第2+3*2話
目が覚めました。感じるのは、いつもとは違う感触のベッドと、どこからか漏れてきたであろう光にぼんやりと照らされた天井と、快適な温度の空気だけでした。私ははっきりとしない頭を必死に回転させ、状況を把握しようとします。ここはどこでしょうか?
上体を起こしてあたりを見回そうとすると、後頭部がズキンと痛み、私は思わず顔をしかめました。そこに手をやると、少しひんやりとしています。なんでしょうかと思い先程まで頭を置いていた枕の位置を見ると、ちょうどそこには水枕が置かれていました。また、もう少し辺りを見回してみると、ベッドには転落防止用の柵があり、壁からは淡くオレンジ色に光る押しボタンが垂れ下がり、ベッドの側の机の上では眼鏡がかすかな光を反射していました。その眼鏡をつかみ、かけます。クリアになった視界。私はテーブルの上に何かが書かれた紙切れが置いてあるのを見つけました。その紙切れを手に取り、目をこらします。「気が付いたらナースコールしてね」と、丁寧な文字で書かれていました。
それを読んだ私は、ここは病院であることを、貧血により神社で倒れた私は石畳に頭を打ち付けて気絶したことを、そしてこの世界にはもう成瀬さんがいないことを理解しました。私は押しボタンを掴み、しばし逡巡したあと、押しました。押そうが押すまいが、この世界の状況は変わってはくれないでしょうから。成瀬さんが生き返るなんてことはないでしょうから。……ないでしょうから。
世界と私との間に、ベールのようなものがある感覚がしました。看護師さんの話も親の話も、何もかもが不明瞭なものに感じられました。すべてを理解しているが故に、何もかもが嫌なのでした。
あの日からどれだけの時間が経過したでしょうか。もう長いことカレンダーも手帳も見ていないため、五日なのかはたまた三十日なのかわかりませんでした。この間、私はずっと、部屋からもまともに出ずに過ごしていました。私以外誰もいない、閉め切られた遮光カーテンによって暗い部屋の中、ベッドの上で胎児のように丸まって過ごしていました。何かをする気は到底起きませんでした。外へ出て、電車や他のいろいろなものに揺られる生活へ戻ることなどできるわけがありませんでした。それは底知れなく重い、無気力感によるものでした。
学校が派遣したのでしょうか。カウンセラーか何者かは知りませんが、スーツを着たおばさんが家に来て、この私と話をしようとしたことがありました。ヒビの入ったラムネ瓶でも見るかのようなその目は、寝たくないと駄々を込ねる子供に言い聞かせるかのようなその声音は、吐き気を催すほど気分のよくないものでした。けれどおばさんはなかなか帰ってくれませんでした。どうやら何も言わない私を、黙って話を聞いてくれるいい子だと思ったようでした。
私の心を深く沈めるこのことについて、誰かに相談するなんてできるはずもありませんでした。きっとこのおかしな世界について口に出したら、頭か心がおかしくなったと思われてしまうでしょうから。実際に私は、頭を強く打ち付けたあとにこうなったため、病院へ連れて行かれました。しかしMRIはただうるさいだけで、私の脳に異常は見つけませんでした。であれば次は心、となるのは容易に想像できました。私は、私のこの心までもがおかしなものであると否定されたくはありませんでした。だから私は口を噤み、できる限り健康体を演じました。それでも学校へは行けないのですから、私も駄目になったものです。
私の脳が正常であると示したMRI。であればこの世界の切り替わりは何によるものなのでしょうか。もしかすると本当に、この心がおかしいのでしょうか。すべてが気の狂った私の幻覚なんてことはあり得るのでしょうか。夏休み終盤のあの時点で私の気は狂っていた、なんてことはあり得るのでしょうか。短くはない私の人生は、幻覚の類いとはまったくもって無縁でした。三つの世界を回るように経験することは果たして幻覚のうちに入るものなのでしょうか。私は本当に、どうしてしまったのでしょうか。恐ろしくて怖くて仕方がありません。
この世界へとやって来てから、他の世界に行ってしまうようなことはありませんでした。なぜでしょうか。なぜあれほどまでに頻繁に切り替わり私を苦しめたというのに、私が望んでいるときには切り替わってくれないのでしょうか。もう私は、この世界にはうんざりなのです。成瀬さんのいないこの世界には。
