第2話
女刑事物語(2)
「馬鹿者~ッ。」 板垣の大声が署長室に響いた。
「何をやっているんだ。恥ずかしくないのかっ。」 平手で机を叩いた。「何年デカをやっているんだ。」
刑事二人は並んで叱責を受けた。
「だが何よりもどうして報告が無かったのだ。苦情を受けた人間が何のことか分からずどうすべきかも分からない。だから私の所へ回って来たのだ。」
「すぐに報告するつもりでしたが…。」
凜が口を挟みかけると板垣はいっそう声を荒げて遮った。
「言い訳はするなっ。署員が起こした不始末を一切知らなかったと答えざるを得なかった。なんのための署長だという話になる。」
武田は自分が直接的な叱責の対象では無いはずだと考えてはいたが殊勝に顔を俯かせていた。しかし凜は板垣の激しい言葉が続くうちにいつの間にか口をへの字に結んでいた。上目遣いに板垣の目をにらみ返していた。だがよくみると凜は怒っているのではなくて悲しげだ。目が潤んでいる。
凜と視線を衝突させたままで板垣は続けた。
「花屋の女主人からの苦情だ。俺が直接出向いて謝った。良いか朝倉、失敗した事案こそ速やかな報告が必要なのだ。いつも言っているだろう。しかも聞くところ危うく誤認逮捕に至る所だったのでは無いのか。その相手はどこの誰なんだ。」
「分りません。」
「お粗末すぎるぞ。」 板垣は口を結ぶと何度か鼻で大きく息をした。
「しかも花屋には損害を与えている。花が折れていたんだぞ。だから俺が弁償した。ポケットマネーでだ。二千二百円だぞっ、二千二百円。」
それを聞いて凜が 「あっ」 というように小さく口を開けた。板垣は机の角のあたりに目を向けて少し首を傾けていた。
「あのおばさん、原価で良いなんて言ってたがほんとに原価なのか? 花ってそんなに高いものかな。二千二百円も…。」
武田は凜の様子がおかしいと気づいた。横目でうかがうと信じられないことに凜は必死で笑い出すのを怺えていた。両手を握りしめ、口は真一文字に結ばれている。顔を赤らめ目はいつもより大きく見えた。手や肩が小刻みに震えているのだ。
武田は驚いた。今のこの署長室の中で笑い出さなければならない状況はどこにも無いはずだった。それより凜の態度が署長に知れたらその怒りの炎に油を注ぐことになると心配した。そして武田が予期したとおり板垣はすぐに凜の様子に気づいた。
「うむうっ?」 唸るような声が出た。武田は目をつむった。
しかし予想に反して板垣は無言である。武田はいつ雷が落ちるかとハラ
ハラしていたが、いつまで経っても署長室の中は静かだった。意外に感じ
て様子をうかがうと板垣は困惑した表情を浮かべていた。笑いを怺える凜を目の当たりにしながらどうしたら良いか分らないという顔をしていた。
だが板垣は武田の不審な視線に気づくと急に怒りを再燃させた。しかもそれは武田に向けられていた。
「武田ッ、お前は朝倉と同期だったな。なぜ的確な指示なりが出来なかったのだ。何のためのコンビだ。」 と睨みつけた。
突然、凜が調子外れな声で叫んだ。
「あっ、違うよっ。」
「えっ。」板垣は気勢を削がれてポカンと口を開けた。
「俺が先輩。こいつは一個下なんです。」 それから凜は独り言の様に続けた。「だけど後輩のくせに最近生意気なんだよね。時々俺のこと呼び捨てだからね。やっぱり甘やかしたのがいけなかったんだろうな…。」
武田が小声で「甘やかせた? 」 と反発した。
「ほらっ。」 と凜は武田を見た。人差し指を立てて自分の顔のあたりで振りながら 「そういうところが…。」 と言いかけたとき、板垣のこの日マックスの大声が署長室に響き渡った。
「馬鹿者~ッ。」
両手のひらで激しく机を叩いた。
「朝倉っ!いい加減にせんかっ。」
もう一度両手で机を叩いた。凜が首をすくめている。
