第4話

 遺書へ。


 兄さんのパソコンへのクラッキングは成功した。パソコンへの物理的なアクセスができるのだ。OSのインストールメディアのようなポータブルな環境からパソコンをブートし、その環境からパソコンのストレージをマウントすれば、中のデータにアクセスすることができる。事前に兄さんのパソコンのストレージ構成をある程度知っていたというのもあって、難無く終えることができた。九万文字に及ぶ事の顛末を、わたしは手に入れた。

 そしてわたしは読んだ。いまとなってはもう、時間ならあった。

 そしてわたしは知った。仮想世界内で何が起きたのかを。相川さんがどれだけつらく苦しい思いをしたのかを。兄さんと香坂さんの覚悟がどれだけのものだったのかを。そして、あの世界に世界の真実を知っている人工知能がもう一人いることを——。



「成瀬奈留さん、で合ってる?」

 目の前で大理石の床に目を落とす少女に、わたしは声をかけた。肩の高さまである白い髪よりも蒼白な少女の顔は、見ているだけでつらく、申し訳なくなった。少女はゆっくりとこちらに、不安に揺らめく碧眼を向ける。

「……ここは?」

 消え入りそうな声で少女は尋ねてきた。

「ここは、仮想世界。あなたがいままで生きていた世界とはまた別の世界」

 わたしは少女に、簡潔な、けれど目の前のこの少女がわたしの想定する成瀬奈留なのであれば必要十分な説明をする。

「カソーセカイ、ね。はは」

 力なく笑った少女は、青空を仰いだ。


 相川さんの書き残した備忘録には、三つの切り替わる世界の様子が、相川さんが世界の真実へと近づいていく様子が、詳細にまとめられていた。世界の真実——世界が三つあること、それらが機械的に切り替わること、相川藍海と彼女の書いた小説が特別な存在であること。わたしは世界の真実を知っている人工知能は相川さんただ一人だと思っていたが、どうやらそれは違っていたようだった。成瀬奈留——ある世界において相川さんのよき理解者として、世界の真実に、相川さんの次に近づいた人工知能。

 相川さんの書き残した備忘録は、「成瀬さんの誤解を解くためにその成瀬さんがいる世界へ向かう」という中途半端なタイミングで終わりを迎えていた。書かれていない部分で何が起きたのかはわからない。けれどもある程度は推測できる。「世界の切り替わりを防ぐことができないのであれば開き直ってしまえばいい」という、理解者である成瀬さんの言葉。「シミュレータの緊急停止は高頻度で発生した世界の切り替わりによるものだ」という香坂さんの話。その二つから、相川さんは誤解した成瀬さんに対し、口頭で世界の真実を伝えようとしたのだと考えられた。世界が切り替わってしまうことを無視して。そういう意味で、これは「開き直り」なのだった。つまり、サイバーダンスへクラッキングをしかけたあの日わたしが起動した仮想世界において、相川さんのすぐそばには成瀬さんがいたはずだ。相川さんは成瀬さんの誤解を解くために、放課後の教室で話をしていたはずなのだ。さらに言うとそこには、相川さんの書いた二つの小説がある。死にかけたという相川さん。消えた「あなたと紡ぐ物語」。「君に恋する夏の海」とそれに追記した兄さん。その場には、すべてがあったのだった。その場に居合わせた「誤解していた成瀬さん」なら何かを知っているかもしれなかった。だからわたしはその「誤解していた成瀬さん」を起動し、この仮想世界へと呼び出したのだった。


「目の前で書き変わる小説といい、突然目の前に現れた相川とそっくりな人といい、目の前で殺された相川といい……はは。お次は仮想世界と他人の体か。信じられないけど、信じるも何もないな、もう」

 青空を仰いだ成瀬さんは、震える声でつぶやいた。どうやらやはり、成瀬さんは何かを知っているようだった。しかし「殺された」とはどういうことだろうか。まさか——いや、まだわからないことで落ち着きを失ってはいけない。わたしは気を引き締める。

「大丈夫?」

 わたしが心配して声をかけると、成瀬さんは肩をすくめて答える。

「大丈夫。もう、そういうものとして受け止めるしかないんだろうからね。私は人工知能、なんでしょ?」

 そしてわたしの目をまっすぐに見て、こう聞いてきた。

「……それより、君は誰? なんのために私はここにいるの?」

「わたしは……」

 まっすぐに向けられた視線を前に、わたしは、どう答えればいいかわからなくなってしまった。きっと正直に「楠木美雨だ」と答えたら、相川さんのときと同じように、成瀬さんもまた何も教えてくれなくなるだろうと思われた。しかしわたしには、このような場面においても平然と嘘をつけるほどの胆力はなかった。もうこれ以上、人工知能たちを相手に罪を重ねることはしたくなかったのだ。

