第3+3話?

 目が覚めました。感じるのは、いつもとは違う感触のベッドと、どこからか漏れてきたであろう光にぼんやりと照らされた天井と、快適な温度の空気だけでした。私ははっきりとしない頭を必死に回転させ、状況を把握しようとします。目が覚めたということはつまり、いまのいままで私は眠っていたということです。このベッドで。

 ここはどこでしょうか。私は上体を起こし、辺りを見回します。薄暗くそして眼鏡がないために視界は悪く、はっきりとはわかりませんでしたが、それでも、「見知らぬ場所」であるとわかるほどには我が家とは雰囲気が違っていました。ベッドには、転落防止用と思われる柵が取り付けられていました。とりあえず眼鏡をと思い目を細めて探します。するとすぐに、ベッドの側のテーブルの上でかすかな光を反射しているのを見つけました。その眼鏡を掴み、かけます。視界はクリアになり、私はそのテーブルの上に何かが書かれた紙切れが置いてあるのを見つけました。その紙切れを手に取り、目をこらします。「気が付いたらナースコールしてね」と、丁寧な文字で書かれていました。

 それを読んだ私は、ここは病院であることを、駅のホームで倒れた私がここに運び込まれたことを、そして意識がない間に夜になっていたことを理解しました。壁から垂れている、淡くオレンジ色に光る押しボタンを見ます。これが看護師さんを呼ぶためのものでしょう。私はそれを掴み、しばし逡巡したあと、押しました。押そうが押すまいが、私の状況は変わってはくれないでしょうから。三つに別れた世界は元に戻ってはくれないでしょうから。何かが都合よく解決するようなことはないでしょうから。……ないでしょうから。

 世界と私との間に、ベールのようなものがある感覚がしました。看護師さんの話も親の話も、何もかもが不明瞭なものに感じられました。何もわかりませんでした。



 あの日から半月ほどが、夏休みが明けてから一週間ほどが経ちました。この半月の間に、あの夏の日の出来事はある種のお伽話と化していました。何も書けないことに苦しんでいた私が彼女と出会い、しかし出会わなかったことになり半月を過ごし、かと思えばあの日に時間が巻き戻る。意味のわからないそれは事実だとそのときは考えられましたが、いまとなってはどうでもいいことでした。わかりませんでした。理解できませんでした。だからわかろうとしませんでした。理解しようとしませんでした。……理解しようとさえしなければなんの問題もありませんでした。あれ以降、他の世界に行ってしまうようなことはありませんでした。心の中であの出来事をなかったことにさえしてしまえば、もうそれで、完璧な日常へと戻ることができるのです。「あぁそんなこともありましたね。でもよくわからないです」と。その当時は心を奪われていた、けれどいまとなってはもうどうでもいい。そういう意味で、あの出来事はお伽話と化していたのでした。

 忙しくはなく、暇な、暇だと嘆きたくなるほどの半月でした。退屈で退屈で退屈な半月でした。なぜなら私はもうこの半月を経験したことがあるからです。私が過去に経験した半月とこの半月は、とてもよく似ていたのです。クラスメートも先生も、すでに私は聞いた夏休みの間の出来事を、面白おかしく話していました。気味が悪くなるほどでした。

 しかし今日からは違います。今日からはまだ経験したことのない日々です。あとは私が、あの夏の日の出来事を忘れれば、「完璧な日常」なのです。


 その日の朝のことでした。

「はーい。みんな、席着いてー」

 教室へやってきた担任の先生は、いつものように騒がしいクラスメートたちをなだめます。しかしなぜでしょうか。その先生自身も、いつもよりどこか浮かれているような、落ち着いていないような様子に見えました。クラスメートの表情をしきりに確認しています。その理由はすぐにわかりました。

「今日はみなさんに、転校生の紹介をしまーす。だから注目ー」

 その言葉を受け、教室は水を打ったかのように静まり返りました。きっとおそらく、私を含めたみんなが疑問に思っているでしょう。「なんでこんな時期に」と。夏休みが明けてから一週間が経過したこの時期に転校とは、どう考えても不自然です。