「もう良いっ。お前達は交通課へ行け。」 と叫んだ。
「えっ。」
「交通課だ。交通課へ行って何か手伝いでもしろ。ボランティアで道路のゴミ拾いをしてもいいぞ。早く行けっ。」
二人が慌てて署長室を出るところへ追い打ちをかけた。
「もう刑事課に戻らなくても良いからな。」
さすがに凜はしょげていた。
「ごめんよ健太。俺のせいで…。ほんとご免。」
武田は無言だった。
凜が申し訳なさそうに 「健太には何の落ち度も無かったのに。あ~あ、俺が巻き込んじゃったよ。」 と言ったあと 「署長が健太に怒鳴ること無いわ。」 と急に腹を立てたようだった。
交通課のドアを開けるとまるで待ち構えていたように若い女が立っていた。しかも武田とぶつかりそうなほど入り口近くにいた。交通課警察官のみどりだ。彼女は武田の顔をのぞき込むように見ながら 「えっ、どうしたんですか。」 と驚いてみせた。それとは裏腹に顔が輝いていた。みどりは武田に好意以上の感情を抱いていてそれを隠そうとはしなかった。武田が仏頂面をしてみせるとうれしそうに笑みを浮かべた。
奥の方から 「お~い、お二人さん。こっち、こっち。」 と課長の大久保が手招きした。大久保は粗末なソファーに腰を下ろしていて、二人にも座るように促した。
「どうしたんだ、お揃いで。また何かやったのか? 署長がえらく怒っていたらしいが。」 とわざとらしく聞いた。
「またって…。」 凜は軽く大久保を睨んだが、「俺がやっちまった。健太はそのトバッチリを受けちゃって。」 と答えた。
大久保は 「そうか…、コンビだからそれはしょうが無いよな。」 と言ったあと 「まあ、気にするな。」 と、はじめの問いかけとは随分違って軽く流してみせた。
「実はウチも人手が欲しくてね、署長に応援をお願いしていたって訳さ。」
開港百年を記念して始められたフェスティバルが近づいていた。当日は大通りの交通規制が半日行なわれるのだが、毎年トラブルが続いていた。駐車場が使えない、事業所のトラックが動かせない等の苦情が寄せられた。通り会や町内会による通知が十分に機能しなかったのだ。交通規制の内容を徹底的に周知する必要があった。今回は交通課が力を入れるという。
「毎年思うんだが、新年の行事は出初め式と成人式くらいで十分だがな。」 大久保は肩をすくめた。
そこへみどりが両手で盆を運んで来た。
「おいおい、お茶なんかいらないぞ。」 大久保がまたわざとらしく声をかけた。
みどりが微笑しながらテーブルに置いた盆の上を見て三人は息を呑んだ。そこには湯飲みが一つしか乗っていない。鮮やかな緑色の茶が注がれていた。みどりはそれを武田の前に据えようとしたところで自分の失態に気付いた。「あっ。」 と短い声をあげた。
「済みません私、忘れてしまって…。」
真っ赤になった顔を盆で隠すと、慌ててその場を去った。
凜が武田の脇腹を肘で突いた。「うまそうなお茶じゃないか。」
武田は複雑な表情だった。みどりの失敗を自分のせいのように感じていたのだ。大久保はソファーの背に腕をまわして大袈裟に天井をあおいでいた。
凜と武田が通りを歩いている。二人とも紙袋を手にしていた。その中には交通規制を知らせるチラシが大量に入っている。凜は他にハンドバッグを肩に掛けていた。
武田はいかにも不満そうだ。一係の刑事がビラ配りをしているのである。凜はその原因が自分にあると考えると気の毒だった。だが凜自身はそれなりに楽しんでいた。ビラを持って事業所を訪ねる。ほとんどまず受け付けがあって女子社員が詰めている。彼女達は凜の身分証を見て例外無く驚くのだが、すぐに親しみを感じさせる表情を見せた。短い訪問の別れ際に手を振ってくれる若い女子社員もいた。
