第3話

 同日深夜。いや、もう日付が変わり日曜日となったから翌日未明というべきだろうか。視界の左上に表示されたデジタル時計は、待ち合わせの時刻からすでに五分が経過していることを示していた。

 ビルの柱に背中を預けた僕はため息をついて天を仰ぐ。満天の星空には二つの満月が浮かび、それを切り裂くように建った超高層ビルの壁面ではテトリスがプレイされていた。その様子は、ここが現実世界ではないことを端的に表していた。

「DT砲からの4列RENか。相手はなかなかの手練れだな。情け容赦なく私を殺しに来ている。……楠木さん、よければ対戦相手を見つけてはもらえないかい? そしてよければ、妨害を頼みたい」

「流石に香坂さんからの頼みであったとしても嫌ですよ。そういうことは、プレイしながら本人がするものです。ルールブックにもそう書かれています」

 僕は視線を、隣ではしゃぐ背の低い女の子へと向ける。その女の子の白銀の長髪と真っ赤な瞳は、頭から生えた兎の耳とよく合っていた。

「あぁやられたっ!」

 女の子は泣き顔を作って、手元のコントローラーを放る。投げ捨てられたコントローラーは目の前の道を行き交う人たちをすり抜けてきれいな放物線を描いて地面にぶつかり、そして音もなく粉々に砕けて輝きながら消えた。

「それもこれも、キミが私の言った通りに相手プレーヤーの妨害をしてくれなかったせいだ。どうしてくれるというのだね?」

 そして女の子はジト目を作り、こちらを睨む。

「香坂さん、落ち着いて。たしかにお待たせしてしまっているのはこちらですが、流石にその命令は聞けませんよ」

 まさか僕も予想していなかった。仮想現実内の香坂さんのアバターが、こんなにも小さくてかわいらしいものだとは——。



「紹介したい人がいます」

「その人とはどうすれば会える?」

 目の前の香坂さんは間髪入れずに返してきた。僕は驚いてしまう。

「……いきなり待ち合わせについて聞きますか」

「あぁ。キミが紹介する人であればどんな人とでも会おう。私は今日明日は時間がある。キミからよい返事が貰えたときのために大事な予定は入れないでおいたのだ」

 しかし香坂さんは至って真面目な顔と声音でそう言う。彼は人工知能たちを救うことに本気だった。彼の本気に応えるために、僕は気を引き締めた。

「そうですか、それはありがたいです。となると……その人の生活リズムを考えると、今夜遅くに、というのがよいかと。日付が変わる頃に」

 僕の提案を受けて香坂さんは口のひげを撫でて考える様子を見せる。

「ふぅむ、真夜中か。たしかに時間ならあるが、真夜中ともなると会い方が問題になる」

「それでしたらご安心ください。会うのは仮想世界で、にしましょう」

 香坂さんのもっともな指摘に僕は提案する。仮想世界でなら現実世界の地理的な制約は問題にならない。それに、もともと「あいつ」は仮想世界でしか人と会いたがらないという事情もあった。

「それで問題ないとキミが判断したのなら構わない。しかし話す内容によってはパブリックワールドでは少々危険だ。どこかで手頃なプライベートワールドを借りることになるだろう」

 しかし仮想世界であればどこでもいいというわけでもない。当然だが、VRゲームのワールドのような不特定多数の目のある場所で機密情報を扱うわけにはいかないのだ。そういった目のないプライベートワールドを、どこかと契約するなどして用意する必要があった。

「大丈夫です。プライベートワールドならこちらが建てますので」

「ほぅ、ワールドをわざわざ構築してくれるのか? たしかにその方がなにかとありがたいが」

「はい、いろいろありまして……」

 僕は香坂さんに愛想笑いを浮かべてみせる。僕はいろいろあって、プライベートワールドを自前で用意することには長けているのだ。

「待ち合わせはパブリックハブワールドで、にしましょう。具体的にはどこにします?」

「であればネオントロンで頼む。大型アプデが入ってから行ったことがなかったのだ」

 そのようにして、僕たちはまた真夜中に会うことにしたのだった。



 ネオントロン。電飾で彩られた未来都市。太陽のないこの世界の空に浮かぶのは、二つの満月のように見える巨大な電球だった。片方は青い光を、もう片方は赤い光を放っている。それはまるで空からこちらを見る目のようにも見えて、僕は身震いした。元々ネオントロンの体感温度は低めに設定されているが、それだけでは説明がつかないほどには寒気がした。

