虚構の慟哭
中岡いち
第1話
静けさの作る気持ち悪さ。
聞こえる音は遠くのものだけ。
冬の乾いた夜の空気に乗る遠くの音。
なぜか工事中のまま放り出された廃ビル。
街中であるにも関わらず、ガラスすら備え付けられていないそのビルに近付く者はいない。
しかし反政府組織の集会所としては最適だった。そのフロアはビルの三階。外と直結した空間は、高さのせいもあって張り詰めた冷たい空気に満たされていた。
風が弱いのが唯一の救いだった。それでもカナは真っ赤な分厚いミドルコートのフードの中で肩をすくめていた。腕を袖には通さず、ただ羽織った着方がカナのいつものやり方。
隣のトモエの声がカナのフードを揺らした。
「この間みたいなことは遠慮したいわね」
カナが僅かに顔を上げると、正面にいるのは組織のトップ──カルタ。年齢は一八才──組織のトップとはいえ、まだ若い。
反政府組織プリムラ。組織を立ち上げたのはカルタがまだ一〇才の時。もちろんそれを実現したのには、カルタの持つ特殊な能力が起因していた。
物心がついた頃から、触れずに物を破壊することが出来た。そしてそれは、相手が人間でも同じ。カルタはその力を使って生きてきた。銃や刃物で人を殺したことはない。その力に対する周囲からの恐怖は、やがてカリスマ性に変わる。
そのカルタがトモエに応えた。
「まあ…………それは謝ったじゃない…………」
カルタは口元に笑みを浮かべている。
トモエは何も応えない。それでも、その表情がなんとなくカナには想像出来た。
カルタの隣にいたフレンが口を開く。
「今回はエマからの情報もあるし……ちゃんと意味のある活動になると思う」
フレンもカルタと同じく組織のトップスリーの一人。カルタよりも少し年上の二〇才。フレンもまだ若いとはいえ、感情の起伏の激しいカルタよりも組織内での信頼が厚いのは事実だった。
そのフレンが続ける。
「無駄に血を流すことにはならないと思う…………しかも繊細な判断が必要になるから、あなたたちのチームにお願いしたいの。それに他のチームと違って少人数のチームのほうが向いてるのは分かるでしょ?」
「それならいいけど…………ただの無差別殺人ならしない……」
そう応えたトモエは、少しだけ間を開けて続ける。
「子供の遊びじゃないんだから」
「遊びって…………」
呟くようなその声はカルタ。
そしてフレンがカルタを遮る。
「カルタ……今はやめて…………」
それでもカルタの言葉は続く。
「今まで何人殺したのよ…………子供産むより簡単でしょ」
トモエの隣で、カナはコートの下でリボルバーを握った。
カルタが続ける。
「頭下げたって……国の連中なんてハイそうですかって言う事なんか聞くわけないでしょ? 言葉だけの綺麗事なんて政治家のやることだ。額に銃口向けた方が────」
「そう言って何人殺したのよ」
そう返したトモエが続ける。
「民間人まで巻き添えにして…………何人殺しても何も変えられなかったくせに…………」
「トモエ──お願い…………」
フレンの言葉に、まるでその場の空気が止まったかのような静けさが包む。
そしてフレンはカルタの肩を強く掴む。
カナの隣でトモエは体を回した。
「明日、エマと打ち合わせをすればいいのね? 場所はいつもの所で──エマには伝えておいて」
そしてカナの耳に足音が届くと、カナは黙って立ち上がり、そのままトモエの背中を追いかけた。
その二人の背中に、再びフレンの声。
「待って──」
トモエとカナが足を止めた。
フレンの声が続く。
「まだ距離あるけど…………警察がこっちに向かってるみたい…………三方向から…………ここで会うのも最後ね…………気を付けて」
トモエもカナも、何も応えずに足を前に進めていた。
カナとは違い、トモエは真冬でもあまり厚着をしたがらない。今夜も腰が隠れる程度のデニムジャケットに頭には大き目のキャスケット。そのキャスケットの後ろから溢れる背中までの長い黒髪がカナは好きだった。
──今日は束ねてないんだ…………
カナは束ねていないほうが好きだった。
自分の明るめでクセの強い髪に比べて、トモエの綺麗なストレートの黒髪に憧れていた所は確かにあった。そしてトモエにもそれは伝えていた。
以前に比べて、髪を束ねることが少なくなっているような、そんな気がカナはしていた。最近は作戦の時以外はほとんど束ねていない。
──まあ……嬉しいから、いいか…………