 窓際最後尾の席に着く私は、後ろを振り返ります。そこには昨日まではなかった机と椅子のセットがありました。私がいまいるここは、正確には、元窓際最後尾の席なのでした。そういうことだったのですね、と私は納得し、前に向き直ります。

 担任の先生は静まった教室に満足そうに頷くと、扉の向こう、廊下にいるだろう転校生にガラス越しに目配せをします。するとガラガラという音をたててゆっくりと扉が開き、女の子が中に入ってきました。女の子は丁寧に扉を閉めたあと、教壇へ登り、教卓のところまで歩いていきます。静かな教室にその足音だけが響きます。白い肌と短めの黒い髪、すらっとした体型。こちらに顔を向けると、ぺこりとおじぎをします。

「成瀬奈留です。どうぞよろしく」

 彼女でした。あの夏の日に私と出会った彼女でした。あの夏の日に首を吊ったという話の彼女でした。あの夏の日に、どうしても会えなかった彼女でした。わかりませんでした。理解できませんでした。

 私はわかろうとしてきませんでした。理解しようとしてきませんでした。目を背け続けてきました。あの事実から、三つの世界から、そして彼女から。視界に入れなければなんの問題もありませんでした。しかしいま、あの事実は、三つの世界は、そして彼女は、音をたてながら私の目の前に現れたのです。いまの私の心にあるのは、「やっとあなたの名前を知ることができた」というような喜びとはまったく別種の感情でした。

 状況を理解できていない私を置いて、話は進んでいきます。担任の先生は言いました。

「というわけで成瀬さんです。仲良くしてあげてねー。席は用意しておいたから。あそこ。相川さんの後ろね。窓際の新たな最後尾。あ、目、悪いとかない? 最後尾でも黒板見える?」

「大丈夫です」

 彼女は先生に軽くおじぎをすると、こちらへ近付いてきます。こちらへ、私の後ろの席へ、私の近くへ。私は彼女へ向けていた目を伏せました。なぜならここは、三つ目の世界であり、六つ目の世界であり、彼女を探したけれども見つけられなかった世界だからです。私と彼女は赤の他人であるというその事実を忘れてはなりません。そもそもあの夏の日に森へ行かなかった彼女は、私の知っている彼女ではありません。彼女と彼女もまた、赤の他人なのです。

 こちらへ近付く彼女はその途中で足を止めました。私は気になりましたが視線は下に伏せたままにします。

「どうかしたー?」

「……いえ、別に」

 担任の先生の声に彼女は答え、再び足を進めます。そして私の横を通り過ぎ、私のすぐ後ろの席へ着きました。


 昼休みになりました。彼女は、物珍しさやその外見のよさによってか、多くの人に声をかけられ、昼食の誘いを受けていました。しかし彼女は誘いのすべてに対し、「私はいいです」と断っていました。そんな無愛想な様子ではできる友達もできないだろうと思われましたが、私が彼女の人間関係を心配する義理はありません。なぜなら私と彼女は赤の他人なのですから。私はいつものように、登校中にコンビニで買ってきたコッペパンを机の上に置き、昼食を開始しました。

 パンの最後のひとかけらを咀嚼し、水筒の水で流し込みます。憂鬱でした。いまの私にとってすぐ後ろにいる彼女は、あの出来事の象徴でした。忘れようとしてきた「意味がわからない」という恐怖がいま、再び私にその触手を伸ばしてきているのです。もしかしたら明日、また別の世界へと行ってしまうかもしれません。それだけで私の心は、固く、鈍く、萎縮するのです。

「……あの」

 もし仮に、また、こことは別の世界へと行ってしまうことがあるとするならば、その「次」はどの世界のどの時点になるでしょうか。ここは彼女を見つけられなかった世界です。三つの世界を順番通りに巡っているとすれば、次は彼女と出会った世界の、彼女とおじいさんの前で倒れている時点になるでしょうか。

