第2話

 トモエは中流階級の産まれだった。

 両親が健在だった頃に生活で困った記憶はない。

 一二才で学校を卒業し、一三才になる年に働いたのは小さな会社だった。病院に医療器具を納品していた、いわゆる下請け会社。特別給料が高いわけでもなかったが、生活するのに困るレベルではない。

 決して医療器具を製造していたわけではない。製造会社と病院の仲介をしているだけの会社だ。仕事も決してハードなわけではない。書類仕事が中心だった。たまに病院や製造会社に顔を出すだけ。

 その明るい性格からか、会社の内外でトモエは評判が良かった。

 一四才の時、取引先の病院の看護師と付き合うようになった。

 二つ年上の一六才──ミコト。

 当時のトモエからは、僅か二年でもミコトは大人に見えた。当時はまだ肩までのストレートだったトモエは、ミコトの腰までの長い髪が好きだった。僅かにかかったカールにすら品がある。たまに首筋でまとめた髪の向こうに見えるうなじに色気を感じ、体が火照るのを感じていた。

 ミコトの細い手首が好きだった。

 ミコトのしなやかな指が好きだった。

 タイトスカートから伸びる足に憧れ、自分よりも身長の低いミコトを、いつの間にか求めていた。

 ミコトへの欲望は止まらなかった。

 周りなど見えない。

 初めての感情。

 ミコトの総てが欲しかった。

 ミコトだけがいてくれたら、それで良かった。

 そうして、やがて二年。

 ミコトだけを考えた日々。

 そして、ミコトもトモエの全てを受け入れていた。

 トモエのことしか考えられない日々の中で、トモエに求められることに幸せを感じる毎日。

 やがて、二人は子供を求めた。

 結婚を考える。

 子供を含めて今後のことを考えた。

「私が産む」

 夜、薄暗いミコトの部屋のベッドの上でそう言ったのはトモエだった。

 急に不思議な恥ずかしさが込み上げ、トモエはお腹の辺りまでかけていたタオルケットを胸まで引き上げる。子供を産むということがどういうことか、もちろんトモエにも分かっている。自分の中に命を宿す。それはもちろん恐怖でもあった。

 隣のミコトが顔を向けた。

 トモエが引っ張ったことで胸の辺りまで引き上げられたタオルケットを、ミコトも首まで引き上げる。

「大変だよ…………何人も見てきた……」

 現在は内科勤務のミコトだったが、研修医の時は産婦人科にも出入りしていたことがある。

 そのミコトの言葉に、トモエはすぐに返していた。

「分かってる…………でもミコトはだめ…………ミコトは美しいままでいて…………」

「トモエだって────」

「収入だけ考えても、産休取るなら収入の低い私…………」

「でも…………」

「ミコトも子供欲しいでしょ?」

 トモエはミコトに顔を向けると続けた。

「二人の遺伝子を受け継いだ子供だよ…………私たちの子供…………私たちの遺伝子が引き継がれていくの」

「うん…………」

 一言だけ応えたミコトも、確かに子供は欲しかった。しかもそれがトモエとの子供であれば、こんなに嬉しいことはない。

 それなのに、この不安はなんだろう。

 分からない。

 不思議な感覚がミコトを包み込む。

 ミコトは学生の頃にすでに両親を亡くしていた。元々ミコトは両親が二〇才を過ぎてからの子供だった。子供ながらもミコトも覚悟を決めていた過去がある。そのせいか、ミコトは例え年上とはいえ、トモエに甘えることが多い。温もりが欲しかったのかもしれない。たまに年下のトモエに甘える自分を責めたこともあった。それでもやはり、トモエに包まれる幸せに勝るものはない。

 そのトモエが両腕を伸ばした。そのままミコトの体がトモエに引き寄せられる。肌と肌が触れ合うことで直接お互いの体温を感じ、吐息が全身に染み渡る。何よりも気持ちが落ち着く時間だった。

 それでもミコトの中の不安は消えなかった。

 結婚して子供を育てて生きていく。

 何の問題があるのだろう。

 何も分からないまま、少しずつ日々が過ぎていく。

 やがて、それから程なく、トモエの両親が立て続けに他界した。

 しかし、ミコトの過去を知っているトモエは、決してミコトの前で自制心を失うことはなかった。ミコトも同じような、むしろもっと若い時に辛い経験を味わっているのを知っていたからだ。

