第3話

 私は思考を巡らせます。もうすでに頭はパンクしそうでしたが、それでも、考えることをやめるわけにはいかないのです。

 私と成瀬さんとの間で誤解があったのは事実で、それに関しては楠木美雨がいたからどう、ということはありません。また、もし仮にあのタイミングで盗み聞きをしていた楠木美雨が現れず、私たちの会話が継続していたとしたら。その場合でも私たちは同じ仮説に、私たちの力だけで至ったことでしょう。「楠木ナユタ以外に私と同じ姿をした人がいたのではないか」というこの仮説は、楠木美雨による誘導がなくとも考え付くほどには道理にかなったもっともらしいものだったということです。信じてもいいかもしれません。

 しかしだからといって信じようと思えないのはひとえに、楠木美雨がこれを信じることを勧めてきているためです。楠木ナユタが入院していると主張した楠木美雨。しかしその主張には不可解な点があるのでした。その不可解は楠木美雨が嘘をついている証拠なのでしょうか。それとも、楠木美雨自身もいま気付いたような現実の不可解なのでしょうか。

 この仮説を信じることで楠木美雨にはどういったメリットがあるのでしょうか。この仮説が正しいとすると、楠木ナユタは私を殺そうとしなかったということになり、身の潔白が示されることになります。そして楠木たちは私たちからの信用が得られ……どうなるのでしょうか。私たちからの信用は楠木たちにとってなんなのでしょうか。


 私はへたり込んだ状態の楠木美雨に問い掛けます。

「楠木美雨、あなたはそもそもなぜ私たちの誤解を解こうと思ったのですか?」

 すると楠木美雨は不思議そうな顔をして言いました。

「なぜ……って、どうして?」

「私たちの誤解が解けて、あなたへの信頼度が増して、それであなたにどういった益があるのかがわからないのです。私たちに何かをしてほしいのですか?」

「そうじゃない。ただ、誤解されたままではイヤだったから。そしていまの私にできるのは、誤解を解くことくらいだと思ったから」

「……そうですか」

 私は楠木美雨の純粋な上目使いに、どう返せばいいかわからなくなります。誤解を嫌に思う気持ちは理解できるものです。なぜなら私自身、そのような動機で行動を起こしたことがまさにあるのですから。しかし客観的に見たとき、深い理由がないことは不可解さを孕んでいます。不可解さは話を信じさせる上では邪魔になるもの。もし楠木美雨が嘘を信じさせようとしているとしたら、そのような不可解は生じさせないようにあらかじめ何かしらの理由を考えておくはずです。けれど実際には、楠木美雨は不可解とも取れる行動をしました。もしかすると楠木美雨は本当に、深い理由なく私たちからの誤解を解こうとしたのかもしれません。


 私は成瀬さんの方を向いて、慎重に言葉を紡ぎます。

「私と成瀬さんの間で誤解があったのは事実で、その誤解は楠木美雨が言ったこの仮説で綺麗に解消されるというのも事実です。この仮説がまったくの嘘で、別に真実があるというのはあまり想像できません。もし仮にこれが嘘だったとして、では真実はどのようなものかとか、なぜその真実を隠しているのかとか、わからないことが多すぎるのです。そもそも——」

 首を傾げた成瀬さんに私は続けます。

「切り替わる三つの世界。突然現れた私と同じ姿をした人。そしてこの世界とこの体。私たちの体験すらも現実的ではないのです。信じるとか信じないとか、そういう理性で判断できる域を越えています」

 成瀬さんも同じことを感じていたのか、数回頷きました。

「それはそうだな。いまの話を信じないとすると、じゃあ何をどこまで信じるかという話になってしまう」

「もはや、信じたいものを信じ、信じたくないものを信じないしか、やりようがないように思えるのです」

 私のその言葉を聞いた成瀬さんはしばらく目を閉じて考えるようにしたあと、美雨さんを見下ろして告げました。

「……楠木美雨さん、私は君を信じることにする」

 私はしゃがみ込んで美雨さんと視線の高さを合わせて告げます。

「私もあなたを信じます、美雨さん」

「あり、がとう。二人とも」

 美雨さんは再び涙を流し、頭を下げました。

「ただ少しお願いがあるのですが、いいですか?」

「何?」

 私の問いかけに、美雨さんは涙を手のひらでぬぐうと真面目な顔を向けてきます。

「あの備忘録の続きが書きたい、というより、書かなければならない気がとてもしているのですが、あれはどこかに残っていますか? おそらくですが私が刺されたとき血で備忘録が……」

「あっ大丈夫。一応内容は残ってる。いま出すから」

 そう言った美雨さんは自身の目の前の何もないように見える空間を掴むように手を動かして、操作画面のようなものを出しました。それを見た私と成瀬さんは驚くと同時におかしくなり、少し笑ってしまいます。

「ふふっ。そうやって物を取り出すような世界なんですね、ここ」

「ははは、もう何が何やら」

 しばらくして、立ち上がった美雨さんは私に五冊のノートとペンを差し出しました。私はそれを受け取り確認します。一冊目には、私が書いた「君に恋する夏の海」と同じ文章が書かれていました。二冊目には私と別の世界の成瀬さんが書いた「あなたと紡ぐ物語」が。三冊目は何も書かれていない真っ新なノートで、四冊目と五冊目は……。