「……あの!」

 後ろから声が聞こえました。もしかして私にかけられた声でしょうか、と、私は恐る恐る後ろを振り返ります。

「すみません、いきなり。私、成瀬奈留です。よろしく」

 どうやら彼女が私に対してかけた声だったようで、彼女は丁寧に私にそのように自己紹介をし、微笑みました。私は彼女に平静を装った自己紹介を返します。

「あぁいえ、すみませんこちらこそ、名乗らずに。私は相川藍海です」

「相川藍海、さん」

 その私の自己紹介に、彼女はしばし固まります。

「えぇ。どうかしましたか?」

 私が聞き返すと彼女は首を横に振り、

「……いえ、なんでも。ただ、なんとなく名前の雰囲気が似ているなぁと。私たち」

 と言いました。ただ私の名前が不思議だから、というよくある理由での硬直で私は安心しました。もしこれが、「私は別の世界の君を知っている」なんてことになったとしたら、私の頭はその場でパンクしてしまうでしょうから。

「あぁ、名字と名前が似ているところがおんなじですね」

「名前の雰囲気が似た者同士、よろしく。相川藍海さん」

「えぇ、こちらこそよろしくお願いします。成瀬奈留さん」

 彼女は私に向かって微笑みました。私は彼女の鼻に向かって微笑み返しました。目を見ることなんてできませんでした。あのときが思い起こされてしまうからです。あのときの彼女の、貼り付けられたかのような笑顔が。あのときの彼女の、無気力なような無感動なような暗い眼差しが。あのときの彼女の、私の創作の背中を押すかのような微笑みが。そしてなにより、そのあとに私の身に襲いかかってきたあの不可解な出来事が。彼女がいると、私は世界が怖くなってしまうのです。



 成瀬さんが私の学校へ転校してきた次の日の朝。私は今後のことを考えながら、駅から学校までの長くない道を歩いていました。周りには、私と同じように駅から学校へと向かう制服姿の人たちがいます。騒がしい彼ら彼女らを見て私は、「朝から元気そうで何よりです」とため息をこぼします。

 私にあの出来事を思い起こさせる成瀬さんの存在は、なかなかにつらいものです。しかしながら成瀬さんに非はありませんし、そもそも例の彼女は成瀬さんと別の人であると考えるべき存在です。森へ行った彼女と行かなかった成瀬さん。死のうとした彼女と死のうとしなかった成瀬さん。……私の背を押してくれた彼女と昨日出会ったばかりの成瀬さん。彼女と成瀬さんは別の人であり、成瀬さんと彼女は別の人であるのです。とはいえ、成瀬さんが彼女を想起させるのは当然で、彼女があの出来事を想起させるのもまた当然で、それに私が苦しんでしまうのもまた仕方のないことです。

 私のすべきことはなんでしょうか。成瀬さんが私の席の近くに来てしまったことはもうどうしようもありません。成瀬さんの視力が悪かったらまた違ったのでしょうけれど、そんなことを考えても無駄でしかありません。こうなってしまった以上、成瀬さんとは普通に関わるべきでしょう。そしてそれとは別に、私はあの出来事をできる限り忘れるべきです。でなければ私は、いつまでも成瀬さんの顔をまともに見れません。あの出来事を忘れて、彼女を忘れて、完璧な日常へと戻るのです。成瀬さんがいるという点で少しだけいままでとは違う日常へと。昨日の昼休みの様子を見るに、成瀬さんは友達とつるむよりも一人でいることの方が好きなようでした。であれば私とも、積極的に関わろうとすることはないでしょう。隣人として最低限のフォローをするだけ。それだけであれば、平気です。

 そう思っていたというのに。

「おはよう。相川さん」

 そろそろ校門が見えてきたというところで、私は誰かに声をかけられました。その声がしたほうを振り返ると、彼女が……いえ、成瀬さんがいました。

「おはようございます、成瀬さん」

 私は少し驚きながらも挨拶を返します。まさか学校の外で会うことになるとは、当然あり得ることだというのに予想できていませんでした。成瀬さんは私を見て微笑むと言います。

