第3話
カナは貧しい家に育った。
物心がついた頃からそれが当たり前の生活。
五才からは学校に通うようになり、しだいに自分の家の経済レベルを学校の友達と比べ始める。しかし学校に通えていただけでもありがたいと思えるようになるのは、まだ先のことだ。
何度も仕事を変える両親に生活を翻弄されながらも、それでも一二才で学校を卒業することが出来た。
卒業後、同級生よりも遅れてやっと就職するが、フルタイムの仕事を見つけることは難しく、見付かるのはパートタイムの仕事ばかり。不安定な収入のまま仕事を点々としていた。
一四才の時、両親が離婚する。
カナはどちらかに引き取られることもなく、戸籍上の縁を切られた。
すでに学生ではなかったこともその理由だったが、おそらく自分の存在が邪魔だったのだろうとカナは思っていた。
元々両親の関係が希薄だったことには気付いていた。幼い頃から家族の会話は最低限のものだけ。それぞれが帰る時間もまばら。夜中にどちらかだけが出かけることもあった。
そのためか、離婚の話を聞かされてもカナは驚かなかった。
縁を切られると知っても、それほどショックにも感じない。その程度の家族でしかなかった。
カナにとっての唯一の問題は、仕事と住む所だけ。
どちらも早急に見付けなければならなかった。今までの収入の低さから、もちろん貯蓄はない。
友達も学生の時だけ。社会人になってからは友達と呼べる相手もいない。
今までの職歴が理由なのか、職業斡旋所でも結果を出せないまま、カナは数日後の夜に帰る場所さえ失った。
親子の愛情という言葉がある。
家族の愛情という言葉がある。
そんなものが綺麗事でしかないことをカナは思い知った。
そして〝絶望〟の意味を考えながら、夜の街に紛れた。
残酷なくらいに時間が過ぎていく。
惨めさだけが去来し、やがて考えることすら諦めた。
人混みが嫌いだった。
学生の頃から一人のほうが好きだった。
他人とどうやって関わればいいのか分からない。
人並みに飲まれて歩くのが心の寒さを肥大させていく。
無意識の内に、足は細い路地から更に細い路地へ。
いつの間にか、人一人がやっと通れるような道に入り込んでいた。ほとんど灯りも届かない。ビルとビルの狭間。
やけにほっとした。
誰も入ってこない。
そして、急に気持ちの中の何かが折れた。
何も考えずに冷たいアスファルトに座り込む。
膝を抱えると、なぜか急に、色々なことが思い出された。
無駄な記憶。
無駄な過去。
何の価値も無い。
──…………もう……つかれた…………
カナはすぐ横のドアが開く音にも気が付かなかった。
そして、声が聞こえた。
「行くとこないの?」
綺麗な声だった。
その声に顔を向ける。自分よりは少しだけ年上に見えた。綺麗にカールした長い髪が、暗い周囲の中で輝いて見える。しゃがみこんでカナを見つめる目は柔らかい。
こんなに無垢で綺麗な瞳を見たのは初めてだった。
いつの間にか、カナの目に涙が浮かぶ。
無意識に、小さく頷く。
「分かった」
立ち上がって中に戻ったかと思うと、再びドアが開いて姿を見せる。
「あと三〇分だけ待てる? そしたら上がりだからさ。これ飲んで待ってて」
手渡されたのは小さな缶コーヒー。
カナが初めて飲んだコーヒーの味は、少しだけ苦く、少しだけ甘かった。
☆
「とりあえず私の部屋においでよ」
そう言ってカナの手を引く。
チグサ──一七才。
カナから見ると、チグサは少し派手な印象だった。
明るくて綺麗な服に、キラキラとした化粧。
明らかにカナとは違う世界の人。
「…………どうして…………?」
小さくカナが言うと、すぐにチグサが返す。
「だって、行くとこないんでしょ?」
「…………でも……」
「同情されるのがイヤ?」
「……ちがっ…………そういうんじゃないけど…………」
カナはそう応えながらも、その時初めて、チグサが自分の歩幅に合わせてくれているのに気が付いた。
そのチグサが返す。
「同情だって何だって、いいじゃん…………」
チグサの住まいは古いアパートの一室だった。
「一人だから……遠慮しないで入って」
ヒールのせいだったのか、靴を脱いだチグサはカナが感じていたよりも身長が低い。髪の短さもあって、カナは改めてチグサの華奢な雰囲気を意識した。
