第3話
遺書へ。
解析を始めた。
クラッキングによって手に入ったデータは大きくわけて四種類ある。仮想世界を作り出すシミュレータの部分と作り出した仮想世界へ接続する人工知能たちの部分、そしてそれぞれに、実行するプログラム本体(とソースコード)とプログラムの実行に必要なデータベースとがある。この中で取り扱いに注意しなければならないのは人工知能たちのためのデータベースで、逆に言えばそれ以外の部分は実験のために実行してみても、破壊的な変更をしてみても、なんなら完全に壊してみても構わないのだった。もちろん、バックアップは取っておかなければならないが。
シミュレータのためのデータベースと人工知能たちのためのデータベースの中身を覗いてみてわかったことがある。あれは直接扱うようなものではなかった。わたしのような部外者がいじれるような構造をしていなかった。仮にいじったとしたら、どこでどう齟齬が生まれるかわからない。たまったものじゃない。データベースに保存された情報を意味のある形で引き出すには、どうしても、プログラム自体を起動しなければならないようだった。
ゲームなんかでも同じことが言える。生のセーブデータを解析していじってラスボス前までスキップするよりも、ゲームを実際に実行し、そのゲームを自動操作するほうが圧倒的に楽で、そして安全だ。
よってわたしは、仮想世界の現状がどうなっているのかを知るために、仮想世界のみの起動を試してみることにした。あの日、サイバーダンスのコンピューター上でやったように、シミュレータを起動しようとしたのだ。人工知能は起動せず、起動した仮想世界に接続することもしない。この程度であれば、人権問題に発展するようなことはないと考えられた。
けれどうまくいかなかった。コンピューターのスペックが足りなかったのだ。安全のために仮想化したOSというサンドボックス環境で起動を試みた過去のわたしを、うんと褒めてやりたい。でなければ最悪、このデスクトップパソコンがゴミになるところだった。
といった具合に、クラッキングで得たシミュレータは、リアルすぎるがゆえに活用しようにもハイスペックなコンピューターを要求するため、活用できないのだった。頑張って自力でソースコードを読み解き、シミュレータを軽量化すればいいのではと少し考えたが、現実的に無理な話だった。サイバーダンスの研究者というプロたちが、給料を貰って、長い時間をかけて開発したシミュレータなのだ。そう簡単にパフォーマンス改善などできない。
サイバーダンスが開発したこのシミュレータの作り出すリアルな仮想世界には、世の中の普通な仮想世界と互換性があるという話ではあった。しかしだからといって、データベースを共有するなんて芸当もできなかった。ガワの部分だけを取り替えるなんてことはできなかった。
であれば、とわたしは考える。シミュレータ側を起動できなかったのは仕方がないとして、人工知能側は起動できるだろうか。そして起動した人工知能とコミュニケーションはとれるだろうか。先程の話の通り、サイバーダンスが人工知能のために開発したリアルな仮想世界には、普通な仮想世界と互換性がある。リアルな仮想世界に接続できる人工知能が、普通な仮想世界にも接続できる可能性は大いにあった。兄さんをリアルな仮想世界へ接続したように、人工知能を普通な仮想世界へ接続すれば——。
試す価値はあった。しかしわたしは人工知能について詳しくは知らない。もし普通な仮想世界で人工知能に何かしらの不具合が起きてしまったとしたら、わたしはどうすべきだろうか。そしてアイカワについても詳しくは知らない。もし普通な仮想世界でアイカワとコミュニケーションがとれたとしたら、わたしはどうすべきだろうか。
しかしわたしはもう、何もしないでいるのはイヤなのだ。目覚めない兄さんをなんとかしたい。人工知能という兄さんが命懸けで守ろうとした存在をこのまま放置したくない。わたしは何かを成し遂げなければならなかった。
プライベートワールドを構築した。何も置かれていない、まっさらなワールドを。そして人工知能の一個体「相川藍海」を起動し、あらかじめワールドに用意しておいたダミーのアバターと接続した。あとはわたしがワールドへ接続するだけだった。わたしがワールドへ入って、アイカワから事情を聞くだけだった。
これはきっとターニングポイントだろう、とわたしは強く感じた。アイカワにはバックアップがある。しかしロールバックして何度もやり直すようなことはするべきではないし、したくもない。戻ることはできないのだ。
わたしはVRヘルメットをかぶるとベッドに横になった。アイカワをワールドに接続した時点で、もう戻ることはできないのだ。やるしかないのだ。そのように自身に言い聞かせた。そして、ワールドへ接続した。