「今日は一限目から体育らしいね? 疲れる」

「そうですね」

 適当に相槌を打ちつつ、成瀬さんの要件を予想する私。なんの要件もなしに、ただ見かけたから声をかけてきたのでしょうか。それとも何か要件があって話しかけ、その本題へ入る前に少し雑談をしただけなのでしょうか。私にとってありがたいのは後者でした。少なくともいまの私には、成瀬さんと馴れ合うだけの心の余裕がありません。私は成瀬さんの次の言葉に注意を向けます。

「……私まだ地理的なこと、詳しくなくて。体育館って、どうやって行くの?」

 少し気まずそうな様子の成瀬さん。私は安心します。これは、きちんと要件があっての会話でした。

「あぁ、そういうことでしたか。この学校、無駄に高低差のあるところに建っていますからねぇ。他の人についていけば問題ありません。HRが終わったらそういう雰囲気になるでしょう」

「じゃあ相川さんについていくね。頼りにしてる」

「そうですか」

 私は成瀬さんの鼻に向かって微笑みます。まだ目は見れませんでした。


 同日昼。私は今後のことを考えながら、コンビニで買ってきたちぎりパンを食べていました。成瀬さんは後ろで、何やらガサゴソと音をたてています。荷物を漁っているようです。今日も成瀬さんは、クラスメートからの昼食の誘いをすべて断っていました。結局、昨日は食堂で済ませたのでしょうか? せっかく相手から声がかかっているのですから、少しくらいは親睦を深めても悪くはないと思いましたが、他人のことなので私とは関係ありません。私は引き続きパンを口に放り込んでいきます。

 だというのに。

「こんにちは。相川さん」

 私は口の中のものを飲み込み、振り返ります。

「こんにちは、成瀬さん」

 声をかけてきたのは、他でもない、成瀬さんでした。成瀬さんは笑顔を浮かべます。

「せっかくだし、お昼、一緒にどう?」

「せっかくですがお断りします。私はいつもここで、自分の席で食べているので」

 私は成瀬さんの誘いを断ります。私の昼食はいつも、コンビニで買ったパンを自分の席で食べるというスタイルでした。食堂にわざわざ場所を移すのは手間でしたし、なにより、成瀬さんと馴れ合うつもりはありませんでした。

 すると成瀬さんは抱えていた鞄から、なにやら布に包まれたものを取り出して言います。

「私、昼、弁当なんだよね。だから私もここ。君の言う『自分の席』の一つ後ろの席」

 どうやら今日は昨日とは違い教室で昼食をとるようでした。私は少し考えます。成瀬さんには悪いですが、成瀬さんとのコミュニケーションは私に小さくない精神的苦痛をもたらします。しかしだからと言って、ここで断るのは不自然なことでしょう。せっかく相手から声がかかっているのですから、少しくらいは親睦を深めても悪くはないと考えるのが、隣人の自然な思考回路でしょう。

「そうですか、では一緒に。と言っても、私はもうすぐ食べ終えてしまいますが」

 私はその誘いを受けることにしました。私は椅子を動かしたあと、体を成瀬さんの方へ向けます。私の手の中には、パンの最後のひとかけらがありました。

「……もう?」

 成瀬さんは私の昼食にかける時間の短さに驚いていたようでした。私はその最後のひとかけらを口にし、その味へ意識を向けます。おいしいと感じられました。成瀬さんへ意識を向けることなどできませんでした。


