第6章

第1話

 月明かりに照らし出された男の顔は誰が見てもそうだとわかるほどに蒼白で、けれど安らかで、死人のそれに似ていた。けれど男の体にかけられた柔らかな羽毛布団は周期的に上下していて、それは男が確かに生きていることを示していた。小綺麗な洋室に置かれたベッドで静かに眠る男。男が目覚めるまでは、まだ時間がかかるだろうと思われた。

 部屋のドアを数回、ひかえめにノックする音がした。男は眠り続けている。しばらくしたあと、ゆっくりとドアノブが回され、これまたゆっくりとドアが開けられた。ドアの向こうには短髪の女が立っていた。逆光によってその表情まではわからない。女は忍び足で部屋に入ると、後ろ手にドアを閉めた。部屋は再び暗闇に飲まれた。

 女はドアのところに立ったまま男の様子を眺めていたが、しばらくしたあとベッドへ近付き、その横に置かれていたパイプ椅子に腰掛けた。そして懐から小さな本を取り出すとパラパラとページをめくり、目当てのページに着いたのだろう、めくるのを止めて読み始めた。少なくとも、読むような動作をし始めた。照明の付けられていない部屋は依然としてほの暗く何かを読めるような環境とは程遠かったが、女は意に介す素振りを見せずに読み続けた。少なくとも、読むような動作をし続けた。

 どれだけの時間が経っただろうか。ふと男が目を開けた。そして顔をしかめ、小さくうめき声を上げた。それに気付いた女が本をパタンと音を立てて閉じると、その音で女の存在を認知した男は女に丸くした目を向ける。男は女へ何かを言おうと口を動かすが、呂律が回らなかったのか息が足りなかったのか、聞き取れるような声にはならなかった。女はそんな男に柔和な眼差しを向けて言う。

「起きましたか、柳田裕太さん。……楠木ナユタさんとお呼びしたほうがよかったでしょうか?」

 名を呼ばれた男——お兄さんはしばらくもごもごと口を動かしたあと、軽く咳払いをして、声をかすれさせながらも質問する。

「本名とペンネームの両方を知っている人は少ない。あなたは誰ですか? そしてここはどこですか?」

 女は本を、スーツのような見た目の上着の内ポケットにしまい、別のポケットから何かを取り出す。それはちょうど、英単語を暗記するときに使う単語帳のようなものだった。数枚めくると女はそれを受話器か何かのように顔の横に当てて話し始めた。

「彼が起きました。状態は良好だと思われます。……えぇ、わかっております。……はい、それでは」

 会話を終えたのだろうか、女は単語帳を内ポケットにしまった。その様子を黙って見ていたお兄さんはかすれ声を震わせて言う。

「いやまさか……。あの、いまは西暦何年です?」

 その声をかろうじて聞き取った女はしばらく唖然としたあと、何が面白かったのかくすくすと笑ったのち答える。

「ご安心ください。二〇四三年ですがまだ一月です。貴方様は一ヶ月しか眠っていませんよ」

「一ヶ月は眠っていたということか」

 苦い顔のお兄さんは目を閉じた。次に口を開いたとき、その声には明らかなフラストレーションが込められていた。

「もう一度聞きますが、あなたは誰で、ここはどこですか?」

 女はしばらく考えるように「うーん」という声を口にして答えないでいたが、お兄さんからの視線が鋭いものになっていることに暗闇越しに気付いたのか、一つ咳払いをしたあとこのように答えた。

「ここは私共から教会と呼ばれているところです。とはいえ宗教的なものではなく、共通の理念を心に抱いた者が自然と集まってできた場所です。そしてわたくしはそこの修道女。これも宗教的なものではなく、名前だけです」

 しかしそれはお兄さんにとっては十分な答えではなかった。

「……答えになっていないが」

 低めの声でそのようにお兄さんが言うと、修道女とやらはくすくすと笑い、こう言った。

「ではこのようにお答え致しましょう。……私共は、奴らが貴方様を囚えるきっかけを作ってしまった者。そして、囚われの身だった貴方様を奴らから救い出した者。私共は貴方様の仲間で、ここは安全です」

