第3話
女刑事物語(3-1)
凜は女性警察官の制服姿で署の玄関口に現れた。制服は犯罪の抑止を意識したのだと思われた。
車の側にいた女が凜に近づいた。
「朝倉様ですね。鮎川の秘書をしております樋口と申します。よろしくお願いします。」 丁寧に頭を下げた。
「朝倉です。こちらこそよろしくお願いします。たしか一度お顔を拝見しています。」
そのとおりだったのだが樋口は驚いた。強盗犯の逮捕というあの緊迫した状況にあって、鮎川から離れて立っていた自分の顔を認識し、そして記憶しているというのだ。それが警察官というものなのか。樋口はいつの間にか意味も無く警戒心を抱いていた。
ドアを閉めようとした樋口に車内から凜が声をかけた。
「お聞きしたいことがありますのでこちらにご一緒して頂けますか。」
樋口は一瞬躊躇したが、無言で凜の隣に乗り込んだ。
車が動き出してすぐに凜が尋ねた。
「樋口さんは今回の件はご存じですか。」
「会長から伺っております。」
「なにか心当たりか、お気づきの点がありますか。」
「まあ…、特にはありません。」
「今言いよどまれたのはなぜですか。」
「…考えてみただけですわ。」
「はっきりしたことで無くても良いんです。漠然とした事でもなにかあれば教えてください。」
「特にありません。」
…まるで尋問ね、と樋口は思った。プイと窓の外へ視線を投げた。
「ご免なさい。今回の件ではご家族だけで無く、一人でも多くの方からお話を聞かせてもらいたいと考えています。ご気分を害されたようで申し訳ありません。」
樋口は視線を凜に戻すと 「ご家族?」 と小さく繰り返した。
「そうです。奥様や子供たちにも聴かなければなりません。今、奥様がいらっしゃれば良いんだけど…。」
「奥様はいません。」
「そうですか。いつでも出直します。」
樋口は少し声を強めて言った。
「鮎川に奥様はいません。会長は独身です。」
凜はポカンと口を開けていた。次の瞬間に 「ええっ!」 と大声を上げて驚いた。まるで座席から跳びあがりそうな勢いだった。これには樋口の方もびっくりした。
「ええ~ッ! どうして?」 凜が叫んだ。
「どうして?」
「だって、あんなにハンサムなのに。」
凜の顔は明るく輝いていた。その両頬を手のひらで覆った。
「信じられないわ。」
もしかしたら凜の頭の周りを小さな天使たちが鐘でも鳴らしながら飛び回っていたのかも知れない。
樋口はそんな凜の様子を観察でもするように見ていたが、急に 「先程の脅迫状の件ですが…。」 と口を開いた。我ながら少し意地悪な響きだと感じた。
「自宅に届いたのは今回が初めてですが、会社の方には何度も来ております。」
「えっ?」 凜の声に一転して緊張が走った。
「いつ頃からでしょうか。」
「そういうことでは無く、過去にあったということです。」
凜は無言で耳を傾けている。樋口がなにか言いたげだと感じたのだ。
「エース開発は不動産業です。ときには競売物件に関わることがあります。そのような物件には往々にして何ら原権を持たない人物が…つまり勝手に居座っている人たちがいます。ほとんどが暴力団関係者や詐欺師の類いです。立ち退くにあたっての金銭が目的なのですが、会長は一切妥協
しない主義です。そのために嫌がらせの電話があったり脅迫状が届いたりします。特に驚くことではありません。また国や地方自治体の所有する不動産の取得や使用権を目的とした競争入札で我が社は負け無しです。同業他社からの嫌がらせの脅迫状というのも十分考えられます。…先程朝倉様は私が返答を言いよどんでいるのは何故かと詰問されましたが、心当たりが無いといえば無いし、あるといえばいくらでもあるということなのです。いずれにしろその事に意味などありません。」
「意味が無いとは…?」
「彼らの目的は金銭です。危害を加えても一円も入手出来ないのは彼ら自身がいちばんよく知っています。」
凜は短い沈黙のあとで、樋口にしてみれば思いがけない質問を口にした。
「その脅迫状は全部、鮎川さんが目を通されるのですか。」
「会長宛の封書はそれがどんなものであろうと勝手に開封されたり破棄されることはありません。」
「そう…。お気の毒ね。」
「えっ?」
「鮎川さんはただご自分の仕事をされているだけなのに、そうでしょう?」凜の横顔に悲しげな表情が浮かんでいることに気づいた樋口がすぐに付け加えた。
「説明が足りませんでした。会長宛の封書は全て秘書課で開封されます。会長にはその結果が報告されます。」