 同日放課後。私は今後のことを考えながら、鞄の中を整理しようとしていました。しかしそんな私に声をかけてくる人がいました。

「こんにちは、相川さん」

「こんにちは成瀬さん」

 他でもありません。成瀬さんです。

「これから予定ある?」

 成瀬さんは笑顔でそう尋ねてきます。それに対し、私は当たり障りのないような返答をします。

「放課後はいつも暇しています。帰宅部なので」

「私も少なくともいまは帰宅部だから、暇なんだよね」

 私は成瀬さんの要件を推測します。要件はあるはずです。あるべきです。なければなりません。

「そうですか。すみません、よさげな部活を紹介できなくて。先生に頼めば何か部活一覧のような資料をもらえるかもしれませんよ」

 私が推測した成瀬さんの要件、それは、「放課後の過ごし方、特に部活について聞きたい」というものでした。そして私は成瀬さんとの関わりを避けるために、成瀬さんの関心を先生へと誘導します。

「あーいや。そういう意味で話しかけたわけじゃなくて」

 しかし成瀬さんは困ったように笑います。

「いろいろこの学校のこと、教えてもらえないかな、って」

 私はどのようにすれば、隣人として不自然ではない程度に成瀬さんとの関わりを浅くできるか考えます。考えて、私は次のように返しました。

「そういうことですか。……もっと適任がいる役割な気がとてもするのですが」

「適任?」

「えぇ、もっとクラスの中心的な人たちとか。少なくとも隅っこで机に齧り付いている私ではないと」

 私は申し訳なさそうに見えるように眉を曲げて言います。成瀬さんの関心を他のクラスメートへ誘導したつもりでした。しかし成瀬さんはしばし顔を逸らし、こちらに向き直ったときには、悲しい雰囲気を漂わせていました。どうやら私は少しやりすぎたようでした。

「もしかして私のこと、鬱陶しいって感じてる?」

 そんな成瀬さんに私は、早口で返します。

「そんなことはありません。ありませんよ? ただ、私にこだわっているのであればおすすめはしません。私には大したことはできませんから。こう言ってはなんですが、『友達は選んだほうがいい』ですよ?」

 すると成瀬さんは私の言葉に、少し険しい顔つきをします。

「どうしてそうやって自分を卑下するんだい?」

「卑下、ですか。私は別に、私が普通に適切ではないと感じただけですが」

「君は理性的なんだね。それも恐ろしいくらい。自分自身のことも客観的に把握できるくらい」

「そうでしょうか?」

「少なくとも感情的な理由での卑下ではない。どちらがましか、なんてことは私にはわからないが」

 成瀬さんは、私が自身を卑下したことを快く思わなかったようでした。たとえその卑下が、感情的なものではなく理性的な「判断」と呼べるようなものであったとしても。

 豹変というほどではない、けれど確かに変わった雰囲気に、私は成瀬さんの目を見ます。初めて見る成瀬さんの黒い目はとてもきれいでした。彼女の目と同じように。けれどその目は暗くなく生気が宿っていて、その点においては彼女とは違いました。

 心の中で何かが「かちり」という音をたててはまります。成瀬さんと彼女は、少なくともあるときまでは同じだったのです。そしてあるときから分岐し、別の人となったのです。であれば当然、同じこともあれば違うこともあり、違うこともあれば同じこともあります。ただそれだけだというのに、なぜそこまで恐れ怯えるのでしょうか。彼女に非がないことはわかっているというのに。私は世界の切り替わりを恐れるあまり、いつの間にか、成瀬さんという存在そのものを恐れてしまっていました。

「……それで、具体的にこの学校の何を知りたいんですか?」

 私は成瀬さんに尋ねます。

「おっ、そうだね。まずはぁ、七不思議かな?」

 成瀬さんは楽しそうに答えます。

「……すみません。七不思議は私も聞いたことがありません」

「ふふっ、冗談だよ。校内の案内は、生活していく上で覚えられるだろうからいいとして。行事を知りたいかな」

「行事ですか。そろそろ文化祭の話が出てくる頃じゃありませんかね」

「おぉいいね。実は私、前の学校では演劇部に所属しててね? その出し物で——」


 あの出来事を忘れなければ、いつまでも成瀬さんを避け続けることになる。私はそのように思っていましたが、それは少し違っていて。いつまでも成瀬さんを避け続けているようでは、あの出来事を忘れることなんてできないのです。いまの成瀬さんを受け入れることによって、あの出来事を忘れるのです。