 それでも、やはりミコトは肌で感じていた。いつもと違い、珍しく甘えようとしてくるトモエと肌を合わせるだけで総てが分かった。


 ──……私たちは何才まで生きられるんだろう…………


 子供が無事に産まれたとして、その子を何才まで見続けられるのだろう。

 私たちの子供は、本当に幸せだろうか。

「トモエは……幸せ…………?」

 ベッドの上でトモエの腕に包まれたまま、ミコトは無意識にそれを言葉にしていた。

 聞いて良かったのか、聞かない方が良かったのは、その時のミコトには知る由もない。

「うん…………ミコトに出会えたから…………」

 トモエはそれだけ言うと、ミコトに回した腕を、更に絡めていた。





 それから数年、総合病院の産婦人科を二人は訪れた。

 その病院はミコトの働いている病院。トモエも仕事で出入りしていた病院だった。もちろん産婦人科の医師も知っている。独身だったが出産経験があった。しかし子供は事故で亡くしていた。

 妊娠から出産までの説明を一通り聞く。

 二人の卵子を摘出し、掛け合わせ、出産を希望する体に移植することで妊娠する。そこに説明には無い何らかのステップが介在することなど、もちろんこの時のトモエは知らない。

 ある程度、妊娠がどういうものかはトモエもミコトも勉強はしていた。それでも目の前の医者から直接聞くと、その生々しさに戸惑いが生まれないわけではない。

 具体的に、そして現実味が増した。

 今まで何度も顔を合わせた医者が、目の前でそれまでとは違う表情を見せている。

 二人から見れば、間違いなく大人の女性だった。

 フミ──二五才。一度も結婚経験は無い。

 卵子バンクを使用して未婚で子供を持つことは決して珍しいことではなかった。むしろ政府が推奨していた。平均寿命の短さから、今の人口を維持するためであることは誰にも想像が出来たが、それを拒否出来ない世界でもあった。

「先生は、どうしてお子さんが欲しかったんですか?」

 そんな質問をフミに投げかけたのはミコトだった。

 テーブルを挟んだフミの視線が軽く落ちるのを見ると、ミコトの体に緊張が走った。ソファーで隣に腰を降ろしているトモエがそれに気付いたのか、繋いでいた手に微かに力が入る。

「…………そうね……」

 フミは溜息を吐くようにそう口を開くと、マグカップを持ち上げ、ゆっくりと続けた。

「この仕事をしておきながら妊娠する人の気持ちが分からないなんて、逆の立場になれば嫌でしょ? 妊娠中だけじゃなくて出産後のメンタルケアだって必要になる世界よ……出産の怖さが分からない人間には出来ない仕事だと思ったの」

 すると、今度はトモエが口を開いた。

「先生も…………怖かったんですか?」

「ええ…………怖かった……妊娠って、どんなものか分からなかったしね。それに、まだあの時は研修医だったし…………でもね、出産後に正式に医者になって子供を取り上げた時は涙が出た…………感動したの…………怖さを知っていたからね…………子供って、素晴らしいものよ」

 そう言って僅かに笑顔になったフミの表情は、どこか寂しげに見えた。





 戸籍上、トモエとミコトは正式に結婚した。

 そしてその直後、二人は妊娠に踏み切る。

 卵子の移植までを済ませたが、それで一〇〇%ではない。経過観察をしながら、確実に妊娠が確認されるまでは妊娠そのものは不確定なまま。

 トモエもミコトも、お互いの職場には結婚報告だけを済ませる。

 トモエの職場の関係からか、やはり取引先でもある病院の噂は聞こえてくる。

 しかしトモエの結婚報告の後に聞こえてきた噂は黒いものだった。おそらくそのきっかけは、トモエが妊娠を考えた時のアドバイスのつもりだったのだろう。

 それは同僚でもある先輩のそんな何気無い言葉だった。

「産婦人科のフミ先生って知ってるでしょ?」

 もちろんトモエが知らないわけがない。

 すぐにトモエは応えていた。

「ええ、もちろん知ってますけど…………」

 まだ妊娠処置をしたことは内緒のまま。うっかりとバレないように気を付けていた。

 同僚が嫌な笑みを浮かべているのが気になった。

「あの先生、子供いたって知ってた?」

「ああ…………そうなんですか?」

 トモエは何も知らないかのように素っ気ない反応をした。

「しかもさあ…………子供と心中図ったらしいよ」


 ──…………え?