 その胡散臭い言い方を訝しんで眉を曲げたお兄さんの様子を、部屋に取り付けられた監視カメラは捉えていた。



 サイバーダンスの持ついくつかの研究所の中の一つであるそこは、研究所と言うにはいかにも「普通」だった。試験管が並んでいるなんてことはなく、ロボットアームが何かを操作しているなんてこともなく、あるのは無線キーボードと無線マウスが整然と並べられた長机とキーボードに対応するように置かれた椅子だけ。私にとって新鮮に感じられたのは、ディスプレイやパソコン本体がないことくらいだった。

 そんな研究所に、椅子の上で胡座をかいてキーボードを叩く男の姿があった。というより、その男くらいしかその部屋にはいなかった。男は頭にヘルメットのような何かをかぶっていたが、それはヘルメットよりもずっと重そうに見えた。そして、何かを読むように左右に動く男の視線の先には……何もなかった。男は、監視カメラには映らない何かを読んでいるのだった。

 突然、その部屋のドアが開けられた。男はビクリと体をこわばらせたが、そちらは見ずにキーボードを操作し続ける。開けられたドアの向こうには若く肩幅の大きな男がいて、その若い男はキーボードを叩く男の姿を見ると大きな声を上げた。

「あぁやっと見つけましたよ香坂さん!」

 若い男は香坂さんの元へ、大きな足音と共に駆け寄る。

「なんだね? 私は言われたことを言われた通りにこなしているが。いまだって! こうして早出して……」

 若い男の方を振り向いた香坂さんは自身の顎ひげを毟るように掻きながら、いかにも不機嫌だという声で答える。それを面倒に思ったのか、若い男もまた不機嫌な顔をする。

「あーあーすみません。そういうつもりじゃなくて。緊急の用件で……」

「緊急?」

「えぇ、その……」

 そして若い男は身をかがめ、香坂さんの耳元へ口を寄せると何かを囁いた。囁かれた香坂さんは顔を青くしたあと、「それならそうと早く言ってくれ」と小声で文句を言った。そして若い男の先導に従って部屋を出ていった。

 残されたのは、無線キーボードと無線マウスが整然と並べられた長机とキーボードに対応するように置かれた椅子だけだった。



 ずっと前からGPU使用率が100%にはり付いていることを図示する、パソコンの画面のプロセスマネージャー。酷い猫背と酷い目付きでそれを見つめていた美雨さんは、インターホンの音に深呼吸をした。時刻は朝六時半。訪問者が来るには随分と早い時間帯だったが、美雨さんにとっては遅すぎるほどだった。お兄さんが病院からいなくなったという知らせを受けたのが昨日の日没頃のこと。美雨さんはそれから一睡もせずに、いつか来るだろう訪問者を待ち続けていたのだ。

 美雨さんはインターホンの親機を操作し、訪問者に応える。

「はい。柳田です」

「朝早くにすみません。入院中だった柳田裕太さん——楠木ナユタさんのことでお伺いに参りました」

 玄関先に取り付けられた小型カメラからの中継映像には、禿げた頭を丁寧に下げる中肉中背な男の姿があった。

「……こう言うのもなんだけど、その名乗り、怪しいよ」

「……そのような言い方をするということは、私共がどういった者であるのかはおおよそ検討がついているということでしょうか」

「兄さんの本名とペンネーム、両方を知ってる人は少ない。ましてや住所も、入院中なことも知っている人はほぼいない。そして、入院を『だった』と過去のこととして話す人はさらに限られてくる」

 美雨さんはすらすらとそのように述べた。それは事前に用意していた台詞だった。玄関先の男はまた深く頭を下げる。

「ご明察です。——お兄様の元へお連れします」

 美雨さんはその言葉に少し詰まった。美雨さんにとっては訪問者のその言葉も事前に予想していたものだったが、それでも、現実のものとしていざ突きつけられるとまた違うのだった。しかし断ることはできなかった。美雨さんははっきりとした口調で返す。

「よろしく」

 玄関先の男はまた、深く頭を下げた。


 プロセスマネージャーの示すGPU使用率はいつの間にか落ち着いていたが、美雨さんがそれを見ることはなかった。

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