憂鬱でした。いまの私にとって成瀬さんは、完璧な日常の象徴でした。一緒に昼食をとり、一緒にお喋りをする。おかしな世界を忘れて。大事なものは失ってから気付くと言いますが、これほどまでとは思いませんでした。私には成瀬さんが必要なのでした。成瀬さんのいないこの世界には、もう価値などないのでした。
それもこれもあの日の私が、初めて世界の切り替わりを経験したあの私が、それに怯えて家から出なかったのが悪いのです。あの日、底知れなく暗い恐怖心に負けることなく外へ出て、電車に揺られ、通りを歩いて、神社へ行き、森で彼女と会っていれば、この状況は変えられたでしょう。怯えた私は、彼女を見殺しにしたのです。見殺しにしたのですよ。
もし仮にこの世界で私が死んだとしたら、どうなるのでしょうか。いつかのその疑問が、再び浮かんできました。どうやら私の心は、少なくとも自殺を考える程度にはおかしいようでした。
そんな日の朝のことでした。私はベッドから起き上がると、ベッドサイドテーブルの上に置かれた眼鏡をかけ、ふらつきながらも姿見の前へ向かいました。姿見には映ったもう一人の私。低い身長と、銀縁の眼鏡をかけた幼い顔。目の下には隈ができていて、長い髪はバラバラと乱れていました。その姿は紛うことなき妖怪でした。私が右を向くと妖怪は向きを変え、左を向くと妖怪もまた向きを変えます。そして私が顔を歪めると、妖怪はその醜悪な顔を歪めて牙を見せます。それを見て満足した私は、制服を着て、準備しておいた鞄を掴みました。私は外へ出ることにしたのです。部屋の外へ、家の外へ、街の外へ、出ることにしたのです。神社の森へ行くことにしたのです。死ぬことにしたのです。
私も彼女がしたように、お気に入りのもので身を着飾ろうかと思っていました。しかし私服でこの家から出ては、親に不審に思われてしまいます。ですので私は渋々、こうして制服に身を包み、学校へ行くフリをして家の外へ出るのでした。
学校へ久しぶりに行こうとしていると勘違いした母は、安堵したような笑みを浮かべていました。その笑みは、学校へ行けていない私への負の感情の裏返しであり、気分のいいものではありませんでした。しかし少し滑稽でもありました。
「行ってらっしゃい」
「うん、逝ってきます」
私はこのときほど、「行く」と「逝く」が同じ発音であることをありがたく思ったことはありませんでした。フィナーレを前に、胸が高なりました。
私は、乾燥した空気を肺に出し入れしながら抜けるような青空の下をしばらく歩き、駅に着きました。かじかんだ手に息を吐きかけます。鞄から財布を取り出し、その中から小銭をつまんで券売機に入れます。券売機は死への切符を吐き出し、私はそれをなくしてしまわないように、親指と人差し指で強く挟むように持ちました。そして財布を鞄へと放り込みました。
電車の中は暖房が効いていて、冬の到来を感じました。体の筋肉が自然と弛緩するのを感じます。暖かさで冬を感じるなんて冬に怒られてしまいそうです、と私は身震いしました。あたりを見渡すと人はまばらで席はあいていましたが、私はドアから少し離れたところに立っていることにしました。
しばらく電車に揺られているとだいぶ気持ちが上向いてきて、私は、引きこもっていた頃にはまともに考えられなかった彼女、成瀬さんのことについて、考え始めました。彼女が死のうとした理由は結局なんだったのでしょうか。その理由すらも、私は知りません。感情と理性の上下関係は、自殺とどういった関係があったのでしょうか。
あぁそういえば、と私は思い出します。彼女は私に、「私を忘れなければ夜が寝苦しくなる」と言いましたっけ。そして私は、「忘れなくても大丈夫なようにする」と答えましたっけ。結局私はあれ以来、完璧な日常を謳歌できていた頃を除き、まともに眠れた試しがありません。寝付いたとしてもまたすぐに覚醒してしまうのです。残念ながら大丈夫なんかではありません。過去の私は随分と調子のいいことを言ってのけましたね。
