第1+3*3話A
あの日からどれだけの時間が経過したでしょうか。もう長いことカレンダーも手帳も見ていないため、五日なのかはたまた三十日なのかわかりませんでした。この間、私はずっと、部屋からもまともに出ずに過ごしていました。私以外誰もいない、閉め切られた遮光カーテンによって暗い部屋の中、ベッドの上で胎児のように丸まって過ごしていました。何かをする気は到底起きませんでした。すべてをなかったことにして、成瀬さんのいる学校へ行って、日常へ戻ることなどできるわけがありませんでした。それは底知れなく暗い、恐怖心によるものでした。
どれだけの時間を無駄にしてしまったのかくらいは、今後のためにも把握しておくべきだと考えられました。私は冷静さを失ってしまったわけではなく、その程度の思考はできるのです。しかしそれを理解した上でも、体は思うように動かないのでした。ただ日付を確認するだけだというのに。そして動かない体で、室温や湿度などから、季節を推測するのです。まったくもって無駄なことです。……そして、相当な時間を無駄にしてしまったようであることに、私は気付きました。もう冬でした。
日常へ戻るなんてできません。それは私があの世界の成瀬さんの恐ろしさを忘れられないからというのもありましたし、取り乱していたとはいえこの世界の成瀬さんから逃げてしまい、合わせる顔がないからというのもありました。この世界の成瀬さんに与えてしまった誤解を解くにはすべてを伝える必要がありますが、きっと話したら、あの世界の成瀬さんのように私を気味悪がるでしょう。
私にあの出来事を思い起こさせるこの世界の成瀬さんの存在は、なかなかにつらいものなのです。しかしながらこの世界の成瀬さんには非はありませんし、そもそもあの世界の成瀬さんはこの世界の成瀬さんと別の人であると考えるべき存在です。森へ行かなかったあの世界の成瀬さんと行ったこの世界の成瀬さん。死のうとしなかったあの世界の彼女と死のうとしたこの世界の成瀬さん。……しばらく前に出会ったばかりで、ろくに関わってもいないあの世界の成瀬さんと、私と仲良くしてくれたこの世界の成瀬さん。あの世界の成瀬さんとこの世界の成瀬さんは別の人であり、この世界の成瀬さんとあの世界の成瀬さんは別の人であるのです。とはいえ、この世界の成瀬さんがあの世界の成瀬さんを想起させるのは当然で、あの世界の成瀬さんが私に取った行動を思えば、私がそれを恐れてしまうのも当然で仕方のないことです。
そんなある日の夕方のことでした。私は誰か複数人が階段を登ってくる音を聞き、寝返りを打ちます。いまの私は、誰かと会うなんてことはできそうにありませんでした。案の定、私の部屋の前で足音は止まり、話し声がしました。私は必死に意識を遠くへ追いやろうとしましたが、それでも話している内容は耳に入ってしまいました。
「この部屋なんだけど……」
「ありがとうございます。大丈夫です、部屋の中へは入りませんから」
「そう……悪いわね。お友達なのに」
「いえ」
成瀬さんの声でした。成瀬さんが私のお母さんと話す声でした。それに気付いた途端、頭が真っ白になります。何を話せばいいというのでしょうか。この私が、あの成瀬さんと。泣いてしまわないようにするため、目を強くつむり、歯を食いしばります。この世界の成瀬さんの前でまた泣いてしまったら、成瀬さんとの関係性が、ついに修復不可能なほどに崩れてしまうと思われました。
階段を降りるお母さんのものと思われる足音が聞こえなくなった頃、ドアをノックする音がしました。そしてそれから一呼吸置いたあと、声が聞こえました。優しい声でした。
「相川さん? 成瀬だけど……先生に頼まれてプリントを持ってきたから、ドアの前に置いておくね。それと落とし物……というより忘れ物、かな? それも置いておくから」
気が付いたら涙を流してしまっていました。あれほど堪えていたというのに泣いてしまったのは、成瀬さんのその声が優しすぎるからでした。いまの私は成瀬さんに怯えて泣いているのではありませんでした。あんなことがあったというのに私を大事に思ってくれている成瀬さんへの申し訳なさと嬉しさが、私を泣かせたのです。私は横になって歯を食いしばったまま、顔を手で覆い、できる限り静かに涙を流します。本当はいますぐ成瀬さんのへ抱き付いて、声を出して泣き喚きたいくらいでしたが、そんなことはできませんでした。暑くて頭痛がして頭がクラクラして、苦しいです。本当は泣きたくて仕方がありませんでした。
ドアの向こうにはまだ成瀬さんの気配があります。それがどうしても嬉しくて、けれどどうしても苦しいものでした。また声が聞こえます。
「なんて言えばいいだろう……。口に出すと、また君が大変な思いをすることになってしまうだろうから言えないんだけど、そうだな。……私も君がしたように、自身が感じ考えたことを文字にしてみたんだ。忘れてしまわないように。そして、君に伝えるために。それもここに置いておくから、読んでもらえると嬉しいな」
私は成瀬さんのその言葉を胸でしっかりと受け止めます。しかし少しの違和感がありました。「口に出すと、また君が大変な思いをする」。私がした大変な思いとは、世界の不可解さを口にしたときの世界の切り替わりですが、それは成瀬さんは知らないはずです。まさか知っているのでしょうか。「私も君がしたように」。たしかに、私は自身が感じ考えたことを忘れてしまわないために文字にしました。しかしそれは一つ前の世界でのことで、成瀬さんは知らないはずです。まさか知っているのでしょうか。