 ネオントロンは、パブリックハブワールドとしては超が付くほどの大御所といえる。クライアントとワールドの中継をするプロキシのような役割を担うハブワールド。それに必要なのは必要十分なほどの収容人数とそれを実現するためのマシンスペックだけで、それ以外の要素は大して重要ではない……というのが、ネオントロン登場前の世論だった。多くの接続者の接続を素早く切り替えること。時間がかかるようなら適切なトランジションを提供すること。それらがハブワールドに求められる要素で、それらだけしか求められていなかったのだ。しかしネオントロンはそんな世間に一石を投じた。ハブワールドを、待ち合わせや雑談のような緩い用途にも使えるようにしたのだ。以来、「どこへでも行ける」というメリットを存分に活かし、ネオントロンは待ち合わせ場所として進化を遂げ、いまでは暇潰しのためのミニゲーム大会なんていうようなものも用意されていた。


 隣から、ぶつくさとつぶやく声が聞こえた。

「まったく。もう少しで全消しできるというタイミングでお邪魔が出現するとは、ツイてない」

 見れば、兎な女の子が地面の石ころを蹴飛ばしている。耳はしょんぼりと垂れていた。もしかすると香坂さんは、仮想世界では人格が変わるタイプの人なのかもしれない。見た目も声も変わるのだからわからなくもないが、落ち着かなかった。

「それで」

 女の子……いや、香坂さんは口を開く。

「その人はまだ来ないのか?」

「すみません。先程から連絡しているのですが、既読が付くだけで返信もなくて」

 僕はこちらを見下すように見上げる香坂さんに頭を下げる。僕のアバターは長身なため、頭を下げてもその頭は、香坂さんのアバターの頭よりも高い位置にあるのだった。

「……仕方ない。ここでは事前に話を聞くこともできない。もう少し暇を潰すとするよ」

 やれやれというジェスチャーをしながら、香坂さんは言う。申し訳なくなった僕は意味もなく、目の前の空間を掴むように手を動かして先程まで開いていたVRSNSのウィンドウを呼び出した。「その人」のアイコンの左下に表示されたインジケーターの黄色は、アクティブユーザーではあるがいまはオンラインではないことを示していた。

「……あ、噂をすれば来ましたよ!」

 すると目の前で、その黄色が緑色へと変わった。僕は辺りを見回して、道行く人の中から見慣れた姿を探す。


 しばらくした頃、白い布切れをまとった長い金髪の女の子がきょろきょろとしながら歩いているのを見つけ、僕は手を上げる。僕を見つけたその女の子はぺたぺたと裸足で、こちらへ駆け寄る。その頭の上には天使のような輪っかがあった。

「おはよ兄さん。で、依頼って何? その子は? というかこの格好めちゃくちゃ寒いから早く移動しよ?」

「おはよう美雨。依頼についてはあとで話す。今回のはこの人と僕が依頼主だ。じゃあ移動しようか」

「話が早くて助かる」

 いくつかの質問を一度にぶつけてきた女の子に対し、僕は質問のすべてに簡潔に答えた。女の子は満足そうに頷く。

 僕は目の前の空間を下から上にスワイプして、コマンドプロンプトを呼び出した。そしていくつかの操作をし、目の前にプライベートワールドへ通じる木製の扉を出現させる。

「なんだかついていけていないのだが、こちらの方が私に会わせたいという話の?」

 僕とやって来た女の子の様子を一歩後ろへ下がったところから見ていた香坂さんは、困り顔で僕を見上げる。

「そうです。僕の妹でもあります。とりあえず続きはプライベートワールドで」

 僕は目の前の扉を開け、入るように促す。やって来た女の子……僕の妹の美雨はさっさと扉を通って消えた。

「まだよくわからないが了解した」

 そして香坂さんも扉を通り消え、僕もそれに続いた。


 扉の向こうには、ホテルの部屋のようなお洒落な空間が広がっていた。三人くらいが同時に寝そべることができるのではないかと思われるほどに大きなベッドの真ん中では、妹が大の字になっている。それを微妙な表情で見る香坂さん。僕は一つ咳払いをして、場の雰囲気を引き締めようとする。