切符の存在を確かめるように握りつつ、窓の外を流れていく景色を眺めます。住宅街を抜け、短いトンネルを抜け、稲刈りの終わった茶色い田んぼへ出ました。それからまたしばらくすると住宅街へと入りました。運転手の怠そうな声が聞こえてきます。
「次はぁ神社前、神社前ぇ」
しばらくしたあと、電車は駅になめらかに止まりました。私は冬へと降り立ちました。歓迎するかのような寒さが、私の体を強く叩きました。
電車から降りた私は、神社へ向かおうと通りを歩き始めます。駐車場、住宅、駐車場、蕎麦屋、また駐車場……。お馴染となった順番に鼻歌を歌いたくなります。通りを行く人の数は少ないです。歌ったとしても咎められることはないでしょう。しかし私は我慢して、鳥居の赤に向かって真っ直ぐに進んでいきました。
軽くお辞儀をしたあと鳥居をくぐり、手と口を清め、二礼二拍手一礼をし、私は少し落ち着きました。私は、豪華な拝殿の後ろにある森が風を受けて鳴らすざぁざぁという音に耳を傾けます。その音は私を拒むかのようでした。そのように感じるのは、私が無意識のうちにここで死ぬことを躊躇っているからでしょうか。たしかに、神社で自殺なんて罰当たりなことこの上ないでしょう。しかし私はここ以外、死ねそうな場所を、死ぬのに相応しい場所を知りませんでした。そもそも私は、どこかを「自殺場所」として見ることはせずに過ごしてきました。なんと平和なことでしょうか。しかしそれはいまの私にとっては面倒なことでした。惰性で神聖な場所を死に場所として選んだ私を、神様はどう思うでしょうか。なんて、おかしな話です。この壊れた世界に神なんているのでしょうか。いたとしてその神は、この壊れた世界と、それに苦しむこの私をどう思うのでしょうか。きっとその神には、死のうとする私を「止める」権利なんてものはないでしょう。そんなことを思いながら私は森の中へと入っていきました。
彼女が死んだ場所だというのに、森の中へは普通に入ることができてしまいました。所詮は、人一人の死なんてこの程度ということなのでしょうか。それとも、もう神話として風化してしまったのでしょうか。どちらにせよ、私の機嫌を損ねるのには十分すぎるほどでした。気分の悪くなった私は、分かれ道では細くて先が暗い方を選んで、ずんずんと進んでいきました。
どれだけ歩いたでしょうか。随分と森の奥深くまで入ってしまったと思われました。しかしそんなこと、この私にとってはもうどうでもいいことでした。私は立ち止まると、目を閉じ、私を取り巻く世界を感じます。ざぁざぁという私を拒む音。これ以上ないほどリアルな立体音響でした。当たり前です。
あらかじめ手頃な長さに切っておいた梱包用のビニール紐を鞄から取り出して、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いていきます。紐が届く程度には低く、足が付いてしまわない程度には高い絶妙な高さの枝はないでしょうか。しばらくして、これはと思えるような枝を見つけた私は草をかき分けてそちらへ向かいます。ガサガサという草をかき分ける音が馬鹿みたいに響きます。しかしどれだけうるさく響いても、辿り着くためであればどうでもいいのでした。細い枝か何かが私の脚を引っかき、まだ乾いていない朝露が冷たく感じられましたが、私は気にせずずんずんと進みました。
紐の長さが足りませんでした。首をくくるだけだからと短く切ったのが間違いでした。私は肺に溜まった汚泥を吐き出すかのように息を深く吐き、どこかにもっとよさそうな枝はないでしょうか、とまた周囲を見回します。すると景色がぼんやりと霞み、ぐらりと揺れ、私は草の上に倒れてしまいました。冷たい朝露が頬を濡らします。まるで涙のような感触のそれは、本物の涙を誘いました。熱い涙が頬を濡らします。ふと、いまに至るまで涙の一粒も流していなかったことを思い出しました。私は倒れたまま、静かに涙を流し続けます。声を出して泣き喚くような、そんな活力はどこにもありませんでした。暑くて頭痛がして、苦しいです。本当は泣きたくなんてありませんでした。
もう冬でした。背の高い木々の枝葉の隙間から見える空は、小さくて青白くてどうしようもなく小さなものでした。しばらくすると体が寒さを思い出し、鳥肌がたちます。このまま凍死できたらどれだけいいでしょうかと震えながら思いましたが、この程度の寒さでは、せいぜい霜焼けになったりお腹を下したりするだけだと思われました。