そして樋口は女刑事の横顔に浮かんだ悲しみの表情の意味を漠然と考えた。
「そう…。」 凜がホッとした様子で樋口に目を向けた。
「大きな会社なんですね。ウチの署長には秘書課どころか一人の秘書もいませんもの。」
樋口は無言で微笑んだ。
「鮎川さんはたくさんの事業を手がけてらっしゃると署長が言ってましたけど、他にはどのような事をされているんでしょうか。」
「不動産業と関係の深い建築や土木、ビル管理などがありますが、まったくの異業種もいくつかあります。なかでも大きな業績を上げているのがエース輸送です。」
「エース輸送?」
「平たく言えば運送会社です。」
運送会社ってそんなに儲かるのかしら…と凜は思ったが、樋口はその様子をみて 「エース輸送は十隻ほどの貨物船を所有しています。一隻のコンテナ船も含まれています。」 と付け加えた。
「コンテナ船ってすごく大きな船ですよね。」
凜はその船の写真か影像をどこかで見たことがあった。小さなビルを積んで航行するかのような巨大な船の印象があった。そのせいか凜の頭の中で運送会社のワードとコンテナ船のイメージがうまく結びつかなかった。
「コンテナ船を買うのにいくらくらいお金がいるものかしら。」
独り言のように呟くと樋口がすぐに答えた。
「エース輸送のコンテナ船の場合で建造費が二百億円と聞いています。」
「二百…!」
凜は絶句した。それがどのような金額なのかを想像する手がかりを何一つ持ち合わせていなかった。
「エース輸送はつまり海運会社なのですか。」
「いいえ。所有する船舶はすべて大手海運会社にレンタルされています。船を提供する代わりにその陸送部分の多くを引き受けています。」
「なるほど、では従業員も多いのでしょうね。」
凜は大型トラックが数多く並んでいるさまを想像していた。
「そうでもありません。協力会社の力を借りています。つまり下請けですね。エース輸送よりはるかに実績のある中堅の運送会社が数多く協力会社になってくれています。彼らを納得させる利益と仕事量をエース輸送が保証出来ているとも言えます。」
「…なんだかすごい会社なんですね。鮎川さんがそこの社長さんなの?」
「会長は会長です。エース輸送には別に社長がおられます。」 いつの間にか樋口の顔が輝いていた。
「若くて、卓越した経営能力があって、そして謙虚で誠実な方です。会長が小さな運送会社を始められた頃に、そこでアルバイトをしていた夜間大学生だったと聞いております。あの方のエピソードはいくつかあります。社長になられたときのエピソードも感動的です。」 樋口は遠くを見ていた。凜は彼女が自らの感情に埋もれてしまっていると感じた。今度は凜が観察するように樋口を見ていた。
樋口が凜の視線に気づいた。我に返ったようである。そして自分が何を口にしたか振り返る短い沈黙のあとに 「何でしょうか。」 と尋ねた。顔が赤くなっていた。眼にはかすかな苛立ちが感じられた。
「その社長さんは…、独身なの?」
「結婚されています。確かお子さんが二人いらっしゃいます。」
「……。」
「それがなにか?」
「あなたは現実的なご自分の幸せを考えるべきよ。」
樋口は激しく反応した。
「朝倉様、あなたが何を仰っているのか私にはまったく分りません。」
キッと凜を睨んだ後、前方を注視して身じろぎもしない。
凜は後悔した。たしかに余計なことだった。
数分間の沈黙の後、凜が口を開いた。気まずい雰囲気とはかけ離れた声の調子だった。
「樋口さんは何歳かしら。たぶん俺と…」 凜は慌てて短く咳をした。 「私と同じくらいだと思うんだけど。」
樋口は黙っている。凜は続けた。 「今年で…、」 運転席の方をチラリと見て声を落とした。 「三十四歳になっちゃった。」
そう言って微笑を浮かべながら樋口の顔をのぞき込んだ。
少しの間をおいて 「同い年です。」 と樋口が答えた。固い声だった。
「そう、やっぱり?…そんな気がしていたわ。」
「着きました。」
「えっ。」
凜が前方を見ると車のフロントガラス越しに大きな鉄柵の門扉が観音開きにゆっくりと動くのが見えた。
「お待ちしていました。」 明が出迎えた。
明と正面から眼が合ってしまった凜は自分の鼓動が急に激しくなったのに気づくより先にニッコリと笑った。他のことは全部忘れてしまっているような笑顔だった。その幼いとも見える表情に明はおかしさを怺えている。凜は顔を赤くしていた。自分で訳も分からずに何か失態を犯しているのではないかと気になった。