私は覚えた少しの違和感をその場で無視するようなことはせず、成瀬さんの次の言葉に注意を向けます。
「なんだろう。墓で話をしたあの瞬間に相川さんがどういうことを経験してきたのかはわからないけど、私はどんなことがあっても相川さんの味方だから。安心して、この私を頼ってほしい。この、私を」
成瀬さんが強調した「この」という言葉には、どのような意味が含まれているのでしょうか。まさかすべてを理解した上で、「この世界」を意味してそのように表現したのでしょうか。わかりませんでした。
私は三つの世界のこれからを、私のこれからを考えます。完璧な日常はもう壊れてしまいました。しかしまだやり直せる……かもしれません。少なくとも、これ以上引きこもり続ける理由はないように思われました。成瀬さんには真実を伝えなければならないというのに、私は伝えたあとの反応を恐れて避けてきました。しかし成瀬さんは、どんなことがあっても私の味方だと言ってくれました。その言葉を信じて伝えてもいいのでしょうか。
いいえ、こんな風に理性的に考えるのはやめましょう。私は成瀬さんを信じたいのです。それだけで十分すぎるほどの理由ではありませんか。もうこれ以上、考えることはありません。
私はベッドから勢いよく起き上がってドアの前まで行くと、一呼吸置いて、ドアをそっと開けました。
目の前には成瀬さんが想像通り立っていて、こちらを目を丸くして見ていました。私は今更ながら、赤くなっているだろう涙に濡れた頬をなんとかすべく、パジャマの袖で強く擦ります。けれどそれでも流れ続ける涙ですぐに濡れてしまい、私は何度も顔を拭います。そんな私を見て成瀬さんは俯くと——。
気が付くと、私は成瀬さんの腕の中にいました。私を抱き締めた成瀬さんは言います。
「よかった……。ありがとう……。ごめんなさい……。本当によかった……」
この世界から、私の心臓が打つ速い拍と成瀬さんの震え声以外の音がすべて消えました。成瀬さんの腕の中はとても温かく、私の目からは際限なく涙があふれてきます。身をよじってその涙を拭こうとしますが、成瀬さんが強く強く私を抱き締めるせいでできませんでした。
「っ……成瀬さん、苦しいです」
私は成瀬さんに言いますが、成瀬さんはその力を緩めようとはしませんでした。
「嫌だ。絶対に離さない。相川さんにはもう、どこへも行かせない。相川さんは確かにここにいる」
ただでさえ泣いていて体が火照っていた私は、成瀬さんの温かな腕の中は暑苦しく感じられました。けれど成瀬さんはそんなことには気付かないのか、はたまた気付いているけれど気にしていないのか、私たちの間のほんの僅かな隙間すらも埋めるように、空気を抜くように、その体をくっ付けてきます。
苦しいけれど、不快ではありませんでした。体の深いところがビリビリと痺れるようでしたが、とても安心できました。「相川さんは確かにここにいる」。そのような言葉をかけられるのを、私は心の底で求めていたのかもしれません。成瀬さんのその言葉が、何度も何度も、私の頭と心の間を行き来します。体の筋肉が自然と弛緩するのを感じます。溶けてしまうかと思われました。
しばらくして落ち着いた私たちは、その気恥ずかしさから少し離れて、床に座りました。私の手には成瀬さんが書いたノンフィクション小説風備忘録があり、成瀬さんはこちらを少し緊張したような様子で見つめます。成瀬さんの書いたこれは私を安心させる内容でしたが、それと同時に興味深い内容をしていました。なぜ私が別の世界で書いた備忘録はこの世界にもあるのでしょうか。なぜ継承されたのでしょうか。それだけではありません。なぜ私がはるか昔に別の世界で書いた小説もこの世界にもあるのでしょうか。あの夏の日に、倒れた私を介抱したときに成瀬さんが拾ったようでしたが、そもそもなぜこの世界にもあるのでしょうか。現時点であの小説は三つの世界すべてに存在することになります。成瀬さんが死んだ世界にあるオリジナル。成瀬さんが死のうとしなかった世界にある複製。この世界にある複製。残念ながら何もわかりませんでした。
それよりも、と私は思い出します。成瀬さんは私を苦しめる世界の切り替わりを理解してくれたようでしたが、あの日お墓で別の世界へと移動した私に何があったのかは、まだ備忘録として書いていないため伝えられていません。伝えなければなりません。私は立ち上がると学習机の方へと向かいます。
「相川さん、どうしたの?」
成瀬さんのその問いかけに、私は椅子に座りながら答えます。
「これから、備忘録の続きを書きます。そしてあの日、お墓で成瀬さんから逃げてしまったその原因となった出来事も言葉にします。読んでくれますか?」
「もちろん」
間髪入れずに成瀬さんは答えます。その言葉に私は頼もしさを感じました。
机の引き出しからルーズリーフとシャーペンを取り出します。そして私は一呼吸置いて、書き始めました。
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