泣いているうちに私はある程度落ち着きを取り戻し、涙の枯れたいまはもう完全に冷め、覚め、そして、怒りに似た感情すらも湧き上がってきていました。なぜ私が泣かなければならないのでしょうか。そもそもなぜ世界は切り替わるのでしょうか。この世界は一体、なんなのでしょうか。
三つの世界すべてが、狂ってしまった私が見ている夢だったとしても、何かしらの法則のようなものがあってもおかしくはありません……と考えるのは不自然でしょうか。しかし実際に三つの世界を順番に巡っていることを考えると、何かを見出せそうな気がしてきます。彼女と出会い、のちに再会した世界。彼女と出会おうとせず彼女が死んだ世界。彼女と出会えなかった世界。いまに至るまで私は計七回の切り替わりを経験しています。その七回に法則性のようなものはあったでしょうか。
「……私はきっと、君の小説のためだけにいるんだ」
彼女は言いました。私の小説にネタを提供するためだけの存在であると、自身を表現しました。その直後、世界は初めて切り替わりました。
「あの白昼夢の世界は、何かがおかしいです」
私は、彼女と出会った白昼夢がただの白昼夢ではないものだと気付き、そのようにつぶやきました。その直後、世界はまた切り替わりました。二度目でした。
「……わしはきっと、きみの物語のためだけにいるんだ」
おじいさんは自身を、私の人生という物語の登場人物であると表現しました。その直後、世界は再び切り替わりました。三度目です。これは最初の彼女の言葉と似ていますが意味は異なります。しかし意味は異なりますが、言葉は似ています。
「この夢の世界は、何かがおかしいです」
私はそのように吐き出しました。それは、いまいる世界が夢にしても不可解であると気付いたためです。その直後、世界は四度目の切り替わりを迎えました。
「この夢の世界は絶対に、何かが、おかしいです」
得た気付きが確信へと変わり、私はつぶやきました。「おかしい」というそのフレーズを受けて、世界は五度目の切り替わりを迎えたのでしょうか。
「三つの世界と一人の私……」
推測によってひとつの事実が判明し、私はそのようにこぼしました。世界の事実を口にした直後、世界は切り替わったのです。六度目でした。
「……もしかしてあなたは、別の世界の私を知っているのですか?」
私から成瀬さんへのその質問の直後、世界は七度目の切り替わりを迎え、私はこの世界へとやって来ました。世界への言及の直後のことです。
七回の切り替わりはすべて、私自身を含めた誰かが私の前で何かを言ったあとに起きています。そしてそのうちの五回は、私がこの世界の不可解を口にしているという点で共通しています。
もしいま、この私がこの場で、この世界の不可解を口にしたとしたら、世界は切り替わるのでしょうか。あの夏の日の夕方に、駅のホームで倒れた後の時点に移動するということでしょうか。試してみる価値はあるかもしれません。失敗し、この世界のままだったとしても、失うものはありませんから。成功し、その世界へと移動したなら、むしろ死に損ないの現状よりははるかにましな状況だと言えてしまいますから。安易に世界を切り替えるべきではないと私の直感が警鐘を鳴らしますが、試してみなければ何もわからないままです。
私は倒れたまま、小さくて青白くてどうしようもなく小さな空を睨み付けます。もう失うものなんてありません。私は大きく息を吐き、そして大きく吸います。肺に清浄な空気を取り込むために。冬の空気は期待通りに澄み切っていて、おいしかったです。もう失うものなんて、このおいしい冬の空気くらいなものでしょうね。あの夏へ、そして成瀬さんのいるあの秋へ、私は行くのですから。
「切り替わる三つの世界とこの私」
その言葉に込めた熱が、冬の冷たさを少しだけ溶かしたような気がしました。そして、私は落ちていきました。体はそのままに心だけが、意識だけが倒れて落ちていきました。下へ。深みへ。……あの夏へ。
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