「失礼ですがあなたに是非とも納得して頂きたいことがあるのですが…。」と明が言った。凜は明を見つめた。
「それはあなたのその制服です。」 明は申し訳なさそうに続けた。
「お考えがあってのことと思いますが、その姿だと家政婦さんたちが不安と緊張を感じてしまいます。着替えて頂くわけにはいかないでしょうか。」
凜にとっては思いがけない申し入れだったがその理由を考えると納得せざるを得なかった。凜は力なく答えた。
「分りました。…すぐに着替えてきます。」
「着替えならあります。」
「えっ?」
「私は今日、時間を有効に使わなくてはなりません。娘のユリが空港に着く頃です。私自身は早めに仕事を終えたいと考えています。そして今はあなたといくつかの点で話をさせて頂きたいのです。」
それから明は次の部屋に向かって声をかけた。
「ウメさん、ウメさん。ちょっと良いですか。」
初老の女が足早に近づいてきた。
「旦那様、何でございましょうか。」
「この方はウメさん。家政婦たちを取り仕切り家事全般を引き受けてもらっています。こちらは港中央署の朝倉さん。ウメさん、朝倉さんに着替えて頂こうと考えています。衣類を出してあげてください。」
ウメは凜の制服姿に眼をやって何やら頷いた。 「朝倉様、どうぞこちらへ。」
凜は慌てて明に声をかけた。
「お話というのは…。」
ウメが素早く明の顔を見た。明が小さく頷くと 「朝倉様、どうぞこちらへ。」と繰り返して凜の先に立った。
吹き抜けになっている広い部屋の端に手摺りの付いた階段があった。そこを上っていく。二階部分にエル字型の廊下がある。それに沿っていくつか部屋があるようだった。
凜は今まで自分がいた部屋を見下ろしながらふと考えた。この場所はなにかしら。コートや帽子を掛けるスタンドがあり、テーブルとソファーが申し訳ていどに置いてあるけど、応接間ではないしリビングでもない。ただ通過するだけのスペースに思える。ということはここは玄関の延長なの?3LDKほどの広さがあるわ。ほんとにそうなの?
凜の足許から明の声がした。
「ユリは誰が迎えにいく?」
「秘書課長が適任だと思えます。」 と樋口。
「ああ、彼はユリの顔を知っているからね。」
そんなやりとりが聞こえた。
ウメがドアを開いた。
「朝倉様、どうぞお入りください。」
明るい部屋だった。大きな窓が並んでいた。カーテンは全て開けられていて、窓の外には幅二メートルほどのバルコニーがあった。先程通った鉄柵の門が離れて見えた。庭の端にガレージらしい建物がありその一部はバルコニーの足許に続いている。ガレージはまるで菓子の板チョコを並べたようなもので閉ざされていた。…あの板チョコがシャッターだとして、と凜は思った。…いったいどのように開閉するのかしら。
「こちらです。」
振り向くと壁側にかなりのスペースでクローゼットが設けられていた。ウメがその全ての扉を蝶の羽をくっつけるように次々と開けていく。中には驚くほど沢山の衣類が掛けられていた。
「これは…?」
「全てユリお嬢様のお召し物です。」
凜がためらうのを見てウメは急いでつけ加えた。
「ユリお嬢様は年に二度、合わせて二週間ほどしかこちらにおられません。ほとんどが袖を通されないままになっております。どうぞ、どれでも結構ですので…。」
これはやはり断った方が良いのではないか、と凜は考えた。袖を通していないとはいえ他人の服を身に着けることを求めるのは非常識な話では無いか。明の勧めでなければ即座に断ったはずだ。立ち尽くしたまま迷った。
するとウメが 「これなどどうでしょう。」 と、ドレスらしいものを手早く取り出した。数枚のタグが付いたままだった。 「きっとお似合いですよ。」
それはワンピースだった。胴回りはタイトで、広がった胸の少し上あたりから細い肩紐になっていた。スカートにあたる部分は逆にふわりと大きく広がっている。裏地が幾重ものプリーツになって、その先端はレースのフリルで縁取られている。それがスカートの裾からわずかに見えた。全体の色は白でもなくベージュでもなく、わずかに青みがかっていて象牙のような色だった。細い金糸と銀糸が数本だけ柔らかな曲線で織られていた。植物のイメージかと思われた。
凜は服を手にしたもののしばらく動かなかった。そのうえどうやって着用するのかすぐには分らなかった。ウメも同じように感じたらしくいつの間にか老眼鏡を掛けて服のあちこちを調べた。