難問はマンションだった。事業所と違いほとんどが留守だった。その上ポストにチラシを入れられない所が多いのだ。管理事務所の了解を得なければならなかった。だが管理事務所は、マンションの管理組合の承認が必要だと言う。その集会は年に一、二回しか開かれていないのだ。凜たちはビラを目立つところに貼ってもらえるように頼み込む。まったくはかどらない。
「これってほんとに警察の仕事なの?」 二人ともうんざりしていた。
交差点にさしかかった所で緊急の連絡が入った。凜が携帯を手に歩みを止めた。「現在一丁目。…うん、…うん。」 と応えている。
重要な連絡だと武田は感じた。凜はこの様なとき、質問の言葉を一切挟まない。情報を受け取ることに集中するのだ。
「健太、コンビニ強盗だ。」 低い声で言った。
「緊急配備だ。二丁目の直近の交差点へ向かえという指示だ。」
「この真っ昼間に強盗?」
「犯人はグレーのズボンに黒っぽい上着。シルバーのフルフェイスのヘルメットだ。」
そう口にしたとき、二人は期せずして同じ方向を見た。グレーのズボンに黒っぽい上着。そんな格好の男の背中を見たばかりだと感じたからだ。その男は三十メートルほど先を歩いていた。既に次の交差点に近づいている。二丁目の交差点とは反対の方角だ。大きなビニール袋を抱えていた。袋の中の丸い形が刑事たちの目を引いた。それはヘルメットの頂部に見えた。
「離れてっ。」 凜が小さく叫ぶと武田は交差点の信号を待っているかのようにソッポを向いた。
凜が素早く男に近づきながら 「ねえ。」 と大きいがのんびりした声をかけた。距離はまだ三十メートル以上ある。男はそのまま歩き続けた。
「ちょっとぉ。」 また声をかけたとき凜は立ちどまっている。
男は僅かに首を動かして振り向いた。女が一人立っている。それを目に入れた後すぐに交差点を曲がってビルの壁に姿を消した。
凜が振り向くより早く武田は走った。並行した通りを男と同じ方向に走っていく。
凜は男が消えたビルの角に走り寄った。壁に体をくっつける様にして立ち止まる。
「ラッキーセブンだ。」 と呟いて数を読み始めた。
「一、…二、…三、」 そして手にしたパンフレットの袋を足許に置いた。 「四、…五、…六、」肩に掛けていたバックの紐を首に通してたすきに掛けた。
角を曲がった男は後ろを振り向いた姿勢のまま足早に歩いていた。曲がり角を注視していたが、誰の姿も見えない。男は前方を向いたもののすぐにもう一度振り返った。結果は同じだった。ホッとした様子で前を向いた。その直後に凜が姿をあらわした。男の注意は車道を挟んだ向かい側に注がれているようだった。凜は走るように男との距離を詰めていった。
この時凜は大きなビルの前を通った。その玄関の自動ドアが開いて一組の男女が出てくるところだった。それは鮎川 明と女性秘書だった。明はすぐ目の前を凜が美しい横顔を見せて通りすぎるのを見た。思わずその後を追って急いで歩道に出た。秘書が怪訝そうな表情を浮かべながら小走りで続いた。
凜は男の背後十メートルほどの距離に迫っていた。突然、男が振り向いた。凜と目が合った。その瞬間に男が走り出した。
「待てっ、警察だっ。」 凜が叫んだ。
しかし男は足が速かった。追う凜との間がみるみるうちに開く。前方の交差点付近の歩道に数台の自転車とバイクが駐められているのが凜の目に入った。そこはゲームの中古ソフトやプレミアム商品を扱う店の前だ。凜の顔に焦りが浮かんだ。
次の瞬間、その交差点に武田が躍り出た。男は武田の体が自分を向くのを見て慌てて車道へ逃れようとした。歩道の縁の白いパイプの柵に足を掛けた。だが身を乗り出すと同時に凄まじい音量のクラクションが鳴り響いた。大型トラックが疾走してくる。男はバランスを崩しながら再び歩道に飛び降りると、いきなり凜に向かって走った。
これを目にした 明が思わず叫んだ。