「でも子供だけ死んじゃったんだって。詳しいことまでは知らないけど殺したんじゃないかって噂もあるくらいでさ。まあ未婚だと仕事の邪魔になるしねぇ」


 ──……うそだ…………


 その日は、仕事帰りに何度目かの定期検診があった。

「体調はどう?」

 血液検査の後、フミはカルテを見ながらトモエに語りかけた。

「まだ妊娠が決まったわけじゃないけど、体調管理だけは万全にね」

「はい…………」

 応えながらもトモエの中に引っかかるものがある。


 ──聞いてもいいのかな…………


 その日は何も聞けないまま、そのままトモエはミコトの職場である内科に顔を出した。もうすぐミコトの仕事が終わる時間だった。

 そして、トモエの表情がどこか不安気なことに、ミコトはすぐに気が付く。それを掬い上げるかのように、ミコトは病院を出るとすぐにトモエの手を握った。

 それだけで、トモエはその温もりに包まれたような気がした。

 出産の不安があることはミコトも理解していた。自分が支えていかなければならないことも理解している。

 それでも、二人で生きていくことを決めた。

 何も迷いはない。


 ──……トモエとなら、大丈夫…………


 それから三ヶ月後、トモエの妊娠が正式に決定した。

 嬉しかった。

 しかし怖かった。

 幸せなはずだった。

 妊娠が分かってから何度目かの定期検診の日に、その不安は増殖する。

「お子さんって…………事故で亡くなってたんですか?」

 聞かずにはいられなかった。

 目を伏せながらのトモエのその質問に、フミが応えた。

「色々と噂になってるんでしょ? 私のこと……知ってる」

 そのフミの声にトモエは顔を上げることが出来なかった。

 フミの声が続く。

「あなたになら、話してもいいけど…………ミコトに内緒にするならね…………どうする? そこまでして聞きたい?」


 ──……ミコトに内緒?…………そんなのヤダ…………


「口外したら……私もあなたもどうなるか分からないよ…………」

 フミの手が震えているのが、トモエから見えていた。

 そのフミの言葉が続く。

「ごめん……知らないほうがいいこともあるよね…………忘れて…………」


 ──……誰かに…………聞いてほしいの…………?


 トモエは咄嗟に返していた。

「……ごめんなさい…………」

「うん…………いいの…………また…………次の検診でね…………」

 その声に、トモエは立ち上がってドアを開けた。

 フミに背中を向けたまま一度立ち止まる。

 そして一歩を踏み出すと、後ろ手でドアを静かに閉めた。

 聞いてはいけないことだったのかもしれない。


 ──……殺したって噂…………

 ──…………何か…………違う…………


 何か、胸の中にモヤモヤとしたものが残る。

 体には自分とは違う新しい命。

 幸せなはず。


 ──……きもちわるい…………


 自分が自分ではない感覚が、どこかにあった。





 なぜだろう。

 一週間後の定期検診まで、トモエにとっては落ち着かない日々だった。

 誰にも話せない、誰も知らない秘密に触れてしまった怖さ。

「子供を産むのが怖いのね」

 目の前のフミのその声に、それほどトモエは驚かなかった。

 事実だ。

 気持ち悪さ以外の何物でもない。

「私から話を聞いたからって、その不安が消えるわけじゃないのよ」

 フミの言葉が続いた。

 唇を噛み締めたトモエが返す。

「私は…………自分の体で何が起こってるのか知りたいだけです…………」

「じゃあ話すわ」


 ──……やめて…………


 フミは微動だにせずに続けた。

「噂通り、私は子供と一緒に死のうとしたの…………死ねると思ったのに、私だけ助かった…………あなたが聞きたいのは、どうして子供を道連れに死のうとしたか、でしょ?」

 無意識にトモエの握っていた手に力が入る。

 フミの声が続いた。

「どうして妊娠するか、あなたは分かる?」

「……そんなの…………二人の卵子を────」

「卵子二つじゃ妊娠は出来ないの」


 ──……これ…………


「…………医者でも知らない…………ブラックボックスがあるのよ」


 ──……聞いちゃ、だめだ…………


「その機械を通すことで、卵子は受精卵になる……卵子は一つでいい……卵子バンクは見せかけだけ…………作られた…………人工の命なの…………」


 ──……私も…………


「所詮……私たちも自然の生き物なんかじゃない……コンピュータ経由で作られた物…………」


 ──……じゃあ……〝この子〟は…………?


「…………そんな命なら…………殺してしまおうと思った…………」

 九ヶ月後。

 トモエ、一九才。

 出産適齢期としては遅いほうだ。

 無事に出産を終え、病院のベッドの上で、ミコトと子供と再開する。

 感動した。

 嬉しかった。


 ──……ホントに…………私の子?


 ミコトの笑顔と、そのミコトに抱かれる小さな命。


 ──…………この子は…………人間なの?