部屋の中は殺風景だった。決して小綺麗な雰囲気でもなく、家具は少ない。小さなテーブルとベッドがあるだけ。窓にはカーテンすらなかったが、なぜかそこから入り込む月明かりが優しく感じた。
「シャワー浴びる? タオルは洗濯したの出しておくから」
「うん…………ごめんなさい」
三日振りのシャワーを浴びて小さな浴室から出ると、そこにはチグサの物と思われる服が畳んで用意されていた。
部屋に戻ると、チグサがテーブルの前で笑顔を浮かべて口を開く。
部屋には月明かりだけ。
「お腹空いた? ごめんね。こんなものしかなくてさ。昨日デリバリーしたピザなんだけど一人だと食べきれないんだよねぇ」
カナはチグサの隣に座り込んだ。
「着替え……ありがとう……どうして……? こんなに…………」
「私もあそこで拾われたんだ…………だから、あそこに座り込んだあなたの気持ちは分かるつもり…………親に捨てられてさ…………行くとこもないし仕事もないしで、どうでもよくなってあそこで力尽きてたら、店の人に声かけられて…………だから、あなたも同じかもって思ったんだ…………」
カナは、涙を止められなかった。
チグサがカナの体を抱きしめる。
カナの耳元で、チグサの声はどうしようもないくらいに優しかった。
「いいよ…………辛かったね…………」
あのビルの三階にチグサの働いている店があった。あの時偶然にもチグサが外にゴミを捨てにこなければ、二人は出会えてはいない。
カナが事情を説明し、その後チグサが休日だった二日間、二人で話した。
チグサの店はいわゆる風俗店だった。
二年前に拾われてから、チグサはずっとそこでの仕事しか知らない。一年程前にやっと寮からここのアパートに引っ越したが、給料は決して高くはない。
「一緒にあそこで働く?」
チグサのその提案に、カナは戸惑った。
「そんな──ムリだよ…………」
「でも、仕事しなきゃ食べていけないよ」
「そうだけど…………その…………したことないし…………」
「そうなの? そんなことまで私と同じなんだ」
「え?」
驚いたカナの体をチグサが軽く手で押すと、カナはバランスを崩して床に仰向けに。
カナの顔の横に両手をついたチグサは、カナを上から見下ろしていた。
そのチグサの口がゆっくりと開く。
「あんなの…………体の快楽だけ…………みんな〝愛〟がどうとかって言うけど…………寂しい人が表面上の繋がりを欲しがってるだけ…………」
──……寂しい人…………私か……………………
そして、ゆっくりとチグサの唇が近付く。
カナに抵抗する気は起きなかった。
唇が触れかけた時、チグサの声がカナに溶け込む。
「面倒でしょ? こんなことしないと生きられないなんて…………」
「私は────」
そのカナの言葉は、チグサの唇で塞がれた。
柔らかかった。
そして、暖かかった。
体の力が抜けていく。
──……寂しかったんだな…………私……………………
チグサの手と足がカナの体を刺激するたびに、体が中から溶けていくようだった。
翌日、カナはチグサと一緒に働き始める。
仕事の流れはチグサからの説明で理解出来た。
まだ辿々しいところはあったが、それを喜ぶ客がいるのもこの世界の常だとチグサから教わった。
その日から寮での生活。
四人部屋の寮。
プライベートはもちろんない。
それでも帰る所が出来た。
そして、チグサが姿を消すまでは一週間とかからなかった。
☆
その時の恋人が何人目の恋人か、そんなことは覚えていない。
だから、その別れが何度目なのかも分からない。
カナにとってはどうでもよかった。
最初の店の寮での生活は一年とちょっと。すぐにアパートを借り、プライベートが出来ると、同じような店を点々と渡り歩いた。
その都度パートナーが入れ替わる。
一晩だけのことも多かった。
そのほうがいいと思う頃もあった。いつの間にか店の従業員と付き合い、客と付き合い、やがて別れる生活。
いつの間にかカナも二三才。結婚適齢期と言われる年齢はとうに過ぎた。
結婚に興味はなかった。結婚に意味がないことを両親から教わった。
すでに人生には何も期待していなかった。