「あっ、危ない!」
凜は両手を広げて男の前に立ちはだかった。
「止まりなさいッ!」
止まるはずも無かった。男はヘルメットを大きく振り上げると、片手殴りに猛然と凜に襲いかかった。秘書が悲鳴を上げた。
凜が身をよじってかろうじて攻撃をかわしたと見えた次の瞬間、男の体はまるで逆立ちをするように両足が空に向かって伸びていた。そして背中から歩道に叩きつけられた。
「おおっ!」 明が大きな声を上げた。柔道の技だと推測した。
凜はまだ片腕を掴んでいる。それを両手でねじ上げると男は堪らず俯せになった。そこへ武田が駆けつけた。苦しそうな激しい息使いだ。無理もない。ここまでほぼ全力で走り続けたのだ。
「凶器に気をつけてっ。」
凜が声を掛けると、激しく息を継ぎながらも 「おおっ。」 と武田は応えた。
俯せのまま手錠をかけた。
男の上着のポケットから握り込まれたように端が丸まった千円札の束が出て来た。二十枚はありそうだった。もう片方のポケットには二枚の五千円札がぐしゃぐしゃになって押し込まれていた。二人の刑事は確信した。
凜が連絡をとった。
「こちら朝倉武田班。被疑者の身柄を確保した。公務執行妨害で現行犯逮捕。身柄を確保している。」
「素晴らしい。お見事です。」
不意に声が聞こえた。凜が振り向くと少し離れたところに明が立っていた。凜は目を丸くして驚いた。なぜ彼がいるのか不思議で頭が混乱しそうだったが、反射的に笑顔になった。
だが次の瞬間にはその表情を努力して消し去った。被疑者を連行するために応援の人員と車両が向かっているはずだった。彼らが到着するまでは一瞬も気を抜くことは出来ない。逃亡を阻止することは勿論だが証拠の保全にも細心の注意を払わねばならない。ときには共犯者が姿を見せることすらあり得るのだ。ハンサムな男の顔を眺めてニヤケている場合では無いのだった。凜はその後二度と明を見ようとはしなかった。
だけど凜、ちょっと無理しすぎじゃ無いのか?
板垣は署長室で小躍りして喜んだ。満面に笑みを浮かべて凜と武田の前を何度も往復した。
「いや、よくやった。よくやったぞ。事件発生から間を置かずに凶悪犯をスピード逮捕だ。職質から公務執行妨害で現行犯逮捕。証拠の確認と保全。
実に流れるような捜査だ。さすが我が署のゴールデンコンビだ。」
凜と武田は顔を見合わせた。ボロクソに怒鳴られてからまだ数時間しか経っていない。
板垣は続けた。
「コンビニの防犯ビデオと照合した結果、着衣と背格好が一致しているそうだ。レジ周りから指紋も出るだろう。紙幣から店員の指紋が出ればもはや決定的だ。いや、実によくやった。」
ガッツポーズのような仕草をした。
「いずれにせよ我が署の管内で強盗なんぞを働いて逃げおおせると思うのが愚かというものだ。これで港中央署が更に有名になるぞ。」
それから壁の時計に目を向けた。
「おお、そろそろ時間だな。黒田が取り調べの打ち合わせをするそうだ。お前たちもすぐに行ってくれ。」
その指示に従いながらもなぜかゆっくりとドアに向かった凜が板垣を振り向いて言った。
「交通課の俺たちも行くの?」
板垣はきょとんとしていた。だがすぐにそれと気付いて 「朝倉~ッ。」 と叫んだとき凜は既に署長室の外にいた。後ろ手でバタンとドアを閉めた。目が悪戯っぽく笑っている。そしてペロリと舌を出したのである。
翌日の朝、凜は署長室のドアをノックしていた。…署長に呼ばれてばかりいる、と思いながらドアを開けると応接用のソファーから板垣の声がした。
「朝倉君、こちらへきたまえ。」 と他所行きの声だった。
「失礼します。」 少し気取って応えた。
凜が近づくのを待って板垣が立ち上がるとソファーにいた来客らしい男もそれに習った。ふとその顔を見て目を見張った。昨日も会ったハンサムな男性の顔がそこにあった。凜は驚き、なぜか頭がボーッとしてしまった。
