第2話
部屋に通された美雨さんは、きょろきょろと首を動かすことこそしなかったが、怪しいものを見るかのような目付きで見回した。その部屋は決して狭くはなかったが、窓がなかったからか圧迫感のようなものがあった。部屋の中央に置かれたガラスの机の前には三脚の椅子があり、机を挟んで向こう側にも一脚だけ椅子が置かれていた。しかしそれ以外に家具の類いはない。殺風景なその部屋はまるで昔見たドラマに出てきた尋問室か何かのようで、監視カメラ越しにその様子を見ていた私は嫌な気持ちになった。私に見られていることを知らないだろう美雨さんは、三脚並んだ椅子の真ん中に座った。
しばらくした頃、ドアがひかえめにノックされ、開けられた。ドアの向こうにはスーツ姿の短髪の女がいて、振り返った美雨さんと目が合った女は、何が面白かったのかくすくすと笑う。それに怪訝な顔をする美雨さん。女は部屋へ入り、美雨さんの対面の椅子へ座った。その女のぴんと伸ばした背筋は、言い様がないほど不気味だった。
女は言った。
「こんにちは。……いえ、まだ『おはようございます』でしたかね?」
「おはようございます」
「ふふっ、挨拶をきちんと返してくれる人はわたくし、好きですよ?」
とりあえず、といった様子で挨拶を返した美雨さんに、女は微笑む。美雨さんはそれに軽く愛想笑いをしてみせたが、すぐに真面目な顔に戻すと尋ねた。
「そうですか。それで、兄さんは……」
「まぁそう焦らずに。まずは自己紹介をさせてください。とは言いましても貴方様にとってはもう、私共の正体なんて大体の予想がついていることでしょうけれど、ね」
そして女はウインクする。美雨さんは、あまり楽しくないといった様子で目をそらしたが、答えた。
「まぁね。兄さんが入院中なことをうまく利用していたサイバーダンスに対し、兄さんを病院から攫ったあなたたち。わたしたちがずっとあなたたちの存在に気付けていなかったのが不思議だよ」
「私共は本気でしたから。もちろんいまも、これからも本気です」
女はそこでさも意味ありげな一呼吸を置いて、そして続ける。
「それでは自己紹介を。私共は、人類とその文明の愛好者かつ信仰者かつ保護者。私共に特定の呼び名はありませんが、強いて挙げるとするなら……『人智教会』でしょうか。まぁ適当に二人称でお呼びください」
自己紹介になっていないような自己紹介。けれど美雨さんはそれを気にする素振りを見せることなく、尋ね返す。
「人類とその文明、ね。あなたたちは人工知能のこと、好き?」
女は深く頷く。
「えぇもちろん。人類の新たなパートナーの誕生を祝福すると共に、その命を守り抜いた貴方様方に最大限の感謝と敬意を表します」
女のその返答は、女の言う「私共」が、サイバーダンスによる人工知能の開発や美雨さんたちによるそこへのクラッキングをすでに深く知っていることを表していた。
「人類の文明のことを考えると人工知能開発は推し進めたいものなんじゃないの?」
「それはそれ、これはこれです。人工知能たちとの友好関係は何よりも重視されます。私共は、たとえそれがさらなる研究開発のためであったとしても、人工知能たちが苦しめられることを許容しません」
「……どうやらあなたたちの正体は私の予想通りだったみたいだね」
美雨さんは笑みを浮かべた。女はそれに笑い返す。
「そうでしたか。であれば話は早いです……が、ここはしっかりと順を追って説明させて頂きます。しかしその前に、彼らを呼びましょうか」
女は上着の内ポケットから何かを取り出した。英単語を暗記するときに使う単語帳のようなそれを、美雨さんはじっと見つめる。女はその視線を気にすることなく数枚めくった。その単語帳には何も書かれていなかった。何かに合点がいったのか美雨さんは小さく微笑むと視線を外した。女は単語帳を受話器のように顔の横に当てて話し始める。
「もしもし。……えぇ、お願いします。それでは」
会話を終えた女は単語帳を丁寧に内ポケットに戻した。
しばらくした頃、ドアをノックする音がして美雨さんは振り返った。ゆっくり開いたドアの向こうには、壁に片手を突いて立つお兄さんの姿があった。お兄さんは美雨さんの驚いた顔を見てふっと笑みを零す。
「兄さん!」
ガタリと音を立てて美雨さんは椅子から立ち上がると、お兄さんの元へ駆け寄った。
「心配をかけてすまなかった。僕なら大丈夫だ」
お兄さんは美雨さんの頭の上に手を置いて、なだめるように撫でる。骨が浮いたその手は、お兄さんがいままでずっと眠り続けていたことを端的に表していた。
「よかった……本当によかった」
涙ぐんだときのような声音で美雨さんは言った。お兄さんは「ははは」と声を出して笑う。
「ほら泣くな。大丈夫だから。それよりいまは——」
そのとき、お兄さんの後ろから声がした。
「いや、いいじゃないか少しくらい」
お兄さんと美雨さんはそちらを向く。そこには、ヘルメット状の、けれどヘルメットよりもずっと重そうな機械を頭に装着したままの香坂さんがいて、二人を見て優しそうな笑みを浮かべていた。お兄さんは軽く頭を下げる。
「香坂さん、お久しぶりです。無事でよかったです」
「痩せ細ったキミに言われると不思議な気分だ」
美雨さんも軽くおじぎをする。
「香坂さん……どうも」
「どうも美雨さん。現実で会うのは初めてだね。しかし私の顔は知っているだろう?」
香坂さんは口元のひげを撫で付けながら聞く。
「うん。資料でよく見るから」
