第3+3*2話A

 目が覚めました。感じるのは、いつもとは違う感触のベッドと、どこからか漏れてきたであろう光にぼんやりと照らされた天井と、快適な温度の空気だけでした。私ははっきりとしない頭を必死に回転させ、状況を把握しようとします。ここはどこでしょうか?

 上体を起こしてあたりを見回します。ベッドには転落防止用の柵があり、壁からは淡くオレンジ色に光る押しボタンが垂れ下がり、ベッドの側の机の上では眼鏡がかすかな光を反射していました。その眼鏡をつかみ、かけ、クリアになった視界でもう一度見回します。ここは……病院です。やはりそういうことなのですね、と私は微笑むと、もう一度ベッドに横になりました。

「気が付きましたが、ナースコールはもう少し待ってください」

 とつぶやきながら。


 三つの世界によって構成されたこの世は、それを指摘されると切り替わるようになっている、ということがわかりました。予想していた通りの結果に、私はうれしくなります。

 ここでもう一度、この世界の不可解さを口にすれば、成瀬さんのいる秋へと移動することができるでしょう。しかし少し冷静になるべきです。いまの私は自覚できるほどに興奮していて、そして興奮しているときの判断は大抵ろくなことにならないものです。私が死のうとしたときのように。

 この世界の切り替わりに関してほんの少し理解が深まりましたが、まだわからないことはあります。なぜ「君の小説」や「きみの物語」に対しても切り替わったのでしょうか。これらはこの世界の不可解さとどのように関係しているのでしょうか。この世界は一体、なんなのでしょうか。

 興味がありました。私を散々苦しめたこの「世界の切り替わり」がどういったものなのか。そして、どうすれば私はまた成瀬さんとの完璧な日常へと戻り、そのままそこで安心して過ごすことができるのか。考えなければなりません。調べなければなりません。しかしその前に、比較的簡単にできる、それでいて重要なことがあります。あの夏の日から私がいままでに経験したすべてを記録しておくことです。記録なくして分析も何もありません。私はこの生活を忘れてしまうわけにはいかないのです。


 私は起き上がると、壁から垂れ下がる押しボタンを掴み、強く押し込みました。



 あの日から半月ほどが、夏休みが明けてから一週間ほどが経ちました。この半月の間に、この出来事はある種の小説としてでき上がっていました。何も書けないことに苦しんでいた私が彼女と出会い、しかし出会わなかったことになり半月を過ごし、かと思えばあの日に時間が巻き戻る。そして切り替わるその三つの世界に翻弄されながらも、切り替わりに法則性を見つけ、いざ理想的な世界へ——。そのような、フィクションにしか見えないノンフィクション小説としてでき上がっていたのでした。……そう、いままさにあなたが読んでいるこれのことです、なんてね。

 しかし依然としてわからないことがありました。なぜ世界の不可解な点を指摘すると、世界は切り替わるのでしょうか。この壊れたような世界を、神は人間に気付かれたくないのでしょうか。しかし世界は一時的に切り替わるだけで、気付かれたという事実は消えていません。実際、一巡するとまた気付かれた世界の続きへと戻っているのですから。気付かれたくないのであれば、気付かれた瞬間にその世界の過去を元にした別の世界へと移動する、ということを何度も繰り返すようにしなければいけないでしょう。そして、私というすべてを記憶した存在はいてはいけないはずです。

 また、なぜ「君の小説」や「きみの物語」というフレーズにも反応するのかもわからないままでした。不可解な、けれど真実であることを指摘されると切り替わる、という仮説が正しいとすれば、成瀬さんは私に小説のネタを提供するためだけの存在ということになります。そしてあのおじいさんは、私の人生という物語に登場するためだけの存在ということになります。しかし成瀬さんもあのおじいさんも、それだけの存在でないことは常識的に明らかです。

 そしてまた別の不可解な点が。病院から帰宅した私は、私の部屋の机の上に、あの「君に恋する夏の海」が置かれているのを見つけました。それを書いたのはこの世界での出来事ではありません。一つ前の、彼女と出会おうとしなかったために彼女が死んでしまい、私が引きこもった世界での出来事だったはずです。だというのになぜ、この世界に存在するのでしょうか。世界の切り替わりで継承されるのは私の記憶だけではないということなのでしょうか。どうにもわかりません。

 いくらか情報が整理できたとはいえ、いまの私も何もわかっていないことに関しては変わりはありません。もう少し、考える時間が必要かもしれません。とりあえず、備忘録としてのノンフィクション小説を現時点まで書き上げたということで、意味のある半月でした。相変わらず退屈で退屈で退屈な半月ではありましたが。

 いやしかし、あの夏の日に唐突に湧き出た小説を書きたいという欲求が、このような形で解消されることになろうとは思ってもみませんでした。私が書きたかった小説とは、別にフィクションでなくノンフィクションであっても構わなかったのですね。我ながらよくわからない欲求です。


 その日の朝のことでした。

「はーい。みんな、席着いてー」

 教室へやってきた担任の先生は、いつものように騒がしいクラスメートたちをなだめます。しかしその声は、私の心のざわめきを静めることはできませんでした。窓際最後尾の席に着く私は、後ろを振り返ります。そこには昨日まではなかった机と椅子のセットが、成瀬さんのための席がありました。私がいまいるここは、正確には、元窓際最後尾の席なのでした。