「一度バラバラに出るよ」
トモエはそれだけ言うと裏口へと向かった。
その背中を見送りながら、カナは小さく溜息をつく。
左耳のインカムのスイッチを入れた。
──……大丈夫…………
外に出ると、途端に吐く息の白さを感じた。
僅かな呼吸に呼応するようなその色は、瞬く間に周囲の光景に溶け込んで消えていく。
夜の街灯りのせいか、行き交う人々の吐息が次々に交差して見えた。
立ち止まることすら憚られるような人波。
度々繰り返されている暴動も今夜は無く、静かな夜風が流れる。
複雑に入り乱れるその雑踏の中で、懸命にカナは自分のルートを確認していた。最近やっとイメージを明確にすることが出来ていた。最初は感覚でしかない。ぼんやりと、なんとなく。今夜は途切れ途切れではあったが見えている。
『カナ──聞こえる?』
左耳のインカムに聞こえるトモエの声は冷静に続いた。
『そのルートのままで──もう少し急いだほうがいいかも』
カナは人混みの中で無言のまま足を早める。
スピードが上がると、途端にルートのイメージがブレた。
──……大丈夫…………トモエさんには見えてる…………大丈夫…………
『落ち着いて──もう少しで合流出来るから』
トモエの冷静な声は、時に冷徹に聞こえる。
その声に気を取られたのか、カナはルートを外れている自分に気が付かなかった。
──ホントにそうならいいけど…………
『カナ! 何やってるの⁉︎ 後ろ────』
声の直後、カナは自分の右肩を掴んだ手を振り返りざまに弾く。
そして、右手に握ったリボルバーの引き金を引いていた。
目の前の青いロングコートの警官が軽く後ろに飛び、倒れる。
瞬時に人の流れが止まる。
同時にカナは走り出していた。
群衆の隙間をすり抜けていく。
周囲からの悲鳴も無視し、インカムに向かって叫ぶ。
「気付かれた!」
カナは闇雲に走った。
──早く離脱しないと────
『左! 路地に入って!』
暗い。
月明かりも差し込まないような狭い路地。
背後からは数人の追いかける足音。
『右のドア!』
カナは左耳に聞こえる指示通りにアルミ製のドアを開けるが、そのドアを背後からの強い衝撃と銃声が襲う。
ドアを縦にカナはリボルバーの引き金を引いていた。
相手の距離はほんの数メートル。
一人の影が倒れるが、もう一人は影に隠れ、重い弾丸をすり抜けた。
『入って!』
そこは小さなレストランの裏口。
『まっすぐ! 正面玄関!』
裏口から厨房を抜け、フロア──右にはレジ。
正面には両開きの大きなドア────。
体当たりの衝撃でガラスのひび割れる音がした。
勢いで体のバランスを崩す歩道で、その体を支えたのはトモエの左腕。
バイクに跨ったトモエが、走り抜けながらカナの体を浮かせる。
そのままカナはトモエの腰に手を回し、その背中に吸い付いた。
冷たい空気が頬を斬りつけるように流れていく。
「残弾は⁉︎」
トモエが叫ぶ。
カナは気持ちが一歩引いた自分を感じながらも応える。
「いち!」
「だからオートマティックにしろって──!」
直後、周囲をパトカーのサイレンが包む。
同時に視界に入る青い回転灯の明かり。
「トモエさん!」
「見えてるから!」
バイクが大きく右に傾いた。
意識よりも先に体を持っていかれる気持ち悪さ。
再び、元の高さに頭を持っていかれる。
狭い路地。
グラついたカナの意識にトモエが叫ぶ。
「スタン出して! 後ろを撒いたら抜けられる!」
カナは意識するよりも早くバイクのリアバックに片手を延ばした。
中から四角いスタングレネードを取り出すと口でピンを抜く。
バイクのスピードと、グレネードに設定されている時間なら問題ない──そのままカナは空中でグレネードから手を離した。
グレネードがアスファルトに落ちる小さな音が瞬く間に遠ざかっていく。
「インカム切って!」
トモエのその声の直後、背後からの耳に突き刺さる音と閃光。
バイクのエンジン音さえもかき消され、その周囲でさえも白く染めた。
☆
人口はおよそ三万人。
街の東側には海。
西は砂漠。
どちらもその果ては見えない。
街の人々は、その果てに向かう術すら持っていない。
そして、その果てを知らなかった。
世界はこの街だけ。
大きな街だけが世界の総て。
女性だけの街。
街が形成されてから、およそ三〇〇年。
性別という概念はすでに無い。
人々の平均寿命は三〇才。子供を産んでも、その子の成長を見られるのは長くても二〇才。
