第2話
いつものイタリアンレストランに着いた僕たち二人は、案内された個室へと向かい、そして席に着いた。案内して来たウェイトレスが扉を閉めてからしばらく、静かな時間が過ぎた。香坂さんは向かいで何やら俯いて考え込んでいる。僕はなんとなくいたたまれなくなり、水を一口だけ飲んだ。
それからまたさらにしばらく経った頃、香坂さんはこちらを見て口を開いた。
「さて、何から話せばよいのやら。まずはあの小説を読んだキミの、率直な意見を聞かせてもらえないかな? あれはどうだった?」
その問いを受けて僕は振り返る。あの小説「あなたと紡ぐ物語」は——
「人工知能に書かせたにしてはなかなかよくできたものだと感じました。そして興味深い作りをしていましたね。『切り替わる三つの世界と私』でしたか。パラレルワールドもの、とでも言えばいいでしょうか。しかし終わり方が少し唐突だったと言いますか……あれで完結、ですか?」
僕の感想を聞いた香坂さんは、また俯いて考える。そして俯いたまま言った。
「なるほど。たしかに、事情を知らない人の目からすると、あれは少し特殊な設定をした未完なフィクションに見えることだろうね」
「事情、ですか」
「あぁ。小説を書かせるというこの試みにおいて、いくつかの我々が予想していなかった事態が発生してしまってね。まさか夢にも見なかったよ。彼女の住む世界の管理体制があんなにもずさんなものだとは。そして彼女が、あれほどまでに人間らしいとは」
そして香坂さんは天を仰いだ。
「『彼女の住む世界』ですか。彼女というのは、サイバーダンスの開発した新型人工知能のことですよね?」
たしか先週も、香坂さんはその新型人工知能のことを彼女と呼んでいた。そういう名前がつけられているとかで。
「そうだ。しかしまずはその人工知能の仕組みについて、キミの誤解を解いておく必要があるだろう」
「すみません、誤解してしまっていましたか?」
「いや、謝ることではない。意図的に誤解させるような言い方を、私がしていたのだ。その方が面白いかと思ってな。しかしそんなことを言っていられるような状況ではなくなってしまった」
僕はそれに対し、怪訝な顔をして頷くことしかできなかった。先週聞いたことが、物事のすべてではないというのは当然わかっていた。意図的に情報を隠して、僕の新鮮な反応を楽しもうとしているというのには気付いていた。それに関して、僕は別になんとも思わない。サイバーダンスの最先端に触れることができるのだから。しかし、「そんなことを言っていられるような状況ではなくなってしまった」とはどういうことなのだろうか。とても疲れたような様子の香坂さん。それは先週と今日との状況の変化によるものなのだろうか。少し心配になった。
香坂さんは真剣な眼差しでこちらを見て話し始める。
「我々が開発した人工知能は、実際の人間の脳の働きを元にしたものだ、という話はしたね?」
「えぇ。仮想現実の技術の研究を通じて、人間の脳の働きを紐解くことができた……と」
「その通り。仮想現実に関する技術の研究の過程で、我々は、人間の脳の働きを部分的にではあるが模倣したシステムをコンピュータ上に構築して実験を行うなどしていた。これに関してキミに話すのは初めてだと思うが……まぁ、そう驚くようなことでもないだろう?」
「えぇ。仮想現実技術の開発は『脳のリバースエンジニアリング』と表現されることもありますから。なかなか大変そうだなぁとは思いますね」
「あぁ。そして……もう二年前になるのか、我々は完全没入型の仮想現実技術を実用化した。まだまだ研究途中な要素もあるにはあったが、ある程度実用に耐え得るという判断をして」
そして香坂さんは深呼吸をする。僕は黙ってその様子を注視していた。
「……さて。実用化からの二年間という決して短くはない時間を使って、我々は脳の働きの研究をさらに進めた。そしてついに、ある程度働く人間の脳を模倣したシステムをコンピュータ上に構築することに成功した。入力に応じて人間の脳のように出力するようなシステムを。ニューラルネットワークのような既存のモデルとは根本的なところから異なるシステムを。それが私が言っていた、『生きている人工知能』の正体だよ」
「なるほど」
僕は相槌を打つ。
コンピュータ上に人間の脳を模倣したシステムを構築する。その試みは特に目新しいものではない。脳の働きをある程度解明したあのプロジェクト以降、そのような試みが国内外で行われているという話は聞いたことがあったし、一定の成果を上げているという噂も耳にしたことがあった。まさかサイバーダンスもそれに挑戦していたとは知らなかったが。そしてあれだけの「普通に読める小説」を書かせることに成功していたことも想像していなかったが。