板垣が口を開いた。
「こちらは鮎川 明さんだ。いくつも事業を手がけておられる。」 そして明を向いて 「朝倉刑事です。」 と紹介した。
明は凜に名刺を手渡しながら 「どうぞよろしく。」 と親しみのこもった微笑を浮かべた。
凜は板垣の横に腰を下ろして上品に構えている。両手が行儀良く膝の上に置かれていた。だが明の顔を見ることが出来ない。既に顔が赤い。テーブルの上に置いた明の名刺に視線を落としていた。
「エース開発株式会社 代表取締役 鮎川 明 」 と印字されていた。
板垣の声がしている。
「人材の多い我が港中央署の中でも朝倉刑事は特に優秀です。捜査に対する鋭い感受性を持っております。どうぞ安心してお任せください。」
「有り難うございます。よろしくお願いします。」
二人が立った。凜はその顔を交互に見上げたが、慌てて自分も立ち上がった。
「ではまた後ほど。」 と明が凜に声をかけた。
「玄関までご一緒しましょう。」 板垣は上機嫌だった。凜の方に手を伸ばすと鞠を突くように動かした。そのまま待てということらしい。
一人残された凜は先程と同じように明の名刺を見ていたが、不意にたまらない寂しさに襲われた。自分でも思いがけない感情の動きだった。独り言が口を突いて出た。
「そりゃあ、あの人が気になったのは確かよ。でも…。」 そこから先は胸の内だけのつぶやきに変わった。 …社長さんなんだ。そして格好良くてすごいハンサム。あの人の奥さんはきっと元ミスユニバース日本代表とかいう人なんだわ。子供は三人くらいかな。そうか、それで保育園に来てたんだわ。あの人の年齢を考えるとその子が末っ子かしら。年齢? 四十歳くらいと思ったけど果たしてどうかしら。手広く事業をしていると署長が言っていたわ。そうするともう五十歳くらいなのかも知れない。でも見た目だけを言うならそれよりは若いわ。 …どっちにしろ、私とは何の関係も無い人よ。あの人にとって私は道ですれ違っただけのオバサン…。
不意に凜は顔を輝かせた。
…いいえ、あの人は私を忘れないはずよ。何しろひったくり犯と間違えて、それで…路上に倒しちゃったんだから…。ああ…なんてことをしたのかしら。
凜は急に悲しくなってしまった。
「私って、馬鹿みたい…。」 危うく涙ぐみそうになった。
ため息をついたとき、板垣が戻った。凜はかなり不機嫌になっていた。
「いったい何なの?訳が分らないわ。」 と口にした。
一方で板垣の上機嫌は変わらない。 「まあ、まあ…。」 となだめながら凜の前に腰を下ろし、 「順を追って説明しよう。」 と話し始めた。
「交通遺児育英財団が募金活動をしているのを知ってるな。」 その財団は財源を確保するために広く寄付金を募っていた。その活動に全国の警察署が全面的に協力していたのである。
「鮎川氏はどこかでそれを耳にされたんだろうな。私を訪ねて来られて寄付を申し出られたのだ。初対面だったが、立派な人物だと思った。」
そう言って板垣は人差し指を一本立ててみせた。
「分るか、朝倉。」 思わせぶりに間を置いた。
それから 「一千万だぞ、一千万円。」 と興奮気味に声をあげた。
凜は 「やっぱり」 という表情を浮かべた。板垣が上機嫌な訳はたぶんお金に関することではないかと察していたのだ。
「私もいろいろな経験をしてきたが、一千万円の寄付というのは初めてだ。実に驚いたよ。だがこれで我が港中央署の募金実績は群を抜いたことになる。ますます我が署が有名になるというものだ。」
板垣は心底うれしそうにしていたが、凜はとりたてて何も言わなかった。
板垣は不満げに凜を見た。もっと驚いて、そして喜んでくれると思っていたようだ。だが凜は無言のまま取り澄ましている。板垣は軽く咳払いをした。