「香坂さん。こちらが僕の妹で、香坂さんに会わせたかった人、美雨です」

「なるほど、美雨さんか。たしかに、信頼できる仲間は一人でも多いほうが何かとよいだろうな」

 香坂さんは納得したようで、腕を組んで頷く。しかしそれは誤解だった。

「あぁいえ、違うんです。美雨は単なる仲間として呼んだのではありません。美雨はこう見えて情報分野に明るくてですね——」

「どう見えて?」

 美雨は大の字になったまま、文句をつける。

「寝そべっていてもいいから少し静かにしていてくれ。——技術分野に明るくて、僕や香坂さんにはできないようなことができます。実行役、と言えばいいでしょうか」

 僕は美雨の文句を適当にあしらいつつ香坂さんへ説明する。「実行役」という言葉を聞いた瞬間、香坂さんの目付きが険しくなったような気がした。香坂さんは言う。

「実行役、か。なんだか雲行きが怪しくなってきたように感じるのだが。単刀直入に聞くが、彼女には何ができて、なんのために呼んだのだね?」

「美雨にできることはいろいろです。オンライン上での素行調査や浮気調査、プログラミングやクラッキングなんかも」

「なるほど。……なるほど?」

 僕は香坂さんへ美雨を呼んだ理由をやんわりと伝えようとしたが、香坂さんは首を傾げる。それだけ、僕が美雨とやろうとしていることは、香坂さんにとっては想像できないようなことなのだろう。

 すると美雨が、ベッドでコロコロと転がりながら、

「兄さん、もうハッキリ言えば? その人、兄さんが毎週末会ってる、つい昨日も会ったサイバーダンスの技術部門の人でしょ? サイバーダンス関連で何かが起きたってことでしょ? そうでありながらその超個人的なアバターで来るってことは御忍びってワケだ。……内部告発でも受けたの?」

 と言う。

「なるほど、VR探偵とでも言えばいいかな?」

 香坂さんは何に納得したのか、微笑みながら口元に手をやる。その動作は、現実世界の香坂さんらしかった。

 僕は転がり続ける美雨に、少し低くした声で言う。

「美雨。今回の依頼は少し特殊だから心して聞いて欲しい」

「わたしがやらないといけないことだけ言って」

 美雨は面倒そうに返すが、僕はそれに安心する。美雨はいつもこうなのだ。そしていつも、こうは言いつつも最後まで仕事をやり遂げてくれるのだ。

「サイバーダンスは研究所内に一種の仮想世界を構築して実験を行っている。その世界に僕が接続できるようにしてほしい。そしてその後、必要に応じて研究所からデータを持って来てほしい」

 僕が美雨へできる限り簡潔に依頼内容を告げると、香坂さんは驚いた顔とピンと立った耳をこちらに向けてくる。

「待ちたまえ楠木くん!? それはサイバーダンスへクラッキングをするということか!?」

 そんな香坂さんへ、僕は真面目な顔をして提案する。

「えぇ。僕たちがやれることは二つ。彼女たちが削除されないようにすることと、彼女たちが削除されても大丈夫なようにすることです。そして前者は、恐ろしく可能性が低い。であればひとまず後者を実行するべきです。……彼女たちのバックアップを取りましょう」