「あっ。」 と凜が小さな声を上げた。背中にごく小さなファスナーを見つけたのだ。
「お着替えが終わりましたらお声を掛けてください。」
ウメが去った後、大きくため息をついた。
それからやっと着替えにかかった。制服の上着とスカートを脱いだ。ブラウスの下はタンクトップのティーシャツで、ショーツの上には高校生らが体育のときに穿く膝より少し上の丈のパンツを重ね着していた。
服のデザインを考えるとタンクトップは諦めなければならなかった。凜はまたため息をついた。いくら袖を通していないといっても他人の服である。試着くらいはしているはずでもあった。一枚でも多く下着を重ねたい心境だった。
だがすぐにその服の魅力に気付いた。なめらかで光沢のある生地だ。絹のようでありながら邪魔にならない程度の張りがあった。シルクじゃないと凜は思ったが布地が何であるのかは分らなかった。裏地は手触りからコットンだと確信できた。だがそれはこれまで見たこともない緻密さで織られていた。凜はすっかり気に入ってしまった。…まるでどこかの国の王女様みたいだわ、と思った。鏡を見たかった。
「ウメさん。」
すぐにウメは現れた。眼を丸くして凜の姿を見つめた。そして満足げな微笑を浮かべた。
「まあ、やっぱり。すごく似合っておられます。」
「そう?鏡はどこにあるかしら。」
「その先、クローゼットの一番奥の方にあります。」
ウメは更にもう一枚の服を取り出して肘にかけ、凜の後に従った。
鏡を見た凜はむき出しになった両肩が気になった。
「デザインはすごく可愛いけど、今の季節にはどうかしら…。」 と小声で呟いた。
「これが上着でございます。」 ウメが服をさし出した。
たしかにワンピースと同じ色で、数本の金糸銀糸が緩やかに流れていた。上着丈は短くスッキリした印象だ。身頃も小さく前を重ね合わせることができなかった。襟と手首近くの袖から、スカートの裾と同じくフリルがのぞいていた。全体としてハイティーンエイジを意識したデザインのようだったが、優美な女性らしさの中に少女のような愛らしいエッセンスを加えようとしたその雰囲気は意外なほど凜によく似合った。
「さあ朝倉様、旦那様がお待ちかねですよ。」 ウメはうきうきした調子でそう言うとまた階段を降りて凜を応接間へ案内した。
凜は制服にあわせたハンドバッグを恨めしそうに手に持っていたが、肩紐を首に通してたすきに掛けるとバッグを隠すように背中の方へまわした。さながら事件現場へ踏み込むような緊張した面持ちでウメの後に続いた。バッグを一方の肩から反対側の腰に掛けると無意識のうちにそんな表情になってしまうのだった。
凜の姿を目にした明は、思わずソファーから腰を上げていた。
「旦那様、朝倉様はことのほか良くお似合いでございます。」
ウメの言葉に明はゆっくり頷いた。さすがに気恥ずかしく感じた凜はつい俯いてしまった。
応接間にいた樋口は凜の美しさに眼を見張った。それまでの強烈な第一印象と警察官の制服姿から、凜に対して軽い警戒心を抱き、さらには威圧感すら受けていた。だが今初めて女刑事をまじまじと見て、その顔が見事に整っていることに気づいた。それでいてどこか親しみを感じさせる大きな眼が、見るものの全てをそのまま受け入れてしまいそうな静かな光を湛えている。それは冷淡な印象を思い描くことが不可能だと感じさせる美しさに満ちていた。
樋口はいつの間にか明の胸の内を考えていた。
「…脅迫状などに動じるはずもない方が警察に相談し、そして女性警察官が訪ねて来た。もし彼女を招くことが会長の意図だったとしたら、会長は彼女に並々ならぬ関心を持っていることになる。するとこれは物語の始まりを意味しているのかしら。それとも何かの余興?」
だが樋口は明が余興を試みるような軽薄な人間ではないと知っていた。
「…すると、既に物語は始まっているということになるのかも知れない。」
樋口は眩しい思いで凜を見ていた。
凜が向かい合わせに腰を下ろすのを待って明が口を開いた。
「私には離婚した妻との間に一人娘がいます。十八歳になります。彼女は母親とともにロサンゼルスに住んでいますが、私に会うために今日、来日します。滞在予定はわずか四日間です。彼女はこの四日間のうちに友人を訪ねたりすると思いますが、朝倉さん、この間の娘の警護をお願い出来ないでしょうか。娘の名はユリです。」
「署長に伝えます。」
「勿論私もお電話をさせて頂きますが、あなたからお口添え願えればありがたいです。」