日々の快楽にも困らない。
たまにはいい客に当たる。そんな時に解消すればいい。
何も困らないはずだった。
しかし、リゼだけは違った。
カナより一つ上の二四才。いつもカナを指名する客の一人だった。
その日は一〇回目の指名。指名回数が二桁を超えることは初めてだ。いつもはその前に新たな刺激を求めて飽きられるか、カナが店を移って終わり。
何となく、カナ自身、客との過度な深入りを避けていた。
本気になられても何の未来もないことを知っていたからだ。恋愛感情などなくても、裸で抱き合うことは簡単。本気になられることは、カナにとっては面倒なことでしかない。
例え店の中だけとは言っても、カナにも全く情が移らないわけではない。体の相性が良ければ尚更だ。それでも、それはいつか飽きる。そのことも熟知していたつもりだった。
その日、リゼは明らかにおかしかった。
いつもよりもカナを激しく求めていた。
何かあったのだろう…………そのくらいのことは分かるくらいに、リゼとは体の相性もいい。それに優しかった。気性の荒い客もいる中で、リゼは癒しのような存在でもあった。唯一、カナが本名を明かした客でもある。
リゼとの残り時間が少なくなってくる。
最後はいつも二人で缶コーヒーを飲みながら体を寄せ合って終わる。
カナはリゼの長く真っ直ぐな髪が好きだった。その長い髪に隠された背中の美しさも知っている。リゼの肩を抱きながら、カナはその髪に指を絡める度に、時間の残酷さを感じていた。
「…………もう…………これないかもしれない…………」
リゼのその言葉に、カナは自分が動揺したことに驚いた。
「……どうして? 何か────」
「違うよ…………カナは何も悪くない…………むしろ感謝してる…………私ね…………プリムラの人間なんだ…………黙っててごめん…………」
自分とは関わりの無い世界だった。もちろん存在は知っていた。
僅かにリゼの体が強張るのを感じた。
そして、何も返せないままのカナの耳にリゼの声が届く。
「最低でしょ? 何人も人を殺してきた…………その手であなたを抱いたの…………私のワガママ…………でも、いつも後悔した…………」
どんな理由でリゼが反政府組織に入ったのかは分からない。でも、それなりの覚悟があってのことだろう。
──……流されてきただけの自分とは違う。
そして、やっとカナの口が開く。
「どうして…………私に教えるの…………?」
「…………そうだよね……言わないつもりだったのに…………なんでかな…………」
リゼは応えながら、自分の肩に回るカナの腕に手を添える。
しかし次のカナの言葉に、その手を離した。
「ウソでしょ? 今日で最後なんて────また来てくれるんでしょ⁉︎」
「明日の今頃は…………もう作戦が始まってる…………」
リゼはそう言うと、指を絡めようとしてくるカナの手を振り解いた。
カナの中の何かが弾ける。
「そんなこと…………私が警察に駆け込んだらどうするのよ…………」
いつの間にか、そのカナの声は震えていた。
そして、リゼから何かがこぼれ落ちる。
「…………いいよ…………私はカナのことが好き…………だから最後の作戦の前に言っておきたかった…………多分、今度は生き残れない…………」
「──やめてよ…………」
「どうして? 組織のことを警察に言えば懸賞金だって出るんだよ。作戦は明日の夜…………まだ間に合う…………」
「お願い…………やめて…………」
そのカナの言葉を聞いたリゼは、ベッドを降りて服を着ながら呟くように口を開いた。
「もうすぐ時間だね…………」
「リゼ────」
ほとんど無意識の内に、カナは裸のままリゼの背中に飛びついていた。
その背中の温もりを感じながら、リゼの声を感じる。
「人殺しの私が…………カナとの人生を夢見ちゃった…………バカだよね…………」
微かに震えるリゼのその声に、カナのかける声は見つからないまま。
リゼは自分のハンドバックに手を入れる。
リゼが取り出した物は、それまでの話を裏付けた。
「私の形見だと思って…………ごめん…………おしゃれな物って持ってなくてさ…………」
それは小さなリボルバーだった。もちろんそんな物はカナは触ったこともない。