「いやしかし……」

 僕の提案を受け、香坂さんは困惑したようだった。やり取りを聞いていた美雨は、困惑する香坂さんを無視して僕にいくつかの質問を投げる。

「彼女たちってどちらさま?」

「目的のデータだ。サイバーダンスは仮想世界で、ある種のNPCを動かしている。そのNPCの記憶データを持って来てほしい」

「兄さんをその仮想世界に接続するっていう話はどういう?」

「NPCにバックアップを取ってよいかどうかを聞かなければならない」

「……イヤな予感がするんだけどー、そのNPCってナニモノ?」

「高度な人工知能だ。事前に許可を取っておかなければ人権問題に発展するのではないかというほどに高度な」

 美雨は転がるのをやめると上体を起こして、僕の目を真っ直ぐに見る。

「サイバーダンスはイヤなものを作り上げたみたいだね。そしてサイバーダンスはその人工知能を削除しようとしてる、と? それこそ人権問題だね。そういう内部告発?」

「あぁ」

 僕は美雨の青い目に真剣な眼差しを向ける。美雨はしばし目を閉じて考えると、目を開けて香坂さんの方を向く。

「香坂さんって言ったっけ? 仮想世界と人工知能の詳しい技術仕様について聞かせてもらえないかな?」

 どうやら美雨はやる気になってくれたようだった。しかし香坂さんは頭とそこに生えた耳を抱えて言う。

「待ってくれ二人とも。サイバーダンスへのクラッキングは考え直してくれないか? 第一、そのシステムはスタンドアローンで……」

「香坂さんにバックドアを設置してもらえばいい。なんなら、USBメモリタイプの『挿すだけバックドア』、あげようか?」

 美雨はなんてことはないような風に返した。

「いや待ってくれ。どうしてキミはそんなにも順応性が高いのだ……」

「わたし、話が長いのは嫌いだから。その高度な人工知能がどれだけ高度かとかは正直どうでもよくて。依頼されたらやる。特に今回は兄さんからのものだし、やる。だから必要なことだけ言って」

「しかしこの件に関しては、順を追って説明しなければ……」

 香坂さんは助けを求めるような目でこちらを見てきたが、僕は厳しめの口調で言う。

「香坂さん、時間がないのでしょう? 説明ならあとで僕の方からしておきます。僕は今回の出来事を文章にまとめているのですが、それは現時点ですでに、あの物語を合わせて九万文字に達しています。それをいまから説明するのでは、時間がかかり過ぎてしまいます」

 僕は仮想世界へ接続する前に自室のデスクトップパソコンで書いていた「物語」を思い出しながら答える。僕もまた、相川藍海がしたように、成瀬奈留がしたように、この出来事を、僕が感じ考えたことを、物語としてまとめ始めていた。……そう、いままさに君が読んでいるこれのことだ、なんてね。

「そうなのか。その言い分はたしかにそうかもしれないがしかし……わかった。だがサイバーダンスへのクラッキングに関してはもう少し慎重になってくれないか? こちらがクラッカーという悪者になる形でサイバーダンスと真っ向から敵対するのは危険すぎる」

 香坂さんは唸りつつも、説明を省くことを了承した。しかしそれでも、クラッキングに関しては快く思わないようだった。僕はそんな香坂さんへほんの少し声を荒らげて言う。

「ではどうします? クラッキングをしてはいけないとなると、『彼女たち』というデータを手に入れるのはまず不可能でしょう。つまり彼女たちの保護も、決定的な証拠を得ることもできないということです。香坂さんがくれたデータに目を通しましたが、あれだけではサイバーダンスを徹底的に追い詰めることはできないでしょう。そして、徹底的な追い詰めでなければ、サイバーダンスは彼女たちを削除することでしょう」

 僕にとっては、香坂さんは甘すぎた。しかし僕の主張を受けてもなお、香坂さんは納得しなかった。

「しかし彼女たちを救うためにはまず、我々が無事でいる必要がある。……美雨さん。キミも危険な目に遭うのは嫌だろう?」

「慣れてるから問題ないね」

 美雨はなんてことはないような風に返した。美雨はこういうやつなのだった。

「しかしだね……」

 粘る香坂さんに僕は、「とりあえず」と前置きして言う。

「仮想世界と人工知能について詳しく聞かせてもらってから考えることにしましょう。それらの情報は、どういった行動を起こすにしても大事になってくるでしょう?」

「……了解した」

 香坂さんは渋々といった顔と覇気のない耳で頷いた。


 香坂さんは再びベッドで大の字になった美雨へ、システムの概要を伝える。話しづらそうにしていたが、それに関しては我慢していただくほかなかった。美雨はときどきその話に質問を挟み、香坂さんからの返答を受けて、悪態をついたり唸ったりした。

 そして話が終わった。美雨は大きく息を吸うと、

「わたしならまず、その人工知能のデータを消すね!」

 と叫んだ。

「そうかぁ……」

 と香坂さんは唸る。

「むしろ、未だに証拠隠滅を図らずに停止した状態で保持しているのが驚きなくらいだよ」

「それは私ができる限り遅らせようとしていたのもあるだろう。緊急停止し、その原因を探った水曜日。出力された小説を読んで考察した木曜日。そして彼女たちを削除しないよう上へ掛け合った金曜日。できる限り仕事の効率を落として、その間にいくつかの機関へ内部告発をしようとしたのだ。まぁ、楠木さんにしか相手にしてもらえなかったのだがね。それが土曜日の出来事だ」