明はずっと凜の顔を見つめたまま話していた。凜も明を見ていたがやがて視線を逸らすことが多くなった。明はそれに気づいて視線の先を胸元あたりに移したが慌てて肩先へやった。
「防犯に関しては専門の業者にお願いしています。その設備やシステムについての大まかなところはウメさんの説明を聞いてください。」
短い沈黙が訪れた。凜は余裕を取り戻していた。応接間のあちこちにさりげなく眼を向けた。ソファーもテーブルも豪華で落ち着いた雰囲気を醸し出していた。凜の正面の壁には大きな絵が飾られていたが、洋画なのか日本画なのか凜には良く分らなかった。窓の反対側の、二つのドアに挟まれた壁に沿って高さ十センチほどのステージが作られていて、大きな壺や花瓶、ギリシャ風の彫刻などが並べられていた。
凜の眼が一メートルほどの高さの仏像のようなものに止まった。何か変だと感じたのだ。仏像の顔は普通、かすかな微笑を浮かべているものだと考えていたが、その像の顔は明らかに笑っているのだ。更にすぐ側にもう一つ顔があって、満面に笑みをうかべている。よくよく見ると、男女が抱き合っているように見えた。そう意識して全体を眺めると、女らしき方は片足で立ち、太股を高く上げている。その足は男の腰のあたりに巻き付いている。
「変わった仏像だと思いませんか?」 と明が声を掛けた。凜は顔を赤くして頷いた。
「これは父の友人がインドを旅したときに土産として買って来てくれたものです。その人…私はおじさんと呼んでいましたが、とても優しい人で、これが仏像だと言い張っていました。おじさんはとにかく何故か私にとても優しかったのです。逆に父は厳しくて、まだ子供の私の些細な失敗も簡単に許そうとはしませんでした。父なりに経営学のようなものを教えようとしていたのかも知れませんがね。…叱られていたときにおじさんが来合わせたことがあって、私をかばってくれたことがありました。そうガミガミ言うな、大人になれば分ることだ、どうもお前はせっかちだぞと父に注意して私の頭を撫でてくれました。」 それから明は苦笑をうかべた。 「それまで泣くのを我慢していたんですが、結局泣き出してしまって…。」
明は笑顔を見せながらも凜の表情を見まもっていた。無意味な雑談が相手を困らせているのではないかと気になったのだが、凜は楽しそうな顔だ。
たとえ小さなことでも明のことを知るのが嬉しかったのだ。
「だからこの像は私にとって大切なものです。これを見るとあの人の優しい顔を思い出します。」
「その方とはお会いになっていないのですか。」
「十年ほど前に亡くなりました。…ほどなくして父も失ったんですが、父が亡くなったときはおじさんの時ほど悲しくはありませんでした。結局私は親不孝な息子だったんでしょうね。」
明は軽い調子でそう言うと、このとりとめのない話しを切り上げようとしていた。
「お母様はお元気なのでしょうか。」
凜が何気なく訪ねると、明は激しい勢いで椅子から立ち上がった。
「…時間が、もうあまり時間がありません。私はこれで失礼しますが、娘のことをよろしくお願いします。」 それから急に気づいたらしく 「あなたの連絡先を、もしよろしかったら電話番号を教えてもらえませんか。」 と言った。
凜は急いで携帯電話を取り出しながら番号を告げた。明がその場で自分の携帯を操作した。凜の携帯が鳴った。
「今の番号を登録しておいてもらえませんか。何かの時にすぐにあなたと連絡が取れるようにしておきたいのです。」
凜は頬を上気させて頷いた。明との距離が一気に縮まったような気がしてうれしかった。
樋口はそんな二人の様子から顔をそむけていたが、 「そろそろ参りませんと…。」 と明に告げた。
(つづく)
「女刑事物語(3-2)
「朝倉様はお昼はお済みなのですか。何か召し上がりますか?」 ウメが近付いて聞いた。
「いいえ、結構ですよ。」
凜は明の娘ユリの警護の件が気になっていた。事件性が必ずしも明らかでない場合、一民間人の警護に警察が動くのはまれである。署長の意志を確認したかった。それに明は鮎川邸の防犯設備について 「ウメに聞け。」 という意味のことを言っていた。その事を伝えるとウメは驚いて 「私にはそんなことは分りません。」 と落ち着かない、すがるような眼で凜を見つめた。