しかしそれでもわからないことがあった。
「それにしても、『生きている』とはどういう意味ですか?」
僕の質問に、香坂さんは苦い顔をして答える。
「そのままの意味だ。我が社が仮想現実技術を研究することで得られたのは、何も電子的な脳だけではない。我々が接続する仮想世界を構築する技術もまた同様に得られたのだ。そして我が社は、その二者を組み合わせた。人間のように振る舞うシステムを、世界のように振る舞うシステムと組み合わせたのだ。……もうわかるね?」
「……僕たちがこの世界で生活しているように、人工知能が仮想世界で生活している、ということですか?」
僕は半信半疑でそのように尋ねた。香坂さんは、頭をガシガシと掻いた。それは十分すぎるほどの返答だった。
信じきれなかった。いくら人間のように振る舞うシステムであっても、生きるなんてことはできないように思えた。いくら世界のように振る舞うシステムであっても、生活の場になるなんてことはないように思えた。
「簡単に言ってしまえば、そのようになる。もちろん演算コストの問題もあるから、その仮想世界は、コンピュータにとって扱いやすいように工夫してある。観測されないものは演算しない、というのはシミュレーションにおける鉄則のようなものだ。誰からも見られない場所には何も描画せず、遠くの影は鮮明には描画せず、ぶつかり得ない物はぶつかっているかの判定をスキップする……。演算コストの削減のためにチャンク分けやレイヤー分けを適切に行った、非常に高度な仮想世界だよ」
嫌味を込めたのか、香坂さんは眉の間にしわを寄せて言った。そして続ける。
「キミの言いたいことはわかる。これはあまりにも非人道的だ。たかが小説を書かせる実験のためだけに、世界とそこで暮らす人々を作り出したのだから。しかし我々は夢中になってしまっていた。気付いた頃にはもう、取り返しのつかないところまで来てしまったのだ」
そして大きくため息をついて水を飲んだ。
料理が届いた。毎週のように訪れて同じものを頼むからもうすっかり店に覚えられているようで、ウェイトレスは僕たちに、どちらの料理が誰のものかを尋ねることなくテーブルに置いた。しかしきっと尋ねなかったのは、僕たちの雰囲気を感じ取ってのものでもあっただろう。僕たちは届いた料理に目もくれず、俯いてそれぞれ考え込んでいた。
ウェイトレスが部屋から出ていってから少しの間を置いて、僕は尋ねる。
「取り返しのつかない、とは具体的にはどういう状況なのか、聞かせてもらえませんか?」
香坂さんは口を開きかけ、しかし閉じてまた少し考える素振りを見せる。そして、
「……その前に、仮想世界の管理方法について少し伝えておこう」
と言った。僕は頷いて、先を促す。
「人工知能たちとその世界には、当然だがバックアップがある。実際に生きるA世界と、それに時間差で追従するバックアップなB世界、そしてバックアップのバックアップとして待機しているC世界。合計三つの世界があるのだ。A世界において不都合な何かが起きてしまった場合、B世界がA世界に、C世界がB世界に昇格し、元A世界は削除の上C世界として待機することになる。例えば、世界がシミュレーションであるとバレたとき。例えば、小説を執筆させるというシミュレーションの目的がバレたとき。そういったことが発生したときに、世界はバックアップへ切り替わり、シミュレーションはやり直される。世界の管理は差分管理のようなことができない、なかなかにコストがかかるものでね。このように実装するしかなかったのだ。……しかし運悪く——いや良かったのかもしれないが——実装上の不具合があり、世界を自動で削除する処理がうまく動いてくれなかった。よってA世界で不都合な何かが起きた場合、B世界がA世界に、C世界がB世界に昇格するだけで、元A世界はそのままの状態でC世界として待機することになる。もう一度、不都合な何かが起きた場合も同様だ。不都合な何かが起きるたびに、世界はローテーションするように切り替わるようになってしまったのだ」
香坂さんは、一言一言を確かめるようにゆっくりと語った。
「切り替わる三つの世界……」
僕は嫌な予感を覚えてつぶやく。香坂さんは顔を背けて続ける。