「小さい奴だけど、護身用には使えると思うよ…………何かもっと…………おしゃれな物だったら良かったね…………」
ドアの閉まる直前の、リゼの言葉が響く。
「……またね…………」
その笑顔が、カナの脳裏に焼きついていた。
その場だけの快楽。
その場だけの関係。
カナの中で、それが初めて崩れた。
☆
翌日、官庁街での大規模なテロ騒ぎがニュースを騒がした。
興味のないようなふりをしながら、いつものように仕事をこなす。
いつものように他人と肌を合わせ、足を絡める。
いつもの日常。
何も変わらない日常。
それで良かった。
──……生きていれば…………また来てくれる…………
心のどこかで、カナはリゼを求めていた。
誰に抱かれても、誰を抱いても、リゼを求めていた。
会いたくて仕方がない。
もう、自分に嘘はつけなかった。
それでも待つしかない自分に苛立った。
そのまま一ヶ月近くが経ち、人生が動いたその夜。
テロ騒ぎの戦火が歓楽街の裏の風俗街まで飛び火する。
店の入ったビルにも、警察とも反政府組織とも分からない銃弾が届き始める。
店内の悲鳴に騒然となる中で、カナは心を決めた。
頭の中はリゼのことだけ。
ハンドバッグを持つと、逃げる従業員と客とは逆に走った。
階段を駆け降りていた。
──……リゼが近くに────
ビルを飛び出すと、体の近くを銃弾がかすめる。
全身の神経が強ばった。
周りには銃を撃ちながら縦横無尽に走り回るプリムラの隊員たち。同時に暴動まで起きているのか、火炎瓶の割れる音と広がる炎。遠くには警官の姿。明らかに警察側が押していることは分かった。
無意識に体を落とし、銃弾が空気を切り裂く音に動けない。
──……リゼ…………どこ…………
やがてカナの足が動いた。
群衆に紛れる。
建物の影にいる隊員がカナのことに気が付いて咄嗟に銃口を向ける。
それでもカナの足は止まらなかった。
隊員も警察ではないことに気が付いて銃口を外したが、カナはその隊員に近付き、両肩を掴んで叫んでいた。
「リゼは⁉︎ リゼはどこ⁉︎」
唖然とする隊員に、さらにカナは叫び続ける。
「リゼの居場所を教えて‼︎」
「あんた──組織の人間じゃ────」
「組織なんてどうだっていいでしょ‼︎ リゼはどこなの‼︎」
「リゼはもう死んだよ! どいて!」
──……うそ…………
隊員はカナの体を強引に引き剥がすと、再び自動小銃を構えた。
──……またね…………って…………
直後、背後、すぐ近くから銃声が聞こえる。
目の前の隊員が銃を落としながら、崩れ落ちた。
カナが振り返ると、そこにはライフルを構えた警官が立っている。
カナのことは服装で一般人だと判断したのだろう。戦闘中に肩から小さなハンドバックを下げ、フレアタイプのミニスカートを履いた反政府組織などいるはずがない。
その一般人のハンドバッグから、リボルバーが出てくるなど、想像出来るわけがなかった。
カナは何の迷いもなく、警官の顔に向けて引き金を引く。
口径の小さいリボルバー。威力も弱いが、同時に反動も少ない。弾丸は警官の顔を砕き、ヘルメットの内側で弾かれ、僅かにそのヘルメットを浮かせただけ。
──私が警察に駆け込んでいれば…………
すでに、近くまで数人の警官が近付いていた。
そして、なぜかカナには、次に誰が引き金を引くか分かっていた。
その相手から優先的に銃口を向け、引き金を引く。
──……止めて欲しかったの…………?
──…………リゼ………………
火薬が爆発する軽い振動が腕を伝う。
しかし、次に引き金を引いた時、鉛の玉はもう残っていなかった。
直後、カナの体を誰かが抱える。
引きずられるようにして、カナは車の後部座席に叩きつけられた。
それでも、右手はまるで固まったように動かない。
絶対にリボルバーを手放すことはなかった。
☆
「あの時に…………トモエさんはもう気付いてたんだ…………ね…………私の力…………」
「…………うん…………分かってた」
カナの首筋に舌を這わせながら、トモエが続ける。
「でも……カナのことを何も知らなかった…………話してくれてありがとう」
耳に息を吹きかけるようにして、トモエは更に言葉を繋げた。