 退院後、ミコトのマンションでの三人での生活が始まる。

 トモエは仕事を辞めた。

 産休後に育児施設を利用することも考えたが、ミコトと二人で決断したことだ。

 トモエも育児に専念したかった。

 育てられるはず。


 ──この子は、私たちの子供…………


 しかし、それから数年、トモエとミコトの間に喧嘩が増えていた。

 どれも些細なことだ。

 トモエも自分がヒステリックになっている自覚はあった。小さなことが逐一トモエを苛立たせる。いつの間にかミコトに抱かれることもなくなっていた。

 子供は可愛い。

 日々成長していく姿。

 命の神秘を感じながらも、どうしてももう一人の自分が邪魔をする。


 ──……人工物…………命なんかじゃない…………


 やがて、子供はミコトだけに懐くようになる。

 トモエは子供が自分を見つめる時の冷たい視線が嫌いだった。

 その日もそんな冷たい目を見ながら、もう一人の自分が自分の中で膨れ上がる。

 いつの間にか、トモエは子供の首を両手で掴んでいた。

 少しずつ力を込めると、まるでそれに呼応するかのように震えを感じる。

 小さな命が、トモエの手の中にあった。


 ──……どうせ…………偽物の命…………


 手を伝わる体温と心拍。

 子供の顔色が変わっていくのが分かると、無意識の内にトモエの口元に笑みが浮かぶ。

 直後、背後からの強い衝撃にトモエの体が弾き飛んだ。

 背中の痛みも無視して顔を上げたトモエの目の前には、ぐったりとした子供を抱えるミコト。

 トモエを見据えるその震えた目には、憎しみしか見えなかった。

 それでもなぜか、トモエの口元からは笑みが消えない。





 翌日、子供の退院と同時に離婚が受理される。

 素早く動いた警察と裁判所の決定で、子供はミコトが引き取った。

 すでにトモエは二三才。

 帰る所も無いままに、事故扱いで街中に放り出された。

 ミコトの最後の、せめてもの温情だったのだろう。

 何も考えられないまま、時間だけが過ぎていく。

 五感が無くなってしまったかのようだ。

 すでに夜になっていることすら分からない。

 夜の街の作り出す音も聞こえない。

 自分が歩いていることすらも無意識のまま。

 自分がどこに向かっているのかなど、分かるはずもなかった。

 自然と肩も落ち、視線に見えるのは足元だけ。

 すると、目の前から突然の振動と、熱と風。

 顔を上げた先の炎の塊に足を止める。

 続く黒く大きな煙に目を奪われた。

 少しずつ、少しずつ、周りの音が聞こえ始めた。

 遠くに感じられたその音は、突然周囲の悲鳴に変わる。

 全ての周りの音が聞こえた。

 悲鳴と怒号。

 遠くからのサイレンの音。

 吹き飛ばされた建物のかけらが散らばる音。

 熱の塊となった黒い煙が擦れていく音。

 音が総ての感覚を埋め尽くす。

 総てが見えた。

 トモエは無意識に両耳を塞いでうずくまる。

 道路を挟んだ向かいのビルの一階で爆発が起こる。

 その中で瞬時に吹き飛ばされる人々が、なぜかトモエの頭に浮かんだ。

 銃声が聞こえる。

 次々と人が倒れる姿が見える。

 次々と人が殺される光景。

 頭の中に映像が溢れ、思考を覆い尽くす。


 ──何なの⁉︎

 ──……いやだ…………


 何かがトモエに近付くのを感じた。

 直後、トモエの体が浮く。

 誰かが、トモエの体を抱え、走っていた。

 そのまま、近くの車の影に。

「あいつら──民間人まで────」

 耳元のその声の直後、銃声が響く。

 そして再びの声は、トモエに向けられた。

「巻き込まれるとこだったぞ! 死にたいのか!」


 ──……死にたい…………?