そこまで生きられるのは稀だ。
学校は五才から一二才まで。
成人年齢は一三才とされていた。同時に結婚が許される。
貧富の差は存在する。
街の外れにはスラム街もあった。
そんな貧困層から、やがて反政府組織が生まれていく。
人々の不満は暴力となり、暴動を引き起こし、そして反政府組織がそれを先導していく。
混乱が日常と化していた。
それでも表向きは平和な世界。
平均寿命のせいで人々の入れ替わりは早いが、それでも世界に対しての人々の疑念は燻る。
誰も外の世界は知らない。
政府への疑念は日々膨れ上がっていく。
政府が我々に嘘をついている────そんな主張で反政府組織プリムラは勢力を拡大していった。
同時に拠点も増えていく。
昨夜の逃亡からトモエとカナが逃げ込んだ拠点も新しい場所だった。スラム街からは距離がある。古い住宅街にある小さな工場跡地。捨てられたような区画でもあった。このエリアに暮らす人口は少ない。いずれスラム街になるのも時間の問題であろう。
当然そんな場所は警察のチェックも入りやすいが、それでも拠点が見付かったことはまだ無かった。
活動から逃亡した次の日はあまり熟睡出来ないまま、それでも朝は早い。
コーヒーメーカーで作られるコーヒーは人工のコーヒー豆。昔からそれが当たり前の世界では、誰もそれに疑問を持つことはないだろう。
コーヒーを二つのマグカップに注ぎ、トモエはコーヒーメーカーのスイッチを切った。起きたばかりでまだ寒い部屋の中で、マグカップからの大きな湯気がトモエの視界を塞いだ。
テーブルにマグカップを置いて口を開く。
「あまり眠れなかった?」
すると向かいの椅子で膝を抱えたままのカナが、マグカップに手を伸ばしながら応える。
「……ん…………なんか……そうだね…………」
カナは丸いテーブルを挟んで向かいの椅子に腰を降ろすトモエの姿を見ながらコーヒーを口にした。冷えた身体に喉を通じて染み込んでいく。
トモエが愛用のオートマティックをテーブルの上に置き、返した。
「オートマティック……使ってみる? これと同じタイプなら口径も小さいから反動も少ないよ」
トモエは責めた印象にならないように、出来るだけ柔らかく続ける。
「私が最初に使ってたので良ければだけど…………」
するとカナはテーブルの上のオートマティックに目をやり、返した。
「それは…………違うの?」
「これ? ……うん…………これは大事な人の物だったから…………」
──……まただ…………また……私の知らないトモエさんがいる…………
トモエの過去に関しては知らないことのほうが多い。
当然のこと、とカナも思う。総てなど分かるはずもない。カナが知らなくてもいい過去のほうが多いはずだった。
カナはこういう気持ちになる度に自分を嫌悪した。
トモエと自分に、高く、広い壁を感じていた。
「カナのリボルバーは? 違うの?」
カナは何も応えずに視線を落とした。
それを見たトモエが続ける。
「ごめんね……昨日も、またキツく言っちゃったね…………」
「いいの…………理屈で分かってはいるんだけどさ」
そう言ったカナの表情に、トモエも壁を感じていた。何か、このままではいけない感じがしていた。
「今日はいつにも増して不安そうね……何か見えたの?」
トモエはまるで壁に気付いていないかのように、今日も何かを誤魔化した。
「私が見えるのは長くても三〇秒くらいなの知ってるでしょ?」
カナには特殊な能力があった。
三〇秒程度先の未来を見ることが出来る。組織に入る直前に自覚していた。その力で自分自身助けられたことも多い。しかし気持ちが落ち着いていなくては能力は発揮しずらく、必ずしも思うように活用が出来ているわけではない。
トモエが返す。
「今まではね……でもカナの能力は未知数だと思う。まだ不安定な気がするの。昨日の夜もそうだったでしょ? だからベッドでは怯えてたのかな…………肌から感じた…………」
同じベッドで眠るようになって二年。
二五才のカナからすると、三才年上のトモエは大人に見えた。たまに鋭いことを言う。
恋人と呼べる関係になって二年でもある。しかし未だに体の関係は無かった。トモエが一方的に拒んでいた。それでもお互いの気持ちはある。
しかし、二人の距離は明らかに遠くなっていた。
あまり深入りしたくないのか…………そうカナは考えるしかなかった。それでも、昨夜のような落ち着かない夜はやはり求めたくなる自分もいる。