 あなたと仲良くなりたい。私は素直にそう思いました。



 成瀬さんが私の学校へ転校してきてから半月ほどが経過したでしょうか。私は駅から学校までの長くない道を、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いていました。周りには、私と同じように駅から学校へと向かう制服姿の人たちがいます。賑やかな彼ら彼女らを見て私は、「朝から元気そうで何よりです」と小さく笑みをこぼします。そして私は再び、あの見慣れた頭を、女子よりも高く男子よりも低い絶妙な高さにあるあの頭を探し始めます。挙動不審かもしれません。しかしどれだけ怪しく見えたとしても、少しでも早く成瀬さんと会えるのであれば構いませんでした。

 しばらくしたあと、私は成瀬さんを見つけました。私は成瀬さんのもとへ駆け寄ります。足音が馬鹿みたいに大きく響いて、少し恥ずかしくなってしまいました。そういえば、変な寝癖はついていないでしょうね?

「おはようございます、成瀬さん?」

「おはよー相川さん」

 成瀬さんは私の方を振り返り微笑みます。いえ正確には、微笑んだ顔で私の方を振り返ります。きっと近づいてくる足音を聞いた時点でもう、それが私の足音であることに気がついているのでしょう。私はその成瀬さんの顔を見ながら、「私が成瀬さんへ話しかけた要件」を探します。要件はあるはずです。あるべきです。なければなりません。

「……一限目から体育ですが、体育館への行き方はもう大丈夫そうですか?」

「大丈夫、だと思う。まぁでも、別に相川さんから離れることはないから覚えてなくても問題ないね」

「そうですかそうですか」

 私の後付けの要件に成瀬さんはそのように答え、私はそれに頷きます。流石に半月もこの学校で生活していれば、勝手はわかってくるものでしょう。しかし半月しかこの学校で生活していないので、まだまだ自信はないのでしょう。そもそも自信というものの有無を気にしている時点で、それはまだ日常生活と呼べるものではないのでしょう。やはり私がそばにいなければならないようです。

「なんか悪いね。心配かけちゃって」

 成瀬さんは少し申し訳なさそうな声音でそう言います。

「そんなことはありません。ありませんよ? 隣人な私が勝手にいろいろと考えてしまっているだけです」

 そんな成瀬さんに私は、早口で返します。すると成瀬さんは何がおかしかったのか、ふふっと笑います。首を傾げる私に、成瀬さんは言いました。

「なんか相川さん、変わった? それとも、もともとはそんな感じ?」

 私は成瀬さんから目をそらします。なんだか、成瀬さんの顔をまともに見れるような感じではありませんでした。


 同日昼。成瀬さんの机へ向けた椅子に座った私は、コンビニで買ってきていたメロンパンの袋を手に持っていました。成瀬さんはガサゴソと鞄を漁っています。今日も私と成瀬さんは、教室で一緒に昼食をとるのでした。私は成瀬さんの用意が整うのを待ちます。

「どうしたの、相川さん? こっち見て」

 成瀬さんはそんな私の方を見ると怪訝な顔をします。

「どうもしていませんよ? 待っているだけです」

 私が答えると、成瀬さんは困り顔で笑いました。

「別に待たなくてもいいよ」

 それを聞いて、私の機嫌は少し斜めに傾きます。

「……私、食べるのが早いので、こうでもしないと『一緒に』食べることはできません。それでもいいんですか?」

「ごめんって。一緒に食べたい。……おまたせ」

 成瀬さんは私の不機嫌オーラを感じ取ったのか謝り、鞄から弁当箱を取り出します。私はそれに頷くと、一呼吸おいてから言います。

「それでは食べましょうか。いただきます」

「いただきます」

 それは、成瀬さんがいるという点において少しだけ違う、けれども完璧な日常でした。


「今日さ、もし暇だったら私の家、来ない?」

 そんな日の放課後のことでした。昼のように私は成瀬さんの席へ向けた椅子に座って、私たちは向かい合っていました。クラスの女子たちがきゃいきゃいとはしゃいでいるのを横目に、成瀬さんは私にそう言ったのです。