「あのリボルバー…………大事な物だったんだね…………」
トモエはカナを強く抱きしめる。
カナはトモエと肌が密着したことで、まるでトモエと一つになったような錯覚を思えた。
カナの全身に響くようなトモエの声が続いた。
「あなたの過去も…………あなたの今も…………大好きだよ…………カナ…………」
長い夜だった。
いつまでそうして抱き合っていたのかも分からないまま、朝。
二人はエマからの電話で起こされた。
「もうすぐ朝ご飯持ってきてくれるって」
カナは携帯電話を枕元に置くと、そう言って上半身を起こしたまま軽く溜息をついた。
「どうしたの? 溜息なんかついて」
「別に…………」
「邪魔されたくなかった?」
そう言ってカナの顔を覗き込むトモエに、カナは少しだけ慌てて見せた。
「違うよ…………」
しかし、後ろからトモエに抱きしめられると、気持ちは緩む。
「…………ちょっとだけ……」
そのカナの言葉に返すトモエの言葉が、カナの全身に染み込んだ。
「大丈夫…………私はあなたを離さない…………絶対に…………あなたは私が守る…………絶対に死なせない…………」
「トモエさんもだよ」
振り返ったカナの唇にトモエの唇が重なった時、けたたましい音と共にドアが開いた。
「おはようございます! 朝ごは────」
そのエマの声と、ドアが激しく閉じられるのはほぼ同時だった。
「見せつけちゃった」
トモエの笑顔に、カナにも笑顔が浮かんだ。
☆
「では、改めて今夜の話です」
そう言いながらも、エマの鼓動は早いまま。
それを見透かしたのか、トモエが口を挟む。
「私たちが恋人同士なのは知ってたでしょ? そういうウブなところが可愛いんだけど」
「からかわないでください。私はそんなことはしませんからね」
そういうエマに、今度はカナが返す。
「したいならお店教えるよ」
「汚らわしいです! そんないやらしいこと…………」
「恥ずかしがってるところが可愛いよねぇ」
「興味ないんです! さ! お仕事です!」
「はいはい」
そう言って小さく溜息をついたトモエに、カナは優しい笑顔を向けていた。
エマは構わず続ける。
「それで、パスカードは……大丈夫なんですね?」
すると、カナがテーブルにカードを並べた。
朝食に持ってきたパックを避け、まじまじとカードを見ながら、エマが続ける。
「ホントに正規ですねぇ。凄い…………でも、どうして今夜なんですか? タイミングを見てから日時を決めても────」
「今夜────」
そう声のトーンを落としたトモエが続ける。
「今夜じゃなきゃダメ。夕方までには必要な物を揃えて。コンピュータのパスワードもね」
クレアは今日は休日。
よほどのことがなければ死体は見付からない。元々他人との関係が希薄な生活スタイル。古くからの友達と呼べる相手もいないことは分かっていた。
しかし明日の朝に無断欠勤となった時点で、一気に危険性は増す。
今夜の内に動くしかなかった。
それに責任を感じたカナが視線を落とすが、その手をトモエが包んだ。
「大丈夫……言ったでしょ? 私はあなたの決断が間違っていたとは思ってない」
「…………うん」
「で」
二人に挟まったエマが続けた。
「まあそれなら今夜でもいいです。物資は準備出来ますので……まずは侵入経路ですが…………怪しまれずに侵入するなら、やっぱり清掃業者でしょうね。定期的にももちろん入りますけど、必要な時に不定期に入る清掃もありますし、コンピュータルームからピンポイントで清掃依頼があったことにすれば」
「ということは、依頼のデータは?」
そのトモエの質問に、エマは即答する。
「総合管理のコンピュータには外部から侵入することが出来るので、この後すぐに…………そこから上のレベルになると外部からの侵入は出来ません。ローカルエリアだけで完結してるので」
「なるほどね。そっちは任せるわ。用意出来る武器は?」
「今用意してるのは自動小銃が二丁。マガジンは予備で四本ずつ。手榴弾は一〇────」
「そんなに持ち込めるの?」
「清掃道具を入れたカートに隠します。拳銃は────」
「愛用ので…………二人とも違う口径だから、間違わないでね」
「了解です。そこは仲良くないんですね」