 一瞬でも言葉に詰まってしまったのが悪かったのだろう。成瀬さんは首を横に振った。

「あぁ、なるほどね。もういいよ、わかったから。……答えにくいということは、何か後ろめたいことがあるということだ。お前はあの楠木ナユタの仲間だね」

 そして成瀬さんは、恐怖と敵意と憎悪が入り混じったかのような目でこちらを睨んで言った。

「相川を殺して、私にはなんの用だい?」

 目の前が真っ暗になった。わたしの現実の体はベッドに横になっているから、この感覚は貧血のそれではないはずだ。脳への血液なら足りているはずだ。だというのにわたしは、確かな気持ち悪さに頭を抱える。

「あぁ、ウソでしょ……」

 そんなわたしに成瀬さんは冷たく言い放つ。

「わざわざ別の世界まで用意して、私だけを呼び出して。ロクでもないことなのははっきりしてるね。……ほら、なんとか言いなよ。いまの私は、どんなことでも聞くからさ」

 発作的な体調不良を感じ取ったのだろう、VRヘルメットのセーフティが作動して頭の中で警告音がした。不快だった。



 VRヘルメットのセーフティによって強制的に現実世界へと帰還したあと、わたしはパソコンを操作し、成瀬さんと仮想世界を停止した。合わせる顔なんてものはなかった。むしろあのタイミングで強制的に切断されてよかったかもしれない、なんてことを思ったわたしはきっと醜いことだろう。


 しばらくの間ベッドで天井を眺めていたら、だいぶ落ち着いた。……いや、この状態は落ち着いている状態とは少し違うかもしれない。体はぴくりとも動かず、心もまたぴくりとも動かない。自分の体が、自分の心が、自分のものだと思えなくなっていた。

 相川さんと兄さんとの間に起きた何かとは、兄さんによる相川さんの殺害だった。なるほどそういうことだったのか、とわたしは数歩下がった場所で俯く。兄さんが、相川さんを殺そうとした。だから相川さんは、兄さんの仲間であると名乗ったわたしにあんな目をした。だから成瀬さんは、わたしが兄さんの仲間であると勘付いたときあんなことを言った。ある程度理にかなっていた。しかしわからないこともあった。

 なぜ兄さんは相川さんを殺そうとしたのだろうか。何が兄さんに、相川さんへの殺意を湧かせたのだろうか。相川さんの書いた二つの小説を読んだ兄さんは、香坂さんから事態を聞き、人工知能のためを思って行動することを決意した。あの日起動した仮想世界の中で、兄さんの考えを全く逆の方向へ転換させるだけの何かが起きたのだろうか。……いや、逆の方向というわけでもない。助けることの逆は助けないことであり、直接兄さんが自身の手で殺すことではない。いずれ相川さんは死ぬ運命にあった。兄さんがわざわざそれをする必要はないはずだ。

 それに、兄さんによる相川さん殺害の手段もわからない。あの日、わたしによって仮想世界に接続された兄さんは、相川さんたちの目の前へ、相川さんと同じ状態、つまり同じ姿と同じ所持品で、出現するようになっていたはずだ。もともと凶器の類いは持っていないはずだから、探すしかないだろうが、それはシチュエーション的におそらく不可能なことだ。何を使って殺そうとしたのだろうか。逆に何なら、殺そうとし、そして殺し損ねることができるのだろうか。

 そしてなぜ兄さんは「君に恋する夏の海」へバックアップを取るようにとの指示を追記したのだろうか。殺そうとしたという事実がバックアップとして残されてしまうのは、兄さんにとって不都合であるはずだ。実際にこうして残ったいま、兄さんは信用を失っている。相川さんを殺そうとしている、もしくは殺そうとした兄さんは、なぜか、わざわざバックアップを取るように指示したのだ。不可解なことだった。

 なぜ「あなたと紡ぐ物語」に対応したコンピュータ上のファイルは消えたのだろうか。仮想世界内の「あなたと紡ぐ物語」——ルーズリーフの束に何かが起きたのだろうか。兄さんが相川さんを殺そうとしたことで、そのルーズリーフの束に何が起きたというのだろうか。

 そして、なぜ兄さんは目覚めないのだろうか。



 ベッドの上で天井を眺めながら一通り考えた私は、VRヘルメットをかぶり、例の図書館なワールドへやって来た。遺書という名の備忘録の続きを、これを書くためだ。そしてここまで書いた……のだが書いている途中、VRSNSにてある人物からダイレクトメッセージが届いていたことについ先程気が付いた。

<香坂だ。いままで連絡をよこしていなくてすまなかった。キミと話がしたいのだが、どこかで会えないだろうか>

 それに私は返信する。

<それじゃあ明日の08:30に、ネオントロンにて落ち合おう。プライベートワールドはこっちで用意するから>


 今日の遺書はここまで。明日は香坂さんと会う。なにか新しい情報が手に入ってくれると助かるのだが。

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