そのカナが顔を上げて返した。
「だったら、抱いてよ」
──……責めたいわけじゃないのに…………
トモエは何も返さない。
すると、その重い空気を割くようなドアの音。
続く明るい声。
「お待たせしました! 朝ご飯ですよ」
入ってきたのはエマ──一六才。
ひと月程前に、テロ活動に巻き込まれた所をトモエとカナに救われてから、そのまま組織に入り、二人に傾倒して世話焼き係のような雑務をこなしていた。
若さのせいでそう見えるのか、エマの印象は明るい。低い身長に明るいショートカットの髪も性格を表しているかのようだ。
反政府組織には珍しいタイプだろう。元々他の隊員と接触することがほとんどないトモエとカナから見ても、エマのようなタイプは異質だ。こんなタイプの若者までが政府に対して疑問を持って生きている現実に驚きながらも、あまり過去について聞き出すつもりは二人にはなかった。
エマは大きな紙袋を抱えて部屋に入ると、テーブルに袋の中身を出しながら口を開く。
「遅くなってごめんなさい。今は私しかいないし車もないし、昨日の夕ご飯全部食べちゃうんですもん。今朝は余り物で行けるかと思ってたのに……」
それに応えたのはトモエ。
「カナが随分とお腹空いてたからねぇ」
その声はさっきまでの声よりも少しトーンが高い。
すぐに返したカナの声も途端に明るくなる。
「お昼抜いてたんだもん。トモエさんだって結構食べてたでしょ」
そんなことを言いながら、それがもちろん違うことはカナにも分かっていた。二三才で組織に入ってから二年。今まで直接人を殺したのは十数人。間接的ならもっと多いだろう。そしてその度になぜか空腹に襲われた。
表情が明るくなったカナを見ると、トモエも口元が緩んだまま返す。
「あんまり食べすぎると太るよ」
「トモエさんには関係ないでしょ」
「そのうち関係あるかもよ」
「いつよ」
「いつか」
「早くしてね……浮気しちゃうよ」
「…………うん」
エマは部屋の隅に無造作に置いてある椅子をテーブルまで引っ張ると、それに腰掛けて口を開く。
「昨日はどこまで聞いたんですか?」
それに応えたのはトモエ。
「潜り込む研究所の話だけ。エマが働いてた所なの?」
「そうですよ」
湯気の上がるパックの蓋を開け、そこにフォークを刺しながらエマが続ける。
「あそこで見た〝出産システム〟の話…………前にしましたよね」
その言葉に、トモエの表情が曇るのをカナは見逃さなかった。
エマの言葉が続く。
「医者もブラックボックスみたいなんですよね。パートナーの遺伝子をもう一人の卵子に移植するのは分かりますけど、専用の機械を通して、それで妊娠するのを〝生命の神秘〟って言葉だけで済ませるなんて強引すぎますよ…………そもそもそんなことをしなければ妊娠しないなら、遥か昔はどうしてたのか…………だから私は疑問を持ったんです。同僚が疑問を持たないのが不思議なくらいでした。おかしいと思いません?」
話を振られたトモエは小さく返すだけ。
「そうね…………うん…………」
──……トモエさん……言わなくていいよ…………
そう思ったカナの口が開いた。
「まあ、セントラルセンターに潜り込むよりは楽だと思うけどさ」
「あそこは無理ね。警備が鉄壁すぎる」
返したのはトモエだった。
セントラルセンターは街の中心だった。官庁街の中心であり、政府、行政機関の中心と言ってもいい。
更にカナ。
「──エマが持ってきた情報って、それだけじゃないんでしょ?」
その声に、カナに顔を向けたエマが応える。
「もちろんです。全てを見たわけじゃないので断片的な情報ですが……トップシークレットの情報に偶然アクセスできたことは間違いありません。ここ以外にも世界が存在している事実もデータにはありました」
「やっぱり……他にも人間は────」
「いえ…………いないようです…………」
「だって──他にもあるんでしょ⁉︎」
「人間はここだけって……やっぱり納得できませんよね…………あのデータ……知らない単語が多すぎて…………〝戦争〟とか〝核〟とかって……学校では習いませんでした。あのデータをコピーして持って来れたら良かったんですけど…………あの時のディスクは壊れちゃったし…………」
そう言って、エマはフォークを置いて肩をすくめた。
そのエマに声をかけたのはトモエだった。
「あなたも……前から疑問を持ってたの…………?」