これには凜も困ったが、質問を繰り返すうちにウメが防犯設備の操作を聞かれたと誤解したことに気づいた。改めて設備のあらましを聞いて、鮎川邸の防犯設備が万全と言えるものであることが分った。鮎川邸は住宅地の区画を独占していて、その四周は防犯カメラで監視され二十四時間録画されている。正門、通用門、勝手口の門は全て鉄製で、閉じるとオートロックされるが、二分以上閉じられない場合は警告灯がモニター室の内外で異常を知らせる仕組みになっていた。そのうえこれらの情報がリアルタイムで警備会社とつながっていた。
凜が満足した様子にウメは心底ホッとしたようだった。
「私たちこれからピザとコーヒーを頂くところなんですが朝倉様も是非ご一緒に。そうすれば家政婦たちの紹介も兼ねることが出来ます。」 明るい声で告げた。
一つ頷いてから 「ウメさんはこちらに長いのですか。」 と凜が訪ねた。
「もう三十年くらいになりますのよ。…初めてこちらにお勤めにあがりましたとき旦那様はまだ小学生でございました。」
「その当時鮎川さんのお母様とお会いになりましたか。」
「いいえ、お母様はいらっしゃいませんでした。先代様に伺ったところでは旦那様がお生まれになってすぐに亡くなられたということでございました。」少しの沈黙のあとウメは声を落として言葉を継いだ。
「旦那様はいつも寂しそうにしておられました。先代様もお厳しい方でしたので…。でも旦那様は少しずつ明るい少年になられました。小学校に優しい女の先生がやって来られたというお話をされたことを覚えています。」
次の瞬間ウメは、ハッとして自分の口許に手を持っていった。
「ああ、私は何という馬鹿な女でしょうか。いったい何を…。朝倉様、この年寄りにお気遣いを頂けますのなら、今の話は聞かなかったことにしてください。お願いします。どうかお忘れになってください。」
ウメの必死な形相に凜はたじたじとなった。もとはといえば自分の質問がきっかけだと思った。
「ウメさんどうか気にされないでください。俺…ゴホッ。」 短く咳をした。 「私は、今の話しは気にしません。だから心配しないで。」
「ああ、朝倉様は何とお優しいのでしょう。」 ウメはいつの間にか手にしていた小さなハンカチで眼のあたりを押さえた。
凜はウメの仕草が芝居がかっているようにも感じられて、少しおかしくなってきた。笑ってはいけないと思いながらも唇が歪んでしまった。ウメはそんな凜の表情に気づくとかえって安心したようだった。
「朝倉様、どうぞこれからもこちらに足をお運びになってください。必ず私が門を開けてさしあげます。」
凜はウメの言葉の意味が今ひとつ分らなかったが、自分に対する好意を表してくれたものと受け止め、笑顔を浮かべて応えた。
それから凜は家政婦たちとキッチンのテーブルでピザを食べコーヒーを飲んだ。ウメの他に家政婦が三人いることが分った。今目の前にいる二十代の二人が朝七時から午後三時まで、その交代に四十代の婦人が夜の八時まで勤めている。これとは別に造園会社をリタイアした老人が毎日午前中だけ出て来て庭の手入れとガレージの掃除をしているという。
「私は朝の六時頃から旦那様の朝食の準備をいたしますの。そして旦那様におやすみのご挨拶を夜の十時にいたします。それから自分の部屋に行って一日が終わるのです。」
「ウメさんは住み込みなのですか。」
「十年ほど前からそうさせて頂いてます。…つまり私は一日のうち十六時間、このお屋敷の責任をお預かりしているのです。」 ウメは誇らしげに凜を見やった。それからどこかイタズラっぽい笑顔を見せて続けた。 「でもちっとも大変なことはありません。このお嬢さん方がいろいろやってくれますので、その間私はボーッとしたりテレビを見たりお昼寝をさせてもらっています。…旦那様がそうしろと仰るのです。時には、休憩時間がしっかり取れましたか何時間ゆっくり出来ましたか、とお聞きになります。朝倉様、あんなお優しい人はそうはいませんよ。やはり会社をいくつも経営されている方は違います。」 ウメはまたいつの間にかハンカチを手にしていた。
凜が質問した。最近、異常や不安を感じたことはないか…。三人はきっぱりと否定した。それはある程度予想されたものではあった。
最後に防犯カメラのモニター室に案内してもらった。それは凜が玄関の延長と考えた部屋にあった。二階の廊下を支える構造にもなっている。二人が並んで通れる開口部にはドアが無かった。中には机と椅子が二組置かれていてモニター画面が二つ並んでいた。周囲の路上と、塀の内側の庭や建物の周りがそれぞれ九分割で映し出されている。壁のボックスにスイッチが付いていた。凜がそれを見ていると 「門のスイッチです。」 とウメが言った。 「ここからも開閉が出来るのです。」