「えぇっと……突然ですね? 嬉しいですが」

 なんてことないような様子で私を家に誘った成瀬さんに対し、私は少しの驚きと嬉しさを感じてそのように返します。成瀬さんは「ごめん」と軽く謝り、このように続けました。

「……とは言っても大層な理由があるわけでもなくて。放課後の教室でお喋りっていうのも楽しいものではあるけど、たまには場所を変えてもいいんじゃないかなって。昨日、先生に見つかってお小言くらったし」

 成瀬さんは渋い顔をしてみせます。ここ最近、私たちは放課後の教室で二人でお喋りをして過ごしているのでした。部活動のこと、文化祭のこと、修学旅行のこと、みんなに好かれている先生や嫌われている先生のこと。しかし昨日、そんな私たちを見た通りがかりの先生に注意を受けたのでした。私はただ、転校してきたばかりのクラスメートにこの学校のことを教えていただけなのですが。成瀬さんはただ、転校してきたばかりで知らない学校のことをクラスメートに教えてもらっていただけなのですが。そのことをその先生に言うと納得したようでした。しかし誤解を与えてしまうような様子だったということには変わりありません。もし同じようなことが起きてしまったら? そのような心配のいらない成瀬さんの家という場所で放課後を過ごすという案はいいものでした。

「それもそうですね。……ふふふっ、わかりました。それでは今日は成瀬さんのお家で、ということで」

 なんていう風に考えてみましたが、私の心にあるこの感情はきっと、成瀬さんの家への純粋な興味でしょう。


 駅へ行き電車に乗り、電車に揺られ、駅へ着いた電車から降りました。涼しい秋の風が強く吹いてきて、私は髪を押さえます。九月下旬はもうすっかり秋なのでした。

 住宅街の、二台の車がぎりぎり通れるほどの幅の道を進みます。コンクリート塀、カーブミラー、電信柱。それらは私の家の近くにも当然あるものでしたが、どこかが異なるような気がしました。しかし、私にとっては何もかもが新鮮に感じるこの場所は、成瀬さんにとってはいつもの光景なのでしょう。私の一歩先を行く成瀬さんはリラックスしているように見えました。

 成瀬さんは歩きながら言います。

「家に行く前に、少しだけ寄り道してもいいかな?」

「構いませんよ。どちらへ?」

「我が家のお墓。一応習慣でね? 毎日、眺めるだけでもって」

「不思議な習慣ですね。でもいいことだと思います」

 私の一歩先を行く成瀬さんは、道を曲がりました。


 他人の家のお墓は、なんとも言えない空気をまとっていました。もとより墓地とは異様な場所で、そして、異様であるべき場所です。それは、碁盤の目のように区画が分けられた中で大きな墓石が立ち並んでいるから、というものもありましたし、そこに多くの人が眠っているから、というものもありました。しかしながらいまの私は、いままでにないほど、その「なんとも言えない空気」を感じ取っていました。それはもしかすると、この墓地には知り合いがいないからかもしれません。我が家のお墓がないこの墓地は、私とは無縁で、そして、無縁であるべき場所なのです。

 私は、目の前でお墓を見つめる成瀬さんから目をそらします。ちょうどそらした目線の先には、「猫等の動物を捨てないでください」という看板が建っていました。動物を捨てるというその行為がフィクションだけの話ではないというその事実を、私は初めて認識したかもしれません。

「ねぇ相川さん?」

 成瀬さんは私に声をかけました。

「なんでしょうか?」

 私はそらしていた目を成瀬さんの方へ向けます。目の前には成瀬さんが変わらず立っていて、けれど成瀬さんはこちらを見てはいませんでした。

「……どう切り出せばいいかな」

 成瀬さんはお墓を、正確には名前の刻まれた竿石の下の方を、その中に入っているものに思いを馳せるかのように見つめていました。特段明るくも暗くもない、至って普通と言えるような声音でした。