「はい……あそこで働いて何年かした頃にあのデータを偶然見つけた時からです。だから、あんなことがなくても、いずれは組織に入っていたかもしれません」
「でもね、私たちは人殺しよ」
トモエのその言葉に、エマは顔を上げた。
トモエが続ける。
「私もカナも……何人も殺してきた…………あなたの今回の情報はありがたいけど、無理に人殺しを増やしたいわけじゃないの」
「だったら、どうして私を助けてくれたんですか?」
そのエマの言葉に、トモエは言葉を詰まらせる。
そしてエマの言葉が続いた。
「トモエさんだって、今みたいな過激なやり方は嫌だって言ってたじゃないですか。私はそれを信じます」
一時期、過激なだけのテロ活動が続いた時があった。
それに対して組織のトップであるカルタとぶつかっていたのは昨夜だけではない。政府施設や警察の関係施設に武力で対抗するだけでは死者を増やすだけのように思えた。そんな脅しのようなことで政府が屈するとは思えない。トモエはあくまで、今の世界に嘘があるなら、それを暴いて世間に公表するべきだと考えていた。
この世界は何かがおかしかった。
しかも、トモエ自身すでに二八才。三〇才を超えると誰もが急激に衰え、やがて寿命を迎える。その前に世界の真実を知りたかった。知ったところで、もちろん何も変わらないかもしれない。それでも、自分にはそれしかなかった。過去を捨てて組織に入った時からそれは変わらない。
そして自分たちの寿命を考えると、カナとの時間も残り少ない。今のような関係のままでは、カナを傷つけるだけ。同時に、自分のカナへの気持ちに嘘がつけないことも分かっていた。
テーブルの上のエマの携帯電話が鳴った。
「はい──」
慌てて電話を取ったエマが一度部屋を出る。
「おはようございます。問題ありません────」
しかしすぐにエマは部屋に戻った。
「────はい、お疲れ様です」
携帯電話は政府の指示で学校に入学すると同時に持たされる。全員が当たり前に持っている物だった。
電話を切ったエマが続ける。
「フレンさんでした」
そして不意にエマが話を戻す。
「そんなことより一番の問題は、どうやって施設に潜り込むかです」
我に帰ったトモエが返す。
「地図は昨日もらってきたけど、セキュリティーはさすがに強固みたいね」
「はい。夜勤もシフトの関係でやってましたけど二四時間体制で警備員が常駐してるので、武力で強引に入り込んでも警察に囲まれるだけです」
そこに挟まったのはカナ。
「職員は顔が割れてるだろうから…………出入りの業者とかはないの?」
「あるとしたら管理業者でしょうか……電気とか清掃とか、施設管理の」
「それいいね。業者は分かる?」
「分かりますけど……パスカードが必要になります。それを手に入れないと…………しかも発行できるのは政府だけなんです。そこが一番の問題で…………」
「と、すると…………」
そう口を開いたのはトモエだった。
そして声のトーンを落として続ける。
「買収しかないわね。政府の発行機関の職員か…………出入りの業者…………エマみたいな〝こっち寄り〟の人間がいればいいんだけど……心当たりある?」
すると、話を振られたエマが驚いたような声を上げた。
「いやいや、そんな──心当たりなんて無理ですよ。政府施設内じゃそんな話したらすぐにどっかに飛ばされるし、常に監視されてますから…………私はプライベートの友達もいなかったし…………」
そう言いながらエマが再び視線を落とした時、トモエが突然窓の外に目をやった。
テーブルの上のオートマティックを手に取ると、椅子を降りて窓の側で腰を落とす。カナも素早くリボルバーを持って椅子を降りると、エマの頭に手を乗せて身をかがませ、口を開いた。
「体を落として──静かに────」
エマが黙って床に両手と両膝をつくと、カナはトモエとは反対側の窓際につく。
そして小さく続けた。
「何か見えた…………?」
トモエはすぐに返す。
「一人だけ……車も一台…………正面から…………」
トモエにもカナと同じく特殊な能力があった。
それは周囲の状況把握能力──本来なら見えない所まで見ることが出来た。トモエが自覚している限りでは、その広さは自分を中心に半径一〇〇メートル前後。しかしその時々で、その範囲はアバウトになることも多い。
すると、突然トモエは上に向けていた銃口を下げて小さく溜息をつく。
「まったく…………」
呟くようにそう言うと、続けた。