「今日はみなさんに、転校生の紹介をしまーす。だから注目ー」

 その言葉を受け、教室は水を打ったかのように静まり返りました。やはりそういうことですよね、と私は前に向き直ります。きっとおそらく、私を含めたみんなが疑問に思っているでしょう。「なんでこんな時期に」と。夏休みが明けてから一週間が経過したこの時期に転校とは、どう考えても不自然です。結局、成瀬さんはなぜこんな時期に転校して来たのでしょうか。満を持して次の世界へ行ったときに聞いてみることにしましょうか。

 担任の先生は静まった教室に満足そうに頷くと、扉の向こう、廊下にガラス越しに目配せをします。するとガラガラという音をたててゆっくりと扉が開き、成瀬さんが中に入ってきました。丁寧に扉を閉めたあと、教壇へ登り、教卓のところまで歩いていく成瀬さん。静かな教室にその足音だけが響きます。白い肌と短めの黒い髪、すらっとした体型。こちらに顔を向けると、ぺこりとおじぎをします。

「成瀬奈留です。どうぞよろしく」

 その簡素すぎる挨拶に、私は成瀬さんが間違いなく生きていることを実感し、うれしくなります。

「というわけで成瀬さんです。仲良くしてあげてねー。席は用意しておいたから。あそこ。相川さんの後ろね。窓際の新たな最後尾。あ、目、悪いとかない? 最後尾でも黒板見える?」

「大丈夫です」

 彼女は先生に軽くおじぎをすると、こちらへ近付いてきます。こちらへ、私の後ろの席へ、私の近くへ。私は成瀬さんから目をそらします。なんだか、成瀬さんの顔をまともに見れるような感じではありませんでした。こちらへ近付く彼女はその途中で足を止めることなく、私の横を風を切りながら通り過ぎ、私のすぐ後ろの席へ着きました。

 その瞬間、私は理解しました。私とこの成瀬さんは赤の他人であるというその事実を。成瀬さんとこの成瀬さんは赤の他人であるというその事実を。私と成瀬さんのあの日常は、完璧な尊い日常は、この世界においてはもとから存在しないものなのでした。私のことを何も知らないこの成瀬さんと、成瀬さんのことを一方的に知っている私。その構図は醜い片思いかのようでした。


 昼休みになりました。成瀬さんは、物珍しさやその外見のよさによってか、多くの人に声をかけられていました。そして昼食の誘いを受け、彼女はどこかへ行きました。行ってしまいました。私は登校中にコンビニで買ってきたコッペパンを机の上に置き、昼食を開始します。いつものよう、ではありません。いつもは成瀬さんと一緒に食べていましたから。しかしその成瀬さんはこの世界にはいないのですから。

 独りだといつにも増してすぐに食べ終えてしまいました。成瀬さんはまだ帰ってきません。きっと今頃、食堂かどこかで他のクラスメートと仲良くしていることでしょう。この気持ちはなんでしょうか。別にこの世界において、成瀬さんがどうしようが勝手です。なぜなら私たちはこの世界においては初対面なのですから。私はこの世界の成瀬さんにとってはただの陰気な隣人なのですから。

 あの世界で私が成瀬さんと仲良くなれたのは、事前にあの森で出会っていたからだったのですね。自殺を止めたことによって好感を与えていたのでしょうか。それともあの場での私との会話が、成瀬さんにとって心地良いものだったのでしょうか。一体どうすれば私は、この世界においても成瀬さんと仲良くなれるのでしょうか。この世界は諦めて早々に次の世界へ行ってしまえば、私を好いてくれる成瀬さんのいる世界へ行ってしまえば、いいのかもしれません。しかしどうしてもそのようなことはできませんでした。きっとその世界へ行ったとしても、私を好いてくれないこの世界の成瀬さんのことを、そしてそんな成瀬さんがいたこの世界を思い出して、悩んでしまうことになると思われました。この世界において成瀬さんがどうしようが、それは成瀬さんの勝手です。しかしそれはそれとして、私はこの世界でも成瀬さんと仲良くなりたいのです。世界なんていうものを越えて、成瀬さんと仲良くしたいのです。そう思ってしまう私を、誰が責められるでしょうか。

 しかし私は、この世界の成瀬さんにかける言葉を見つけられませんでした。この世界の成瀬さんはとても活発で、一人でいることよりも友達とつるむほうが好きなようでした。あの世界の成瀬さんとはまったく違っていました。意外ではありましたがそれは十分に予見できたはずのことでした。この世界では成瀬さんは自殺しようと森へ行っていないのですから、この程度の違いなんてものは誤差と言えてしまうのでしょう。


 残念なことに暇な昼休みや放課後、私は教室の自分の席で、このノンフィクション小説のような形式の備忘録を書いたり、「君に恋する夏の海」を読み返したりして時間を潰していました。情報は整理し切りましたが、何もわかりませんでした。考える時間は十二分にありましたが、考えても考えても、何もわからないままなのでした。

 私は心の中で、

「切り替わる三つの世界と、この私。彼女を求め、次の世界へ」

 とつぶやきました。当然、それでも何もわからないままなのでした。

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