第2話
遺書へ。
わたしは遺書の書き方を知らない。けれどこんなふうな呼び掛けるような書き出しが不適切なことくらいはわかった。しかしそうはいっても、どういう書き出しならいいかわからない。どう書き直せばいいかわからない。わたしには何もわからなかった。わたしには何も成し遂げられそうになかった。
いつものようにわたしは、有り余る暇を「仮想世界のウィンドウショッピング」で潰していた。たくさんある仮想世界を見て回るだけの、なんの役にも立たないような、けれどなんの毒にもならないような暇潰し。
あるときわたしがいたワールドは春らしい暖かな陽気だった。現実世界では冬真っ只中だが、そんなことはこの世界とは関係ないのだった。さんさんと照る日の光はわたしの仮想的な体をじんわりと温め、それを、どこからかそよそよと吹いてくる風が適度に冷ます。その後にまた、日の光がぽかぽかと温めてくる。多くの人にとって心地良く感じるように作られたのだろうその感覚は、いまの私にとっては苦しいものだった。どうしようもなくやさしい光と風は、私の心を深く沈めた。私は別のワールドへ移動することにした。
図書館なワールドへとやって来た。空調の音やページをめくる音などの環境音が適切な音量で再生されるだけの無人の図書館だ。他の接続者とも交流はできないようになっているため、正真正銘、独りぼっち。ただそれらしい音がするだけの空間。ここの空気はわたしに合っていた。独りだがそうとは感じないようになっているここは、他の人がいるように感じられつつも独りなここは、自分自身を見つめ直すのにもってこいな場所だった。
わたしは、一連の出来事を振り返ってまとめることにした。それは忘れてしまわないためという備忘録的な側面もあったが、わたしが救われた気になるためでもあった。振り返って、わたしたちは何も間違っていないということを確認して、兄さんが目覚めないことを嘆く。わたしたちがしたクラッキングという犯罪行為を棚に上げて。愚かなことだ。けれどそうでもしないと辛かった。そうしてわたしは、遺書の続きを書き始めたのだ。
決行日は、月曜日の十二月二十二日だった。兄さんに仮眠から叩き起こしてもらったわたしは、カーテンの隙間から漏れてくる日の光に新鮮味を覚えつつ、椅子に座ってディスプレイを凝視し、「挿すだけバックドア」からの信号を待っていた。わたしがつい先程まで寝ていたベッドでは兄さんが、すぐにでも仮想現実へ接続できるようVRヘルメットを装着して仰向けになっていた。お互い、余計な口は開かない。この期に及んで確認なんてこともしない。わたしたちは信頼し合っていた。
部屋の中は静かで、わたしのデスクトップパソコンが出すファンの音と、わたしたちの呼吸の音くらいしかしなかった。横目でちらりと兄さんを確認すると、目を閉じた穏やかな顔付きをしていた。覚悟のようなものは、もうとっくにしてあるのだろう。わたしはどうだろう。わたしに、兄さんほどの覚悟はあるだろうか。
……そんなものはなかった。わたしは、アイカワとかいう人工知能がどれほど高度なのか知らない。兄さんたちが「彼女」と呼ぶくらいなのだから相当なのだろうという憶測しかなかった。「時間がないから」という理由で兄さんから説明はされなかったし、実際、時間はなかった。一段落してくれたら、兄さんから説明があるだろう。それでよかった。わたしは兄さんを信頼している。兄さんが覚悟したほどのことなのだ。わたしはそれに追従するだけだ。
しばらく待っていたら、信号を監視していたプログラムがけたたましく通知音を鳴らした。わたしはそれに顔をしかめながら、兄さんへ声をかける。
「……来た。兄さんはハブワールドに接続しておいて」
「了解。それじゃあよろしく」
兄さんは簡潔に返すとVRヘルメットを操作し、しばらくしたあと意識を失った。きっといまごろ、わたしがあらかじめ用意しておいたハブワールドで待機してくれていることだろう。
そしてわたしは、「挿すだけバックドア」を経由してサイバーダンスのシステムに侵入し、シミュレータと人工知能の解析を始めた。解析といっても、その詳細な仕組みを知る必要はない。ただ起動さえできればいいのだから。ただ使い方さえ知れればいいのだから。そしてその程度であれば、造作もなかった。すぐに必要な情報は集まってくれた。
次にわたしは、システムに関わるすべての、シミュレータを起動しても書き換わらない静的なデータのバックアップを取り始めた。シミュレータと人工知能を起動したら確実に、サイバーダンスにわたしという侵入者の存在が気付かれる。シミュレータを起動する前の段階でできることはやっておこうという考えだ。
そしてそれが終わった頃、シミュレータと人工知能を起動した。もちろん、世界の切り替わりは無効化して。シミュレーション速度は等倍に戻して。そして仮想世界へ、放課後の教室へ、兄さんを送り込んだ。
ここからは時間との戦いだった。けれどそれにわたしは参戦していない。観戦者であるわたしにできることは、兄さんがうまくやることを祈ること、そして、兄さんからの出力——小説への追記を監視することくらいだった。
真っ黒なターミナルウィンドウの右上に表示してある簡素なデジタル時計を睨む。シミュレータの起動から十数分が経過したことを示すそれは、わたしの心をざわつかせた。……時間がかかり過ぎているのではないか。けれどその不安はすぐに消え、別の感情が湧き出ることとなった。