「マシロ…………来るなら連絡くらい入れてほしいわね…………」
そして立ち上がる。
カナも呟く。
「用事だったら、さっきのフレンの電話で済ませたらいいのに」
カナとエマも立ち上がると、階段を上がる音が聞こえ、ドアが開いた。
そこに立っているのはフレンと同じく組織のトップスリーの一人であるマシロ──二〇才。
決して人当たりのいいタイプではない。あまり感情を周囲の人間に見せることのないタイプだ。そのせいか冷たい印象を受ける隊員も多い。しかし情に厚い部分があることをトモエとカナは知っていた。決して後ろで胡座をかいていることがなく、作戦時にはむしろ先頭に立つことも多い。そのため、実働部隊からは信頼も厚い。
しかしそれと同時に、トモエはマシロを完全に信用出来ない理由があった。
マシロは後ろ手でドアを閉めると、先に口を開いた。
「二人とも無事だったのね。良かった」
それに応えるのはトモエ。
「こんな早朝にお偉いさんが一人で来るなんて……朝のドライブが趣味だったの?」
「趣味なんて持ったことないよ」
そう応えたマシロは、いつも通り無表情のまま。
トモエは平然と返す。
「車を正面に停めるのはいいけど、つけられてないでしょうね」
「大丈夫…………警察はここには来ないよ」
「何を根拠に…………」
そう小さく返すトモエを無視し、マシロはエマに顔を向けて口を開いた。
「説明はどこまで?」
「今……どうやって侵入するか話してました…………」
新参者のエマはまだマシロのことが苦手なのか、マシロの前ではいつも声が小さくなる。
すると、椅子に腰を降ろしたトモエが口を開く。
「買収案しかないと思うけど……そのほうが血も流れないし…………パスカードを手に入れられる誰かを」
「そうね…………」
マシロがそれだけ言うと、間が開いた。
カナは体を横に向けたまま、リボルバーを離そうとはしない。トモエはその空気を感じながらも、マシロに応えていく。
「誰か当たりはあるの?」
「カードを発行してる管理局に一人…………独身で遊び人らしいわ…………トモエかカナ、どっちか…………色仕掛けで落とせない?」
カナの右手の親指がリボルバーの撃鉄にかかった。
それを見逃さなかったトモエが声を上げる。
「バカにしてる? マシロみたいな独り身の誰かに頼みなさいよ」
「私はカナが適任だと思うけど────」
「マシロ!」
そのトモエの叫び声に、室内の空気は一気に凍りつく。
カナの過去を知っているのは、トモエの他にはトップの三人だけ。その過去に関するマシロの発言に、トモエの感情が沸き立つ。
何も分からずに落ち着かないエマが、忙しなく視線を振る。
そしてトモエは無意識に言葉を絞り出していた。
「…………それ以上言うなら…………許さない…………」
トモエの体が僅かに震える。
そして聞こえる、低い声。
「いいよ…………」
口を開いていたのはカナだった。
そして続ける。
「私がやる…………トモエさんはダメ…………」
トモエが再び声を張り上げた。
「マシロ──あなたは帰って────」
「その人の資料はあるの?」
そのカナの小さな声に、トモエは反射的に叫ぶ。
「カナ!」
トモエの言葉を無視し、カナはマシロから封筒を受け取った。
マシロは背を向けてドアを開ける。
「任せるわね」
それだけ言うと、マシロは階段を降りていく。その音がしだいに小さくなるのを聞きながら、誰も口を開かなかった。
エマは二人に挟まれたまま落ち着きがない。自分が、と言いたい所だったが、エマは顔が割れている。
そして口を開かないカナに、トモエが言葉をぶつけた。
「何をするか分かってる? 勝手に────」
「────急がないといけないでしょ。好きで人を殺してるわけじゃなんだからさ」
そう応えるカナは顔を上げようとはしない。
「だからって…………どうするのよ⁉︎」
「誘惑すればいいんでしょ?」
「ちょっと…………やめて…………」
しだいに小さくなるトモエの声に、カナが繋げる。
「…………遊びじゃないんだからさ……」
自分の過去が頭の中に蘇る。
作戦に私情を挟んではいけない。その点に関してはカナは何も間違ってはいなかった。
そして、自分に責任があることも、トモエは理解していた。
☆
「今夜は問題ないの?」
相変わらずのカルタの冷たい言葉に、フレンがマグカップのコーヒーを飲み干しながら応えた。
「大丈夫だと思うよ」