「しかし鮎川氏は寄付の件とは別に、脅迫状についての相談を持ってこられていた。自宅に脅迫状が届いたのだ。今、鑑識にまわしてある。」
凜が板垣を見つめた。
「私も目を通したが、活字を切り貼りした古典的とも言えるものだったな。文面は簡略で 『命令に従わねば 死』 というものだった。内容に具体性が見当たらないことからイタズラとも思えるが、鮎川氏は自宅の住所が把握されていることに一抹の不安を感じていると言われた。そしてご自宅のセキュリティ対策についての点検とアドバイスが欲しいとのご希望だ。こうした市民の不安の解消に努めるのも我が港中央署の重要な使命だ。」
このときドアがノックされた。黒田が入ってきた。凜の隣に腰を下ろして手にしていたメモを読んだ。
「紙は普通のB五のコピー用紙。封筒は文具店やコンビニなどで売られている定型のもの、クイーン社製。宛名はパソコンからプリントアウトしたものをそのまま使用している。消印は東郵便局で日付は十一月三十日。貼られていた活字は週刊誌からと思えるが 『死』 の文字だけは新聞からの切り抜き。 コピー紙に残された指紋は二種類で、一つは鮎川氏のものと思われる。封筒には多数の指紋あり。前歴者の指紋と照合したが該当したものは無い。 ざっとこんなところです。」
黒田の声は終始軽い調子だった。 「やはりいたずらでしょう。」
板垣が言葉をはさんだ。
「指紋は二種類と今言ったが?」
凜が眉をかすかに寄せて小さな声を出した。
「署長が ご自分も読んだと言われました。」
「あっそうか。」
黒田が続けた。
「作った人間は指紋を残していないということになります。手袋かなにかを使用したのでしょう。脅迫状を製作するプロセスを楽しんだんでしょうな。愉快犯とまではいかんでしょうがタチの悪い行為であることは確かです。」板垣が大きく頷いて言った。
「いずれにしても鮎川氏が不安を感じていることに変わりない。そこで先程話したように朝倉君に出向いてもらうことにするが、どうかね。」
「結構だと思います。」
板垣は凜を見て言った。
「引き受けてくれ。」
「分りました。」
凜が即答すると板垣は満足そうな様子をみせて続けた。
「この件にどう取り組むつもりか考えがあれば聞かせて欲しいが。」
「鮎川家のセキュリティをチェックします。また家族から、家政婦さんがいたらその人を含めて話を聴きます。最近、身近に不安を感じる出来事は無かったか、という事です。直接、不審者の気づきが無くても、たとえば別々の外出先で同じ人物に会うというような違和感を覚える出来事が無かったかを丁寧に確かめます。話の結果次第で後の対応を考えるべきかと…。」
「うむ。それでいいだろう。」
板垣は頷いていたが、不意に語調を変えた。
「そこでだ。朝倉に注意しておかなければならないことがひとつある。」 名前の後の 「君」 がいつの間にか消えていた。
「それは朝倉の言葉づかいだ。鮎川家に赴いたら上品な物言いをしなさい。お前は自分を指して 『俺』 などと言うが、それは絶対に改めろ。港中央署の代表選手と見なされるんだぞ。あくまで上品に、さすがは警察官だと思われる言葉使いをするように。わかったな。上品にだぞ、上品で無くちゃならない。」
凜の顔がサッと赤くなった。
「ひどいっ、それじゃまるで俺が―」 言いかけてグッと言葉に詰まった。
板垣は、それみたことかという顔だ。黒田があからさまな苦笑を浮かべた。それに気づいた凜は、思い切り冷たい流し目を黒田にくれてやった。
午後になって、黒塗りの高級車が署の玄関前に駐められた。凜を待っているのだ。
(つづく)
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