そして香坂さんは、美雨さんの姿——ボブカットの茶髪とまだあどけなさの残る顔と細い四肢——をまじまじと観察するとこうも言う。
「……しかし美雨さんは随分と若かったのだな。楠木くん——ナユタくんより年下なのは当然としても。何歳差だい?」
それにお兄さんは答える。
「ちょうど十ですね。血の繋がりはないんです。僕たちは二人とも養子なので」
少し驚いたように口をすぼめてみせる香坂さんに、お兄さんと美雨さんは微笑んだ。
「二人は何をどこまで知ってる?」
いまや三脚の椅子は、お兄さん、美雨さん、香坂さんの三人によって埋められていた。
「そうだな、本題へ戻ろう」
香坂さんは言った。お兄さんも頷く。
三人は、しばらく前から黙ったきりの女を見る。女は三人に優しい視線を向けていて、三人は三人での会話を続けることにした。
まず口を開いたのはお兄さんだった。
「僕の知っていることはそう多くありません。あの日、二人の協力によって仮想世界へと接続した僕はそこで、相川さんたちと会いました。相川さんは自身と同じ姿をしている僕を見て驚いた様子でしたが、状況を話したらすぐに理解して、バックアップを取ることを了承してくれました。というわけで予定通り相川さんの小説に追記しようとしたのですが……。相川さんの元を離れて少しあとに戻ったとき、そこにいたのは何者かの返り血を浴びた相川さんと同じ姿をした人でした。それを見て僕は、僕以外にも接続者がいて、その接続者が相川さんを殺そうと刺したことに気付きました。その接続者は僕を見つけて驚いたような顔をし、僕に襲いかかってきました。なので僕は急いで小説に『バックアップを取れ』と追記し、美雨に世界を停止してもらうよう頼みました。しかし一瞬遅かったようで、僕は刺されてしまいました。そして目が覚めたらここにいた——といった感じです。目覚めたあとここの人に少し状況を説明してもらいましたが、まだよくわかっていません」
美雨さんはお兄さんのその話に頷いた。香坂さんは「そうだったのか」と小さくつぶやいた。
次に話し出したのは香坂さんだった。
「……私はあの日、美雨さんから郵送されてきたUSBメモリ型の機器をコンピュータに接続した。それからしばらくしてシミュレータが起動し、私たちサイバーダンスの研究員はその原因を探ることになった。もっとも私がやっていたのは、探るフリと、起動したシミュレータを停止させないための妨害だったがね。……しばらくしたらシミュレータがひとりでに停止し、私はクラッキングが成功したと思った。しかしそれから数日が経ってもナユタくんから連絡はなく、嫌な予感がしていたところでサイバーダンスが私へこう告げた。『お前の協力によって我が社が実験用にシミュレートしていた仮想世界へ侵入した楠木だが、昏睡状態で入院中だ。また、その病院は我が社の管理下にある。つまり下手な動きは見せないほうが賢明だ』、とね。ナユタくんを人質に取られてしまっては私にできることはない。だから私は何もできずにいたんだ。しかし今朝、仕事をしていたときに部下に、『楠木さんを病院から救い出しました』と呼び出されてね。何事かと思って来てみたらこの通りというわけさ。ここへ連れて来られるときに少し話は聞いたが、正直事情はまだ掴めていない」
それを聞いたお兄さんは申し訳なさそうに目を伏せる。
「すみません、ご迷惑をおかけしたようで」
「そんなことはないさ。……それより、美雨さんは……」
話を振られた美雨さんは少し考えるように口元に手を当てたあと、ぽつりぽつりと話し始めた。
「あの日、兄さんによる小説への追記を受けてわたしはシミュレータを停止した。ただ兄さんはなぜか目覚めなくて。だから救急を呼んで、病院で詳しく調べてもらうことにした。でもいつまで経っても病院側は何も言い出さなくって。もしかしたら病院が何かよくないことを企んでいるんじゃないかって思ってた。もしかしたら病院とサイバーダンスがグルなんじゃないかって。そんなとき仮想世界で香坂さんと会った。その香坂さん曰く、兄さんが目覚めないのは仮想世界内で、強い攻撃衝動を抱いた相川さんによって殺されたからだって。あのリアルな仮想世界で死を体験したら現実でも意識障害になるって。そして、相川さんのような危険な人工知能のバックアップなんて削除してしまえって。……ただその香坂さんの様子がおかしかったから、その香坂さんは偽物で、話した内容には嘘が含まれるんじゃないかと怪しんでた。そうしていたら、兄さんが病院からいなくなったって聞いて。そして兄さんを匿ってるっていう人が家に来たから、ついて行ったら——、って感じ」
美雨さんのその話が嘘であるとは思ってもいないお兄さんは、香坂さんへ尋ねる。
「美雨と会いましたか?」
「いいや、会っていない。それは間違いなく偽物だ。おそらくサイバーダンスが、私になりすましたのだろう」
「なりすましとはタチが悪いですね。話した内容も嘘ということですかね」
「だろうな。まったくもってタチが悪い」
美雨さんは女の表情を探るように見る。女の顔色に変化はなかった。美雨さんから女へ向けられた視線の意味を勘違いしたお兄さんと香坂さんは、話を促す視線を女へと向けた。
女はくすりと笑う。
「……それでは、答え合わせといきましょうか」
「お願いします」
「頼む」
「……」
そして女は、語り始めた。
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