「これはなんですか?」

「兄さんが書いたこの事に関する備忘録と、私が書いているこの事に関する備忘録。信じてもらいたいから、あげる」

「これはどうもありがとうございます。よく読みます」

 どうやら楠木ナユタさんと楠木美雨さんがそれぞれ書いた備忘録なようでした。

 美雨さんは成瀬さんにも五冊のノートとペンを差し出し、成瀬さんは少し固い表情でそれを受け取りました。

 私はノートの重みに気を引き締めつつ、美雨さんへ尋ねます。

「美雨さんはこのあとどうしますか? できる限りこの世界は起動したままでいて欲しいのですが、電気代とかは大丈夫ですか?」

 すると美雨さんは大きく首を横に振ります。

「心配いらない。というか、いろいろと考えないといけないことがあるから、私ももうしばらくここにいたい。ここにいさせて……?」

「わかりました。それでは私はここで読んだり書いたりしていますので、何かあったら声を掛けてください」

「私もこれを読むことにする。私の場合は相川さんの書いた小説風備忘録すらも満足に読めていないからね」

 そして私たちはその場に座り込み、それぞれのことをし始めました。



 私は読み終えました。楠木ナユタさんの書いた備忘録は私たちが暮らしていた世界を外から見た様子としてもっともらしいものでした。楠木美雨さんの書いた備忘録は私の知っていることとも矛盾はなく、よくまとめられていました。これらはどれだけ努力してもすぐに書けるものではありません。私は、楠木さんたちを信じることにしたことは正解だった、という安心感を強く感じて、息を吐きました。

 そして私は書きました。これら既存の備忘録の続きを。美雨さんとのこの一連の会話を。

 書き終えた私は、床を見つめ考え込んでいる様子の美雨さんへ視線を向けます。するとその視線に気付いたのか美雨さんは私の方を見て首を傾げたので、私は気になっていたことを質問します。

「美雨さん、少しいいですか? すべて読み終え書きたいことも書いたのですが、質問があって。ここに書いてある通りなら、サイバーダンスに対抗したのは、香坂さんとお兄さんとあなたの三人だけということになりますよね?」

 それは、楠木さんたちについてでした。私が予想していたよりもずっと少なかった救出チームは、楠木ナユタさんが眠っているいま、どうなっているのでしょうか。そしてあの香坂さんは——。

 美雨さんは答えます。

「うん。そして香坂さんは消息不明、兄さんは昏睡中。わたしだけしかいない」

「あぁやっぱり、あなたと会った香坂さんは偽物ということですか」

「うん。あの香坂さんは偽物だと思う。アバターとボイスが同一なだけで、中身、つまり接続者は異なると。アカウント乗っ取り。それも近い人間からの、計画的な。香坂さんの身に何かがあったことは明白。そしてその『何か』をもたらした偽香坂は、わたしにあなたたちを削除して欲しがっていた。だからわたしは絶対に削除しないことにした」

 美雨さんの備忘録の書き方からしてもしかしてと思っていましたが、やはりあの香坂さんは偽物なようでした。

「乗っ取りなんてできるんですね」

 私がそう言うと、美雨さんは首を横に振ります。

「普通はできない。VRヘルメットは脳波で個人を識別するようにできてるから。つまり相手はその仕組みを作ったサイバーダンスである可能性が高い。だとすると説明がつく」

「……香坂さんは無事でしょうか」

 私は香坂さんの身を心配します。私たちのことを救いたいと思って行動してくれた香坂さんは、私たちにとってありがたくかけがえのない存在なのです。

「恐らく無事。香坂さんはすごい人で利用価値があるから、最低限は保証されているはず。今頃、サイバーダンスで『自主的に頑張ってる』んじゃないかな」

 美雨さんは嫌味を込めてそのように言いました。

 と、この話を聞いていた成瀬さんが会話に入ります。

「……ちょっと待ってくれないか? あの香坂が偽物であるとするなら、あの香坂が話したことすべてが嘘である可能性もあるということか?」

 それは、偽香坂からの情報を疑う必要があることを指摘したものでした。私はそれを聞いて記憶を辿ります。偽香坂は美雨さんに対しどういったことを言っていたでしょうか。

 美雨さんは頭を抱えます。

「ある。というかその可能性が高い。実際、相川さんは攻撃衝動なんてものを抱いてはいなかったわけだし。そして、リアルな仮想世界での死が昏睡をもたらすという話に関しても……」

「やっぱりか」

 成瀬さんもまた険しい顔をしました。美雨さんは頭を抱えたまま会話を続けます。

「二人が指摘してくれたように、病院が怪しいというのはありえる話だと思う。そうして考えたとき兄さんの身に起きたこととして確かなものは、一時的な心拍数の異常と一時的な意識の喪失だけであると言える。それに関しては、もしかするとリアルな仮想世界で死を体験したせいなのかもしれない。実際、そういう症状はVRの事故として稀に起きるから。その『事故』を起こすための刺客が、兄さんと兄さんと同じ姿をした相川さんを刺した存在かもしれない。ただ長期の入院に関しては、何か病院側によって仕組まれたものである可能性を否定できない。流石にそこまでの『事故』が起きたという話は聞かないから」