マグカップの温かさが手に伝わるのを感じながらフレンは続ける。
「今夜はね」
夕方前、薄暗くなり始めた頃から、細かい雨が降り続いていた。音はそれほど大きくない。ただ静かに二人のいる建物を濡らしていく。
都市部とスラム街を繋ぐエリアにある体育館。廃校の跡地だった。学校の建物自体はそのほとんどが取り壊されているが、隣の体育館だけはそのまま残されていた。
このエリアは中途半端な形で開発の止まった場所でもある。解体途中で取り残されたような建物が乱立する荒廃した場所には、常日頃から人が立ち寄ることは少ない。移動のための通過地点であり、人々が注目することもないような所だ。もちろん反政府組織であるプリムラからすると身を隠すのには丁度いい。
体育館は建物としては二階建ての高さに相当する。しかしその空間は小さな部屋を残して一つだ。二階部分とは言っても周囲の壁を伝うように通路があるだけ。それでも組織の活動に使う車両や銃火器を置いておくには適していた。こういった場所は他にも数カ所。
今夜は一〇車両の内、残っているのはバンや小型車を入れて六車両。
カルタとフレンは二階の通路からそれを見下ろしていた。
無口なカルタに向かって、フレンが言葉を続ける。
「マシロも行ってるし…………大丈夫だよ」
するとカルタは小さな溜息に言葉を続けた。
「つまらない作戦が続いてるね…………暴動を誘発して繁華街でドンパチか…………トモエじゃなくても疑問を持ち始めてる隊員は増えてきてるんじゃない? 政府に混乱を見せつけて脅したところで何も変わらない」
──つまらない作戦か…………そう言っちゃうところがさ…………
どんな作戦でもある程度の犠牲は覚悟していた。それはカルタにも分かっていた。
フレンが応える。
「次の作戦は意味があると思うよ」
「買収って言っても…………あの二人は納得したの?」
「カナがやるって」
あっさりと即答するフレンに、少しだけカルタは驚いた。
「そう…………トモエかと思った…………」
カルタもカナの過去を知っているだけに、複雑なものが過ぎる。
「トモエには怒られたらしいよ」
そのフレンの言葉にカルタは即答する。
「でしょうね…………やれそうな感じ?」
「どうだろう…………今まで失敗したことのないコンビとは言っても、今度ばかりはダメかもね」
「ターニングポイントになるかもしれない作戦だ。失敗は出来ない。バックアップは充分にしてあげてね」
「分かった。もう行く?」
「うん。後は頼むよ」
カルタは外の階段から外に出た。
その背中にフレンが声をかける。
「砂漠?」
「うん。何かあったら連絡して」
カルタは応えながら愛用の小型車に乗るとアクセルを踏み込む。組織のトップとは言ってもカルタは側近をつけることを嫌った。部隊の移動とかではない限り、可能な範囲で一人で移動することを好んでいた。
カルタの車のヘッドライトが遠ざかる。
小さくなるその姿を見ていたフレンに、下から声がする。
「フレンさん! 部隊が戻ります!」
若い隊員のものだ。
フレンが軽く手を振ってみせる。
組織に階級や役職というものは存在しない。幹部とは言っても、それはフレンも同じ。部隊編成時にまとめ役の隊長を決めるくらいだ。他にはトモエとカナのようにチームを組んで活動する者たちもいる。
今夜の作戦は大きい。
規模としては三〇人規模。久しぶりのものと言っていい。
警察本部への襲撃。場所は政府庁舎が並ぶ官庁街。そのための暴動の扇動。
犠牲は覚悟していた。
そして、最近トモエとカナが嫌っていたのがこういう作戦でもある。目的を持ってのテロ活動ではなく、ただの戦闘行為となっていたからだ。
そしてその戦闘行為は、敵にも味方にも、多くの犠牲を生む。
フレンにもそれは分かっていた。トモエとカナから疑念を抱かれていることも知っている。
そのフレンが声を落として口を開いた。
「もういいよ」
すると、フレンの側に歩み寄ったのはマシロの姿だった。
作戦に出ていることになっていたマシロが返す。
「バレてなきゃいいけど」
マシロにも特殊な能力があった。
いるはずのない所に自分の姿を映すことで、他人を惑わせることが出来た。今夜の作戦に行っていたのはマシロの幻────士気を高めるには役に立つ。しかし今回のこれは、カルタは知らない。
それに対して、フレンの能力は見えない所の光景を見ることが出来た。近くでも遠くでも、トモエの状況把握能力よりも自由度が高く、その範囲は広い。もちろん今夜の作戦の流れも手に取るように見えていた。