「仲がいいから…………なんだけどね」
「あー…………んん?」
☆
「まったく…………今日全部用意ってさあ…………」
愚痴をこぼしながら、エマはリサイクルショップに並べられた中古車を眺めていた。
「あ…………これ最高」
エマが見つけたのは、まさにあの施設に出入りしている清掃業者のバンだった。しかしかなり古い。前後左右に業者のロゴもある。とは言っても、外もそうだが、中もサビだらけ。
それでもエマの気持ちは高鳴った。
「ねえねえねえ! これって幾ら⁉︎」
振り返って叫ぶと、仁王立ちの大柄な店主が眉間に皺を寄せる。決して若くは見えないタイプだ。
「ウチは中古車屋じゃないんだから……部品取りならいいけど──車検通せるの?」
「そっちは大丈夫。時間無くてさ。他に掃除用具とかないかな」
「あるある、ゴミみたいな物ならいくらでも転がってるよ」
「買う! 見せて!」
そのリサイクルショップは反政府組織に繋がっていた。裏で組織を支持する会社は他にもあった。飲食店、家具の卸会社からエマの立ち寄ったようなリサイクルショップまで、多岐に渡る。
リサイクルショップの店主も、もちろんエマがプリムラに所属していることは知っていた。
裏の世界に通じた店主からの情報はエマにとっても貴重なものが多い。
いつの間にか会計の時の会話もエマには楽しみになっていた。
「あんたがいつも買い物に行ってるテイクアウトの店…………気を付けたほうがいいよ」
店主がエマからお金を受け取りながら小声になる。
「まさか。あそこも…………アレでしょ?」
「この間、裏口から警察が何人か入ったのを見たの。警察に買われた可能性があるから気をつけて」
「……うん…………分かった」
エマはそう応えると、手渡されたお釣りをそのまま店主の前に戻す。
それを素早く隠しながら、店主の言葉が続く。
「あんたもそろそろ一ヶ月くらい? そろそろ目をつけられてもおかしくないね。なんだってこんな世界に…………聞く気はないけどさ」
「うん…………まあ…………色々ね」
エマはそれだけ小さく応えた。
☆
「酷いねこの車──」
後部座席で揺れに襲われながら、カナが続ける。
「サスペンションまでガタガタじゃない」
すると運転席のエマが声を上げた。
「今夜だけですよ! 夜だから警備員も分かりません!」
広い川に架かる橋に入った。
カナが後部座席から横の窓を開ける。
ヒーターが壊れたままの車内は決して暖かくはなかったが、開いた窓から入ってくる外の空気はもっと冷たい。まして橋の上。風は平地よりも強い。
カナは窓からハンドバックを放り投げた。
鉛玉が食い込み、血に塗れたハンドバック。何年も、あの夜から持っていた物。
色々な物を、同時に捨て去る。
──……リゼ…………忘れないよ…………
──…………私は今……幸せだからね…………
窓から入り込む風が、不思議と優しく感じられた。
やがて施設の駐車場に到着すると、後部座席のトモエが呟いた。
「深夜なのにあんなに電気明るくしちゃって…………税金の無駄遣いよね」
エマが応えた。
「全くです。職員は受付が二人──交代でいるだけですからね。昼間にも聞きましたけど、監視カメラの問題はどうするんですか?」
「ああ、それ?」
そう言ったカナが続ける。
「エマは知らなくていいよ。聞いたらムラムラしちゃうから」
「は⁉︎」
「行くよ。待機よろしく」
カナが横から降りると、トモエも続き、後ろのドアを引き上げる。
一気に車内の空気が入れ替わり、空気と共に大きなカートが下された。カートからはみ出したホウキやモップの柄はもちろんカモフラージュ。エマがリサイクルショップからかき集めた物だ。
トモエとカナの着ているグレーのツナギも、エマの記憶から似た物を見付けていた。決して綺麗な物ではなかったが、カモフラージュには丁度いい。
二人とも髪は短く束ねていた。カナは後ろで結ぶくらいで良かったが、トモエの場合は長さを隠しきれない。僅かに背中にかかる程度にカナが編み込んでいた。
眼鏡をかけたトモエを先頭に、後ろからカナがカートを押す。
入り口の警備員にパスカードを見せ、なんなく受付へ。
──セキュリティ甘すぎない?