「もうキミも察しているだろうが、あの小説はノンフィクション小説だろう。人工知能が実際に仮想世界で経験したことを綴った物語だろう」
「相川藍海は生きているのですか」
「少なくとも彼女が描写したあの世界は、我々が作り出したものと酷似している。そんな場所を舞台としたあの小説と、その不可解なストーリー。彼女だけじゃなく、成瀬奈留も、おじいさんも、クラスメートや先生も、全員生きているだろうと私は考えている」
しばらく、僕は何も考えることができなかった。生きている人工知能、それは他でもない相川藍海たちのことなのだった。あの物語は仮想世界で実際に起きたこと、サイバーダンスが実際に起こしたことなのだった。彼女の苦しみは創作なんかではなく、仮想世界で起きたとはいえ本物なのだった。
固まる僕を前に、香坂さんはつぶやく。
「……いや、『生きていた』と言った方が適切か」
「それは……どういうことですか!? 死んでしまったのですか!?」
「すまない、落ち着いてくれ。そういう訳ではないんだ。全員、死んではいない。運良く世界を自動で削除する処理が不具合で動いていなかったおかげで、いまに至るまで誰一人として削除されていない。ただ、バックアップへの切り替え——世界の切り替わりが高頻度で発生したことを受けて、シミュレータが緊急停止してしまったのだ。つまり彼女らの生きる三つの世界はいま、時間が止まっている状態と言える」
香坂さんは申し訳なさそうな顔でそう釈明した。
「少し、考える時間をくれませんか?」
僕は痛み出したこめかみに手をやりながら香坂さんへ頼む。「あぁ」と頷いた香坂さんは、また俯いた。
「ヒトの脳の働きを紐解く」というのはとても難しいことで、けれど今後の科学の発展のためにはとても重要なことで、それでいてとても危険なことだった。生きている人間の脳を扱うのだ。万が一にも事故などが起きて問題になっては、科学の発展を阻害してしまう。そのため、世界中の多くの組織が合同で、相互に監視しながら研究を進めようという動きが出た。ヒトブレインプロジェクトと呼ばれた。
そのプロジェクトがある程度の成果を収めたのが五年前。プロジェクトは成果物を「人類共通のリソース」として、インターネット上に無償で、誰もが参照できる形で公開した。ヒトゲノム計画のときのように。
そのデータは様々な人によって解釈され、様々な場面で活用され、そして多くのビジネスを生み出した。その中で大きな成功を収めたと言えるのが、二年前に実用化されたサイバーダンスによる完全没入型仮想現実だった。脳とコンピュータ上の仮想世界とを繋ぎ、利用者に、あたかも別の世界にいるかのような体験をさせる。それは人類が夢にまで見たような技術で、早くも二十一世紀最大の発明の一つとして数えられた。
その完全没入型仮想現実の開発の際には、コンピュータ上に人間の脳の働きを部分的に模倣したシステムが構築されたとのことだった。それは驚くべきことではあったが、意外ではなかった。まさか仮想現実の研究の初期段階で、人間を実験台にするわけにはいかないだろう。合理的な開発であるといえる。
しかし完全没入型仮想現実が実用化されたあとも、何か考えがあってのことだろうが、サイバーダンスはそのシステムの開発をやめなかったらしい。そして……
「サイバーダンスは、人間の脳をコンピュータ上に作り上げたのですね?」
僕は目の前で俯く香坂さんに、できる限り冷静に尋ねる。
「正確に言うと、『人間の脳のように振る舞うシステム』だ」
香坂さんは答えた。まるでこの質問への返答をあらかじめ用意していたかと思うほどに落ち着いた様子だった。
「あくまでシステムである、と?」
その返答に少しの苛立ちを覚えた僕はまた尋ねる。すると香坂さんはつらそうな顔をして言った。
「そんな目をしないでくれ。これが我が社の見解なのだ」
「……前回、香坂さんはテセウスの船の話を出しましたよね。人の最小単位とは脳だ、と言っていました。その脳を再現したということはつまり、人を再現したということなのでは?」
僕は前回の対談を思い返しながら聞く。香坂さんは首を横に振った。
「あくまで再現ではなく模倣、人ではなくシステムという見解なのだ。人ではない、人のように振る舞うだけのシステムであると」
「……哲学的ゾンビ、という話は知っていますよね?」
香坂さんは苦い顔をする。