そのフレンが返す。
「大丈夫だと思うよ…………そろそろ…………小さなところから潰していかないと…………」
「今夜もその一貫と思っていいの?」
「うん…………私たちのためだからね…………いいんでしょ?」
しかしそのフレンの言葉に、マシロは応えなかった。
しばらく間を開けた後、やっと口を開く。
「カルタは?」
マシロの言葉に、すぐにフレンは返した。
「今夜? 西区の砂漠の拠点に行ったよ。だから…………仕方ないよねぇ」
直接見るまでもなく、マシロの頭の中に、笑みを浮かべたフレンの口元が浮かんだ。
そして音が聞こえる。
外からの車の音。
体育館横から入ってきた車両は小型車が二台、バンが一台。
戦闘の後、それぞれが銃弾を浴びているのは二階からでも分かった。
マシロが再び口を開く。
「見えてるの?」
「見えてるよ。そろそろ逃げよっか…………どうせ補充されるんだからさ」
フレンはそう応えると、マシロの手を取って外へ出る。
外の階段を降り、二人は足早に外に泊めてあった小さな車に乗り込んだ。
車を走らせながら、フレンがインカムのスイッチを入れる。
「カルタ──聞こえる? ごめん────」
直後、背後の体育館が、巨大な火の玉に包まれた。
二人の車と、大量の警察車両がすれ違う。
☆
その夜、深夜を過ぎたにも関わらず、歓楽街は人の波で埋め尽くされる。
夕方からの細かい雨は、やがて小さな雪の粒に変わっていた。それでもまだこの時間の路面は濡れたままだ。やがて気温が更に下がるとシャーベット状に変化するのだろう。
官庁街に近いエリア。
少し前からパトカーの音がうるさい。
作戦の話はカナの耳にまでは届いていない。
──小規模な暴動で済めばいいけど…………
警察車両の動きから誰かのチームが動いたであろうことは想像が出来た。それでもエリアとしてはここからは距離がある。しかし今のカナの仕事は目の前。
目の前のターゲットを追いかける。職場から家に帰るまでの行動パターンを把握し、自然に近付く作戦を練らなければならない。まずは五日以内にそれを固める。
──……綺麗な人…………
労働管理局。
クレア────二七才。
学校を卒業してからすぐに公務員となり一四年。
結婚経験は無し。
両親はすでに他界。
兄妹は無し。
細身の高い身長は、どことなくトモエの印象と重なる。その考えをカナは懸命に振り払った。
住所は高級住宅街の集合住宅。
──……どうして、あんな綺麗な人が独身なのかな…………
カナの疑問も最もなほどに、クレアは歩く姿すらも美しかった。自分のような粗野なところを全く感じさせない。
──魅力を感じない人なんているのかな…………
今夜は仕事帰りに化粧品を買っただけで飲食店を二軒。行きつけの店らしく、滞在時間はいずれも長い。二件目を出た時はすでに時間は日付を跨いでいた。
──明日も同じなら、店に入ってみよう…………
パトカーのサイレンも下火になっていた。多くの市民がその音には慣れている。小競り合い程度の暴動はもはや日常茶飯事となっていた。
カナはクレアが帰宅したのを見届けると、合流場所へと急ぐ。
それでも足は重い。
そこで待っていたのはトモエだった。大きな道路脇の路上駐車エリアで、スタンドを立てたバイクに寄り掛かり、足元を見つめ続ける。
嫌な時間が続いていた。
そのトモエの視界に、見慣れた赤いハーフブーツのつま先。
気持ちがホッとしつつ、僅かにざわついた。
視線を上げる。
お気に入りの真っ赤なコートではない。今後接触した時に悟られないためだ。そして今夜のグレーのコートはトモエの物だった。なぜ自分の物を身に付けさせようとしたのかトモエ自身にも分からないまま、不思議とカナの顔が見えるくらいまで顔を上げることが出来ない。
「終わったよ」
カナのその声に、トモエは背中に悪寒が走るのを感じた。
その声が続く。
「もう少し調べてからだね…………」
「…………そうね」
トモエはそれだけ言ってバイクに跨った。
その後ろでいつも以上に強く自分に抱きついてくるカナが、少しだけ怖い。
背中に感じるカナの温もりを、今夜ほど暖かく、同時に遠くに感じたことはなかった。
〜 「虚構の慟哭」第2話へつづく 〜
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