この話で気づいたのか凜が 「鍵はどなたが持っているんですか。」 と聞いた。
「私と蘭ちゃんと旦那様です。」
「蘭ちゃんはどなたですか。」
「先程の、一番若い娘です。…そしてこれが鍵です。」
四角い箱に差し込み口が並んでいて、メモリースティックに似たものが四本立てられていた。
「予備の鍵ですか。」
凜の質問にウメは何か答えようとしたがすぐに諦めたようだった。 モニター室の外に向かって 「蘭ちゃん、こちらへ来てください。」 と声を掛けた。
若い家政婦がおずおずと近づいた。眼は床に落としたままだ。先程も彼女はずっと顔を伏せていたと凜は気づいた。
「さ、朝倉様に鍵のことを説明して差し上げて。」
ウメの言葉に蘭はうつむいたままで小さく口を開き、か細い声で何か言った。両手を前で固く握り合わせている。
「えっ?」 凜が聞き取れずに問い直すと、蘭は両肩をビクリと震わせた。顔面は蒼白になっていた。握った手に力が込められているのが見て取れた。その手が小さく震えている。
「こうやって鍵を置いておくの?」 凜が改めて聞いた。
「あの…、暗証番号を…あの、書き換えるので…。」 蘭は顔をそむけたまま消え入りそうな声でやっとそれだけ答えて苦しそうにゴクリとつばを飲み込んだ。
「ああそうそう、」 ウメが明るい大きな声を上げた。「番号なんですよ朝倉様、暗証番号です。それなのに旦那様は鍵をお忘れになったようです。きっとユリお嬢様のことで頭が一杯だったのでございましょう。蘭ちゃん有り難う、もういいわよ。」
蘭は明らかにホッとした様子だったが、立ち去るときに一瞬不安そうに凜の胸元を見た。説明が出来ていなかったと感じ力を落としていた。
ウメは顔を赤らめて小声で 「鍵の番号を書くとはどういうことなんでしょう
か。何度聞いても分りませんの。」 と言った。
その言葉に曖昧に頷いた後、若い家政婦の後ろ姿を見送りながら凜が聞いた。
「蘭ちゃんは人と話すのが苦手なのかしら。それとも何か理由があったのかしら。」
ウメが小声で答えた。
「対人恐怖症というのでしょうか、特に初対面のときには一言も喋れないようです。…でも頭の良い子なんですよ。とっても頭がいいんです。…蘭ちゃんはこちらのお屋敷にお勤めできて本当によかったと思いますよ。会社勤めは無理でしょうから。いいえ、家政婦さんも難しいかもしれませんよ。旦那様がお優しいから続いているようなものです。」
凜は警察官の制服を着替えて欲しいと明が求めた理由が分った気がした。同時に明の優しい人柄が感じられてうれしかった。
問題は…と凜は考えた。ユリの警護の件だった。明の希望に添えるだろうか。凜は板垣に連絡をとろうとしたが、すぐに電話の操作をやめた。袖口のスミレ色のフリルに眼をやった。せっかく上品な服を着ているのである。板垣を突然に訪ねてやろうと思いついたのだ。ビックリするかもしれない。良いアイディアだと急にワクワクした。
「あいつめ…。」 と凜は呟いた。板垣のことである。 「人のことを下品な女呼ばわりをしたからね。見てらっしゃい。」
凜が外出したいと言うと、ウメはすぐに 「コートが要りますわね。」 と再び二階へ導いた。
「スカートの形を考えれば短い方がよろしいかと思います。」
ウメが選んだのは、触ればそのまま指の跡が残りそうなごく短く柔らかな毛足のスウェードのコートだった。淡いベージュで襟と袖口に茶色の折り返しが付いていた。その裏側には薄く柔らかな皮が貼られていた。
腕を通してまずその軽さにびっくりした。襟はスタンドカラーになっていて片方が長くのど元を通りすぎて首の横で重ね合わせる作りになっていた。鏡を見て凜は驚いた。まるで自分の顔ではない見たことも無い美しい顔がそこにあると感じた。
「えっ…!」 茶色の襟から細く白いアゴがかわいらしくのぞいていた。凜は鏡を見ながら自分のアゴを襟に乗せたり埋めたりした。
凜は思った。このコートは着た人の顔をいかに魅力的に見せるか、その事にこだわり、工夫されたデザインになっている。そしてこのクローゼットにある服は多分全部が何らかのデザイン的意図を表現することに成功したものばかりなのだ。凜は自宅の洋服ダンスの中を思い出してため息をついた。
「まあ、まあ、まあ。」 ウメが大袈裟な声を上げた。 「朝倉様は何をお召しになられてもとっても良くお似合いです。」
凜は虚空を睨んで心の中で叫んだ。