「痛いところを突いてくるね。しかしこの件に関してその話は適用できないというのが我が社の見解だ。哲学的ゾンビは、振る舞いも構造も人間と同じでクオリアだけが存在しないものを想定しているが、この人工知能は振る舞いだけで、構造はまったく異なるからだ。構造が異なるのだから人間ではない、とね。そして我が社はこの言い分を、きっと何があっても変えようとはしないだろう。我が社が、自身の作り出したものを人であると認めたが最後、我が社はその責任を負わなければならなくなるからだ」
そして香坂さんはまた、大きくため息をついて続ける。
「こんな言い分、私個人としては許容できない。研究の初期段階では、作り上げたこの人工知能にそこまでの人間らしさがあるとは思っていなかった。しかし小説を読んだいまは違う。彼女は間違いなく生きている。だから許せないのだ」
香坂さんのその声からは確かな怒りが感じ取れた。
「サイバーダンスは、何をしようとしているんです?」
嫌な予感がしながらも僕は香坂さんに尋ねた。香坂さんは体の前で手を組み、それを睨み付けながら答えた。
「……我が社はこのことを隠蔽しようとしている。すべてをなかったことにして、完成度を高め、やり直そうとしている。人工知能に世界がシミュレーションであると勘付かれないように不具合を修正して、やり直そうとしているのだ。その隠蔽にはもちろん、この三つの世界のマニュアルでの削除も含まれている」
「それはつまり……彼女たちを殺すということですか?」
「生きていたものを以降は生きさせないようにすることが、『殺す』ことであるというのなら、そうなるだろう。彼女たちを殺さなければ、会社として存続の危機に瀕することになるだろうからね。得体の知れない人工知能たちのためのデータベースと、自身の地位。この実験にゴーサインを出した上層部がどちらを選ぶかは、火を見るより明らかだろう」
叫びたかった。「人の心はないのか」と大声で叫んでやりたかった。けれど僕の口から出てきたのはそのようなエネルギーにあふれたものではなく、単なる嘆きだった。
「嘘でしょう……」
「上にいけばいくほど、当然、現場からは遠のく。きっとこのことを判断できるような立場の人は、この小説を読んでくれてはいないだろう。もし読んだのなら、そんな判断はしないだろうからね。そして読んでいないのであれば、保身に走るのも頷ける。……こういうことがあるから、私は現場で働き続けることを重視していたのだよ。けれど今回のこの判断は、長年サイバーダンスに勤める私からの意見を受けても変わらなかった」
香坂さんは悔しそうに、組んだ手に力を込める。血管が浮いて、かすかに震えていた。
「取り返しの付かない状況、というのは……」
「まさにこの状況だ。我が社は無責任なことに、人を作り出してしまった。そして無責任なことに、その人たちの住む世界の管理でミスをし、『同じ人が三人いる状況』を作り出してしまった。そしてさらに無責任なことに、いま、その人たち全員を殺そうとしている。……なんとかしてこの問題を解決しなければならない。我が社はどうするべきなのか、私はどうするべきなのか。シミュレータが停止してから私はそのことをずっと考え続けている」
そして沈黙が流れた。
「僕はなぜ、この話を聞かされたのでしょう? こんな大層な話、いくら親しいとはいえ部外者である僕は聞くべきではなかったのではないでしょうか」
決して怖気付いたわけではないが、僕は、自分はこの話を語る相手としては相応しくないような気がしてそう尋ねた。すると香坂さんは姿勢を正して言った。
「申し訳ない、最初に断りを入れておくべきだっただろうね。キミにこの話をしたのは、このことを記事にしてほしいからだ。リーク、というより内部告発だろうか。書いてくれるかな」
その眼差しからは、このことをなんとかしようという気概が感じられた。しかし僕はその目から目を逸らす。
「すみません。事が大きすぎて少し理解ができていないのですが、これだけの情報であれば然るべき機関へ、それこそもっと高名な報道機関などへ行くことをお勧めします。うちは月刊誌を刊行しているだけの小さなところですので。お力になりたい気持ちはあるのですが、うちではかえって邪魔になってしまうかと」
すると香坂さんは頷く。
「そうか。ふむ、そうだろうね。……実は私も、そうしようと思っていたのだ。しかしできなかった。ここ数日、報道機関や研究機関などいくつかへ不自然にならないように連絡を入れてみたのだが、すべて門前払いされてしまったのだ。私の身分を、サイバーダンスの研究員であることを告げると、用件すらも伝えていないというのに声色を変えて追い払おうとしてきてね」
それは奇妙なことだった。