 ──……死にたい、のかな…………


 そして────頭に映像が浮かぶ。

「──あっち!」

 トモエが指を差す。

「え?」

 銃口を向けた先には警官の姿。

 再び耳元で銃声が響き、トモエの視線の先で銃を構えた警官が倒れた。

 再びトモエが叫ぶ。

「車の後ろ!」

 そして銃声。

「あんた……何者…………⁉︎ 早く逃げて!」

 すると、トモエの体はうずくまったまま震えていた。

 怯えた目のままに口を開く。

「…………どこにも…………どこにも行く所がないの!」

 そして、何年かぶりに、無意識の内にトモエは涙を流していた。

 止めどなく込み上げる恐怖が、ただただ怖かった。

 次々と頭に入り込む映像と音に、感覚の総てを包まれていた。


 ──……人を殺そうとした私が…………

 ──……自分の子供を殺そうとした私が…………


 ──…………生きようとしてる…………

 ──……こんなの…………いやだ……………………


「行くよ!」

 抱えられるようにして連れていかれた場所は、プリムラの拠点の一つ。





「民間人は犠牲にしないって言ったじゃない!」

 そう叫んでいたのはフユミ──二三才。

 トモエと同じ年齢だったが、プリムラに入って三年になる。

 そのフユミが再び叫ぶ。

「せっかく支持者も増えてきたのに!」

 郊外の廃校跡地。その中の体育館が拠点の一つになっていた。建物の構造のせいもあるのか、フユミの声が響く。

「私たちは殺人集団じゃないでしょ!」

 フユミが言葉をぶつけていた相手はカルタだった。まだ一三才のカルタは幼かったが、組織の立ち上げをしたトップでもあった。

 表情をまるで変えない冷たい目でカルタが口を開く。

「綺麗事で銃を持つな。遊びじゃないぞ」

 カルタはフユミに背を向けて歩き始める。その先にはカルタより少し年上のマシロとフレンの姿。

 唇を噛み締めがなら、フユミも三人に背を向ける。

 歩いた先にはトモエがいた。小さくうずくまり、両手で抱えた膝に顔を沈める。長い黒髪がその小さくなった体をまるで包み込むように四方に垂れ下がり、一瞬フユミはその姿に神々しさすら感じた。

 今でもまだ信じられない経験だった。

 間違いなくトモエは周囲の状況を理解していた。まるで四方を同時に見渡せるかのように。

 フユミはトモエの隣で膝を曲げて腰を落とした。

 小さく溜息をつき、そして、出来るだけ優しく声をかける。

「ねえ…………ケガはない?」

 すると、トモエはゆっくりと顔を上げる。

 泣き疲れた顔だった。真っ赤に腫れた目元が痛々しい。

 行く所が無いと言った言葉に対する同情か、それとも特殊な力が欲しかったのか、咄嗟とはいえここまで連れてきてしまったことをフユミは少しだけ後悔していた。

「……行くところがないって……言ってたけど…………」

 トモエはフユミの目を見ながら、小さく頷いた。

 その怯えた目に、フユミは手を差し出さずにはいられなかった。

 無意識にトモエの手を取る。

「いこ…………コーヒー淹れてあげる」





 それから三年。

 トモエはフユミとチームを組んで活動していた。

 公私共にパートナーとして、お互いに支え合っていた。

 それでもトモエの中の負い目がなくなったわけではない。フユミには総てを話していた。その上で自分を受け入れてくれたフユミには感謝しかない。

 フユミも結婚経験があった。出産経験こそなかったが、反政府組織に入るきっかけを作る重い過去を持っていた。

 フユミは結婚相手を殺害していた。

 付き合い初めの頃に聞いたその話は、トモエにはやはりショックだった。

 浮気を繰り返したパートナーを感情的に殺害していた。

 警察に追われるままに、プリムラの拠点に逃げ込む。

 フユミにとってはプリムラの理想など、どうでもよかった。そういう者は決してフユミだけではない。組織の誰もが同じ方向を向いているわけではなかった。

 一度殺人を経験したからと言っても、感情に流されてのこと。

 容易に再び人を殺せるわけではない。

 プリムラを抜ければ警察に逮捕されるだけ。組織に言われるままに銃を握るしかなかった。他に行ける場所はなかった。

 殺したくて殺していたわけではない。

 しかしその感覚すら、やがて薄れていく。

 それでも無差別殺人に対しては嫌悪感を持っていた。人を殺すことが出来るのに、無意味に人を殺すのは嫌だった。そこに矛盾があることは、もちろんフユミにも分かっている。それでも、殺すことに意味を見出さなければ殺せなかった。

 そして、それにはトモエも共感していた。

 しかしトモエは、殺そうとしたことはあっても、まだ人を殺したことはない。

 いつもフユミのサポートだけ。

 周囲の状況把握能力を使って、いつもフユミを助けた。

 もちろん銃は持たされていた。故障が少なく口径も小さいタイプだったが弾数は少なくない。フユミから護身用として渡されていた物だ。フユミと同じオートマティック。しかし撃つのは訓練の時だけ。

 それでもトモエの能力もあり、幸いまだ実戦では使ったことがない。

 トモエ自身、当然殺すことに抵抗はあった。どうしても、あの時のことを思い出してしまう。

 フユミとプライベートで過ごす時でさえ、ミコトと仲のよかった頃を思い出してしまうくらいだ。どうしても過去を捨てきれないまま、自己嫌悪に陥ることも多い。

 フユミに総てを見透かされていることも知っていた。

「……忘れなくてもいいよ…………その過去があるから私はトモエに会えたんだから…………」

 そのフユミの言葉に、トモエは抱きしめられながら何度も泣いた。

 いつの間にかトモエは、フユミに完全に心酔していたのだろう。

 自分の命に代えてもフユミを守りたいと思っていた。

 時にはフユミのためだけを思って行動することで、フユミに叱責されることもあった。

 その日の作戦でも、トモエはフユミを助けることだけに注視していた。

 久しぶりの大きな作戦に、フユミとトモエのチームも駆り出される。

 プリムラは、セントラルセンターへの襲撃を強行した。

 そこは街の中心。

 政府の中心。

 世界の中心。

 かつてない大規模な作戦に組織内も士気が高まっていた。組織の理想に傾倒する者にとっては世界の謎を紐解く高揚感。それ以外の者にとっても政府を転覆させられる可能性に賭けていた。