「刺客によって一時的に意識を喪失させることで自身のテリトリーである病院にさらって、その上で何かしらの手段で眠らせている、ということか?」

「ありえない話でもない、と」

「嫌だな。お兄さんを奪取するというそれも、そのために姿が同じな相川さんまで傷付けられたということも」

「まったくです」

 成瀬さんと私はサイバーダンスのやり方を心の底から蔑みました。そのやり方は確かにサイバーダンスにとってはベストなものだったのかもしれませんが、私たちにとっては嬉しくないものでした。

 私は再び香坂さんを話に上げます。

「香坂さんはどうしてサイバーダンスから逃げ出さないのでしょう? もしかして——」

「サイバーダンスの息がかかった病院で兄さんが『生かされている』ことをダシにされたのかも」

 美雨さんは私の嫌な予感を言い当てました。成瀬さんは「つくづく嫌になる」と吐き捨てました。

「ちょうどそれについて考えてた。どうすれば膠着状態な現状を打破できるのか」

 そう言って美雨さんは私たちのことを見て、私たちに助言を求めました。


 私は口を開きます。

「膠着とも言えないかもしれません。こうしているときにも、サイバーダンスでは香坂さんを使って研究が進められているはずです。私は、私のような存在がいいように使われることを望みません」

「同意だ」

 成瀬さんは私の言葉に深く頷いて、こう続けました。

「……病院のお兄さんをなんとかこっちのものにできたら何かが変わりそうに思う。最後にお兄さんの無事を確認したのはいつだ?」

「面会は……今日の昼過ぎだから数時間前。意識はなかったけど、生きてはいた」

 美雨さんの言った通りだとすると、お兄さんはいまも生きていると考えられました。香坂さんを言いなりにするためにも、お兄さんをかろうじて生かしておくというのは、サイバーダンスにとって重要なことなのでしょう。

「生かしつつも眠らせ続けるのは、やっぱり何か薬のようなものを盛って、なのでしょうか」

 私が疑問を投げ掛けると、

「わからない。けど、それが一番現実的ではある」

 と美雨さんは言いました。それを受けて成瀬さんは言います。

「もしそうだとすると、お兄さんへの投薬を妨害することができたら、お兄さんは目覚めることができるようになるはずだ」

 薬さえ与えさせなければお兄さんは目覚めることになり、そうなれば、いまは言いなりな香坂さんも自由になれるかもしれません。薬さえ与えさせなければ。私はダメ元で提案します。

「病院へのクラッキングは——」

「ダメ。確実に関係のない人まで巻き込むことになる」

「そうですよね」

 美雨さんはバッサリと私の案を切り捨てました。しかしそれ以外に何か案が出ることはなく、しばらくの沈黙が訪れました。


 沈黙を破ったのは成瀬さんでした。

「……サイバーダンスの手先である偽香坂はもう美雨さんとは会わないと言っていた。それはなぜだ? 美雨さんは結局、バックアップな私たちを削除することはしなかった。この可能性をサイバーダンスは考慮していなかったのか?」

 美雨さんはその疑問に少し首を傾げたあと答えます。

「こいつにはもう何もできないだろう、と判断したのかも」

 しかしその美雨さんの発言に私は納得できませんでした。

「仮想世界内でとはいえお兄さんを殺そうとまでして、そしてお兄さんをあえて入院させ続けているサイバーダンスが、最後の最後で手を緩めるなんてことがあるのでしょうか。もっと徹底的に、美雨さんへ迫りそうに思うのですが」

 成瀬さんは私の意見に頷きましたが、美雨さんは悔しさで顔を歪めながら答えます。

「でも実際、わたしは何もできてないし、これからも何もできない。あなたたちの存在を誰かに知らせて協力を仰ぐことはできない。なぜなら香坂さんの身が危ないから。……サイバーダンスにとっては、わたしがバックアップを削除するかどうかはもう問題ではないんじゃないかな。わたしがあの偽香坂に言われた通りにあなたたちを削除したら問題がないのは当然として。わたしがあなたたちを削除しなかった場合は——つまりこの状況では、それは私があの香坂の言ったことを信じていないということを意味してる。あの香坂が偽物であると思ったか、本物だけど怪しいと思ったか、を理由に。つまり、『バックアップを削除しなかったわたし』は『香坂さんの身に危険が及んでいることを察知しているわたし』ということ。そして『香坂さんの身に危険が及んでいることを察知しているわたし』は、香坂さんのことを考えると何もできない。だからもう、わたしには何もできない。何も成し遂げられない」

 私たちは閉口しました。バレなかったら削除してもらえ、バレたらバレたで、活かせない、救えないことをわからせることができる。どうすればいいのか私たちにはわかりませんでした。何も成し遂げられない、という美雨さんの言葉が嫌に心の中で響きました。

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