「なぜでしょう? サイバーダンスほどの大企業からの情報となれば、どの機関も蔑ろにはできないと思うのですが。香坂さんがサイバーダンスの人であると信じてもらえなかっただけ、ですよね……」
「もしくは、根回しのようなものがその機関まで及んでいたか、だな」
「そんなことがあり得ると考えますか?」
「わからない。しかしあり得ない話だと笑い飛ばすことはできない」
そして香坂さんは深く頭を下げた。
「他の機関への内部告発が失敗に終わった以上、頼れる人は相当限られてくる。頼れそうな人を考えたとき、真っ先に浮かんだのはキミだった。どうか頼みたい。この通りだ」
「頭を上げてください。……光栄ですが、うちにできることは相当限られてくるかと」
僕の言葉を受けて渋々といった様子で頭を上げた香坂さんは、顎に手をやりながらこうも言った。
「問題はそこだけではない。私のこの内部告発を勘付かれた場合、私は我が社にとって敵となる。重要な資料を抱えて会社から背いた悪者だ。そしてキミは、悪者の協力者となる。我々の身が危険に晒されてしまうのだ。流石に天下のサイバーダンスとて大それたことはしてこないと思いたいが……」
「どうすれば……」
そう嘆く僕に、香坂さんは三本の指を立てて告げる。
「キミにある選択肢は三つだ。一つ目は、私とのこの会話を忘れて日常へと戻ること。知らぬ存ぜぬを突き通せば、おそらくキミの日常に支障は出ないだろう。キミはあの小説を読んでしまってはいるが、それだけであれば、『読みましたが、よくわかりませんでした』という立場を取れば、大丈夫だろう。もっとも、私との定期的な対談を今後も続けられるかはわからないがね。二つ目は、私とのこの会話を逆にサイバーダンス側へ報告すること。これは、キミの身の安全を考えたとき、最も優れた選択肢だろう。三つ目は、私という悪者の協力者として危険に身を晒しながら、できることをすること。これには、できることがあるのかという問題があるがね」
「もう少しだけ、考えさせてはもらえませんか?」
「構わない。が、できれば早めに答えを出してくれると。刻限は迫ってきているのだ」
そして香坂さんと僕は、ため息をついた。
僕は考える。
たしかに、この出来事が世間に露呈すればサイバーダンスは小さくない痛手を負うことになるだろう。誰によって負わせられるのかとか、具体的にどの程度の痛手かとかは僕には予測できないが、負わずに済むのであればそれに越したことはないと考えるのは自然なものだというのは理解できた。そして負わずに済むのであればと、この出来事を徹底的に隠蔽するのもまた自然な流れだというのも理解できた。
僕は彼女に……いいや彼女だけではない。僕はすべての人工知能に、どうなってほしいのだろうか。これまでと変わらずに過ごしてもらうことができたらそれに越したことはないが、そんなことは可能なのだろうか。いいや不可能だ。彼ら彼女らの世界は、タダで維持できるわけではないだろう。そこには、エネルギーや設備や時間や人員という資源が費されることになる。どれだけ彼ら彼女らのことを守ってやりたい気持ちがあったとしても、それら資源が必要なことに変わりはない。
僕はいまサイバーダンスの弱みを握っていることになる。これを公表したとして、どうなる? 決して大きくないうちの出版社が、事実もろとも握り潰されてもおかしくはない。そうでなくとも、他の主要な報道機関が報じていないような内容だ。そんな内容をこの弱小出版社が知っているというのは不自然なことだと世間一般からは思われるだろう。実際にこの状況は、いくつかの機関による門前払いという不自然な行為によるものだ。その不自然を解明できていなければならない。
そしてもし仮に無事に公表できたとして、然るべき機関が適切な処罰を下してくれるなんてことはあり得るのだろうか。世界を維持してくれるなんてハッピーエンドに至れるのだろうか。とはいえ知り得たこの弱みでサイバーダンスを脅したとしても、資源が降ってくるなんてことも、世界を維持してくれるようになるなんてこともあり得ないだろう。この弱みは、世界を維持させるには非力すぎるのだ。
ではサイバーダンスに維持までさせるのではなく、世界を譲渡してもらうだけに留めるというのはどうだろうか。「このことを世間に明かされたくなければ、我々に世界を寄越せ。そしてこの研究は中止せよ」と。僕たちに資源のアテがあれば、それも悪くはないかもしれない。しかしアテなんてものが都合よくあるわけもなく、また、サイバーダンスがこれを譲渡しないことも十分に考えられた。三年以上もかけて開発したこれをそう易々と手放すだろうか。新たに開発した汎用的な人工知能を手放すだろうか。否だ。