 カルタとマシロも前線に立っていた。

 フレンは後方からの司令塔となる。

 三人も特殊な能力を持っていた。それゆえのカリスマ性でもある。

 その能力も功を奏したのか、セントラルセンター周囲の官庁街はしだいに炎に包まれていく。自然と周囲の暴動が誘発され、更にその周りまでもが火の手を避けられないまま警察も逃げ場を失う。

 非常事態宣言が出されたが、すでに被害は甚大だった。

 カルタは前線で警察車両だけではなく建物までも破壊し続ける。その威力はどんな銃火器にも勝った。警察にとっては脅威でしかない。

 そのカルタのインカムに後方のフレンの声が聞こえる。

『カルタ──他のエリアより進みが早い。このままだと孤立する。ペース落として』

 カルタはいつものように無機質に応えた。

「分かった。他のエリアは順調なの?」

『今のところね。押されてはいない』


 ──……相変わらず抽象的な…………


 そう思ったカルタの耳に、マシロの声。

『こっちはバリケードを突破出来そう──私だけ他のエリアに加勢に行く。フレン、配置を整えて』

『分かった』

 マシロはフレンの指示で動いていた。

 しかしなぜか、前線の侵攻は停滞する。そのままカルタの部隊も足踏みを余儀なくされた。

『マシロは何をしてるんだ⁉︎』

 そのカルタの声は、別のエリアで攻防を続けていたフユミとトモエのインカムにも届いていた。

 一進一退の状態が続く。長期戦は臨んでいた状態ではなかった。

 トモエもフレンと同じく、この日は自動小銃を構える。訓練で扱い方は知っていた。それでももちろん実戦で持ったのは初めて。そしてフユミの隣で構えるだけ。一度も引き金を引いてはいない。

 そしてそれは、フユミの指示だった。

 フユミはトモエに撃たせたくなかった。

 組織に加担させてしまった後悔からか、せめてトモエを〝殺人行為〟から守りたかった。自分と二人のチームで行動する限りは守り続けられる。そう思っていた。

 トモエはいつものように周囲の状況を見透かし、隣のフユミを助け続ける。

 フユミを助けることはトモエの喜びでもあった。二人三脚でやってきた。自分を助け、自分を信頼してくれる最高のパートナー。まるで自分の過去をぶつけるかのように、トモエはフユミに寄りかかっていた。

 目の前にバリケードを築く警察の防御も硬い。

 暴動の群衆から投げ込まれる火炎瓶の炎が舞う中、周囲の部隊員がざわつく。

 マシロの姿が見えた。


 ──あれ?


「マシロが来た。なんとかなればいいけど……」

 フユミの声が聞こえても、トモエには疑問しか湧かない。


 ──……どうして…………?


 マシロはこれまでの作戦でも前線に立つことが多い。そのため多くの隊員からの信頼は厚い。もちろんそれはトモエも知っていた。

 部隊の士気が高まっているのが周囲の雰囲気からも見て取れた。

 しかし、なぜか胸の中にモヤモヤとしたものが湧き上がる。

 いつの間にか、それは小さな声となっていた。

「…………いないよ」

 すると隣のフユミがトモエに顔を向けた。

「え? トモエ……どうしたの?」

 そのフユミの声に、トモエが返す。

「だって…………あそこには誰もいない…………」

 トモエがマシロを指差した時だった。

 警察の猛攻撃が始まる。

 それまでの守りが嘘のように、一気に攻勢が激しくなる。

 大量の銃火器の弾丸の中で、インカムにフレンの声が届く。

『作戦は失敗────全部隊は撤退を』





 部隊は散り散りとなり、全員が蜘蛛の子を散らすかのように離散する。

 フユミとトモエも警察から逃れ、暗い高架橋の下へ。

 月明かりに照らされた地面を避けながら、影に体を潜ませる。

 そして、トモエには見えていた。

 挟まれていた。

 周囲の地形から逃げ道を探す。

 トモエの正面に一人。

 やがて、視界に警官の姿が入る。

 背中のフユミの視線の先にも二人の警官がいるのは見えていた。

 トモエは銃を構えていた。

 撃たなければ撃たれる。

 このままでは逃げられない。

 訓練の時とは違う。

 目の前に見える〝的〟は生きている。

 体全体が、いつの間にか震えていた。

 しだいに近づく目の前の影。

 反対側からも距離を詰められていた。

 やがて、警官の放つ銃弾が二人の周囲に弾ける。


 ──私が、撃たなきゃ…………


 トモエはそう思いながらも、引き金にかけた指が動かない。

 直後、トモエの肩越しに伸びる腕。


 ──フユミ…………!