けたたましいブザーに、わたしは意識を、小説を監視していたコマンドの実行結果へと向ける。鳴ったのは通知音ではなくブザー。それはコマンドの終了ステータスがゼロ以外であること、つまりコマンドの実行が失敗に終わったことを表していた。
「『... has become inaccesible: No such file or directory』……。なくなったってこと?」
英語で表示されたエラーメッセージは、先程まで確かにあった監視対象の小説、「あなたと紡ぐ物語」がなくなったことを示していた。予想していなかったことだった。香坂さんから聞いていた情報では、シミュレータは、アイカワという人工知能が作成した小説形式のオブジェクトを監視していて、仮想世界内のそのオブジェクトが変更された際には即座にエクスポートされるとのことだった。つまり仮想世界内の小説は、現実世界のコンピュータ上のひとつのファイルとして参照可能になっているのだった。けれどつい先程、そのファイルが消えた。この挙動は素直に考えるなら、仮想世界内のその小説が失われたということを意味している。けれどそんなことはあり得るのだろうか。仮想世界内で、小説に何かが起きたのだろうか。
通知音がけたたましく鳴った。わたしはこの不可解な挙動について考えるのを一旦やめ、別のペインで実行していたコマンドの出力を見る。仮想世界に存在するもうひとつのアイカワによる小説、「君に恋する夏の海」を監視していたコマンドだ。
<バックアップを取れ>
そのように出力されていた。それは兄さんからわたしへの合図だった。わたしは気を引き締めて、操作を再開する。
まず、兄さんと仮想世界を繋ぐハブワールドを操作し、仮想世界から兄さんを切断。これによって、兄さんはハブワールドへ帰還したことだろう。そして兄さんはじきに、ハブワールドからログアウトして現実世界へと戻ってくるはずだ。
次に、シミュレータと人工知能を終了。これに関してはただ終了シグナルを送るだけなのでなんてことはない。念の為、プロセス一覧でそれらが正常に終了したことを確認する。
そして、シミュレータのデータベースと人工知能のデータベースのバックアップを取り始める。これもまた時間との戦いだったが、今度もわたしにできることは祈ることくらいだった。
すべての処理が正常に終了した。わたしは必要なデータすべてのバックアップを取り切ったのだった。わたしは「挿すだけバックドア」に、自害するようコマンドを送信した。「bye」という返事が届き、しばらくしたあと接続が切れた。そう返事をするようにあらかじめわたしが作ったとはいえ、少し心の痛むものだった。
わたしは一息つくと、ベッドの方に視線を向ける。そこには、目を閉じた穏やかな顔付きをした兄さんがいた。
「……終わったよ、兄さん。これでよかったんでしょ?」
「……」
返事はなかった。不審に思ったわたしは椅子から立ち上がり、兄さんの元へ近付く。すると、かすかに物音がしているのに気付いた。何かが振動するバイブレーションの音だった。
兄さんの左手首に巻かれたスマートバンド。そのディスプレイは赤く光っていて、不整脈であるとのメッセージが表示されていた。
幸い、兄さんの脈はすぐに正常な状態に戻ってくれたようで、メッセージは消え、バイブレーションも止まった。けれど兄さんは一向に目覚めなかった。だからわたしは救急を呼んで……。そのあとのことはよく覚えていない。気が付いたら一ヶ月ほどが経過していて、それでも兄さんは目覚めずに病院にいて、わたしは独りでの暮らしに慣れつつあった。
兄さんを目覚めさせるために、わたしはどうすればいいのだろう。わからない。なぜなら目覚めない原因がわからないからだ。であればわたしがすべきなのは、その目覚めない原因を解明することだ。
なぜ兄さんは目覚めないのだろう。いつ、何が、兄さんの身に起きたのだろう。「君に恋する夏の海」への追記は兄さんによるものなはずで、であればその瞬間までは兄さんは無事だったはずだ。その後の、仮想世界から切断するまでの一瞬に何かが起きたのだろうか。それとも、自作ハブワールドによる仮想世界からの切断が何かよくない作用を及ぼしたのだろうか。わたしには、普通ではないあのリアルな仮想世界が、何かしらの悪さをしたように思えるのだった。
そして、二つの小説のうちの一つ、「あなたと紡ぐ物語」はなぜ消えたのだろうか。現実世界のコンピュータ上から失われたということはつまり、仮想世界においても失われるなどして、小説がシミュレータから小説と見なされなくなったということだと考えられた。小説が小説と見なされなくなるようなことが、「あなたと紡ぐ物語」に起きたのだ。それはなんなのか。
考えるには情報が圧倒的に不足していた。「時間がないから」とあの世界に関する説明をほとんど聞けなかったことが悔やまれた。兄さんは何を知っていたのだろうか。香坂さんは何を知っていたのだろうか。アイカワはどんな小説を書いたのだろうか。それらの情報の中に、真相が、解決の糸口が見つけられるように思えた。
そして、わたしはデータなら持っているのだった。そう、あの仮想世界とそこで暮らしていた人々はいま、わたしの手中に、バックアップという形で存在するのだった。これを解析すれば何かがわかるかもしれない。
兄さんを失い心の折れたわたしは、一ヶ月もの時間を無駄にしてしまった。もう、一秒たりとも無駄にするものか。今日の遺書はここまで。バックアップデータの解析を始めることにする。
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