足元には大理石のような白い床があった。目線を上げると、その床はどこまでも続いていた。さらに目線を上げると床の白と空の青が、塗り分けられたかのようにくっきりとあった。地平線だった。
「……あの、ここはどこですか?」
聞き覚えのある声が小さくしたので振り返ると、見覚えのある少女が立っていた。当たり前だ。アイカワへあてがったダミーのアバターは、わたしが昔使っていたものなのだから。しかしその聞き覚えと見覚えは、目の前のこのアバターを操作しているのが間違いなくアイカワであることを、間違いなく人工知能であることを示していた。
「相川藍海、だよね?」
わたしは、わたしよりも少し背の高い目の前の少女へ問い掛ける。ショートボブな黒髪と赤い瞳のその少女は、少し青い顔でこくりと頷く。そしてわたしに尋ねた。
「……ここは、もしかして天国のような場所ですか?」
なぜそのような勘違いをしたのだろうか。たしかにここは現実離れしたワールドではあるが、天国と勘違いするなんてそうそうないことだろう。人工知能故の勘違いというものだろうか。それとも、リアルなあの世界でなければ人工知能の動作に支障が出てしまうのだろうか。
わたしはアイカワの発言を否定する。
「違う、仮想世界。あなたが生きていた世界とはまた別の仮想世界」
しかしアイカワはまだ信じられないのか、眉を曲げてまた確認を取ってくる。
「あなたは天使ではないのですね?」
「? あぁ、そっか。この格好……。こんな格好をしてはいるけどわたしは天使ではないし、ここは天国でもない」
わたしは一瞬、なんのことかわからずにいたが、すぐに自身のこのアバターのことを思い出した。この世のものとは思えないほどに美しい金色をした長髪と、服代わりの白い布切れと、頭の上にある天使のような輪と。こんなわたしをここの非現実的な絶景と一緒に見たら、天国か何かかと勘違いしてもおかしくはないだろう。
人工知能故の勘違いのようなものではなかった。このような勘違いなら、人間でも起きるだろう。わたしは目の前のアバターをまじまじと見つめる。これを人工知能が操作している——。なかなか信じることのできないことだったが、信じるとか信じないとか、そういう次元の話をする場面ではなかった。
わたしはアイカワへ続ける。
「あなたのその体も、諸事情によって元々のものとは違ってる。申し訳ない。……それより、気分が優れないとかはない?」
この仮想世界とあのリアルな仮想世界とでは、人工知能にとっての脳のような部分へ送られてくる情報の質と量に大きな差があるだろう。いままでアイカワは、リアルな仮想世界でしか生きたことがない。この世界の空気にやられ、体調不良で倒れてしまう可能性があった。現実世界で生きてきた人が初めて仮想世界を体感したときのように。
「気分、ですか。そりゃあ優れませんが」
アイカワは答えたが、わたしはその口調に違和感を覚える。
「『そりゃあ』って、どういう意味?」
まるで優れないことが当然のものであるかのような口調。わたしはアイカワの次の発言に注意を向ける。
「どういうも何も、先程まで死にかけていたのに気分が優れているわけがないじゃないですか」
「……ちょっと待って、『死にかけていた』? 何があったの?」
意味がわからなかった。死にかけていた、とはどういうことだろうか。先程とは具体的にいつなのだろうか。この仮想世界に、アイカワに死をもたらすようなものはないはずだ。空気にやられた? いいや違うはずだ。死にかけるほどの体調不良はありえない。ではアイカワの言う、アイカワにとっての先程とはいつなのだろうか。
「……その前に。あなたは誰ですか?」
混乱するわたしにアイカワは真剣な顔をして尋ねる。平静を装ってわたしはそれに返す。
「わたしは、楠木美雨とでも名乗ればいいかな。楠木ナユタという人、知らない? 私はあの人の妹で、あの人の仲間。あなたたち人工知能を保護しようとしてる」
するとアイカワは目を見開くと、顔を真っ青にしてあとずさる。
「楠木……」
アイカワがこちらへ向けてくる視線には、確かな怯えと敵意があった。
すっかり口を閉ざしてしまったアイカワから、わたしは視線を逸らす。アイカワがここを天国と勘違いしたのは、何もわたしが天使のようだからとかこの絶景が現実離れしているからとか、そういうわけではなかった。アイカワは、自分が死んだと思っていたのだ。それだけの出来事があったのだ。おそらくあの日、サイバーダンスで起動したリアルな仮想世界の中で。