 フユミの銃弾は、トモエの視線の先の影を地面に押し付けた。

 直後、鈍い振動が数回伝わる。

 それは、フユミの体からトモエへ。

 フユミの体がトモエに覆い被さった。

 足音が聞こえる。

 駆け寄ってくる二人の警官。

 振り返ったトモエは、引き金を引いていた。

 何の迷いもなかった。

 撃ち出され続ける銃弾に、やがて警官は地面に倒れ、動かなくなった。

 トモエの頭の中までもが静かになった気がした。

 フユミの体が、トモエの支えを失うように崩れ落ちていく。

 地面に落ちる寸前でその体を支え直すと、視線を落としたままのフユミの声が聞こえる。

「…………残弾は…………」

「……え? ざん────」

「考えて撃たなきゃ…………だめでしょ…………」

 フユミはトモエを抱き寄せ、その肩に顔を埋め、続けた。

「……私みたいな人間に…………まともな最後なんて…………ムリ…………ごめんね…………トモエに会えて…………よかっ……た……………………」

 フユミの力が抜け、その銃だけが実態となってトモエの手の中に残る。

 やっとトモエは理解した。

 涙も出ない。


 ──……また…………一人になった…………


 フユミの体は、まだ暖かかった。





 そのバーでカナがクレアに会うのは、今夜で三度目だった。

 クレアはいつもその店では三時間程過ごして帰る。一人で入ったとしても二人で出てくることもたまにある。そして相手はいつも違う。特定の相手ではなかった。

 カナが店に入るのは、いつもクレアが入って一時間程経ってから。クレアが店に入って軽く酔いが回ってきた頃。いつも誰かに声をかけ始める頃でもあった。

「この間の話…………考えてくれた?」

 ショートスタイルのカクテルを少しだけ口に含みながら、カナはクレアの顔を見ずに口を開いた。

 隣に座るクレアはカナの横顔を見つめながら返す。

「あなたこそ…………どうなの?」

 柔らかい声と口調。

 カナは、素直に魅力を感じていた。


 ──……仕事じゃなきゃ……落ちるかもね…………


 クレアの絡みつくような声が続いた。

「綺麗な顔ね…………あなたみたいな強気な目……好きよ…………崩してみたくなる…………」

 クレアはカナの手に自分の手を重ねた。

 たったそれだけのことなのに、カナの体の中心に何かが走る。

「……もう……冗談ばっかり…………」

 そう言いながら、カナは無意識の内にクレアの手を握り返していた。


 ──……あっ…………


 自分の行動に驚いたカナは、繋がれた二人の手に思わず視線を落とす。

 そこにクレアの声。

「……ふーん…………欲しいのはカードだけ?」

 クレアが指を絡める。

「この間も話したけど…………立ち上げた会社が施設の仕事を落札したからカードが必要で…………」


 ──……まずい…………


「だったら私のオフィスに来ればいいだけなのに…………わざわざ夜に口説かれに来るなんて…………」

 クレアはそう言うと、カナに体を寄せて、カナの顔を覗き込んだ。

 カナは一瞬だけクレアの妖艶な目を見てしまったことを悔やみ、すぐに視線をズラし、返した。

「私…………あんまりいい家の出身じゃないし…………まともな仕事してこなかったから……私じゃ審査通らないよ…………だから…………」

「この間言ってくれた金額────」

「前金で五〇…………カードもらったら一〇〇…………お金周り…………厳しいんでしょ? ホントに払える」


 ──……大丈夫…………


「あなたも…………一緒につけてよ…………」

 クレアはカナの首筋に顔を近付け、続けた。

「……一度くらい…………だめ?」

 クレアの声は、甘い。

 カナは思わず顔を傾ける。

 カナの頬がクレアの頬に吸い付く。

 お酒の力か、温もりが強く伝わる中で、カナが言葉を返した。

「…………秘密だよ……」

 カナは体を密着させたまま、クレアの胸元に厚い封筒を押し当てる。

 それを手に取ったクレアは、カナに耳元で囁いた。

「明日……同じ時間に…………部屋…………綺麗にしておくから…………」





 同じベッドの上で、トモエとカナは背中を向け合っていた。

 その夜も相変わらず会話は少ない。

 そして、眠れなかった。

 お互いに、なぜか微かな息遣いに耳を澄ます。

 不意に口を開いたのはカナだった。

「トモエさん…………明日…………」

 トモエはその声に、急に鼓動が早くなる自分を感じながら小さく応える。

「…………うん」

 カナの小さい溜息が聞こえ、それに声が続く。

「……迎えに来なくても大丈夫だよ…………一人で帰れるから…………」