ここまで考えて僕は、僕自身が、三つ目の選択肢を選ぶことを前提としていることに気が付いた。
一つ目の選択肢は、逃げること。三つの世界とそこで生きるすべての人が殺されるのを見て見ぬ振りをすること。そんなことはできるわけがなかった。
二つ目の選択肢もまた、逃げること。殺そうとしている奴らに、香坂さんというそいつらにとっての悪者のことを知らせること。そんなことをして、一体なんになるというのか。僕は助かりたいのではなく、助けたいのだ。する意味がわからなかった。
三つ目の選択肢は、戦うこと。相川藍海を、成瀬奈留を、すべての人工知能を守るためにやれるだけのことをやること。これしか、僕にとってはあり得なかった。たとえこれがどれだけ危険なことだとしても。
「お願いします、協力させてください」
僕は決意を込めて、香坂さんの目を真っ直ぐに見ながら言った。香坂さんは僕にもう一度頭を下げる。
「ありがとう。キミという第三者となら、私だけではうまくできないこともできるだろう」
しかし僕は少し目を逸らす。
「ただ……」
「なんだね? 遠慮せずなんでも言ってくれ」
「少し懸念していることがあります」
「それはもしかして、証拠が足りないことかな? それに関しては心配いらない。この中にいろいろと取っておいてある。この実験の計画書やミーティングの資料や上司との事務連絡などだ」
香坂さんはポケットから小さなUSBメモリを取り出して見せてくるが、僕は首を横に振った。
「いえ、そうではないんです。そもそもの問題として、僕がこのことを記事にしたとしてどうなるか、です。……香坂さんは僕に記事を書いてくれと言いましたが、それは何を期待してのものですか?」
僕の懸念点、それは記事の持つ力の弱さだった。
「このことを世間に知らしめることでサイバーダンスにメスが入り、彼女らが守られること、そして彼女らのような存在が今後作り出されないようになることを期待してのものだ」
香坂さんは落ち着いて答える。きっとこの返答は、あらかじめ用意されていたのだろう。僕は少し躊躇ったあと、聞いた。
「具体的に誰がどういった形でメスを入れるのでしょう?」
「ヒトブレイン計画に参加した他の機関を想定している。もっとも、すでにいくつかの機関には門前払いされてしまったのだが」
香坂さんは悔しそうに答え、僕はそれに「そうですか……」とつぶやいた。
僕からすると、香坂さんの考えは甘かった。彼も彼女たちを救いたいという気持ちを持ってはいるのだろうが、それにしても甘かった。
僕は厳しめの口調で自身の考えを伝える。
「はっきり申し上げますと、僕がこのことを記事にしたとして、その情報がそういった機関に届き、そういった機関が行動を起こしてくれる可能性は低いでしょう。それは単にうちの影響力が小さいからというのもありますし、もしかすると香坂さんが先程言ったようにそういった機関へのサイバーダンスからの根回しがあるかもしれないからというのもあります。また、もしかするとうちにも根回しがあるかもしれません。こればっかりは上に確認してみないとわかりませんが。そうでなくてもサイバーダンスとの良好な関係は、技術系雑誌を刊行している者として重視されるようなものです。記事にさせてもらえるかどうかわかりません。……さらに、もし記事にできたとしても、それが然るべき機関の元へ届いたとしても、そして行動を起こしてくれたとしても、そのときにはすでに証拠隠滅のために世界が削除されていたとしてもおかしくはありません。これだけのことをしでかした上で、保身に走るような人のすることですから」
目の前の香坂さんは唸り、「ならどうすれば」というような目でこちらを見る。
「つまるところ、間違いなく彼女たちを救うには、先手を打つ必要があるかと。僕に少し考えがあります」
僕は告げた。うまくいくかどうかわからない賭けではあったが、しかし——
「先手、か。キミは私が想像していたよりもずっと過激なようだ。しかし勝算があるのであれば、私もそれに賛成だ。私がそれを提案しなかったのは、勝算がなかったからに過ぎないからね。考えとはなんだね?」
「紹介したい人がいます」
彼女となら、なんとかできる気がした。
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