「何か言いにくいことでもあるんですか? あまり気を使わずに言ってしまって構いませんよ?」

 私は成瀬さんに、気楽そうに聞こえるだろう声音で尋ねます。実際には私は気楽ではありませんでした。なんとも言えない空気が私の肺を満たし、血液に溶け込み、全身を巡っているのでした。

 風が吹きました。私は思わず息を止めます。すると心臓の音が、私の体の中心で打たれる拍が、なんとも言えないものを全身へ送る拍が、やけに大きく聞こえるのでした。

 風が止む前に、成瀬さんはこちらに向き直り、口を開きました。

「そう。じゃあ言うよ。……あの夏の日、君はどうして死のうとしていた私を止めたの? ……いいや、止めようとはしていないね。結局あのときの君は、止めることも止めないこともせず、ただ何も知らないフリを、何もわからないフリをしていた。どうせ私が何をしでかそうとしていたかなんて、想像がついていたんだろう? どうしてそんな中途半端な行動を取ったの? そしていま、君はどうしてそれを覚えていないふりをしてくれているの?」

 風が止みました。この世界から、私の心臓が打つ拍と成瀬さんの声以外の音がすべて消えました。

「私は今頃、このお墓の中で黙っていることになっていた。でもあの森で君と出会ったから、そうはならなかった。君と学校で再開したとき、私は確かに結ばれた運命を感じた。……君はあの夏の日のことを私に聞いてこない。それは優しさかい? それとも——」

 目の前の成瀬さんは私の目を真っ直ぐに見つめます。睨むような雰囲気ではない、凄みなどは感じない眼差しでしたが、私は射抜かれたかのように感じてたじろぎます。

「……あなたはなぜ、あの夏の日の出来事を知っているのですか?」

 両足はしっかりと地を踏み締めているはずだというのに、私の体はどこかふわふわとふらふらとして、落ち着きませんでした。私は制服のスカートを握りながらそのように問いかけます。

「どういうこと?」

 眉をひそめた成瀬さんは首を傾げます。

「私とあなたは、あの夏の日、出会っていなかったはずです。この世界においては。……もしかしてあなたは、別の世界の私を知っているのですか?」

 そのように口にした瞬間、私は落ち始めました。体はそのままに心だけが、意識だけが倒れて落ち始めます。下へ。後ろへ。

 どういうことなのでしょうか。私には何もわかりませんでした。何も。誰かに首を締められたかのように、驚くほど急に息が苦しくなります。頭の中では、いままでの出来事が渦を巻いています。理解することを放棄し、完璧な日常を目指していた過去の私。成瀬さんと会ってもかたくなに目を背け続けていた私。あの夏の日の不可解な出来事をなかったことにするかのように、成瀬さんと仲良くなった過去の私。完璧な日常を謳歌していた過去の私。

「別の世界? なんのこと? 私はただ、一ヶ月くらい前のことを話してるだけだよ?」

「一ヶ月……。私は何か、致命的な勘違いをしてしまっていたようです」

 私はあの不可解な出来事を思い出します。目を背け続けてきたことを直視します。気分のいいものではありませんが、そんなことを気にしてはいられません。私はそもそもどのようにしてこの世界へとやってきたのでしょうか。この世界に来るまでに私はどのように世界を巡っていたでしょうか。ここは三つの世界のうちどの世界でしょうか。

「大丈夫? 顔色悪いよ?」

 目の前の成瀬さん……彼女は、心配そうに声をかけて、私の手を握ってきます。私はそれに、笑うしかありませんでした。

「ふふっ。私はそろそろ、次の世界へ行かなければならないのかもしれません。……あなたと出会わなかった世界へ。出会おうとしなかった世界へ」

 あなたが死んだ世界へ。

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