 トモエの頭の中で、そのカナの声が木霊した。

 浅い眠りのまま、翌日。

 カナは陽の高い内から外に出ていた。トモエも特別その所在を調べようとはしない。

 やがて薄暗くなり、バーの看板に明かりが灯される。

 程なくしてカナは店のドアを開けた。

 まだクレアが来るまでは時間があるだろう。それまで、少し呑んでおきたかった。シラフで会う自信はない。


 ──今夜で終わり…………今夜だけ……………………


 ドアの開く音が聞こえる度に、体が固まる自分を感じていた。


 ──いまさら…………


 一晩だけの関係は何度も経験してきた。

 今更、臆することもないはず。

 自分にそう言い聞かせ、そしてその自分を嫌悪した。

 そのせいか、クレアの細い腕が首筋に絡みつくまで気配すら感じなかった。

「今夜は早いのね…………待てなかったの…………?」

 カナは慌ててハンドバックから封筒を取り出そうとするが、クレアはそれを制した。

「店…………出ようよ…………大丈夫…………用意してきたから…………」

 そのクレアの声に促されるようにして、カナは隣の真っ赤なコートを羽織る。

 クレアの自宅までのタクシーの中でも、二人は手を繋いだまま。

 執拗なまでのクレアの指の絡め方が、カナの気持ちを刺激する。

 高級なマンション。

 廊下の装飾まで美しい。

 クレアが鍵穴に鍵を通すだけで、カナの鼓動は早くなった。

 ドアが開く。

 外の冷たい空気に混ざる、室内からの微かな甘い匂い。

 クレアの後について玄関に一歩踏み入り、後ろ手でドアを閉めると、振り返ったクレアがカナをドアに押し付けていた。

 瞬時に重なる唇。

 突然のことに動揺するカナに、クレアは二枚のパスカードを見せ、濡れた口を開いた。

「約束だからね…………二人分…………正規の物だよ…………」

 カナはハンドバックから封筒を取り出すが、クレアはその手を払い除ける。封筒が玄関の床に落ちた時には、カナの指にクレアの指が絡み付いていた。

「つまらないこと、しないで…………」

 再び唇が重なる瞬間、カナは無意識に顔を横に向けていた。

 頬に当たるクレアの柔らかい唇が行き場を失ったように開く。

「プリムラ…………?」

 耳元のその声に、カナの体が硬直する。

 容赦無く足を絡めてくるクレアの声が続いた。

「そうじゃなきゃこんな裏取引みたいなことしないものね…………」

 クレアの舌がカナの耳をなぞり、カナの抵抗する力を奪っていく。

「……私は構わないけど…………お互い楽しめれば…………ね…………明日はお休みだから、ゆっくり…………」


 ──……トモエさん……………………


 カナはクレアの背中に左手を回す。

 そのまま、背中にハンドバックを押し付けた。





 カナが部屋を出ると、いつの間にかうっすらと雪が積もっていた。

 綿のような軽い雪。

 踏みつけても、ほとんどその感触はない。

 風が無いせいで、肌に突き刺さるような冷たい空気もそれほど気にはならない。

 むしろ、火照った体にはちょうどいいくらいだ。

 カナの足は、いつの間にか人通りの多い通りへ向かう。

 早く人の波に紛れたかった。

 まだ距離はある。

 そして、なぜか足は重い。

 自分の熱が周囲の雪を溶かしてしまうかのような、そんな感覚に包まれた。

 灯りに照らされた人々の往来が見えてきた頃、視界の先に入り込んできたのはトモエの姿だった。視線を落としたまま近付くトモエに、いつの間にかカナの足は止まる。

 怖かった。

 自分がしてしまったことの大きさが、ただ怖かった。

 やがて、足早になったトモエの両腕がカナを包み込む。

「…………ごめん…………」

 そのトモエの声に、カナは目からこぼれ落ちる涙を止めることは出来なかった。

「……ごめんね…………カナ…………」

 トモエの震える声に、カナはコートを少しだけ開く。

 それを見下ろしたトモエの目に見えるのは、リボルバーの銃口。

 しかも、僅かな灯りの中で、その銃口は血に濡れていた。

 驚くトモエの耳に届く、震えたカナの声。

「……ごめんトモエさん…………私が抱かれたら…………殺さなくてもよかったのに…………ムリだったの…………割り切ってたつもりだったのに…………」

 トモエは、再び強くカナを抱きしめていた。

 その耳に、カナの震えた声が続く。

「…………お願い…………抱いて…………」

「…………うん」





      〜 「虚構の慟哭」第3話へつづく 〜

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