そう思うカナの横で、トモエが受付のカウンターにパスカードを差し出した。
若い受付嬢が端末を操作して口を開く。
「コンピュータルームの清掃ですね。予約は……入ってますね──新しい方ですか?」
「ここが初めてなだけ。担当部署が急に変わっちゃってね。場所だけ教えてくれたらあとは大丈夫」
トモエのその声に、受付嬢はパスカードをリーダーに通して返した。
「簡単ですよ。そこの通路をまっすぐ行ったら突き当たりの左側ですので」
「どうも」
そこにカナが挟まった。
左耳のインカムを指で軽く二回叩くと、受付のテーブルに体を乗り出すようにして口を開いた。
「へー……可愛いね」
「え?」
突然のことに戸惑う様子に、更にカナは続ける。
「恋人は?」
「いえ……そんな、まだです…………」
カナはゆっくりとカウンターの脇から中に入ると、受付嬢の首筋に手を伸ばす。顎を指で上げながら、もう片方の腕で立たせると、壁に自分の体で押し付けた。
「……ちょっと──」
「スタイルもいいみたい…………仕事、何時に終わるの?」
カナは右手で首筋から耳へ、左手で体のラインをなぞりながら、真っ赤に熱った頬に唇を這わせた。
受付嬢の声が漏れる。
「……あと…………一時間…………」
「そうなんだ…………頑張って早く仕事終わらせるから…………少し話したいな…………」
囁く声を耳の奥に響かせながら、カナが続ける。
「でも……監視カメラも掃除しなきゃならないの…………一回映像切れちゃうけど…………大丈夫だから……気にしないで…………ね」
「……はい…………」
相手が唇を求め始めているのに気が付いたカナは、さりげなくそれを交わしながら続けた。
「……お預けだよ…………仕事に集中できなくなるから…………ほら」
カナがトモエに視線を配る。
真顔で二人を見つめるトモエに、受付嬢は我に帰ったように慌てた。
「すいません! …………やだ……」
「先輩に怒られちゃうから行くね。じゃ、監視カメラはそのままで」
カナはそれだけ言うとカートを押して歩き始めた。
トモエはその後ろを歩く。
通路を歩きながらトモエが小声で口を開いた。
「やり過ぎだよカナ。見てるこっちまでドキドキした…………」
カナは笑顔で応える。
「嫉妬しちゃった?」
「してないけど」
「してるじゃん」
「嫉妬なんて────」
「大丈夫。口へのキスはトモエさんだけだから」
「そ…………そうね」
──こういうところが可愛い…………
そのトモエの可愛らしさを自分だけが知っていることが、何よりカナには嬉しかった。
すぐにコンピュータルームは見付かった。
トモエはパスカードをドア横の小さな端末に通した。パスカードは受付のリーダーを通した時点で、目的の部屋への鍵にもなるシステムだった。
中に入ると、対角線上の天井に監視カメラが二つ。二人はそれぞれカメラの後ろのコードを引き抜いた。動作中の小さなランプが消えたことを確認すると、通路に面したブラインドを閉じる。
トモエはインカムを指で二回叩いて口を開く。
「エマ? ホスト端末の特徴は?」
『壁にコンソールがあるので、操作すれば壁が大きなモニターになります。それとカナさん──わざとさっきの声聞かせたでしょ⁉︎』
「やだ、聞こえた? ごめんね」
そのカナの声に、トモエが挟まる。
「大丈夫よエマ。後で私がお仕置きしておくから────で? フォルダはどれ?」
『えーっとですね…………メインフォルダの中のシステムフォルダに移って────』
エマの指示通りに辿り着いたデータは最深部と言っていい場所だった。通常の作業で行き着くような所ではない。
『昼間に説明する時間が無かったんですが、そこのパスワードは毎日変わります。日付とか年数とか……色々なデータでランダムに作られるんですが、コンピュータの世界のランダム関数には必ず規則性があります。本当の意味での乱数ではないんです』
トモエは胸ポケットから四つ折りにされたメモ用紙を取り出すと応えた。
「つまり、そこからエマが予測したのが、この一〇個のパスワードってこと?」
『はい。でも、パスワードを五回間違ったら強制的にパスワードが変更されます』
「賭けるしかないわね」
『すいません…………』
「どうして? 私も本当のことが知りたいからここまで来たんだよ。ここまで来させてもらって感謝してる」
少し間が空いた。
やがてエマの声が小さく届く。
『…………はい……』
「始めるよ。こっちの画像送るね」
トモエが眼鏡の右側のスイッチを軽く回すと、小さな機械音が右耳に届く。眼鏡に取り付けられたカメラが起動した。
ディスクスロットにディスクを入れながらトモエが続ける。
「見える?」
『大丈夫です──検索かけます』
映像のパスワード入力フォームのすぐ上に数字の羅列。ランダムに表示されるその数字が最後のヒントと言える物だった。
『七番目です』
エマの声に、トモエはメモ用紙を見ながら上から七番目のパスワードを入力した。
