。婦人は眉根を寄せて凜の様子を窺っていたが、やがて顔をそむけると同時に体の向きを少し変えた。

ユリが明に言った。

「見て、パパ。あの警察の人、なんてみすぼらしい格好なの。あの人はこのレストランにちっとも合っていないわ。」

明はユリの顔を見つめて何も言わなかった。


 凜の前にオードブルが運ばれた。皿には小さくて様々な形をした食べ物が彩りよく置かれていた。

「これは…何かしら。」 凜がウエイターを見上げた。

彼は見つめられた瞬間に頭が真っ白になった。その意識のほとんどを凜の瞳が占めてしまった。用意していた答えを全て失っていた。

「えっと、これは、つまり分りやすく申しますと、こちらは、ようこそお越し頂きましたとご挨拶しているものでございます。」

なんとか切り抜けたのではないかと思ってホッとした。そのときになってせめてテリーヌの説明くらいできたはずだと後悔した。

再び皿の上に眼を向けた凜が言った。

「まあ、なんておいしそうなご挨拶かしら。」

ウエイターは吹き出しそうになって必死にそれを怺えた。顔を真っ赤にして急いでその場を離れた。

 彼は凜と言葉を交わした事を他のウエイターたちに自慢げに伝えた。

「あの方は美人だ。」 とつけ加えた。次に誰が凜の皿を運ぶか、それは彼らにとって重大な関心事となった。

 明は凜の様子に気を配りながらも娘との時間を楽しんでいた。ユリはさも満足そうに料理を口に運んでいたが、明の視線に気づいてゆっくりと微笑んだ。

「こんなに料理がおいしいのはシェフの腕なの? それともパパと一緒にいるからかしら?」

「ユリ、私は断言するが、ユリと一緒に食べる料理はいつでも世界最高の料理だよ。」

「パパッ、先に言わないでッ。」

ユリは軽く明を睨んだあと、フォークの先を上に向けるというまるで子供のような仕草をして言った。

「でもシェフの腕も確かだわ。何より火の通し方が絶妙ね。…パパ、ユリが住んでる所ではフレンチのお店はごく少ないわ。男の子たちはバーボンソーダに夢中。だから料理はピッツァとかハンバーガーステーキ。簡単な料理の店が多いわ。勿論それはそれでおいしけど。」

「ユリにはボーイフレンドがいるのかい?」

「いるわ。でもパパが心配するような関係じゃないわ。」

明は急に父親らしい複雑な思いを抱いた。ユリに恋人が出来たらどんな気持ちになるのだろうと漠然と考えた。

 凜の前に新しい皿が運ばれた。支配人は料理の量を減らしてはいたがメニューの全てを運ぶ決心をしている様だった。ウエイターたちはすぐに立ち去ろうとしない。凜と言葉を交わしたがっていた。彼らはテーブルクロスの端を整える仕草をし、ゴブレットの水滴を拭うふりをして、他の客に気づかれぬよう注意を払いながら凜と会話した。凜はときおり頷いたり、笑みを浮かべたり、何か問いかけたりしていた。

  「ユリ、あの人を見てごらん。」 と明が言った。

眼を向けると凜の隣のテーブルの白髪の婦人が盛んに話しかけている。ユリは意外だった。たしか先程は顔をそむけていた筈だった。凜はわずかに笑みを浮かべながら困っている。婦人は同席の夫に何事かを告げた。夫はワインのボトルを手にしてそのラベルを指し示した。婦人が大きく頷いた。凜は二人に掌を向けて左右に小さく振っている。

 「ユリ…。」 と明は穏やかな声で続けた。 「たしかに彼女は質素な服装だ。だがその事で自分を卑下していないし、高価な服で身を包んだ周りの人を羨んでもいない。そんなところで人間の価値が左右されない事を知っているからだ。だから彼女は堂々として気高く見える。ウエイターたちや隣のテーブルの夫妻もそんな彼女に魅力を感じているようだよ。」

ユリは無言のまま上目遣いで明を見つめた。

「ユリ…。憎しみや蔑みの心で人を見るとその人の真の姿を見失うばかりか、真実を見分ける自分の力すら失ってしまうかもしれないよ。」

ユリは唇を噛んで俯いた。そんなユリに明はあかるく声をかけた。

「安心しなさい。パパはユリの本当の姿を知っている。」

「えっ、私の本当の姿?」

「そうだよユリ、君は少しもあの人に負けていない。気高く、そして誰よりも堂々としている。君は今でも“無敵のユリ”だよ。」

ゆりは眼を丸くして顔を輝かせた。

「パパ、知ってたの私のニックネーム。」

「先生から聞いた覚えがある。」

“無敵のユリ”というのは保育園でのニックネームだった。

「パパ…」 とユリは小さな声で話しはじめた。 「パパと別れてアメリカへ行かなければならないとママに知らされたときから、私は毎日泣いていたわ。」

明はテーブルの上のユリの手を包むように自分の手をそっと重ねた。

「そのとき園長先生がおっしゃったわ。あなたがパパに会いたいと願えば、お父様はたとえどこへでもあなたに会いに行くわって。だから心配しないで、胸を張ってアメリカへ行きなさい、だってあなたは無敵のユリでしょうって。園長先生は私を抱きしめてそうおっしゃったわ。私はそのときから泣くのをやめたの。もう泣く必要はどこにもないと思ったわ。」

ユリは重ねられた父親の手に更に自分の手を重ねた。

「パパに必ず会えるならもう私に怖いものは無いって思えたわ。」

「ユリ…。」

「でも…、」 と不意にユリが調子外れな声を上げた。

「なぜ私のニックネームが“無敵のユリ”だったのかしら? 私は保育園で誰とも争わなかったし口論すらした記憶が無いのに?」

明はユリの疑問に対する答えを持ち合わせていなかった。

 レストランの支配人は明と凜のテーブルをときおり見ながら、今日は難問をクリアしたと自賛していた。彼は満足そうに頷いた。


 翌日、ユリは午前中に出かけるようだった。ジーンズにスタジャン、ニットの帽子とミトンにマフラーの、前日とはうって変わったティーンズのスタイルだった。

                         (つづく)

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