「署長! 待ってなさいよ~ッ!」
凜は港中央署をずんずんと歩いていた。行き会わせる署員が進路を譲り会釈する。凜はコートの襟に顔を埋めて進み署長室の前に立った。ここまで誰も気づいていなかったとほくそ笑んだ。
ドアをノックすると 「おお…。」 というような板垣の声がした。凜は室内に入り 「署長さん?」 と声を掛けると同時に背を向けた。コートを脱ぐそぶりで 「コートを…。」 と小さく呟いた。板垣が慌てて近付いた。
「コートをお預かりしましょう。」
凜は板垣がコートを掴んだことを感じるとするりと腕を抜いた。そして板垣の顔を見ようともせずに応接用のソファーに歩いて腰を下ろした。背筋が上品にまっすぐ伸びていた。すぐに板垣がやってきた。
「私が署長の板垣でございます。本日はどのようなご用で…。」
凜はつかの間そっぽを向いていたが、ゆっくり頭をめぐらせて顔を板垣の正面に向けた。少し首を傾げてニッコリと微笑んだ。板垣もつられて首を傾けた。その表情が変化するのに一、二秒かかった。
「えっ? 朝倉? 朝倉かッ?」 思わず大声になった。
凜はぴょんとソファーから立ち上がった。大きく体を捩りながら素早く片手を振ると板垣の胸のあたりをピタリと指した。
「ピン、ポーン!」 明るい声だった。
板垣の驚いた顔を尻目に広い場所に体を移すと、くるりと一回転して見せた。
「ふ、ふ、ふ…。」
このふふふ…というのは笑った訳でなく凜が口で言ったのである。
「ふ、ふ、ふ…、驚いたでしょう。」
板垣は大きく頷いた。
「似合ってると思わない?」
板垣がまた大きく頷いた。そしてゆっくりと凜に近づきながら真顔で言った。「朝倉、綺麗だぞ…。その高価そうな服は新調したのか。」
凜を見つめていたが、 やがて「あいつにも見せたかった…。」 とポツリともらした。
凜は少し慌てた。板垣が泣くのではないかと思ったのだ。
「ちょっと待って。」 そう言って真剣な表情を浮かべた。
「私は」… 凜は “私” を強調したようだった。「私は鮎川氏のお嬢さんの警護について署長のお考えを教えて欲しいのですけど…。」
板垣は潤んだ眼を一度閉じてから、気を取り直すように口を開いた。
「…その事だが、黒田とも話し合った結果、朝倉に四日間の警護をしてもらうことにした。」
「えっ、ほんとうに?」
凜はそれなら明の希望に応えられると内心喜んだのだが、板垣は凜の言葉を正反対に受け止めたらしかった。
「お前はそう言うが、もしその娘さんに何かあったら…仮定の話になってしまうがもしそうなったら、世間は、世の中はどう思う。脅迫状を心配して警察に相談したにもかかわらず何ら有効な措置がなされなかったとなると、何のための警察だという話になる。犯罪が起きてからでなければ何も出来ない、それが警察なのか、そういう議論が繰り返されることになる。」
そして軽く咳払いをした。 「…市民と共にある港中央署。私の掲げるこのスローガンについてはお前も良く知っていると思うが、それは検挙率を競うということではなく、犯罪被害を未然に防ぐ努力を市民と一緒になって行なおうというものだ。署員一丸となってこれに取り組めば犯罪の発生を減らし、安心安全な市民生活を実現することがきっと出来る。私が理想とする警察活動とは…。」
凜は板垣の演説を聞きながら、
「これは一千万円が相当効いてるな…。」 と思った。
結局、翌日からは直接鮎川邸に出向き、署に出勤せずに黒田と定時連絡をもつと決まった。
署長室のドアの前で凜はコートを身に着けた。茶色の襟に白いアゴを乗せると板垣を振り向き 「署長さん?」 と細い声をかけた。板垣が顔を向けるのを確かめてから、凜はゆっくりと片眼をつむってみせた。板垣は手にしたばかりの電話をデスクの上に落とした。
凜は意気揚々と鮎川邸に戻った。大きな袋を手にしていた。途中、自宅に寄って着替えを持参したのである。ウメが出迎えた。
通用門をくぐる凜の姿を二階の窓からジッと見ている人物がいた。明の娘ユリだった。
凜は二階に上がった。ドアを開くと若い女の後ろ姿が眼に入った。
「ねえ、あなたもしかして…。」 凜が声をかけるより早くユリは振り向いた。そして近づきざまに突然、凜の頬に思い切り平手打ちをくれた。
「えっ?」
打たれた頬を手で押さえて凜は眼を丸くした。
「えっ? なに?」
(つづく)
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