 僕はそれを聞き、心の中で感謝した。その地味だが大事な工作がなければ、きっと今頃、打てる手はなかっただろう。

 美雨はベッドの上で転がり始める。

「消されたら困るデータを持っている相手。相手はそのデータを消そうとしている。……わたしなら何も考えずにそのデータを拝借するね。香坂さんは何が気に食わないわけ?」

「危険すぎる。……また、それ以外にも問題がある。我々のミスで、同一人物が三人いるような状況を作り出してしまったわけだが、それが六人になるというのは好ましくない」

「サイバーダンスはきっと、すぐにデータを消す。すぐに三人に戻ることになるけど?」

「一時的にとはいえ、だ。彼女らはどう思うだろうか……」

 天を仰ぐ香坂さん。僕はその話に口を挟む。

「それを聞きに行きたいというのが、美雨へのもう一つの依頼だ。僕をその仮想世界に接続させることは可能か?」

「技術的には可能。その超リアルな仮想世界にも互換性はあるんでしょ、香坂さん?」

「互換性はあるにはある。しかしその世界には、デバッグ用のアバターしか用意されていない。簡単に接続できるようなものではないのだぞ?」

 それを受けて僕と美雨は喜ぶ。

「デバッグ用のアバターはあるんですね!?」

「それ使おうよ!」

「……そのアバターの見た目はどれも、相川藍海と同一なのだ」

 僕と美雨の喜びはすぐに萎んだ。

「……なるほど」

「まじか」

「だからデバッグ用と言っただろう? 目の前に、自身とまったく同じ見た目をした他人が現れたらどう思うだろうか? あぁ」

 呆れたような声で言う香坂さん。しかし僕は少し考える。相川藍海は、世界が三つもあることを知る数少ない存在だ。その目の前に現れる、自身とまったく同じ見た目をした僕という存在。

「……もしかするとその方が都合がいいかもしれませんね。非常事態であることを端的に伝えることができる」

 美雨もまた同じことを考えていたようで、

「そのアバターの出現位置はもちろん調整できるよね?」

 と聞く。香坂さんは頷くも、また別の問題を告げる。

「できるが……いやしかし、それとは別の問題もある。通常の仮想世界にある安全装置のいくつかが無効化されていて危険なのだ。痛覚だってあるし、なんなら死を体験することもできてしまう。その世界で死を体験したとき、現実の体がどうなるかは未解明だ」

「死ぬなんてこと、そうそうありません」

「痛いのもある程度は我慢できるでしょ?」

 ケロッとした様子で答える僕と美雨に香坂さんは頭を抱える。

「それだけではない。そこはシミュレーション速度が変更されている、人工知能のためだけの世界だ。現実世界よりも時間の流れが大分早い。接続中の脳へ、時間的に圧縮されたような形で感覚器官からの信号を模した電気が、VR機器から出力されるのだ」

「VR機器には最大出力強度が設定されていますが」

 僕がそう言うと、香坂さんは首を横に振る。

「それでも、最大ギリギリの強度がしばらく続くことにはなるだろう。あまりにも危険だ」

「設定の変更はできないの?」

 美雨の問いにも、香坂さんは首を横に振った。

「すまない。私も運用に携わったわけではないから、詳しい設定方法まではわからないのだ」

「なるほどね。……実際にシミュレータを見てみないことにはなんとも言えないけど、試してみる価値はあるとわたしは思う」

 美雨のその意見に、僕は頷いてみせる。信じられないという顔をした香坂さんはまた別の問題を提起する。

「試すって……。危険すぎる。それに、たとえバックアップを取ったとしても、オリジナルが削除されてしまうのでは意味がないのではないか? オリジナルをなかったことにするなんて」

「それは接続した僕が実際に相川藍海に聞きます。オリジナルが死ぬかもしれないことを、バックアップが生き続けることを、もしかするとオリジナルとバックアップが同時に存在するかもしれないことを、人工知能自身に確認を取ります。人工知能全員に聞いて回ることは流石にできませんが。それでは駄目ですか?」

「確かに私なんかの判断よりも相川藍海自身の判断の方がそりゃあよいだろうが……」

 香坂さんはまた唸る。首を捻り、しばらくしたあと口を開く。

「確認を取ったとして、それをどのようにして現実世界に伝えるかという問題もある」

「ログアウトは……できませんよね?」

「デバッグモードでのシミュレーションであればできたが、これはもうすでに本番環境で動いていたシミュレーションになる。そんな概念は存在しない。シミュレータを停止した際の緊急ログアウトでしか切断できないだろう」