「……エラー」
モニターの数字が変わる。
『四番目で』
「エラー」
『九番目』
「OK──抜けた──コピーするよ」
トモエのその声に、インカムからエマの溜息が聞こえた。
トモエの隣からはカナの息を吐く音。
緊張の糸が途切れる。
トモエが続けた。
「フォルダが五個──全部コピーするね」
『お願いします』
そこに声をかけてきたのはカナだった。
「思ったよりデータサイズ大きいね」
トモエはすぐに返す。
「そうね…………中身を見てる時間がないから全部持って帰るしかない…………時間もかかりそうね」
「外…………見えてる?」
「うん……大丈夫。見えてるよ。警備員も動いてないから安心して。カナは?」
「トモエさんの唇を奪う未来しか見えてないよ」
カナの手がトモエの首筋に回る。
「素敵な未来ね…………」
トモエはそう言うと、カナの手に自分の指を絡めた。
唇が僅かに離れた直後、二人はツナギの中に手を入れる。同時に拳銃を握っていた。
最初に口を開くのはトモエ。
「警備員じゃない。警官が二人…………」
「大丈夫。通り過ぎる────カートを入り口に置いたのは失敗だったね…………ここからだと少し遠い…………」
トモエの唇のすぐ前でカナが応える。
通路からの足音。
ブラインドに僅かに影が映る。
トモエが拳銃を取り出しながら繋げた。
「パトカーが増えた…………三台……五台────このまま続ける?」
カナもリボルバーを取り出すと返す。
「ずっと続けていたいけど…………コピーは?」
モニターに目だけで視線を振ったトモエが応えた。
「もう少し」
「じゃ…………もう一回」
カナは再びトモエの唇を奪うと、すぐに体を引いた。
二人同時に拳銃をブラインドへ。
そしてカナが続ける。
「情報が漏れたね……コピー終わるよ」
その声にトモエがモニターを見た直後、コピーが終わる。トモエはディスクを抜き取るとツナギの内ポケットにしまって口を開く。
「手榴弾は?」
「さっきカートから抜いといた」
カナはツナギのポケットから手榴弾を二つ取り出すと、トモエに渡しながら続けた。
「持ってて。私のはあるから。自動小銃を取りにカートに近付くと陰でバレるね…………自動小銃は諦めて」
「窓からは誰も来てない…………廊下からだけ…………やっぱりここ?」
「多分ね……エマは?」
「一台目のパトカーが来た後に離れた。大丈夫」
「ちなみにドア前のカートには手榴弾が残り五つ」
「派手にいけるね」
トモエはそれだけ言うと、口元に笑みを浮かべて続けた。
「エマが裏に回った──行くよ」
ブラインドに何人もの影。
二人が机の影に隠れた直後────銃声が響く。
前後のガラスの割れる音に、ブラインドの甲高い音が擦れる。
カナは手榴弾のピンを抜いてカートに放り投げた。
トモエが連射した銃声で、廊下からの銃声が乱れ、それに紛れて二人はガラスの割れた窓から外へ。
二人が窓の下で身を丸めた直後、爆音と振動が響く。
二人の盾になっていた壁も膨らみ始め、二人は走った。
背後からの強い衝撃に、二人は地面に押し付けられる。
ガラスとコンクリートの破片が周囲の空気を埋め尽くす。
しかもそれは思ったよりも長い。
視界に入り込む真っ赤な光。
瞬時に静かになる。
残るのは、パラパラと落ちる何かの破片だけ。
二人は同時にお互いに顔を向けると、同時に立ち上がり、走った。
目の前には塀がある。
塀を登れば外にはエマ。
トモエには見えていた。
トモエは手榴弾のピンを抜いて後ろに放り投げると、隣を走るカナの手を掴み、叫ぶ。
「先に!」
カナは促されるままに、塀の前で身を屈めるトモエの背中を蹴った。
塀の上で手榴弾を放り投げたカナは、下に手を伸ばす。
カナの手を掴み、壁に足をつけながら、トモエは追ってくる警官に向けて引き金を引いた。
──カナは殺させない
塀の上からは、下のバンが見えた。
二人同時に屋根に飛び降りる。
屋根が大きく凹み、トモエが叫んだ。
「出して!」
バンが走り出す中、二人は横のスライドドアから中へ。
すぐにエマが叫ぶ。
「すいません! 情報が漏れました!」
トモエとカナはお互いの体を見回す。
最初に口を開いたのはカナ。
「大丈夫? 大丈夫なの⁉︎」
「……カナも……よかった…………」
うっすらと、トモエは涙を浮かべていた。トモエのそんな姿を見るのはカナは初めてだった。どんなに危険な時でもトモエが涙を流した姿を見たことはない。カナにとっては常に強い先輩だった。
トモエも自分で驚いていた。そして、無意識の内にカナを抱きしめる。
守るものがあることの怖さを、トモエは思い出した。
だから、カナを抱かなかった。
しかし今は、カナのために生きようと、それだけを思った。
〜 「虚構の慟哭」第4話へつづく 〜
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