アイカワへ迫った死。失われた「あなたと紡ぐ物語」。目覚めない兄さん。……何があったのだろうか。情報が不足していた。目の前にはすべてを知る存在がいたが、その存在はいま、床を睨んでいる。きっとわたしが問い掛けたとしても、素直に教えてくれるなんてことはないだろう。
なぜアイカワはわたしに怯え、敵意を抱いているのだろうか。楠木——兄さんとの間に何かがあったのだろうか。ではその何かとはなんなのか。
わたしはアイカワへ視線を戻して言った。
「申し訳ないけど、何も話してくれなさそうだから、この仮想世界とあなたの動作を一時的に停止させるから」
アイカワは俯いたままびくりと震える。
「安心して、削除するわけじゃあないから。一時的に停止するだけ。ずっと動作させておくのは電気代的にも、あなたの精神的にもよくないだろうから」
するとアイカワは力なく笑う。
「ふふっ、電気代ですか。私はやっぱり、そういう存在なんですね」
わたしは何も言えなかった。だから何も言おうとせずに、その仮想世界からログアウトし、現実世界へと帰還し、アイカワと仮想世界の動作を停止した。何かを言うなんてことは到底できなかった。
シミュレーション仮説というものがある。人類が生きているこの世界は、より上位の世界にあるコンピューター上でシミュレーションされたものである、という可能性についてその仮説は論じている。その仮説はまさにこの状況と同じだった。アイカワ……相川さんにとって、わたしたちは上位世界の存在なのだった。目の前に現れた、自身とまったく同じ見た目をした他人は、残酷なまでに、相川さんにその事実を突き付けたのだろう。そしてこの、わたしによる仮想世界の起動。わたしはこの仮想世界で、相川さんに別の体を操作させた。相川さんにとっては、世界が、体が、すべてが、仮想的なものだと突き付けられたわけだ。心へのその負荷を推し量ることなんてできなかった。
部屋に独りになると、イヤなことばかりが心に浮かんできた。「楠木美雨」と名乗ったわたしへの相川さんの敵意。面と向かってあのような視線を受けたことは、いままでなかった。わたしたちはどんな罪を犯してしまったのだろうか。あの敵意はきっと、「楠木ナユタ」と名乗った兄さんとの間に何かがあったのだと考えられた。ではその何かとはなんなのか。まさか兄さんが、相川さんへ死を——。
わたしは落ち着こうと、必死に自身に言い聞かせる。「君に恋する夏の海」へ追記された「バックアップを取れ」というそのメッセージは、兄さんが最後まで人工知能のためを思っていたことを示している。そんな兄さんが相川さんを殺そうとするなんてことはあり得ないことだ。しかし、とわたしは考えてしまう。であれば、相川さんがわたしと兄さんを敵視する理由はなんなのか、と。であれば、相川さんが死にかけた理由はなんなのか、と。
情報が少ない。そう、情報が少ないのだ。情報が少ないから、このようなマイナス思考をしてしまうのだ。わたしに必要なのは情報であって、考える時間ではないのだ。であれば情報はあとどこにあるのか。バックアップしたデータのうち、活用できるのは人工知能のみ。しかしあの世界の真実を知っている唯一の人工知能である相川さんとはもう何も話せそうにない。ではあとはどこに?
「……兄さん」
静かな部屋に、わたしの声が響いた。情けない声だった。
わたしは兄さんの部屋へ行った。その部屋は、兄さんが普通に生活していたときから時間が止まったようだった。掃除などは最低限に留め、物は動かさないように気を付けていたのだから、当然だ。
机の上では、兄さんが数年前から愛用している高級キーボードがずっしりと構えていた。兄さんはこれを使って、学生時代からずっと、文字を書いて生活していた。もうこのキーボードが打鍵されることはないのだろうか。涙が零れてきそうになり、わたしは上を向く。
「九万文字……」
ふとそのようなフレーズが口をついて出てきた。何に由来するものなのかわからなかったが、しばらくしたあと思い出した。
「僕は今回の出来事を文章にまとめているのですが、それは現時点ですでに、あの物語を合わせて九万文字に達しています」
兄さんはこの出来事について文章にまとめていた。そしてそこには、相川さんが書いた二つの小説もある。わたしは時間がなかったため、その二つの小説を読めていなかった。読んだなら、何かがわかるかもしれない。
わたしはキーボードから伸びる線をたどって、パソコンを見つけた。きっとこの中に、相川さんが書いた二つの小説が、兄さんが書いた事の顛末が、あるはずだ。
わたしは、兄さんのパソコンをクラッキングすることにした。
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