 僕のダメ元な質問に香坂さんはため息をついて答える。それを聞いていた美雨は、

「緊急ログアウトはVR機器側に実装された機能だったはず。ワールドとの接続が失われたときに自動で切断してくれるやつ。だから、ワールドとVR機器の間に、任意のタイミングで無理矢理に接続を遮断する自家製ハブワールドを挟んでやれば……」

 と提案したが、香坂さんはまたため息をつく。

「いいや、それでも楠木くんが自発的にログアウトできないのに変わりはない」

 そしてこうも続けた。

「その世界で何が行われているかは、可読性の低いログを精査しなければわからない。このシミュレータが緊急停止したことを受けて私もそのログを見たが、あれはおよそ解読できるものではなかった。その緊急停止は世界の切り替わりが短時間で何度も起きたことを受けてのものだったのだが、それは、すでに流れが止まったログの中に何度も『世界の切り替わり』という共通部分があったことで、やっと判明したのだよ。リアルタイムで進行中のシミュレータが吐き出す濁流のようなログを精査するのは、人間にもそこらの機械にも、サイバーダンスにすらもできないものだ」

 それは、ログアウト処理を実行できる人には、どのタイミングで実行すればいいのかわからないという意味だった。

 普通の仮想世界では、現実世界とも通じるSNSやライブカメラなどがあるからなんてことはない。しかしこのシミュレータの作り出す本番環境な仮想世界には、そのような便利なものは存在しないのだった。仮想世界内から現実世界へ情報を伝えるというのは、あらかじめそのように世界を設計していなければ不可能なものだった。あらかじめ設計された、情報を出力する手段……。このシミュレータはそもそも何をするための物だった?

 僕は思い付いて口に出す。

「……小説。たしか香坂さんが渡してきた、相川藍海に書かせた小説は、EPUB形式でしたよね? あれはどうやって出力したんですか?」

 香坂さんは手を打つ。

「……そうか! 相川藍海が書いたあのオブジェクトだけは仮想世界内から現実世界へ情報を伝えることができる。しかもあれはリアルタイムに更新され、エクスポートされる」

「彼女の判断を小説に追記すれば、美雨の元へ伝わるということですね?」

「あぁそうだ。その手があったか」

 僕は深呼吸をして、香坂さんに改めて聞く。

「……香坂さん。あと何か、問題はありますか?」

 香坂さんは目と耳を逸らしてしばらく考える素振りを見せたあと、深いため息をつくと言った。

「……わかった。しかし安全第一で頼む」


「それじゃあ手順を確認するよ」

 と、美雨が大の字に寝そべった格好のまま言う。僕と香坂さんはそれに注意を向ける。

「まず今日中に香坂さんのところへわたしの『挿すだけバックドア』を郵送するから、確認よろしく。明日、つまり月曜日に、香坂さんがタイミングを見計らってそれを使う。うまく動いたらわたしのところに通知が来るから、以降はわたしが頑張る。世界の切り替わりを無効化して速度を等倍に戻した上でシミュレータを起動。そこに、起動させた人工知能を接続。そしたら流石にサイバーダンス側に侵入がバレるだろうから、ただの技術者な香坂さんは『挿すだけバックドア』を接続したまま、現場をセキュリティチームに任せて撤退。一方その頃わたしは、再び動き出した仮想世界に兄さんを送り込む。兄さんは仮想世界でアイカワとかいう人工知能と接触。アイカワに自分たちの今後について判断を下してもらう。そしてその判断を、わたしが監視している小説に追記。もしバックアップを取ることを了承したのなら、撤退後すぐさまシミュレーションを停止して爆速でバックアップを行う。了承しなかった場合は撤退して停止するだけ。あとはバックアップが終わるのが先か、セキュリティチームにプロセスが殺されるのが先か、セキュリティチームに『挿すだけバックドア』を抜かれるのが先か、神のみぞ知る……って感じかな」

 僕はそれに力強く頷く。香坂さんもゆっくりとだが頷いた。美雨は勢いをつけて上体を起こすと、僕たちを見てニヤリと笑った。

「まぁ、ベストは尽くしてみるよ?」

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